第2章 弁当は母のこころ

 母がキッチンに立つ音で目が覚めた。


 陽菜はまだ眠たげな目をこすりながら、古びた天井の木目をぼんやりと見つめた。窓の外はまだ灰色がかっていて、朝日が街の端をわずかに照らしはじめたばかり。布団の中で、そっと深呼吸をする。


 


 柚希は、古いコンロに火をつけ、小鍋で卵をかき混ぜていた。


 冷蔵庫には卵が3個、使えるのは1個だけ。ハンバーグは昨日の夕飯の残り、かろうじてウインナーが2本。スーパーの“半額見切り品”で買ってきた野菜を細かく刻み、きゅうりとキャベツの即席サラダにする。


 「これで足りるかな……」


 ぽつりと独り言をつぶやく。弁当箱のフタに小さく描かれた桜のシールは、角が擦れて少し剥げていた。新調してあげたい気持ちはある。でも、今は他に買わなきゃいけないものが山ほどある。


 ――この子にだけは、空腹のまま一日を過ごさせたくない。


 それが、柚希の朝一番の祈りだった。


 


 陽菜が部屋から出てきた。


 「おはよう」


 「おはよう、陽菜。眠れた?」


 「うん。……お弁当、もうできたの?」


 「あとちょっと。詰めるだけ」


 


 陽菜はちゃぶ台の隅に座り、昨日のプリントを再確認した。中学1年の入学式。新しい制服はサイズが少し大きく、袖を2回折って着る。制服のタグには、知らない女の子の名前がまだうっすらと残っていた。


 柚希がリサイクルセンターで見つけてきた制服だった。けれど陽菜は、「新品の匂いがしないの、逆に落ち着く」と言って、ふわっと笑っていた。


 


 「今日はパンにしようかと思ったんだけど……やっぱりお弁当がいい?」


 「うん。学校で初めて食べるから、なるべく家っぽいのがいい」


 柚希は少し驚いて、すぐに微笑んだ。


 「わかった。家っぽいやつ、ね」


 


 お弁当には、小さな折り紙が添えられていた。角に小さく「ファイト」の文字。陽菜はそれを見て、ちょっとだけ笑った。


 


 駅に向かう通学路。新入生らしき子たちがちらほら歩いている。陽菜は、なるべく目立たないように下を向いて歩いた。新しい制服も、真新しい友だちもいない。だけど、母が作った小さなお弁当箱が、リュックの中で温もりを残していた。


 


 入学式は、あっという間だった。


 名前を呼ばれて「はい」と返事をする声の中に、自分の声がまるで他人のように感じられた。まぶしいほどの笑顔を浮かべる子どもたちの列のなかで、陽菜は自分がちょっとだけ場違いな気がした。


 


 教室に戻ると、担任の先生が明るく「今日はお弁当を持ってきた人は、教室で食べてください」と言った。数人の生徒が「今日、コンビニで買ってきた~」などと言い合っている。陽菜は、そっと自分の席に戻り、リュックからお弁当箱を取り出した。


 きゅうりのサラダが少しだけこぼれていたけれど、香りはいつもの“うちの味”だった。


 


 斜め後ろの席から、小さな声が聞こえた。


 「ねえ、あれ……昨日のチラシの弁当箱じゃない?」


 「ほんとだ。あ、シール、はがれてる」


 


 陽菜は箸を止めた。


 心臓が、ドクンと音を立てた。視線が、自分の後ろで動いているのがわかる。笑い声はない。でも、それが余計に、陽菜の耳を刺す。


 


 母が折ってくれた折り紙の“ファイト”の文字が、まるでからかわれているように思えてしまった。


 静かに、弁当箱の蓋を閉じた。


 「お腹いっぱい」


 そう呟いて、誰にも聞こえないように息を吐いた。




 「お弁当、どうだった?」


 帰宅後、エプロン姿の柚希が明るく尋ねた。


 陽菜は一瞬だけ言葉に詰まった。うそをつくほどの悪意はなかった。でも、言わない方が優しい気がして、「美味しかったよ」と答えた。


 


 その晩、柚希は風呂掃除をしながら、娘の表情を何度も思い返していた。


 陽菜の「美味しかったよ」という言葉は、嘘ではないにしても、どこかぎこちなかった。無理に明るくしているような、そんな空気。


 心配しすぎだろうか。それとも、なにか言えないことがあるのだろうか――。


 


