スバル・ブルー

小出岩楽

スバル・ブルー

 プラスチックの蓋を引っかけるようにして、シュアラスター・ワックスの缶を開けた。独特な匂いが鼻を撫で、指にぬるついた触感が触れる。もう、長いこと慣れ親しんだ感触のはずだが、いつ嗅いでも、いつ触れても、毎回新鮮な気持ちになる。まるで若返ったような、あの古き良き時代にまでタイムスリップしたような感覚だ。いかにもカルナバ蝋という感じの黄色っぽい中身はだいぶ減ってきていて、缶の底が見えはじめている。そろそろ、替え時だろうか。いや、もうその必要はない。

 週末の午後は心地がいい。額の汗を拭うと、爽やかな微風が吹き抜けていった。スズメたちは電線で遊び、大きなキアゲハが庭先の花壇を舞う。自転車を漕ぐ子供たちが通りを駆け抜け、歓声は青臭さだけを残して遠のく。水滴はきらめきと共に滴り落ち、コンクリートの上をカーシャンプーの残滓が這う。雲一つない青空。澄み切った空気。うららかな太陽。場面は何事もなかったかのように、すべてが無関係のように現在から過去へ押し込まれていく。

 スポンジを水に浸し、しっかりと絞った。作業着代わりのシャツとジーンズは汗と水でびしょ濡れになり、袖と裾がじっとりと重い。まだ、あの高圧洗浄機に慣れなかったせいだ。あまりの水圧に驚いて、まるで変な方向にノズルを向けてしまったせいだ。しかし、あれ買ったのは正解だった。頑固な汚れが一発で落ちるし、コイン洗車場に行くような手間もかからない。さすが、アウトバーンとニュルブルクリンクの国のメーカーは違う。質実剛健。鍛えられた性能。高かったけれど、いい買い物だった……私は胸の内でとりとめのないことを呟き続けた。しかし、脳裏に根を張った事実を拭い去ることはできなかった。

 ――もう、見たくないのよ!

 風景のなかでは私だけが浮き彫りにされ、切り離され、取り残されている。

 振り向くと、強烈な光線が眼を眩ました。青いボディが、陽の光に鋭くきらめいている。スバル・ブルー。正確には、ソニックブルー・マイカ。メーカーを象徴する青。プレアデス星団を思わせる青。WRCでの栄光を物語る青。「つまり、どんなレースでも勝てるということ」と言っていたのは、たしかゲームのテレビCMだったか。

 スポンジをワックスに軽く押し当て、すこし捻る。この「軽く」、「すこし」というのか肝心で、あまりスポンジにワックスをとり過ぎると、あとで拭うときにボディのすき間や角に残る箇所が出てしまう。私は優しく、いたわるようにスポンジをボンネットへ当てていった。だいたい五十センチ四方くらい。それから縦に、横に、一方向へ。1998年のアルゼンチンでコリン・マクレーが曲がってしまった右のリア・アームをその辺にある岩で叩きつけて補修したような荒々しさとはまるで違う。とにかく薄く、丁寧に、優しくしてやらなければいけない。

 あいつは生まれてまだ間もない頃から、このクルマが好きだった。アクセルをふかし、シフトダウンするたびに、後部座席のチャイルド・シートできゃっきゃと手を叩いて笑う。あいつは物心というやつがつく前から、このクルマの良さをわかっていたのだ。小さな手。生えたての髪。ぷっくらとした頬。あいつの顔を、彼女は「あなたに似なくてよかった」と言った。たしかにそうかもしれない。あの二重瞼は、彼女にそっくりだった。

 小学校に上がる前から、あいつはWRCの総集編を観て育った。ビデオテープはすり切れ、DVDは傷だらけになり、骨董品のLDはプレイヤーのほうが先に壊れた。カルロス・サインツやコリン・マクレーがあいつにとってのヒーローで、仮面ライダーやアンパンマンなどには目もくれなかった。

 ――パパのクルマ、速い!

