第3章 制服は一着しかない

 春が、少し遅れてやってきた。


 部屋のすきま風もようやく止まり、朝の光がカーテン越しに柔らかく差し込むようになった。けれど、陽菜の胸の内には、冬がまだ根を張っていた。


 


 4月、新学期。


 中学2年生になる朝、陽菜は鏡の前で制服を着てみて、少しだけ違和感を覚えた。


 「……あれ、なんか、キツい」


 スカートのホックが引っかかる。ブレザーの肩がわずかに窮屈だ。腕を通すと、袖口が手首よりもずいぶん短くなっていた。


 「成長したんだねえ」


 後ろから覗き込んだ柚希が、少しだけ感慨深げに言った。


 「まあ……中2にもなれば、身体も大きくなるよ」


 


 でも、そのあと続いた言葉はなかった。


 陽菜も何も言わなかった。わかっていたのだ。今のこの制服のままで、新しく買い替えることは、たぶんできない。今着ているのは、リサイクルセンターで見つけた“おさがり”の制服。これよりも大きいサイズがすぐに手に入るとは限らない。


 


 「丈、少し出せるかな……」


 柚希はスカートの裾を触りながらつぶやいた。


 でも、ほどいて出せる余裕はあまりなかった。おそらく前の持ち主の親御さんが、既に目一杯伸ばしてくれていたのだろう。


 「大丈夫、まだ着れるよ」


 陽菜が言うと、柚希はほっとした顔をした。けれどその「大丈夫」は、やさしさであり、同時に小さな諦めでもあった。


 


 中学2年の教室は、去年よりも空気が重かった。


 クラス替えがあっても、同じ小学校出身のグループは固まっており、陽菜のように“家庭事情の香りがする子”には、どこか透明な壁ができていた。


 


 「ねえ、そのスカート……」


 ある日、隣の席の女子がふと尋ねた。


 「ちょっと短いね。……お姉ちゃんの?」


 陽菜は、とっさに「うん」と答えた。


 その瞬間、自分が「またうそをついた」と感じて、胸がきゅっと痛んだ。


 


 母は毎晩、くたくたになりながら仕事から帰ってきた。キッチンに立って、安売りの食材で料理をつくり、陽菜の学校プリントを確認し、洗濯物を畳んでからようやく一息つく。


 その背中を見るたびに、陽菜は自分の制服のことを「言い出せなくなる」。


 あれがきつい、これが欲しい。そういう“当たり前”を、ずっと飲み込んできた。


 


 制服は一着しかない。洗い替えなんてない。


 月曜日から金曜日まで、毎日同じ服を着て、土曜日に洗って、日曜日中干して、月曜の朝にはまだ少し湿ったまま袖を通す。


 冬場はとくに乾きが遅くて、電気ストーブの前に吊るしていた。焦げないように注意しながら。


 


 それでも、陽菜は笑って学校に行った。



 

 梅雨入り前のある日、陽菜は教室の掃除当番で、バケツの水をこぼしてしまった。ブレザーの裾が濡れてしまい、先生から「替えの制服、ある?」と聞かれた。


 陽菜は、かぶりを振った。


 「うちは……一着だけなので」


 その言葉を口にした瞬間、教室が一瞬だけ静まり返った気がした。誰かが見た。誰かが、何かを思った。


 それは陽菜の気のせいだったのかもしれない。でも、彼女には確かに“ざわめき”が聞こえた。


 


 帰宅後、柚希にそのことを話すと、母は無言でミシンを出した。押入れから古いスカートを引っ張り出し、丈を測って、サイズを調整しようとした。けれど、糸も布も限界で、どうにもならない。


 「ごめんね、陽菜。もう少し待ってて。次の給料が出たら、探してみるから」


 「いいよ、ほんとに。わたし、これで慣れてるし」


 そう言いながら、陽菜の手はスカートの生地を無意識に撫でていた。


 


 ある金曜の放課後、陽菜は偶然、図書館で1つ上の先輩に出会った。その先輩は、制服を私服にリメイクしていて、「自分で縫ったの」と嬉しそうに話してくれた。


 「おさがりって、けっこう工夫しがいあるんよ。丈が足りないときはレースで足したりして。ちょっと“特別感”あるじゃん?」


 陽菜は、その言葉に、少しだけ救われた気がした。


 家に帰ると、押入れの奥から、使われていない布切れと、母が集めていたボタンやリボンの箱を取り出した。


 


 柚希は驚いた顔をした。


 「なに、それ?」


 「……ちょっと、リメイクしてみようかなって」


 「え? 陽菜が?」


 「うん。制服の裾、少しだけ飾り足せたら、短くても気にならないかなって」


 