 陽菜の部屋。明かりはついているが、カーテンは閉じられ、窓の外の桜が風に揺れていた。


 ベッドの上で体育座りをしながら、陽菜は昼間の弁当の場面を思い出していた。


 隣の席の女子が、明らかに陽菜の弁当箱を見て、他の子と目配せしていたのを見逃さなかった。何も言わずに笑うだけのその態度の方が、ずっと傷つくのだということを、陽菜は知っていた。


 


 翌日から、陽菜は「今日、お弁当はいらない」と言った。


 「学校にパン屋さん来るんだって。買ってみたいから」


 柚希は少し驚いたが、「そうなんだ」と微笑んだ。内心では、なにか引っかかるものがあったが、娘の自立かもしれないと解釈した。


 


 けれど、陽菜は昼休みに、何も食べなかった。


 財布には母からもらった小銭が入っていたが、パン屋の列に並ぶ勇気が出なかった。声をかけられるのも怖かった。結局、水筒の麦茶だけを飲んで、空腹を押し殺した。


 放課後、校門を出たあたりで、背中に声がかかった。


 


 「中野さんってさ、ちょっと変わってるよね」


 振り返ると、クラスの女子ふたりが笑っていた。


 「お昼、毎日どっか行ってるでしょ? なんかお母さんと弁当食べてるとか?」


 「え、マザコン?」


 陽菜は一言も返せなかった。


 笑ってごまかす、という芸当ができない性格なのだ。代わりに、冷えた胸の奥に、“痛み”という名の石がまた一つ、ころんと落ちていった。


 


 その夜、柚希はふと、スーパーのチラシの裏に陽菜の字を見つけた。


 《弁当箱/買い換える必要ある?》


 その下には、小さな落書きのように「目立たない色/シンプル/シールはやめる」とあった。


 


 息が止まりそうになった。


 柚希は、娘がなぜお弁当を拒むのか、ようやく少し理解し始めた。目立たないようにしたい、誰にも気づかれたくない、恥ずかしいと思っている――。


 それがたとえ事実でなくても、娘がそう感じているなら、それは現実なのだ。


 


 「……ごめんね、陽菜」


 ひとり台所で、誰にも聞こえないようにつぶやいた。


 


 数日後の金曜日。


 陽菜は、ついに空腹の限界を超えた。


 昼休みに立ち上がろうとした瞬間、目の前がぐにゃりとゆがみ、机に手をついたが、足元から力が抜けた。


 周囲のざわめきが遠のくなかで、彼女は誰かに名前を呼ばれた気がした。


 


 次に意識を取り戻したとき、保健室の天井がぼんやりと視界に入った。


 先生の顔がのぞきこんでいる。


 「中野さん、大丈夫? 救急車呼ぶほどじゃなかったけど、保護者には連絡したからね」


 「……お母さん、来るんですか」


 「うん。もうすぐ着くって」


 


 陽菜はそっと目を伏せた。


 母に知られてしまった。情けなさと、安堵が同時に押し寄せてきて、涙が出そうだった。


 


 30分後。


 保健室のカーテンが開く音がして、母の声が聞こえた。


 「陽菜!」


 柚希の声は心からの驚きと心配に満ちていて、思わず陽菜は布団を引き寄せた。


 「ごめんね……心配かけて」


 「大丈夫。何があったの? お昼、食べなかった?」


 陽菜は小さくうなずいた。


 「ちょっとだけ……お腹空いてただけ」


 「……陽菜」


 柚希の目に涙が溜まっていた。ふだん、弱音を見せない母の顔が、崩れかけていた。


 「今まで、なにも言わなかったけど。お弁当のこと……本当は、気にしてたんだよね」


 陽菜は、ぎゅっと拳を握った。


 「からかわれた……。お弁当箱とか、匂いとか、見た目とか……。あたし、恥ずかしくて……でも、ママに言えなかった」


 


 柚希は、陽菜の手をそっと握った。


 「言えなくてもいいのよ。でも、我慢はしないでね。あなたの居場所は、家なんだよ」


 


 その夜、ふたりは台所で一緒に座った。


 柚希は100円ショップで買ってきた、まっさらな白の弁当箱を差し出した。


 「このままでもいいけど……好きなシール、選んでいいわよ」


 陽菜は無言でうなずいた。


 選んだのは、夜空の星と、猫のシルエットのシールだった。


 


 「明日、これに詰めようか?」


 「うん。……もうちょっとだけ、がんばる」


 


