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 受けた恩は返されなければならない。私はそういうふうに思うことが、時々に無意味だと感じる。善意は循環し、だれもが与えることもあれば与えられることもある。最も悲しいことは、他者からの善意を疑い、それをなんらかの計略だと決めつけてしまう弱い心を是とする生き方だ。


 たとえ、目の前の善意が恩を着せる目的だとしても、最初から疑って見る姿勢は愛を無視して生きるに等しい。そして、この淡い希望を捨て切れず、また無残に放られる悲しさを私はどこかで期待していた。


「私は過去に何度も人を傷付けた。しかし、一つ一つ勘定はしていない。善悪はその場限りなのだ」


「そうでしょうか。ぼくにはイノウエさんが過去に苦しめられているように見えます」


 姿勢を正し、テーブルに用意してあった銀色のフォークを左手に取る。その動きで、ベージュカラーの下着に支えられている胸部が活発に揺らぐ。はばかることなく凝視していると、とっさに空いていた右手で谷間が隠されてしまった。


「もうっ!! 今はぼくの話に集中してほしいところです。聞かせてください。あなたのことを」


 木村は唇を突き出して、頬を膨らませた、年相応の表情を向けてくる。これだけの近い距離で見るなというのは無理な話で、ちらちらと小出しに視線を向けるのは性分ではない。見事な整った形をしているのだから、見れる時に見ておかないと悔いが残る。


 ともあれ、私は自分の事に興味はなかった。実存を問い掛ける哲学が非実用的であると同じく、だれがどこに居ようとも、それは他者にとって問題ではない。それが自分自身の価値の限界だった。


 私が初めて体を交えて通じた女性が今もどこかで暮らしていても、あるいは命を落としていても、それを知る手掛かりはなく、知ったところでどうにもならない。


「知ってどうする? 私がそれを今も忘れていない、これからも忘れずに留めていると言い切れるか」


 その疑問の後に連なる理解しがたい言い回しは、彼女に対して述べられていないような響きを伴った。主観でしか操作できない、過去の記憶は思い出そうとしない限り、薄れて実感を失っていく。


 木村は浮わついた格好に似合わない目付きをしていた。日頃の雑談では決してあり得ない種類の眼光から油断のなさが見て取れて、緊張に包まれていくおのれを実感した。


「鮮烈な体験は老いても頭に残ります。現に、今のあなたを見ていると、忘れるなんて微塵も感じさせない、自責の念が伝わってくるようです」


 他者が見た自分を、久し振りに耳にした。悪口なら多分にあれども、このところ職場や日常では、仕事や私生活以外の入り込んだ角度から私を評価する他者は居なかった。それに、木村の言葉には真摯さと共に鋭利な切れ味があった。


 彼女の資質に免じて、私は重い口をこじ開ける覚悟をした。




 かくして、味わってきた体験をかいつまんで話した。女性に関してはそのすべてが失敗で閉ざされたことも明かした。個人的に有益だと思えるものは家庭内の私の立場だろう。


 末子はいじられ、かわいがられる。これは事実だったが、受けた教育の意欲は高くなかった。長子ならば期待を一身に受け、親の求める理想の犠牲者となるかもしれない。末子にしてみれば、特に何も背負わされず自由だった。


 実家に居た時から漠然と、いつか一人暮らしをするつもりだった。親から評価をされてこなかった私が、一人前になるための手段は他になかった。二十才の時、わずかな金額を元手に家を出てみたが、実感は薄い。


「自己肯定感の多寡は生育環境が決めるのでしょうか」


 その言葉は、否定的な人間をとがめている響きを含んだ。女に捨てられ最低限の暮らしで埋もれた者に妥当な問いだとしても聞き流さなかった。


「できないことを親に責められる場面ならいくつもあった。その結果、何もできない人間なのだと認めた。今でさえ、自分に何ができるのか判然としない」


 テーブルの上を整理した木村は、依然として上半身を下着のみで露出した状態にあり、後ろに両手を着いて脚を伸ばしている。一方、私はテーブルを挟んだ彼女の向かい側で横になり、後頭部の辺りで腕を組んで、古くさい天井を仰いでいた。


