夢への扉

Chocola

第1話

 オーディションの合格通知が届いた日、私は誰にも言わず、ひとりで小さくガッツポーズをした。

 それが、夢の扉の前に立った瞬間だった。


 名前は九十九 菫(つくも・すみれ)。十四歳。

 家はない。家族もいない。

 幼い頃に孤児院に預けられ、そのまま育った。

 それでも私は、夢だけは手放さなかった。


「音楽はね、声がなくても心に届くの。だから、君の歌にも価値があるよ」

 そう言ってくれたのは、孤児院の先生だった。

 私はその言葉を、心に刻んでいた。


 ——一次審査は、書類選考。

 自己紹介、過去の経歴、志望動機。それに、自分が歌いたい2曲の提出。

 特別なレッスンを受けたことはなかったけれど、歌うことが好きだった。

 その思いだけを、書類に乗せて送った。


 二次審査は、個人面接。

 少し震える足で、練習してきた歌を歌った。

 精一杯、想いを込めた。結果は——合格。


 三次審査は、驚くほど奇妙だった。

 合格者全員を集めて発表された内容は、こうだった。


「これより一年間、最終審査に入ります。期間中、皆さんには一曲を個人で披露、そしてもう一曲は審査員とデュエットしていただきます」


 ……えっ、審査員と一緒に?


 会場がざわめいたのも無理はない。

 そして、さらに驚いたことに、その“審査員”は有名な作曲家、元アイドル、現役の舞台俳優と、錚々たる顔ぶれだった。

 まるで夢のような一年が始まる——

 そう、思っていたのに。


 


 ──その日、私は服を汚した。


 


 三次審査の初日。

 集合場所のスタジオに向かう途中、バスの中でコーヒーをこぼされた。

 白いブラウスが薄茶色に染まった。

 急いで着替えを取りに戻ると、スタジオの控室はすでに張り詰めた空気に満ちていた。

 そして、発表が始まった。


「九十九 菫さんは、“柊 誠(ひいらぎまこと)”先生とデュエットになります」


 私は思わず息を呑んだ。

 “柊 誠”。伝説のソングライター。音楽界を去って10年、最近になって再び名前が浮上し、注目を集めていた。

 なぜ彼が……? そしてなぜ、私と……?


 理由は教えてもらえなかった。


 


 帰り道、私はふと立ち寄った駅前の小さな古本屋で声をかけられた。


「本、いかがですか?」


 やわらかい声の青年が、一冊の本を差し出してくる。

 タイトルは『夢の続きを歩く方法』。

 どこか懐かしい表紙だった。


「おすすめの本は、どれですか?」と聞くと、彼は迷いなくその本を手渡してきた。

「おいくらですか?」

「5円でいいですよ」


 そんなに安くていいのかと、財布をのぞき込む。

 千円札を出しかけたが、なんとなく、彼はそれを受け取らない気がした。

 私は500円玉を差し出した。


「これで、十分です」

 青年は微笑んだ。


 


 その帰り道、偶然通りかかったのは、かつて“夢を叶える屋敷”と呼ばれた、旧オーディション施設の前だった。

 倍率数千倍。SNSも更新が止まり、数年前から沈黙しているその場所。

 門は閉ざされ、すでに朽ちたようにも見えた。


 ——なのに。


 門が、開いていた。

 そして、中から誰かが出てきた。


「すみれ、ちょっと見てくる」

 同行していたスタッフが確認に向かったが、門前払いされた。


 私は、妙な気配を感じていた。

 胸の中で、さっきの本が不思議に温かく思い出された。


 


 夜、その本を開いて驚いた。

 中に、小さな紙片が挟まっていた。


 『夢は、希望という名の扉を叩く鍵。

  けれど開けるのは、あなた自身。』


 そして、裏には小さな文字で書かれていた。


 「柊 誠が、未来を待っている」


 ページをめくる指が止まった。

 胸が、脈打った。


 


 次の日。

 私は新しい衣装でスタジオに立った。

 デュエットの曲は、まだ未完成だった。

 だけど、先生は言った。


「一緒に、完成させよう。未来の鍵は、君が握っている」


 


 私は歌う。

 信じる心で、夢という名の扉を叩く。

 いつか、それが開くことを信じて。


 


 そして、心に浮かぶ一輪のアイリス。

 ——その花言葉は、「希望」。

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夢への扉 Chocola @chocolat-r

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