 画面を疾走する青いクルマに、あいつはくぎ付けだった。

 ボンネットの次は、バンパー。この辺りは凹凸が多い。だから、だいたいに、ほどほどにしておく。あとで拭うときに伸ばしたほうが、綺麗に仕上がる。私は腰をかがめ、スポンジにワックスをとった。リップには細かい飛び石の傷はあれど、へこみ、擦り傷はまったくない。我ながら丁寧に乗ったものだ。無事故無違反。ゴールド免許。

 ――どうして……どうしてこんなものに乗れるのよ……

 私は運がよかったのだ。

 碓氷軽井沢を過ぎ、松井田妙義のインター・チェンジで降りる。それからすぐに松井田方面へ曲がり、しばらく行って軽井沢方面へ向かう。そして、おぎのやの看板と鉄道文化むらを通り過ぎてから橋の手前で曲がる。ちょっと遠回りかもしれないが、このルートの方が混まない。中山道の坂本宿へ入り、大きなコーナーの角にあるドライブインをかすめると、次第に辺りが鬱蒼としてくる。碓氷峠。走り屋の聖地。全日本ラリーのコース。きつく、細かく、狭いコーナーが連続して続く。その数にして百八十四。シフトはだいたいサードだけ。トップやセカンドを使う必要はあまりない。

 あいつにせがまれて、いったい何度この峠をドライブしたことだろう。頂上の県境にある駐車場で折り返し、下り切れば碓氷湖の駐車場でまた折り返す。レンガ造りのめがね橋を横目に、アクセルを踏む。水平対向のEJ20型エンジンは吠え、ラリー仕込みの四輪駆動が地面をとらえる。ちょっとスピードを出してコーナーを曲がってやると、あいつは「やっぱり、このクルマは曲がるね」やら「立ち上がりがいいよ」などと、一丁前なことを言って喜んだものだ。

 ――攻めてるね、パパ。

 助手席の笑顔は、もはや記憶のなかで過ぎ去り、覆われ、劣化していくばかりだ。

 私は車体のリアへ回った。大型のリア・スポイラー。STIマフラー。ナンバーはこのクルマの生まれ年。この辺りもやはり凹凸が多く、作業がしづらい。だから、フロントのあとにすぐにやってしまったほうがいい。最後の最後に、体力がよくよくすり減り、へとへとに疲れ果ててしまってからだと、どうしても雑になってしまう。まずは、リア・スポイラー。羽根の上下へ、あまり力をかけないようにスポンジを当てていく。それからリア・バンパー、アンダー・スポイラーと続き、最後にトランクを開けてムラなく。トランクルームは、やっぱり狭い。後部座席を倒しても、タイヤ四本でぎりぎりのサイズだ。ベビーカーを載せるとそれだけでほとんど、スペースが占有されてしまう。だからか、彼女はこのクルマを相当に嫌った。

 ――こんなもの!

 しかし、私もあいつも、このクルマを愛していた。私たちにとって、こいつはクルマというモノを超えたなにかだった。

 あいつも中学生になると、私とはあまり口をきかなくなった。むすっと、ぶすっと、イラっと。世間でいう、反抗期というやつだった。平日は部活、週末も部活、休日は友達と。あいつはペダルを漕ぎ、ほんのすこし遠くへ行ってしまったようだった。しかし、その自転車には校章のステッカーと一緒に、いったいどこで手に入れたのか、STIのロゴとあのプレアデス星団のエンブレムが貼られていたことをよく覚えている。

 その日、あいつが部屋から出てきたのは昼頃だった。寝ぐせ。けだるげ。しわくちゃの寝間着。腫れぼったい眼。その背中とニキビだらけの顔は、もうすでに子供のそれではなかった。

 ――なぁ。

 洗面所で顔を洗うあいつに、私は恐る恐る声をかけた。

 ――……なに?

 私は緊張していたのだと思う。

 ――今日、暇か?

 ――……そうだけど?

 久々に聞くあいつの声は私のイメージしていたそれよりも低くなっていて、かつての乳臭さは青々しく、爽やかな汗の匂いに変わっていた。

 ――今日、母さんいないだろ? ほら、おじいちゃんおばあちゃんのところに泊ってて……

 ――だから?

 彼はたしかに、若者になっていた。けれどもやはり、私にとってはあいつに違いなかった。

 ――……ちょっと、ドライブ行かないか?

 私の声は、すこし上ずっていた。

 あのときの碓氷は、いつもより混み合っていた。ホンダ・S2000、日産・フェアレディZ、マツダ・RX-7とロードスター。そして、漫画から出てきたかのようなトヨタ・スプリンタートレノ。どれも、いかにもなクルマばかりだった。

 ――今日は混んでるなぁ。

 ――……

 しかし、そのなかでも上手く走れているやつはほんの一握りだった。ストレートでは速いが、コーナーでは追いつかれる。スピードだけは出せていても、ラインが怪しい。どいつもこいつも、余裕がない。私はいつものペースで、クルマを転がしていった。ステアは手に親しく、シートはきっちりと背中を支える。

 ――なぁ、親父。

 あいつが私を「親父」と呼ぶのは、はじめてのことだった。

 ――ん、どうした?

