夏の終わりのカマキリ

写乱

夏の終わりのカマキリ

 九月の声を聞いたというのに、太陽はまるで役割を放棄する気などないみたいに、アスファルトをじりじりと灼き続けていた。空は高く、雲ひとつない。それはもう暴力的なまでの青一色で、目を細めなければ網膜が傷ついてしまいそうだった。

 蒸し暑い、と肌で感じるよりも先に、脳にその事実が直接突き刺さる。まとわりつくような湿気を含んだ空気が、肺のいちばん奥まで粘りつくように入り込んできて、ゆっくりと、しかし確実に思考の純度を下げていく。


(ああ、もう、どうでもいいや)

 白鳥陽香は心の中で、誰に言うでもなく呟いた。


 白いセーラー服の襟足が、汗でじっとりと首筋に張り付いて気持ちが悪い。腰まである長い黒髪は、今朝、丁寧にアイロンをかけたはずなのに、湿気のせいでゆるくうねり始めていた。指で梳いてみても、指先に絡まる熱が鬱陶しいだけだ。

 学校指定の白い短めのソックスは、ストラップシューズの中で蒸れて、不快指数をじわじわと押し上げる。この靴、見た目は可愛いけれど、つま先が窮屈で、長い時間歩くのには向いていないなとずっと思ってる。まあ、今日はそんなに長い距離を歩くつもりはないのだけれど。


 学校の最寄り駅とは反対方向へ、陽香は歩いていた。二学期の始業式から一週間。陽香がこうして白昼堂々と制服のまま街をうろつくのは、九月に入って、もう三度目のこと。一度目は言いようのない不安に駆られて、二度目はただ面倒くさくて、そして三度目の今日は、もう理由なんて何もなかった。ただ、あの教室に自分の居場所がない、という消し去ることのできない事実だけが、陽香の足をあらぬ方向へと向かわせるのだ。


 スクールバッグのストラップが、華奢な肩にずしりと食い込む。中には教科書やノートなんて、ちょっとだけしか入っていない。

 その代わりに、今日の陽香の「本当の目的」が、その大半のスペースを占めている。丁寧に畳まれた、白いオフショルダーの夏物のワンピース。そして、もうひとつは靴。白いエナメルのフラットなパンプス。鋭いポインテッドトゥ。先月、駅前のデパートでほとんど衝動買いしてしまったそれらを、陽香はまだ一度も身につけていなかった。


(あっちのあたしに、なるんだ)

 心の中でそう唱えると、少しだけ胸がすくような気がした。

 この息苦しいセーラー服を脱ぎ捨てて、軽やかなワンピースを纏い、窮屈なストラップシューズを脱いで、真新しいパンプスに素足で足を入れる。その瞬間を想像するだけで、世界が少しだけ色鮮やかになるような、そんな錯覚。それは、まるで窮屈な蛹が蝶になるための、秘密の儀式みたいだった。


 一年生までは、陽香は真面目ないい子だった。少なくとも、自分ではそう思っていたし、周りからもそう見られていたはずだ。進学校として名高いこのお嬢様学校に入学し、少しでも自分に自信を持ちたくて、バスケットボール部に入った。けれど、そこで待っていたのは、理不尽な上下関係と、古臭い精神論ばかりを振りかざす先輩たち。

 特に、副キャプテンだった三年生の女の、粘着質な視線が陽香はたまらなく嫌いだった。あんた、可愛いからって調子に乗らないでよね。その言葉に含まれた嫉妬の棘は、陽香のプライドを徐々に傷付けていった。


 ある日の練習試合で、陽香のパスミスを執拗に責め立てるその先輩に、ついにぶち切れた。「先輩の指示が悪いんじゃないですか」。そう言い放った瞬間、体育館の空気が凍りついたのを、今でもはっきりと覚えている。結果、陽香は部活を辞めた。逃げ出した、と言った方が正しいのかもしれない。

 それからだった。何かが、ぷつりと切れてしまったのは。


 あれだけ必死で勉強して追いついていた授業が、まるで知らない国の言葉のように聞こえ始めたのも、それからだ。

 教科書の文字はただの黒いインクの染みにしか見えず、テストの答案は、赤ペンで無残に切り裂かれた地図みたいになって返ってきた。クラスメイトたちの会話が、自分だけを疎外して成り立っているように感じ始めた。彼女たちの楽しそうな笑い声は、耳障りなノイズでしかなかった。かつて親友だと思っていた子も、今では当たり障りのない挨拶を交わすだけの、ただの顔見知りに成り下がってしまった。


(別に、どうってことない)