 ふたりのあいだには、沈黙があった。


 だけどその沈黙は、互いを拒むものではなく、寄り添い、抱きしめるものだった。




 月曜日の朝、柚希はふだんよりゆっくりとした手つきで卵焼きを巻いていた。


 先週の金曜、陽菜が倒れた日から、あっという間に週末が過ぎた。


 土曜日は一日、家にこもった。買い物にも行かず、静かな時間が流れた。陽菜は漫画を読んだり、音楽を聴いたりしていたけれど、ふとした瞬間に目が合うと、柚希はすぐに目をそらした。


 あの日の保健室のことが、互いに胸の中でくすぶっていた。けれど、日曜日の午後、ふたりはようやく小さな一歩を踏み出した。


 


 「お散歩……行こうか」


 そう言ったのは陽菜だった。


 


 近くの市民公園まで、ふたりは弁当を持って歩いた。柚希が作ったのは、卵焼きとおにぎりだけ。ウインナーはなかったけど、ゆでたブロッコリーに少しだけマヨネーズを添えた。


 公園の木陰に敷いたレジャーシートの上、陽菜は静かに弁当の蓋を開けた。


 


 「ねえ、ママってさ」


 「うん?」


 「昔からお弁当、作るの好きだった?」


 柚希は少しだけ驚いたような顔をして、空を仰いだ。


 


 「うーん……好き、だったかなぁ。たぶん……そうでもないかも」


 「えっ?」


 「ほら、陽菜が小さい頃はさ、あんまり凝ったの作れなかったでしょ? 離乳食も、おにぎりに塩ふるのも、けっこう手抜きでさ」


 「うん。でも、おいしかったよ」


 


 柚希は目を細めた。


 「でもね。あの頃、弁当をつくる時間だけが、ちょっとだけ“戦ってる感”あったの」


 「戦ってる?」


 「うん。なんかさ、社会とか、生活とか、自分のだらしなさとか……いろんなもんと。あたし、ひとつも勝ててなかったけど、陽菜のためのごはんだけは、いつも“負けたくない”って思ってた」


 


 陽菜は、ちょっと黙った。


 


 「……そっか」


 


 風がふわっと吹いて、桜の花びらがふたりのあいだに舞った。


 陽菜はふと、自分の弁当箱を開けた。新しく買った白いプラスチックの弁当箱。貼ったシールは、星と猫と、ひとつだけ小さな灯台のマーク。母が「これ、ちょっとレトロでいいね」と言っていたやつだ。


 


 「明日、これ持っていく」


 「……ほんとに?」


 「うん。別に、自分の家の味を恥ずかしがってたわけじゃない。たぶん、怖かっただけ。自分だけが違うって思われるのが、すごく……」


 柚希は陽菜の言葉をさえぎらなかった。ただ、黙ってうなずいた。


 


 「でも、自分のこと、ちゃんと好きでいられるようになりたいなって思った。まだちょっと時間かかるけど」


 そう言って、陽菜はおにぎりを一口かじった。




 そして翌朝、陽菜は白い弁当箱をリュックに入れて、玄関を出た。


 


 その日、昼休み。


 陽菜は、教室のすみにある空き教室を借りて、ひとりで弁当を食べた。


 誰にも気を遣わず、笑われることも、見られることもなく、ただ静かに弁当を食べるだけの時間。それは、孤独ではあったが、不思議と温かかった。


 卵焼きの端っこがちょっと焦げていて、でもそれがうれしかった。ブロッコリーのマヨネーズが少しはみ出ていたけど、それもまた、ちゃんと“うちの味”だった。


 


 その週、陽菜は毎日、弁当を持っていった。


 誰かに話しかけられることはほとんどなかったけれど、徐々に“孤立”が“選択”に変わっていくのを、彼女自身が実感していた。


 いつか笑って誰かと食べられる日が来たら、そのときはこの弁当を“自分の誇り”として見せられるようになるかもしれない。


 


 日曜の午後、柚希はふと、キッチンで陽菜が紙を切っているのを見つけた。


 「なにしてるの?」


 「……メモ帳」


 「へえ、手作り?」


 「うん。あのね……」


 陽菜は少し恥ずかしそうに言った。


 


 「いつか、自分でお弁当つくれるようになったらさ」


 「うん」


 「誰かに食べてもらえるように、“お弁当のしおり”とかつくってみたい」


 


 柚希は言葉に詰まって、ただうなずいた。


 


 「『きょうのおかずは、疲れた日にやさしい味』とか、『おにぎりの塩加減、ちょっと大人っぽい』とか」


 


 そう言って笑った娘の笑顔に、柚希は心の底から泣きたくなった。


 この子は、ちゃんと育っている。


 ちゃんと、自分の言葉で未来を語っている。


 


 それだけで十分だった。


 


つづく

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