「……本当に、そう思いますか?」


「愚問だ。自分のことは自分が一番、判っている」


 私は無価値な人間だ。だれの目から見ても明らかだ。この否定を否定できる者が居たのなら、今度は価値を認めてやってもいい。どれだけ言い張っても、相対的な基準が主張で揺らぐことはない。


「いいえ、イノウエさん。あなたは何一つ判っていません」


 否定表現を単体で使わないはずの人物が、これほどはっきりと噛み付いてきた事が、どれほどの衝撃を伴ったか、この心の揺らぎが示した。木村は初めて、私の言ったことを全面的に受け入れなかった。


 木村は背筋を伸ばし、プラスチックのテーブルを軽々と横に退け、手を着いて身を動かした。寝転がる男の真正面に向かい、正座の姿勢を取った。それを見て、私はおずおずと上半身を起こし、片膝を立てて、その上に右肘を乗せた。


「イノウエさんはぼくに優しくしてくれる。始め、それは内罰的な動機から来る行いだと思っていましたが、“これで”はっきりしました」


 自分を罰したいがために、だれかに尽くそうと思えるほど私は高尚な男ではない。木村にはさぞ美化されて見えていたのだろう。鼻で笑い、壁の方へ顔を逸らした。一瞬の隙が生じ、まったく予想もしていなかった。


 木村は私の痩身に近付き、二の腕や胸部をじわりと触れさせ、体を押し付けてきた。そのなまめかしい肌触りに生理的な反射が働き、脚の付け根辺りが膨らんでいくのを感じた。空いている方の手でそれを隠す。


「あなたは、自分を認めてくれる存在を求めていたのでしょう」


 耳元で吐息の混じったささやきが聞こえた。それは心地良くて、保ち続けていたくなる感覚を呼び起こしたが、止めどない記憶の流れに頭を支配され、彼女の両肩を押し返していた。


 膝を横に折り曲げ、両手で体を支えて座る木村の、黒目の輪郭は一際はっきりとしていた。


「これ以上私に触れないでくれ」


 相手はこちらを見つめているだけだった。すべてが崩れ去る、忌まわしいあの情景が再現された。何かが手放される時に決まって見えてしまう、荒れ果てた心象風景だ。構築した人間関係は必ずそこへ行き着く。


 木村は何分何秒かそこに留まっていた。やがて、衣服を着るような物音が聞こえてきて、人の立ち上がるような動きが視野に映ってきて、部屋からその姿が消えた後に玄関の方で戸が閉められた、かすかな音で我に返った。


 相変わらず、私は嫌な人間だ。




 翌日以降、夕刻にカラオケボックスへ行けば、木村に会うことはできた。だが、その帰りに雑談することはなくなった。元の状態に戻った落ち着きが、帰り道の足取りを静かに進めた。何かが抜け落ちた気持ちで家に着く。


 夜は、木村が訪ねて来なくなった。あの出来事からそれでもまだ現れるようならば、人間性を疑う。いかに屈託のない彼女が、この私を買い被っていたとしても、あのような乱暴を受けて無傷なわけがない。もう二度とここに来るわけがない。しかし、毎晩、食事は二人分を用意してしまっていたのだった。


 何度、経験しても心は痛んだ。気の置ける、友達も恋人も別れてしまえばもう会うことはない。思い返せば納得できるようになるが、時間の力を借りずに受け入れられるほど強固な精神は持っていなかった。寝る時には枕をぬらすようになった。


 それでも朝が訪れると、仕事に出掛ける。


 よくあるコンビニエンスストアで働いている。アルバイトの立場ではありながら勤続年数が積もったために、時間帯の責任者を任されるようになっていた。時給は他の人より多少高いが、業務の理解度ほどの大きな差はない。

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