 ――このクルマ、ミッションが弱いんでしょ?

 私たちはそれまで、ずっと口をきいていなかった。

 ――いや、そんなことないぞ?

 私はなるべく、さもない様子で答えたつもりだ。

 ――なんか、前にネットで見たんだけどさ。「ガラスのミッション」って言われてんだって、このクルマ。

 ――それは、あれだ。シフトの入れ方が悪いんだ。そういうやつに限って、シフトをガツガツ入れるんだよ。ほら、こんなふうに……

 私は実際に、コーナー手前でセカンドにシフトを入れてみせた。ヒール・アンド・トゥをきっちり決め、シフトノブを軽く手で導いてやる。クラッチを離しても、ショックはこない。

 ――な?

 ――へぇ……

 あいつはそっぽを向いたままだった。私はステアを握ったままだった。私たちはお互いに、恥ずかしがり屋のままだった。

 峠を二周して、私たちは帰路についた。上信越道を、ゆっくりと流していく。トンネルを抜けた先で陽は山並みに沈み、燃えるような光がフロントガラスを突き抜ける。あたたかな夕暮れが、車内を満たしている。

 ――親父。

 あいつはサイドウインドウに肘をつき、景色を見据えたまま、ふと思い出したように呟いた。

 ――どうした? トイレか?

 ――いや、そうじゃなくてさ。

 赤い夕陽が頬を濡らし、眼がきらきらと輝く。

 ――俺、やっぱりスバリストなんだなって……

 あいつの声は、すこし上ずったようだった。

 リア・フェンダーからフロント・フェンダーにかけて、スポンジを当てる。まずは助手席側、次に運転席側。ドアは二枚。稀少なタイプRのクーペ・ボディ。額を汗が流れ落ち、腋の辺りがじっとりとしてくる。だんだんと、暑くなってきた。太陽は真上からすこし傾き、アスファルトをじりじりと熱している。とりあえず、一休みだ。私はスポンジを缶の蓋へ置き、代わりにペットボトルの麦茶を手に取った。すっかりぬるくなっている。ペットボトルを傾けると、乾ききった喉に水分が浸透し、胃のなかへしみていった。もう、ボンネットのワックスは乾いてきている。そろそろ、磨いてしまおうか。いや、どうせあとすこしだ。最後まで塗ってしまおう。私はふと、サイドウインドウから車内を覗いた。MOMOのステアリング。セミ・バゲットのシート。

 ――だから嫌いよ……嫌いなのよ……

 あのカーボンのシフトノブは、あいつからの贈り物だった。

 あいつは高校生になってすぐに、ガソリンスタンドでバイトをはじめた。運動公園のすぐ西にある、大きなスタンドだった。「ぜったい来るな」とくぎを刺されていたが、私は幾度となくその前を通りかかったものだ。紺にオレンジの制服を着て、キビキビ動き、愛想よく。あいつはしっかりと、真面目に働いていた。

 ――親父……今日ウチんとこ、来たろ?

 ――……バレたか?

 ――あんなクルマ、見間違えるわけねぇって。

 昼は学校、夜はバイト。休日は午後いっぱい。毎日。ほとんど休みなく、あいつは働いた。

 ――遊ぶ金、なきゃ困るじゃん?

 あいつはそう言っておどけていたけれど、私は知っている。あいつがバイト代をほぼ全額、貯金していたことを。毎晩のように、クルマの雑誌やカタログを開いていたことを。そして一度だけ、その貴重な稼ぎを私のために使ったことを。

 ――親父、起きてるか?

 ある晩、私はあいつの声で眼を覚ました。

 ――ああ、どうした?

 ――いやさ……

 あいつは頭を掻きながら、戸を開けた。まだ、バイトから帰ってきたばかりらしく、シャツは汗ばみ、靴下は汚れ、肩からはショルダーバッグが提がったままだった。

 ――あのさ……なんていうか……

 ――どうしたんだ? 早く言えよ。

 私は笑ってみせた。

 ――えっと……

 あいつはバッグのなかをごそごそやって、丸まったレジ袋を取り出した。

 ――これ、やるよ。

 ――なんだ、これ?

 ――今日、誕生日だろ?

 ――……誕生日?