 陽香は自分に言い聞かせる。

(あたしは、あの子たちとは違う。違う世界に行くんだから)


 そう、違う世界へ。この制服を脱ぎ捨てた先にある、誰もあたしを知らない街へ。そこでは、白鳥陽香はただのかわいい女の子でいられる。成績も、部活のいざこざも、面倒な人間関係も、全部リセットできる。スクールバッグの中のワンピースとパンプスは、そのためのパスポートなの。


 目的地は、隣町の公園。そこにある、誰も来ない公衆トイレ。人目につかずに着替えるには、あそこが一番都合が良かった。公園を抜ければ、すぐに駅だ。電車に乗ってしまえば、もうどこへだって行ける。


 陽香が歩いているのは、古い家と新しいアパートが混在する、静かな住宅街だった。昼下がりのこの時間、通りに人影はほとんどない。家々の窓はカーテンが閉められ、まるで街全体が昼寝をしているみたいに静まり返っている。聞こえるのは、自分のストラップシューズがアスファルトを叩く、こつこつという乾いた音と、遠くで鳴り続ける、夏の残骸みたいな蝉の声だけ。その単調な音が、陽香の思考をさらに現実から乖離させていく。


(あたしは、どこに行きたいんだろう)

 ふと、そんな考えが頭をよぎる。街に出る、とは決めている。けれど、その先は?具体的に何をしたいわけでもない。誰かに会いたいわけでもない。ただ、ここにいたくない。それだけだ。まるで、見えない何かに追い立てられるように、陽香は歩き続けている。


 その時だった。

 視界の端、アスファルトのちょうど真ん中に、何か緑色のものが動いているのが見えた。陽香は足を止め、目を凝らす。


 カマキリだった。

 それも、かなり大きな。十センチ以上あるだろうか。鎌のように折りたたまれた前脚を交互に動かし、まるで自分の庭を散歩でもするかのように、悠然と、しかしどこかおぼつかない足取りで、アスファルトの上をのしのしと歩いている。その動きは、あまりにも場違いで、奇妙な存在感を放っていた。緑色の体は、陽光を浴びてぬめりとした光沢を帯びている。


 陽香は、その場に縫い付けられたように動けなくなった。カマキリから目が離せない。その大きな複眼が、いったい何を捉えているのか、知りたくなった。こんな、灼熱のアスファルトのど真ん中で。水辺でもなく、草むらでもなく。


(……ああ、そうか)

 陽香の脳裏に、春先の生物の授業の光景が唐突に蘇った。白衣を着た、初老の男性教師。退屈で、眠気を誘う、抑揚のない声。チョークの粉が舞う、埃っぽい空気。窓の外には、今日とよく似た、抜けるような青空が広がっていた。


『……ハリガネムシという寄生虫がいましてね。最終的な宿主は水生生物なんですが、一時的にカマキリの腹の中に寄生する。

 面白いのはここからです。産卵のために水辺に戻る必要があるこのハリガネムシは、なんと、宿主であるカマキリの脳をコントロールするんです。そして、カマキリに水を飲みたい、という強烈な欲求を抱かせ、水辺へと誘導する。自らの意思ではなく、寄生虫に操られて、カマキリは水の中に飛び込んでいくわけです。もちろんカマキリは死にますが、ハリガネムシはカマキリの外に出て目的を果たす』


 クラスのあちこちから、くすくすという笑い声と、「えー、きもい」という囁きが聞こえた。陽香も、その時はただ「変な生き物もいるもんだな」と、他人事のように聞いていただけだった。


『ところがね、時々、悲劇が起こる。彼らは、アスファルトの照り返しを、水面の光の反射だと誤認してしまうことがあるんです。必死に水辺を目指しているつもりが、そこは死の灼熱地獄。哀れな道化師、というわけですな』


 教師は、そう言ってつまらなそうに笑った。

 目の前のカマキリが、まさにその「哀れな道化師」なのだと、陽香は直感した。


(あんたも、そうなんだ)

 陽香は心の中でカマキリに語りかけた。

(あんたも、自分の意思じゃないんだ。どこかに行かなきゃいけないって、必死に思ってるけど、本当は、誰かにそう思わされてるだけ。行き先なんて、本当はどこでもないくせに。水辺だと思って必死に進んだ先が、こんな、なにもない、ただ熱いだけの場所だったなんて)


 それは、まるで自分のことを言われているような気がした。

 学校をサボって、街へ出る。違う自分に「変身」する。それは本当に、陽香自身の意思なのだろうか。それとも、部活の先輩の言葉や、下がり続ける成績、友人たちの冷たい視線といった、陽香の心に寄生した「ハリガネムシ」たちが、陽香を操っているだけなのではないか。ここではないどこかへ行けば楽になれると囁き、この灼けつくようなアスファルトの道へと誘い込んでいるだけなのではないか。


