4.
景がコーヒーを淹れてくれた。
「ちょっといいやつを買ってみたんだ」
「うまい」
酸味の強いコーヒーだったが、その酸味が豊かな香りと奥行きを纏っていた。鼻腔にそっと優しく広がる味だった。
「景は何時に出るんだっけ」
「二時かな、あと四十分。十四時ニ十分の電車に乗るから」
「了解。おれも景と一緒に駅までいくよ」
景は滋賀県で開催される植物学会に行くらしい。修士二年である景はポスター発表というものをするらしく、昨日までその準備で大変忙しかったという。せっかくの休日に何の予定もなかった私は、景の多忙さを知らずにのこのこと家にやってきてしまった。景は嫌な顔ひとつせず家に上げてくれた。玄関の扉を閉めてから「ちょっと荷造り手伝ってくれる」と、景は言った。そういうことかい。三十分前の出来事である。
「ありがとね、手伝ってくれて」
「はいよ。うまいコーヒーが飲めたからお釣りだよ」
「どうもどうも、それはよかった」
景が冷蔵庫からプラカップに入ったシノブゴケを持ってきた。繊細に葉先が分かれた綺麗なコケだ。私はクリスマスツリーを思い浮かべた。
「何で冷蔵庫にコケが入っているの。先週お邪魔したときにも思ったけれど」
「コケってこうしておくと休眠状態になって、保存しておけるの」
「へぇ、そうなんだ」
「それで、こうやって破砕して撒くと、またむくむく成長する」
景はシノブゴケを一株取って、それを手で細かくちぎり、透明なガラス容器に入った土の上に撒いていった。
「おもしろいね、コケって」
「おもしろいよぉ、ほんとうに」
景の変わらない澄んだ瞳が、きらりと光った。高校生のころから、いやもっと前、生まれたその瞬間から変わらない瞳の輝き。
「研究室で研究するようになってから、ますますおもしろくなっちゃって、もうぞっこんだね」
「いいね。ただ見ているだけでも鮮やかな緑で癒されるし」
「そうなの。実験対象として向き合っていても、この緑で落ち着くんだ」
景は霧吹きで土にまんべんなく水をかけて、ガラス容器を窓の脇に置いた。
「わたしが学会から帰ってきたら、少し成長しているかな」
愛おしくてたまらないといった風にガラス容器を撫でて、にっこりと笑った。
最寄り駅までの道を歩く。足取り軽やかな景が先を行く。荷物を詰めたボストンバッグの重さに負けて、代わりばんこ、ついさっき景から交代した私はゆっくりとしか歩けなかった。景が背中に背負ったギグバッグには、レスポール・スペシャルではなくポスター発表のためのポスターが入っている。ちょうどよい入れ物がなかったので、扱い慣れたバッグで保護しながら持っていくことにしたらしい。細長く丸めたポスターを入れるにはどう考えても大袈裟なのだが、ギグバッグは景の背中に本当によく馴染んでいた。ポニーテールに結んだ後ろ髪が、本来はギターのネックを保護する上に突き出た部分に当たりながら、嬉しそうに揺れていた。ポニーテールが左右に揺れるときと上下に弾むときがあるのは、何の違いによってなのか、揺れる景の髪を見つめながら、私はしばらく考えていた。
景の姿が、ぼんやりと視界で動き続ける。
景はこのままずんずんと進んでいくのだろう。どこまでも、迷うことなく、信じた道を進んでいくのだろう。瞳の輝きに加えて、今の景には踏みしめる一歩に大人の力強さがある。
「そういえば、わたしたちの曲、聴いてくれたの」
景が振り返らずに聞いてきた。私は懸命に身体を動かして、景の横に並んだ。
「まだ、聴いてないや」
「そっか。大抵のサブスクで聴けるようになっているから、聴いてみてよ。カワラヒワ」
景のバンドは非常にマイペースな活動をしているが、つい先日、初めての音源を配信リリースしていた。
「景を見送ったら、聴いておくよ」
「うん、ぜひそうして」
「わかった」
景の足取りは軽やかだ。でも、決して間違えない確かさも備えている。
「学会の発表って緊張したりしないの」
「少しはするけれど、もう三回目だし。それに植物を研究している人たちはおおらかな人が多いから」
「そういうものか」
「うん。……ああそうそう、お土産は何がいい」
「うーん。おまかせで。おれが喜ぶやつ」
角を曲がると、駅が口を開けている。
「はいよ。めんどうくさい注文だ、……じゃ、ここで。かばん、ありがとう。また来週ね」
「はいよ。……気をつけてね。発表、がんばって」
「ありがとう。それじゃ、またね」
「またね」
景の後ろ姿が改札の奥に消えてから、私はポケットからイヤホンを取り出した。景のバンド名を音楽アプリで検索すると、なるほど、ちゃんとヒットした。手書きの小鳥がジャケット画像の『カワラヒワ』。
聴きなれたアルペジオから曲は始まる。
私はふらふらと駅前のアーケード街へと歩いていった。
電車の音が遠ざかっていった。おそらく景が乗っている電車であろう。
夏は盛りを過ぎて、暑さの中にも涼し気な風が混じるようになってきていた。残暑の季節は、私を寂しい気持ちにさせる。
でもたぶん、季節のせいだけで、こんなに寂しくなっているのではない。
曲のせいか、景が行ってしまったからか、それとも。
二番のサビが終わる。アルペジオをやめてコードを鳴らすようになっても、ギターはクリーンな音を保ったまま。もうすぐ、曲が、終わる。
オーバードライブエフェクターが踏まれた。景のレスポール・スペシャルが歪んだ。
まだ曲は終わらなかった。私の知らない、続きがあった。
ドラムが一層激しくなった。ベースの低音が身体を揺らした。ギターが頭上の世界を一気に広げた。歌声が、力強く、優しく、私を包んだ。
私はここに、ちゃんといるのだ。
『カワラヒワ』
少年の停めた自転車が 木漏れ日の中で小首を傾げて
少年はひとりで森を下る ハンドルの温もりが空気に解けていく
ころころ鳴くカワラヒワの羽音に 視線を上げる
少女の覗く虫眼鏡が 落ち葉の秘密と神秘を探す
少女はひとりで森を下る オレンジの街行く人に紛れる
ころころ鳴くカワラヒワの羽音に 視線を上げる
落し物は赤子の眼差し 少年少女の瞳の輝き
拾いに戻る足音の溜まる スクールゾーンはずっとそこに
少年の停めた自転車が ガレージの中でほこりを被って
少年はひとりで森を下る オレンジの街行く人に紛れる
ころころ鳴くカワラヒワの羽音が 空に残る
少女の覗く虫眼鏡が 世界の秘密と神秘を探す
少女はひとりで森を下る ハンドルを握る手に力を込める
ころころ鳴くカワラヒワの羽音が 空に……
わたしの好きな言葉と あなたが喜ぶ言葉はこんなに違うから
拾いに戻る足音の溜まる スクールゾーンはずっとそこに
探して、感じて、見つめて、思って
無くして、見つけて、触って、忘れないでいて
カワラヒワ きくち @sonidori58
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