 ――じゃ、おやすみ。

 それだけ言うと、あいつは寝ぼけている私を放置したまま、そそくさと行ってしまった。誕生日。レジ袋。いったい、なんだろう。私は呆気にとられて、しばらく布団のなかで茫然としていた。

 そうか、誕生日か。どうして思い出せなかったのだろう。自分のことなのに、すっかり忘れていた。私は状況を飲み込むと、すぐさま袋を開け、パッケージを破った。すこし重たい球体は手のなかにしっとりと馴染む。私は目元を拭った。綾織のカーボンは濡れ、黒く輝いていた。

 膝と体幹が、言うことを聞かない。脚立に乗るとバランスを崩し、危うく落っこちるところだった。私はふらつく足元に若干の恐怖を感じながら、ルーフへスポンジを当てた。反射光が眩しい。きっと、車内はサウナのように蒸し暑くなっていることだろう。当たり前だが、本物のラリー・カーにはエアコンなんてものはついていない。だから、このルーフ・ベンチレータ―という装備がある。私もこのクルマを買ったばかりの頃、ラリー・ドライバーを気取ってエアコンを点けずに、窓も閉め切り、ベンチレータ―だけを開けて走ったことがある。それなりに効果はあったけれど、やはり暑かった。

 あの頃はまだ、若かった。あいつもいなかったし、彼女とも出会ったばかりだった。コーナーぎりぎりまでアクセルを踏み込み、ブレーキング。トップからサード、サードからセカンドへシフトを落とし、ステアを切ると、タイヤが地面をとらえ、車体がロールする。そして、ノーズがコーナーの出口へ向いたところで、アクセルを踏んでいく。走り屋とまではいかなかったけれど、これでも相当攻めたものだ。

 ――あなたまでいなくなったら……あたし……

 いまはそんな運転、しようと思ってもできない。膝は重く、指の関節も痛む。なにより、反射神経が鈍くなった。私も歳をとったのだ。まるで、あいつの若さと反比例するように。

 大学の四年間。あいつと会うことはほとんどなかった。それだけに、地元で就職すると聞いたときには、すこし驚いた。

 ――首都高よりさ……峠のほうが攻め甲斐あるじゃん?

 あいつはよく、そんなことを言っていた。いまになってみると、その発言には一抹の本心が混ざっていたのではないかと思う。もしかすると、こっちに帰ってきたのも、それが理由なのかもしれない。

 あいつがあのクルマを買ったのは三月の終わり、新たな一歩を目前に控えてのことだった。あいつは七年間の貯金をはたき、それでも足らなかった分は、しょうがなく私が出世払いということで出してやった。彼女はもちろん反対だったから、それまでにあいつらの間で何度も口論があったのは言うまでもない。毎日のように中古車報サイトを覗き、そこらじゅうのクルマ屋を巡り、ようやく見つけた一台。ZC6。後期型。色はもちろん、スバル・ブルー。

 あいつはほぼ毎日、あのクルマを乗り回した。朝の通勤はもちろん、帰りにはどこかを走り込んでくるから、夜遅くになることも珍しくなかった。私も一度だけ、そのステアを握ったことがある。FA20型エンジンは素直で、FRのレイアウトは軽快に曲がったことを記憶している。

 ――やっぱ、クルマはこうでなくちゃ!

 あのときはまだ、あんなことになるなんて思いもしなかった。

 ようやく、すべて塗り終えた。乾いたワックスが白く浮き出て、ボンネットの表面を濁らせている。すこし、乾かし過ぎたかもしれない。私はスポンジを缶に仕舞い、尻のポケットからオレンジ色のクロスを取り出した。子供たちが通りを駆けていくのが見える。一人、二人、三人。肩には虫かご。手には捕虫網。いまどき珍しいな。私が子供の頃は、よく蝶を採りに行った。捕虫網の上から胸の辺りを押しつぶし、三角紙に入れて持ち帰る。背中の中央に針を刺し、展翅板で形を整え、しっかり乾燥させる。ラベルも必ずつくった。図鑑で種類をきちんと調べ、採取地と日付、そして自分の名前を入れる。あの標本はどこへやったっけ。もう四十年以上前の話だ。我ながら、かわいそうなことをした。

 ――あなたが……あなたのせいじゃない!

 これは私に対する罰なのか。

 はじめはGTウイングだった。いったい、いつの間に取り付けたのか。あいつは「あ、バレた?」と笑っていたが、私は唖然とするばかりだった。真っ黒なドライ・カーボン。まるで悪魔のような翼。それは軽量なZC6には、いささか大げさに思えた。

 それからほんのすこし経つと、今度はマフラーが変わっていた。リアから覗く、チタンのグラデーション。あいつは「やっぱ、馬力上がったわ」などと、まるで子供のように喜んでいた。

 そしてまたすこしすると、車高調。一か月も経たないうちにブレーキ・パッド。間を置いたと思ったらステアリング。気がついたら吸気の改造まで。

 ――なぁなぁ、親父……!