 カマキリが、ふと動きを止めた。鎌を掲げ、三角形の頭をゆっくりと動かす。まるで、陽香の存在に気づいたかのように。その黒く小さな瞳が、じっとこちらを見ているような気がした。


(同じだ、あたしたち)

 陽香の胸の奥から、奇妙な感情が湧き上がってきた。それは、憐憫や同情とは少し違う。もっと歪んでいて、独善的な、「慈悲」とでも呼ぶべき感情だった。


(こんなところで、意味もなく灼かれて死ぬくらいなら)


 そう。

(あたしが、楽にしてあげる)


 それは、神様になったような、全能感にも似た心地よさを伴っていた。陽香は、ゆっくりと一歩、カマキリに近づいた。周囲を見回す。人影はない。蝉の声だけが、まるでこの行為を煽るかのように、ジリジリと鳴り響いている。


 右足を、そっと上げる。学校指定のストラップシューズ。そのつま先の先っぽが、カマキリのちょうど真上に来るように、慎重に位置を定める。靴底に刻まれた、滑り止めのためのギザギザした凹凸が、これから起こることを予感させていた。


 一瞬の躊躇。本当に?

(でも、このまま放っておいたって、このカマキリは苦しむだけだ)

 自分に言い聞かせる。これは、優しさだ。救済なのだ。


 陽香は、息を吸い込み、ぐいっと、体重をかけた。

 一度だけ。


 足の裏に、やや硬いものが砕ける、鈍い確かな感触が伝わった。みしっという微かな音。カマキリの抵抗は、ほんの一瞬だった。陽香の全体重が乗ったつま先の下で、生命の営みがあっけなく終わる。その感触は、想像していたよりもずっと生々しく、それでいて不思議なほどあっさりとしていた。


 ゆっくりと足を離す。

 アスファルトには、緑色の染みができていた。潰れたカマキリの体液と、砕けた外骨格。それはもう、先ほどまでの悠然とした姿の面影はどこにもなかった。ただの汚いゴミクズだ。

 陽香は、自分の胸がすっと軽くなるのを感じた。心の靄が、ひとつかき消えたような。それは、すっきりとした、奇妙な解放感だった。自分の内に、こんなにも冷たくて、残酷な部分があったなんて、陽香自身、気付いていなかった。いや、これまで気付かないふりをしていただけなのかもしれないが。


(さあ、行こう)

 陽香は、何事もなかったかのように、再び歩き出した。ストラップシューズの先が、少し汚れてしまったかもしれない。でもそんなことはどうでもよかった。目的地はもうすぐそこだ。誰もいない公園の、あのトイレ。



 目的地の公園は、すぐに現れた。古い集合住宅に囲まれた、どこにでもあるような児童公園だ。昼下がりの公園には、陽香の他に誰もいなかった。ブランコが、気だるそうにきいきいと昼下がりの風に吹かれて、小さな音を立てて揺れている。誰かが乗り捨てていったのだろうか。

 滑り台のてっぺんでは、鳩が数羽、退屈そうに首を動かしている。むっとするような緑の匂いと、乾いた土の匂いが混じり合って、陽香の鼻腔をくすぐった。


 陽香が目指す公衆トイレは、公園の一番奥まった、木々の影になる場所にひっそりと建っている。壁のタイルは所々剥がれ落ち、薄汚れたコンクリートが剥き出しになっている。お世辞にも清潔とは言えない場所だったが、陽香にとってはそれこそが好都合だった。こんな場所、誰もわざわざ使おうとは思わないだろう。


 トイレに近づくにつれて、消毒液のツンとした匂いに混じって、微かなカビの匂いが漂ってきた。陽香は少しだけ眉をひそめたが、構わずに歩を進める。女子トイレの、青く塗装された鉄製のドアノブに手をかけた。ひんやりとした金属の感触が、汗ばんだ手のひらに心地いい。


 ぎぃ…と錆びついた蝶番の音が静かに響く。ドアを開けると、中は思った通り薄暗く、ひんやりとした空気が淀んでいた。三つある個室のうち、一番奥のドアを開ける。和式の、古びた便器。陽香は、そのドアの内側についているフックにスクールバッグをかけると、がちゃんと乱暴に鍵をかけた。


