ひかりの方へ

はるか かなた

第1章 ランドセルを置いて

 夜のバスターミナルは、冷たいコンクリートの床を、蛍光灯の白い光がぼんやり照らしていた。午前3時、終電も途絶え、どこかの駅のアナウンスがかすかに遠くから聞こえる。人影はまばらで、コンビニすらシャッターを下ろしているような時間。そんな時間に、柚希は娘の手を引いていた。


 「寒くない?」


 小さな肩にかけられた安物のダウンコートは、娘の体には少しだけ大きかった。陽菜は首を振ったが、その手のひらは少し震えていた。ランドセルの代わりに背負ったリュックには、着替えと文房具がいくつかと、母がこっそり忍ばせた家族写真が一枚。


 「行こうか」


 母の声は、何かを振り切るように低くて、少しだけ掠れていた。


 


 ふたりが家を出たのは、その夜の9時過ぎだった。父親が仕事で外出している隙を見計らってのこと。冷蔵庫の中身を見て、傷みそうな食材は捨て、部屋の戸締まりだけはきちんと確認した。陽菜が「なんでこんなに急ぐの?」と聞いたとき、柚希はただ「大丈夫。ちゃんと理由があるから」とだけ答えた。


 タクシーを拾って駅まで。逃げるように乗り込んだ高速バスは、数少ない空席に並んで腰を下ろすふたりを、誰も気にも留めなかった。


 


 行き先は、地図でなんとなく選んだ「長野県の小さな町」だった。


 昔、一度だけ旅行で訪れたことがある。そのとき泊まった宿の女将が親切で、ふと思い出したのだ。市役所に生活相談窓口があり、住居支援が受けられるとネットに書いてあったことも決め手だった。


 陽菜は一言も文句を言わなかった。だけど、夜の車窓を見つめながら、時々ふっと顔をしかめては、座席の肘掛けを握りしめる仕草をしていた。


 


 朝6時、長野駅に着いたとき、吐く息は白く、空はまだ藍色だった。駅前のベンチに腰を下ろし、カイロを取り出して陽菜の手に握らせる。


 「学校……どうするの?」


 陽菜の声はかすれていたが、心の奥に潜む不安が透けて見える。


 「大丈夫。ちゃんと転校の手続きするから。しばらくは少し待ってて」


 柚希の言葉に、陽菜はうなずいた。だけど、その目はまだ何かを言いたそうにしていた。


 ランドセルも、学校の靴箱も、教室の席も、全部そのままにしてきた。友達にも言えなかった。「また明日ね」と言ったその明日は、もう来ない。


 


 ふたりは市役所の窓口を訪ね、生活保護申請と一時的な住居支援を頼んだ。事情を説明すると、係員は慣れたように淡々と対応してくれた。紹介されたのは、駅から歩いて30分ほどの古い木造アパートだった。家賃は月3万5千円、水回りはギリギリの状態。だけど雨風はしのげるし、鍵もちゃんと閉まる。


 


 「ここ、少しカビ臭い……」


 玄関を開けたとたん、陽菜がぽつりとつぶやいた。


 「ごめんね。でも、今日からここが私たちの家だよ」


 柚希は笑って見せたが、心の中には重い不安がのしかかっていた。仕事は見つかるだろうか。生活は回るだろうか。何より、娘をちゃんと守れるだろうか――。


 


 その夜、冷えきった畳の上で、布団代わりに二人でくるまった毛布。天井からは古びた照明がカチカチと点滅し、外では風が笹の葉を鳴らしていた。


 「お母さん」


 「うん?」


 「この前、家に来た先生……ほんとは怖かった。言えなかったけど」


 「……そっか」


 「でもね、お母さんが『行くよ』って言ったとき、ちょっとだけ安心したんだよ」


 柚希は何も言わずに陽菜の頭を撫でた。


 「ありがとう。陽菜」


 毛布の中、ふたりの肩が静かにふるえていた。


 


 逃げた先に、明るい未来が待っている保証なんてない。けれど、逃げなければ確実に壊れてしまう恐怖があった。娘の心も、自分の心も。だから柚希は、選んだ。あの日、ランドセルを置いて、すべてを後ろに残して――。


 


 始まりは、静かな冬の朝だった。


 翌朝、柚希は陽菜が眠っている間に、近所のスーパーの求人広告を見に出かけた。冷たい空気のなか、アパートの前の坂道を歩きながら、すれ違う高校生たちの制服姿がやけにまぶしく見えた。