 そのたびにあいつは嬉しそうな顔をして私に報告してきた。

 ――え、なんで?

 けれど、その眼には光がなかった。

 ――それがこのクルマの醍醐味じゃん?

 まるでなにかの呪いか、魔力か、亡霊に憑かれたように、あいつはあのクルマにのめり込んでいった。

 ――だって、俺の稼いだ金だし……

 我が家には隣人からの苦情と、警察からの通知が届くようになった。

 ――わかったって言ってんじゃんか!

 車高は極端に下がり、ボディにはステッカーがべたべた貼られ、マフラーからは醜い音がした。あのなめらかなプロポーションを持ったライトウェイト・スポーツは、いつしか醜悪な化け物へと変貌していた。

 ――うるせぇなぁ……

 眼。あの眼。黒いものが渦巻き、冷たく燃える眼。

 ――黙れよ。マジで……

 あいつが稼ぎのほぼすべてをあのクルマにつぎ込んでいたことを知ったのは、だいぶ後になってからだった。

 すこし力を入れて磨いていくと、くすんだ表面からあの美しいブルーがあらわになる。まるで星空がすぐ眼の前にまで降りてきたかのようだ。フェラーリのレッド、マツダのレナウン・カラー、ポルシェやランチアに描かれたマルティーニのストライプ、マクラーレン・ホンダとマルボロ……WRCで四十七勝を飾った伝説の青は、どんなクルマにも負けることがない。そしてそれ以上に、この青は私にとって特別な象徴だった。こいつと私は、二十七年間を共に駆け抜けてきたのだ。

 ――こんなクルマ!

 しかし、その青にはもはや、暗い影すら射してしまっている。

 電話は夜中に鳴った。はじめは信じられなかった。なにが起こったのかわからなかった。いや、そんなはずはない。そんなこと、あるわけない。明日になれば、きっといつもと同じように……

 眠っていた彼女を起こし、クルマを飛ばして病院へ向かう頃には、日付が変わっていたと思う。エレベーターは青ざめ、階数の表示灯がぼんやりと輝いている。私たちは地下へと降りていった。廊下は静まり返っていて、足音だけが奥へ、奥へと反響する。扉が開いた。寒々とした静寂が、辺りを支配している。

 あいつは部屋の中心に横たわっていた。そこではすべてが清潔過ぎるほど清潔で、飾られた花束すらも、生気を失っていた。彼女は泣いていたはずだ。たしかに、そのはずだ。しかし、私はなにも感じることができなかった。まるで、五感が麻痺してしまったかのようだった。

 白い布が取り払われた。私はそれを覗き込んだ。あいつは見るも無残な姿に、変わり果てていた。

 事故現場は隣町の峠道。連続ヘアピンの二つ目。あいつの職場とは、まるで逆方向だった。あのとき、道路にはまだ破片が散らばっていて、ガードレールは大きくひしゃげていた。アスファルトにこびりついたタイヤ痕。あいつはこの崖下で発見されたそうだ。戻ってきたあいつのクルマは、もはや原型をとどめていなかった。

 いったい、なにがあったのか。私にはわからない。スピードを出し過ぎたのか。なにかを回避しようとしたのか。そういえば、あのクルマにはドライブ・レコーダーがついていなかった。ただ一つはっきりしていることは、あいつが死んだということだけだ。

 最後に仕上げ用の白いクロスで、ボディを軽く拭き上げる。明日はこいつとの最後のドライブだ。ほんの数キロ。クルマ屋にこいつを引き渡して、それですべてが終わる。次のオーナーはどんなやつだろう。荒い運転をしないだろうか。ミッションを丁寧に扱えるだろうか。ボディや車内を綺麗に保てるだろうか。こいつを理解してやれるだろうか。

 フロント、リア、サイド。どこから見ても、なにを見ても、なにかを思い出す。私は一心不乱にクルマを磨いた。磨くところがなくなっても、まだ磨いた。スバル・ブルーはその美しさを増し、どこまでも深く、遠く、透き通っていた。

「すまないな」

 気がつくと、私はそう呟いていた。クルマはなにも、答えなかった。

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スバル・ブルー 小出岩楽 @kanimiso0420

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