「【短編・完結】融身記 ~身体が溶ける古文書の物語~」

@ahoroutoru1939

融身記

はじまり


拝啓

三伏の候、いよいよ暑さ厳しき折となりました。

XX様におかれましては、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。

さてこのたび、そちらへ一冊の古文書と、三つの甕をお送りいたします。

これは、ある山間の寺院にて修繕作業中、床下より発見されたものでございます。

古文書の墨はすでに褪せ、紙も虫食いがひどい状態ではありますが、裏面に「融身記(とけみのき)」と筆で書かれておりました。甕の方は保存状態が良好で、いずれも蠟封によりに封じられております。中身については、保存上の配慮から、現時点では開封しておりません。

古文書と甕の作りから見て、おそらくは室町時代後期の遺物と推察されます。しかし、寺の住職に確認したところ、「そのようなものは知らぬ」との返答を受けました。

「融身記」は日記体の文書ですが、日付の記載もなく、内容もどこか要領を得ません。

私としてはぜひ、貴方様の深いご見識にて、ご鑑定賜りたく存じます。

ご多忙の折とは存じますが、何卒よろしくご査収のほどお願い申し上げます。

敬具


第一章:山中の小屋にて

今日も山を這うように雲がかかり、朝から雨が降っていた。

あなたはただ柴の燃える音に身を沈め、壁にかかる仏画をじっと見つめている。

まるで夢の中にいるようだ。灯りの当たる髪は黄昏にかかる夕立のようで。

あなたと暮らしてからもう3年になる。

名前はもはや必要ない。いまはただ「あなた」と呼んでいる。

あなたも、わたしもあまり多くは語らず、ただ静かに微笑み続けている。

昨日、衣を洗いに山の湧き水に立ち寄った。

君が身じろぎを起こすたびに髪がはらはらと落ちていき、流れていく。

あなたはただ「時が来たのか」そうつぶやき静かに笑った。

私も何も言わず、水を汲みなおした。

もう病との付き合いも長く、治療もとうにあきらめていた。

それでも夜には冷たくなるあなたの手を私の手と重ねて温める。

耳に染み入る焚き火の音を感じてまたいつものように眠った。


2章「身の融ける如く」

昨夜、あなたが焚火にあたっていた時、火に当てていた指の皮膚が衣の上に剝がれ落ちた。

私はそれを見ても声も上げなかった。

病の兆しは日に日に増しており、肉は剝がれ、体は骨の形となっていく。

それでもあなたは穏やかに、しかし真っ直ぐに私の瞳を見据えて言った。

「あなたがいてくれれば私はまだ人でいられる」そう言って笑う。

だからこそ私もあなたのことを“人“と呼び続けた。

今日、目を覚ましたら枕元に小さなものが転がっていた。

よく見るとそれは指の爪であった。私はそれをつまんで香を入れる壺に収めた。

今や彼の背は曲がり、歩くことすらままならない。

這うようにして近づくその姿はかつてあった“人”の姿ではない

しかし、それでも夜ごとに優しく呼ぶ声が確かにある。

姿こそ人ではないが、そこには私の愛する“ヒト”がいる

これを病と呼ぶべきなのか、それとも神の試練と呼ぶべきなのか。

いや、それすらどうでもよい。

夜の火が赤くゆらぎ、彼の名も形も、ただ溶けていく。

それでも、この灯りのそばに、私はいる。


第三章「声の失せる人」

声が、消えた。

あの人はもう、言葉を発することができない。

唇から吐かれる息すら、もはや音にはならない。

けれど、その瞳は変わらず私を追い、火のそばに寄ると、かすかに身を寄せてくる。

今日、どこからか鳥の鳴き声が聞こえた。

その時、彼は口を開け、声なきままに笑った。

嬉しそうに目を細めていた。

今朝、あの人の夢を見た。

昔、川へ蛍を見に行った夜のこと。

指のない手の隙間からこぼれる光が、私たちの前を淡く照らしていた。

ただ、それだけで――十分だった。

けれど、目を覚ましたとき、私は泣いていた。

その涙をひとしずく、香の壺に納めた。