 スーパーの裏口から入って、面接希望を伝える。慣れた口調の店長が出てきて、言った。


 「週5で朝から夕方まで? 本当に大丈夫?」


 「はい。できれば、すぐにでも」


 履歴書を見せると、店長は少し眉をひそめた。前職の欄に空白がある。その空白にどれだけの年月があったか、柚希には痛いほどわかっていた。


 「じゃあ、仮採用で。とりあえずレジからね。研修は三日」


 「ありがとうございます」


 頭を下げたまま、柚希は思った。感謝の気持ちと、恐怖の入り混じったような心臓の動きが、喉の奥まで響いてくる。


 


 一方その頃、陽菜はアパートの窓辺に座っていた。母が用意してくれたパンを一口ずつかじりながら、学校のことを考えていた。


 転校。今度はどんなクラスだろう。友達はできるだろうか。いじめられたりしないだろうか。前の学校のように、「貧乏くさい」なんて言われたらどうしよう――。


 そう思ったとたん、胸がぎゅっと縮む。お腹がいっぱいでもないのに、パンの味がしなくなる。陽菜は、ランドセルの代わりに新しく買ってもらった中古のリュックを見つめていた。


 


 翌日、柚希は陽菜を連れて市役所の教育委員会を訪れ、転入手続きを済ませた。転校先は、徒歩で15分ほどのところにある市立小学校。特別な支援は受けられないが、教材や体操服は中古で融通してもらえることになった。


 


 転校初日。校門の前で足を止めた陽菜に、柚希はしゃがんで目線を合わせた。


 「ねえ陽菜。今日一日、笑えなくてもいいから、ちゃんと自分のこと、守るんだよ」


 陽菜は、少し首をかしげて、目を細めた。


 「お母さんも、がんばるんでしょ?」


 「……うん」


 「じゃあ、あたしも」


 それだけ言って、陽菜は洋服の袖を握りしめながら、校門をくぐった。


 


 教室の空気は、思ったよりも重くなかった。自己紹介を済ませた陽菜に、何人かの女子が「よろしくね」と声をかけてくれた。でも、表情の奥に少しだけ観察の目が光っていることに気づいた。何を着ているか、どう話すか、何に興味があるか。陽菜はそれを感じ取るのが早い子だった。


 給食の時間が来て、陽菜は自分の席で静かに箸を動かしていた。隣の席の子が「それ、どこのブランド?」とリュックを指さして聞いた。陽菜は、答えられなかった。それはリサイクルショップで500円で買ったものだった。


 


 一方、柚希は初日のパート勤務をなんとか終えて、レジの操作と笑顔の練習をこなした。だけど帰り道、ふらつく足取りに気づいた。数年間、家に閉じこもるように暮らしていた身体には、8時間立ちっぱなしの仕事はこたえた。


 アパートに戻ると、陽菜がちゃぶ台にノートを広げていた。机代わりの段ボールには、絵の具の跡が残っている。誰かが昔ここで、絵でも描いていたのだろうか。


 「どうだった?」


 「うん、まあまあ。隣の席の子が話しかけてきたよ。でも、ちょっとだけ怖かった」


 「えらいね。話せてよかった」


 陽菜はうつむいたまま、鉛筆を持ち直した。


 「……今日、給食のとき、牛乳飲めなかった」


 「どうして?」


 「なんか、むかしのこと思い出して……ごくって飲んだら、お父さんの声が頭に浮かんじゃって。変だよね」


 「変じゃないよ」


 柚希は、そっと娘の手を取った。


 「時間がかかってもいい。ちゃんと忘れられなくてもいい。ただ、今ここにいることが大事なんだよ」


 陽菜は何も言わずに、しばらく手を握っていた。


 


 その夜、母が風呂の残り湯で洗濯をする音を聞きながら、陽菜は布団の中でひとつだけ祈った。


 「今度は、壊れませんように」


 


 けれど、世界はまだ、ふたりに優しいとは限らなかった。次の日曜日、柚希はスーパーで起こる「ある出来事」によって、再び仕事を失うことになる。


 ――それは、陽菜の「泣きたくても泣けない日々」の始まりでもあった。




 日曜の昼、スーパーは混雑していた。


 セールの時間帯、レジには客が列をなし、店内はまるで戦場のようだった。柚希は黙々とバーコードを通し、笑顔を絶やさず対応を続けていた。けれど、身体は正直だった。前日の疲れが抜けず、足はがくがくと震え、頭がぼんやりしていた。 