 狭い個室の中は、外界から完全に遮断された、陽香だけの聖域だった。これで、誰にも邪魔されずに誰も知らない白鳥陽香へと変身できる。

 陽香は、バッグの中から、丁寧に畳まれた白いワンピースと、ビニール袋に入ったエナメルのパンプスを取り出した。それらを、比較的綺麗に見える給水管の上に置く。そして、自分の身体を覆う、忌々しい制服を脱ぎ始めた。

 まず、青いスカーフを解く。次に、セーラー服のサイドにあるファスナーを下ろす。汗で張り付いたブラウスを脱ぎ捨てると、肌にまとわりついていた湿気から解放されて、ふぅと思わず小さなため息が漏れた。スカートのホックを外して脱ぎ捨てる。最後に、蒸れた白いソックスを脱ぎ散らして素足になった。汗ばんでいた足がひんやりと心地いい。


 生まれたままの姿に近い格好で、陽香はしばし目を閉じた。これで、いい子の白鳥陽香は死んだのだ。


 次に、新しい自分になるための衣を纏う。

 白いオフショルダーのワンピースに袖を通す。さらりとした生地が肌の上を滑る感覚が気持ちいい。肩から腕にかけてのラインが大胆に露出するデザインは、少しだけ気恥ずかしくもあったが、それ以上に、大人びた自分になれたような高揚感があった。


 そして、靴。

 ビニール袋から、白いエナメルのパンプスを取り出す。新品の靴特有の、接着剤と合成皮革の匂いがした。ポインテッドトゥの鋭い先端が、まるで小さなナイフのように光っている。

 陽香は、素足のまま、そのパンプスに足を入れた。ひんやりとしたエナメルが、足を優しく包み込む。ストラップシューズの窮屈さとは違う、しなやかなフィット感。つま先が、きゅっと引き締められる。フラットなヒールは、自分の足と一体化したかのように安定していた。


 着替えを終え、陽香は個室のドアに寄りかかり、自分の足元を見つめた。白いパンプスを履いた、日焼けしていない自分の白い足。それはもう、学校で定められた規則の中にいる足ではなかった。どこへでも、自分の意思で歩いていける、自由な足だ。


(完璧)

 満足感に浸りながら、陽香は個室の鍵を開けた。外に出ると、手洗い場の鏡に、新しい自分の姿が映っていた。

 長い黒髪に、白いワンピース。自分の白い肌が、オフショルダーのデザインによってより一層際立って見える。制服を着ていた時とは、まるで別人だった。鏡の中の少女は、少しだけ背伸びをして、知らない世界に足を踏み入れようとしている、危うさと美しさを同時に湛えているように感じられた。


 陽香は、鏡の中の自分に、ふっと微笑みかけた。

 さあ、行こう。駅へ。そして、ここではないどこかへ。


 脱ぎ捨てた制服とストラップシューズを無造作にスクールバッグに詰め込み、陽香はトイレを出た。西に傾きかけた太陽の光が、先ほどよりもオレンジ色を帯びて、公園の木々を照らしていた。生暖かい風に吹かれて、長くなった木々の影がさわさわと揺れる。


 駅へ向かうため、公園を横切る。白いエナメルのパンプスが、乾いた土の上をさくさくと小気味良い音を立てる。

 そして、先ほどカマキリを踏み潰した、アスファルトの道に出た。


 陽香は、何気なく、その場所を見た。

 そして、凍りついた。


(……え?)

 そこには、信じられない光景が広がっていた。

 踏み潰したはずのカマキリが、まだ、生きていたのだ。


 腹部が無残に砕け、緑色の体液をアスファルトに撒き散らしながら、それでも、上半身をもたげ、鎌のような前脚を虚空に向けて、もがいていた。その動きは、絶望的なまでに、ゆっくりとしていた。


 だが、陽香の視線を釘付けにしたのは、それだけではなかった。

 カマキリの潰れた腹から、何か黒くて長い、針金のようなものが、ずるりと這い出てきていたのだ。


 ハリガネムシ。

 それは、生物の授業で聞いた通りの、不気味な姿をしていた。長さは数十センチはあろうか。熱いアスファルトの上で、のたうち回り、蠢いている。まるで、灼熱の鉄板の上で焼かれるミミズのように。宿主を失い、水辺という約束の地にもたどり着けず、ただただ苦しんでいる。その姿は、グロテスクという言葉では言い尽くせないほど、おぞましかった。


 陽香は、胃の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくるのを感じた。


(あたしの、せいだ)

 中途半端な慈悲が、この地獄のような光景を生み出してしまったのだ。楽にしてやろう、なんて。なんて傲慢で、独り善がりな考えだったのだろう。これでは、ただ苦しみを長引かせただけではないか。