 柚希は、一瞬黙ってから、笑った。


 「……ほんと、強くなったね」


 陽菜は頷いた。


 「違うよ。強くなりたいって思ってるだけ」




 夜のアパートは静かだった。


 エアコンもなく、扇風機の回る音だけが、微かに空気をゆらしている。キッチンのテーブルの上に布切れと糸、ボタン、そして陽菜の制服が広げられていた。


 


 「リメイクって、どこから手をつければいいの?」


 陽菜が針を持ったまま柚希に尋ねると、母はエプロンを脱ぎながら笑った。


 「基本は、“隠す”じゃなくて“見せる”だよ。ごまかそうとするとヘンに目立つけど、開き直って『こういうデザインです!』って感じで出せば、意外と堂々と見える」


 「そんなもん?」


 「そんなもんよ」


 


 ふたりは並んで座り、ライトの下で制服を少しずつ手直ししていった。


 使ったのは、押し入れに眠っていた昔のカーテンのレース生地。少しくすんでいたが、柔らかくて糸のほつれが美しい。柚希が若い頃、手芸に夢中だったときに残った布の一部だった。しばらく前に、実家の母が送ってくれた小包みの中に混じっていたものだ。


 


 「これ、ママが集めてたやつ?」


 「そう。昔ね、ハンドメイドでネット販売しようとしてたの。けど、陽菜が生まれてから、なかなか時間取れなくて」


 「でも、捨てなかったんだね」


 「なんとなくね。いつか役に立つ日が来るかなって、おばあちゃんに預かってもらっていたの」


 


 裁縫は不器用だった。糸が絡まり、針が指に刺さり、レースの長さが足りずにやり直した。でも、ふたりは不思議と笑いながら夜を過ごした。


 


 その夜、陽菜は久しぶりに夢を見た。


 学校の教室で、誰かが「その制服、かわいいね」と言ってくれる夢だった。


 夢のなかで自分は、「ありがとう」とまっすぐ答えていた。



 

 月曜日。


 陽菜は、少しだけ裾にレースが縫い付けられたスカートを履いて、登校した。最初は不安でいっぱいだった。誰かがまた笑うかもしれない。変だと囁かれるかもしれない。


 だけど、教室に入ると、意外にも――何も起きなかった。


 誰も何も言わなかった。あるいは、言っても聞こえなかったのかもしれない。


 少し遅れて教室に入ってきた女子が、陽菜の制服をちらりと見て、ふっと笑った。

 

 「……それ、自分でやったの?」


 「うん。……まあ、ママと一緒にだけど」


 「へぇ。なんか“こだわり感”あるじゃん。いいかも」 


 その一言に、陽菜は肩の力がすっと抜けた。


 別に“人気者”になりたいわけじゃない。ただ、“わかってくれる誰か”がいることの、なんと心強いことか。


 


 放課後、陽菜はその子と帰り道を少しだけ一緒に歩いた。


 名前は佐久間里帆(さくまりほ)。バスケ部で、少し小柄だけど快活な子だった。家も母子家庭で、兄がふたりいるという。


 「うちもさ、制服1着しかないよ。洗濯のたびに焦る」


 「え、ほんと?」


 「うん。あとね、スニーカーも、兄のおさがり。サイズ大きすぎて、いつも中敷き3枚入れてんの」


 「すご……」


 「まあ、うちはにぎやかでバトルも多いから、それどころじゃないけどね」


 


 笑いながら話す里帆に、陽菜は少しずつ、自分の胸の中にたまっていた“恥ずかしさ”の正体が、ただの“孤独”だったと気づき始めていた。


 


 家に帰ると、柚希が嬉しそうに聞いた。


 「どうだった? 今日の“レーススカート”」


 陽菜はリュックをおろしながら言った。


 「……ふつう、だった」


 「えっ。ふつう?」


 「でも、ひとり、かわいいって言ってくれた」


 「ほんと?」


 「うん」


 


 柚希は、キッチンでレトルトカレーを温めながら、小さく「よかった……」とつぶやいた。


 


 夕飯のあと、陽菜は制服のスカートをハンガーにかけて、風通しのいい場所に干した。


 風にゆれるレースの端が、まるで“自分の旗”のように見えた。

 



 次の日、陽菜は自分でレースをもう一段つけてみた。


 縫い目は少し斜めになってしまったけれど、それでも「自分でやった」という自信があった。


 里帆が気づいて、「あれ、昨日より進化してない?」と笑った。 


 「今度、うちのスカートもリメイクしてくれる?」


 「えっ」


 「マジで。500円まで出すよ」


 「500円かよ……」


 