 「おい、これ、間違ってんじゃないの?」


 客の怒声が飛んだ。中年の男性が、チラシを突き出している。


 「この刺身、3パック買ったら2割引って書いてあるだろ? レジ打ち直せ!」


 柚希は慌てて確認したが、その割引は前日のもので、当日はすでに終了していた。申し訳なさそうにそう説明すると、男の顔がみるみるうちに赤くなった。


 「は? 昨日のチラシなんて知らねえよ! どうせてめえの打ち間違いだろ!」


 後ろに並ぶ客たちの視線が、一斉に柚希に注がれた。レジの列が滞り、店内の空気が一瞬で冷たくなる。


 「申し訳ありません……ですが、本日は割引の対象外で……」


 「バカにしてんのか? こんなパートがレジにいるから、店が回らねえんだよ」


 柚希の耳に「バカ」や「パート」といった言葉が突き刺さる。何年も、そう呼ばれてきた。夫にも、社会にも。


 


 そのとき、背後から若い男性社員が駆け寄ってきた。


 「すみません、お客様。こちらで対応いたしますので」


 彼はにこやかに客を誘導してレジを移し替えた。その間、柚希はレジを止めたまま、呆然と立ち尽くしていた。


 


 その日の勤務終了後、休憩室に呼び出された。


 「今日は……ちょっとまずかったですね」


 若い社員は、プリントアウトされた苦情の紙を机に置いた。


 「これ、クレームとして本社にも報告いくんですよ。うち、SNSでもすぐ炎上するんで」


 柚希は、唇をかみしめてうなずいた。


 「今後のために、今回は研修を一旦白紙に戻すってことで。落ち着いたら、また……」


 「……わかりました」


 礼を言って頭を下げたとき、視界がゆらいだ。帰り道、歩きながら足元が何度もぐらついた。体の力が抜け、道端にしゃがみ込みたくなる。けれど、陽菜が待っていると思った瞬間、その思いはぐっと胸に押し込んだ。


 


 アパートに帰ると、陽菜が洗濯物を取り込んでいた。


 「おかえり」


 その声の明るさが、かえって胸に痛かった。


 「ただいま」


 柚希は、なるべく平気なふりをして笑った。だけど、その夜、布団に入ってから、陽菜は気づいていた。母の寝息が、ずっと途切れがちだったことに。


 


 午前3時、柚希は目を覚ました。目頭が熱く、枕に頬を押し当てたまま、声を殺して泣いた。


 「……なんで、うまくいかないんだろう」


 その呟きは、小さな子どもが暗闇に問う声のようにかすれていた。


 「どうして、こんなにがんばってるのに、報われないんだろう……」


 


 しばらくして、布団の中から、陽菜の小さな声が返ってきた。


 「がんばってるの、あたし知ってるよ」


 柚希は驚いて振り返った。陽菜は起きていた。目は真っ赤だったけれど、泣いてはいなかった。


 「ママが、あたしのために頑張ってるの、ちゃんと見て知ってるよ。だからさ、そんなに自分のこと責めないで」


 柚希は、娘の言葉に喉が詰まって何も言えなかった。ただ、毛布を手繰り寄せ、陽菜の肩を抱いた。


 「ごめんね……こんなお母さんで」


 「ううん、わたし、この家が好きだよ。ボロいけど、ここで一緒にご飯食べて、一緒に寝るのが、一番安心する」


 「……陽菜……」


 柚希はその名を何度もつぶやいた。娘の温もりが、心の奥のひび割れを、ゆっくりゆっくり埋めていった。


 


 ふたりは小さな部屋で、肩を寄せ合って夜を越えた。


 泣いてもいい。折れてもいい。壊れそうな夜を、壊れないで一緒に越えていけばいい――。


 


 翌朝、柚希は台所で、久しぶりに卵焼きを焼いた。砂糖の入っていない、だしだけのシンプルな卵焼き。


 「今日から、また探すよ。仕事。いくらでもあるもんね」


 「うん。あたしも手伝えるよ」


 「ほんと?」


 「新聞配達とか、チラシ配りとか……やってみる」


 「……頼もしくなったね」


 朝の光が、安アパートのすきま風さえ、少しだけあたたかく感じさせた。


 こうして、母と娘の“新しい日々”は、またひとつ階段をのぼった。


 


 つづく。





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