それから、私は一つの甕をこしらえることにした。

口の狭い、古びた器。けれど、香が沁みて、なんともよい香りがする。

髪の切れ端、失われた爪、剥がれ落ちた皮膚――

すべてをそこに収めている。

――あの人の欠片を、ひとつも失わないように。



第四章「ひとしきりの香」


今日、甕の蓋を開けると、香がゆるやかに立ちのぼり、部屋の隅々にあなたの息遣いが満ちていった。

たしかに病んではいたけれど、その肌の匂いは、どこか甘く、忘れがたかった。

私は、あなたを忘れぬように、夜ごと甕に語りかけている。

いまや、あなたとは夢のなかでしか会えない。

昨夜、あなたは私を背後から抱きしめ、美しい歌を歌った。

意味は分からなかったけれど、その音の粒は、私の内に融け入り、静かに沁みこんでいった。

気づけば私も、その旋律を口ずさんでいる。あの日、あなたがそうしたように。

私とあなたが重なっていく。香を媒に、歌を通して。

そのたび、甕の香りはいよいよ濃くなり、全てが香となって、私の殻を満たしていく。

「あなたはもう、ここにはいないのだろうか」

そうつぶやいたとき、甕がわずかに揺れた。

中には、銀色に光る欠片がひとつ。

それは、あなたの涙だろうか。それとも、溶けた皮膚のひとかけらだろうか。

いずれにしても、それはあなたが遺したものだ。

私はいま、香りに酔っている。

現身のすべてが、風のごとく流れ去っていく。

ただ、そばにあるのは、甕の気配だけ。

けれど、それだけで、私は満ちている。

それだけで、もう、十分なのだ。


第五章「現世のはざま」

昨夜、甕の中から声が聞こえた。

それは、あの人の声だったのか――それとも、ただ夢のひびきだったのか。

「待て」と、かすかに。

私の名を、確かに呼んだ。

私はふるえた。

香りは日ごとに濃くなり、今ではそれを吸うたびに、

あの人の幻が、私の前に、静かに座っているように感じる。

今日、甕の中に、光が灯った。

私はあわてて戸を閉じ、火を消した。

――君の、じゅくじゅくと濡れた白い手が、私の頬へと伸びてくる。

私は首を垂れ、ただ、なされるままにした。

影と影が重なる。

ささくれた髪、欠けた指、剥がれた皮膚――

それらすべてが、ぴたりと私の輪郭になぞられていく。

私の手も、頬も、ふるえが止まらない。

指先には痺れが残り、鼓動のように疼いている。

あなたは、いま、私の中に流れ込んでくる。

あなたの思いが、体温が、私の内側に溶けてゆく。

この身を借りて、あなたはもう一度、生きはじめるのだ。

けれど、それは少しも苦しくない。

むしろ、ひどく嬉しい。

――あなたは、私になりつつあり、

私は、あなたであることを、やっと思い出したのだ。


第六章「あなた」

昨夜、私は香を焚いていた。

獣が寄りつかぬように。せめて――あの町での日々が穏やかだったころの空気を思い出せるように。

あなたの苦しみが、ほんの少しでも和らぐように。

見守ることしかできない私には、それしかできなかったのだ。

夕暮れ、柴を抱えて家に戻ると、甕の蓋がわずかに開いており、香が部屋中に満ちていた。

あなたは香のそばに身を寄せ、浅く呼吸を繰り返しながら、なにかを繰り言のように呟いていた。

私は慌ててあなたを甕から引きはがし、揺れる瞳を覗き込む。

すると、あなたはわずかに動く口元を歪め、静かに笑った。

「夢の中で、あなたに会ったの」

「あなたが私を抱きしめて、歌をうたってくれた」

「あの川辺の夜だった。蛍の光が私の指のあいだから、ひとつひとつ、こぼれていった」

そう言って、ぽろぽろと涙をこぼした。

私は、胸の奥がひどく冷たくなるのを感じながら、あなたの涙を拭った。

甕から立ち上る甘い香りが、胸の奥を焼くように満ちていた


第七章「瓶詰の中身」

今日、甕の蓋をあけた。もはや香の香りもしなかった。

甕の中には何も入っていない。だが私の胸にむせ返るほどあなたが漂ってくる。

もはや香は私の心を通じて感じるものとなった。