 カマキリの、もがく鎌が、まるで助けを求めているように見えた。ハリガネムシの、身をよじる動きが、まるで陽香を呪っているように見えた。


 陽香の胸の中に、先ほどの解放感とはまったく違う、どす黒い感情が渦巻き始めた。それは、自分の行為に対する後悔と、目の前の醜悪な光景に対する、純粋な嫌悪感。そして、すべてを台無しにした、この黒い寄生虫に対する、燃え上がるような憎しみだった。


(あんたのせいだ)

 心の声が、今度はハリガネムシに向かって囁く。

(あんたが、このカマキリを操って、こんなところに連れてきた。あんたがいなければ、こんなことにはならなかった)


 責任転嫁だとわかっていた。最初に手を出したのは、自分だ。けれど、そう思わなければ、立っていられなかった。


(終わらせなきゃ)

 今度こそ、完璧に。


 陽香は、ゆっくりと一歩、踏み出した。白いエナメルのパンプスが、夕日を浴びて妖しく光る。


 まず、カマキリ。

 まだ虚しく動き続けるその頭に、陽香は狙いを定めた。そして、履き替えたばかりのパンプスの、鋭いポインテッドトゥのつま先を、勢いをつけて容赦なく振り下ろした。


 ぐちゃっ。

 今度は、硬いものが砕ける感触が、確かに足の裏に伝わってきた。カマキリの動きが、完全に止まる。これで、この哀れな道化師の苦しみは終わった。


 次に、ハリガネムシ。

 陽香は、憎しみを込めて、のたうつ黒い糸のような身体を見下ろした。その生命力が、たまらなく気に障った。

 陽香は、フラットなパンプスのヒールを、その身体の真上に叩きつけた。


 ぶちっ。

 アスファルトの上で、ハリガネムシの身体がちぎれる。だが、それでもまだ、ヒールからはみ出していた両端が別々に蠢いている。


(こいつ、しぶとい!)

 陽香は、まるで何かに取り憑かれたかのように、何度も何度も、ヒールを叩きつけた。ぶちっ、べちゃっと、黒い身体が挽き潰されてミンチになっていく。アスファルトに黒い体液の染みが点々と広がっていく。陽香はそれを、靴底のギザギザした凹凸で、執拗にすり潰した。ねじ伏せるように、全体重をかけてぐりぐりと。原型を留めなくなるまで徹底的に。


 やがてアスファルトの上には、黒い染みと、元がなんだったのか判別不能なゴミが残るだけになった。


 陽香は、ぜぇぜぇと肩で息をしながら我に返る。自分の行為に、自分で驚いていた。こんなにも執拗に何かを破壊したのは、生まれて初めてだった。


 足元を見下ろす。白いパンプスのつま先と靴底が、少しだけ汚れてしまっていた。けれど、不思議と不快ではなかった。それは、むしろ何かをやり遂げた証のようにさえ思えた。確かな満足感があった。自分の手で、汚くて、醜くて、間違ったものを、この世界から完全に消し去ってやったのだ、という倒錯した達成感。

 自分の内に潜んでいた、冷酷で残忍な自分。それに気付いてしまったことへのほんの少しの戦慄と、それを今あっさりと受け入れてしまったことへの静かな驚き。


 陽香は、ワンピースのポケットを探った。指先に、硬い箱が触れる。コンビニで、年齢確認もされずに、あっさりと買えてしまったタバコの箱。


 一本取り出して、口にくわえる。一緒に買った安物のライターの火を近づけると、先端が赤く灯り、乾いた煙が立ち上った。

 ふぅっと、紫煙を吐き出す。慣れない煙が喉に絡んで、少しだけ咳き込んだ。夕日に染まる街並みが、煙の向こうでぼんやりと滲む。


(本当は、あたしも…)

 煙と一緒に、そんな言葉が漏れそうになった。

(本当は、あたしも、あのカマキリみたいに、誰かに、めちゃくちゃに、人生のけりをつけてほしいのかもね)


 行き先もわからず、何かに操られるように歩き続ける、こんな退屈で息苦しい毎日を。誰かがぐいっと一思いに。

 そんな刹那的な願望が、胸の奥をちりりと焼いた。


 陽香は短くなったタバコをアスファルトに投げ捨て、パンプスのつま先で火をもみ消した。

 そして、駅に向かって、再び歩き出す。

 白いワンピースが夕風にはためき、長く伸びた影が、アスファルトの上を滑っていく。


 かつ、かつ、かつ。

 白いエナメルのパンプスが奏でる乾いた音が、夏の終わりの、静かな住宅街に響き渡る。それはまるで、新しい自分の始まりを告げる音楽のようでもあり、すべてに終わりを告げる、幕引きのようでもあった。

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