 ふたりは笑った。


 誰かに頼られるというのは、こんなにも嬉しいものなんだと、陽菜ははじめて知った。


 


 制服は、相変わらず一着しかない。


 でもそれは、“足りない”ことの象徴ではなくなった。


 “今あるもの”を、どう活かすか。どう向き合って、どう生きるか。

 その視点が変わっただけで、世界の見え方がずいぶん違ってきた。


 


 スカートの裾をなびかせて坂を上る陽菜の背中に、柚希はある日、ふと「大人になったなぁ」と感じた。


 その足取りには、もう昔のような不安げな影はなかった。


 


 その日の夜は、久しぶりの雨だった。


 午後から降り始めた冷たい雨は、夕方には本降りになり、アパートのトタン屋根を叩く音が、ぽつぽつからザーッという連打に変わっていった。


 


 陽菜は、洗濯機の脱水が終わる音に気づいて、ベランダへ急いだ。柚希がパートで帰ってくる前に、洗濯物を取り込んでおこうと思ったのだ。


 しかし、物干し竿から制服のスカートを外そうとした瞬間、滑った。


 「あっ」


 勢いよく落ちたスカートの裾が、ベランダのささくれだった木に引っかかり――ビリ、と嫌な音がした。


 慌てて拾い上げると、裾のレースの付け根が大きく裂け、土埃で薄汚れていた。


 「うそ……」


 陽菜はしゃがみ込んだまま、濡れた制服を抱きしめて動けなかった。


 


 柚希が帰宅したのは、その15分後だった。


 「ただいま……って、どうしたの?」


 陽菜は黙って、破れたスカートを差し出した。


 


 柚希は最初、言葉が出なかった。


 濡れたスカートと、それを抱えて小さくなっている娘の姿に、何か別の記憶が蘇ったような、遠い目をした。


 


 「……ごめん、ママ。せっかく頑張って縫ったのに」


 「陽菜が悪いんじゃない。事故みたいなもんだよ」


 「でも、これしかないから……明日、学校、どうしよう……」


 


 柚希は、黙ってスカートを受け取り、しばらく見つめていた。そして、ふいに立ち上がり、押し入れの奥から何かを取り出した。薄い紺色の、箱だった。


 「……何それ?」


 「昔ね、陽菜が生まれる前、あたしが高校生だったころの制服」


 「えっ」


 「今まで何回も手放そうかと思ったけど、なんか捨てられなくてね」


 


 柚希は箱を開けた。


 中には、よく手入れされたブレザーと、チェック柄のスカートが入っていた。布地は厚く、レースこそないが、縫い目は丁寧で、シルエットが綺麗だった。


 


 「これ、着てみる?」


 陽菜は、思わず手を伸ばした。


 ――少し、大人っぽい。


 でも、生地に触れた瞬間、不思議なほどの温もりが手に伝わった。


 「ほんとに、いいの?」


 「うん。形は違うけど、今の制服よりずっと丈夫。丈も余裕あるし、裾だけ学校用に直せば大丈夫」


 「でも……ママの大事な……」


 「陽菜の方が、ずっと似合うよ」


 


 その夜、ふたりはまた並んでミシンに向かい、古い制服を直し始めた。


 ボタンを取り替え、裾をわずかに上げ、肩幅を微調整した。


 


 作業が終わる頃、時計は日付をまたいでいた。


 柚希はミシンの糸を巻きながら、ぽつりとつぶやいた。

 

 「ねえ、陽菜」


 「うん?」


 「もしさ、あたしが“あのとき逃げてなかったら”、あなたは、どんな子になってたと思う?」


 


 陽菜は少し考えてから、静かに言った。

 

 「うーん……たぶん、“あたしのまま”じゃなかったかも」


 「そっか」


 「でも、今のわたしの方が、好きだよ」


 


 柚希は黙って娘を見つめた。


 その言葉が、どれだけの救いを運んできたか。どれだけの年月を、意味あるものに変えてくれたか。


 


 この子が、わたしの選んだ人生を、肯定してくれた。


 ――それだけで、生きてきた意味がある。


 


 次の日の朝。


 陽菜は、母の制服を着て登校した。チェック柄のスカートに、ひかえめなリボン。少しレトロで、でも不思議と今の陽菜にしっくりくる。


 教室に入ると、里帆が目を丸くした。


 「え、それ……今日のコーデ、まさかリメイク第二弾?」


 「ううん、ママのお下がり」


 「へえ……マジで似合ってる。ちょっとエモい」


 


 陽菜は、照れくさそうに笑った。笑った自分に、驚いた。ここまでの道のりが、ちゃんと“今”につながっていると思えた。




つづく

 






 

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