甕の底になにかが光っていた。

膿だろうか、涙だろうか、どちらとも判別のつかないそれを眺めていた時、

私はようやく思い出した。

あの人の髪、指、涙。

崩れ、融け、かすかに残ったその一片。

私はそれらを、この甕に納め、香として吸い続けていたのだ。

甕を抱くと、熱い。

だが、その重みは、冷えた骨のように沈んでいた。

私は思う――。私は何なのだろう

肉体を離れ、骨にもなれなかった、ただの記憶の形。

いまやここに「わたし」も「あなた」もいない。

私はあなたを抱き、里を出ようと思う。

香も、声も、肌のぬくもりも、すべて携えて――

この身はただ、記憶の入れ物となったのだから。


第八章 「融身記」

私は今どこにいるのだろう。

土の上に座り、甕を胸に抱えている。

それが、昨日のことだったのか、明日のことだったのか、それすらも定まらない。

音のない音、風のない風、影のない影

全ての項が私の手のひらとなって、震えている

甕の中はひどく熱を帯びている。だが痛みを感じない。

私の肌はすでに肌ではなくなっている。

甕の温みが、私の頬を、体を抱きしめる。

それらすべてが私と融けあい、ついに私たちは甕となった。


おお私を読むものよ

文字のない行から声がする。

それはあなただっただろうか、それとも私だっただろうか

いま、ここには墨も紙も必要ない

血は我が墨、皮膚は我が紙

血液に融けた文字をめぐり、骨は声として私たちの愛を唄う。

甕の底からまた香が漂ってくる。

それは彼の吐息、彼の身体。それを吸い、吐いて、また吸う。

融けあい、身も心も彼のもの。

名も、身体もここに捨てていこう。

私は匂い立つ香、あるいは記憶。もうどこにもいない。

それでも、もし誰かがこの壺を開いたとき――

壺から立つその香りで、

私たちの名を、知るのだろうか。


おわりに


某日、とある古文書と甕が私のもとに持ち込まれた。

古文書の題には「融身記(とけみのき)」とあり、内容は断片的な記憶のようなものが綴られていた。文体は口語的で、明確な筆者の所在は不明だが、記述の熱に圧されるような迫力がある。

甕のほうは素焼きで、スーツケースほどの大きさ。表面はざらつき、蓋には蠟で封がなされていたが、劣化が激しく、本来封印の効力を持っていたのかどうかは判然としない。

古文書の筆致、用紙の質、甕の胎土と釉薬の成分などから、いずれも室町後期のものと推定される。

調査のため、私は甕の封を解いた。

その瞬間、甘く湿った香気がふわりと室内に広がった。密閉されていたはずにもかかわらず、香りはまるで焚かれたばかりのように生々しく、時間の経過をまったく感じさせなかった。

甕の底には、銀白色の液体と微細な欠片が沈殿していた。

それが人体に由来するものか、あるいは鉱物成分かは不明である。

観察の最中、私はふと「目が合った」気がした。甕の内に何か――そう、“何か”が二つの白い眼のようなものを浮かべて私を見上げていたのだ。

慌てて再度中を覗き込んだが、そこにあるのはただ銀白の液体が、静かに揺れているだけであった。

奇妙なことに、香りが突如として失われていることに気づいた。

あれほど濃密だった香気が、今や空間から完全に消えている。それでも胸の奥には、甘いような、粘つくような、湿った後味がいまだに残っている。

そして、背後に気配を感じた。

明らかに“人”の気配である。しかも、先ほどの香りよりも強く、濃密な甘さを伴っていた。

「やめろ」

私はそう口にしていた。

だが、それは私の声ではなかったのかもしれない。

いや、そもそも、今、呼ばれた“名”は、私のものではなかったはずだ。

そういえば――蓋には、札のようなものが貼られていなかっただろうか。

呪符か、それとも単なる封印の印だったのか。

私は――ここから、何を“出して”しまったのだろう?

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