3.

 景が高校近くのライブハウスでライブをするというので、私は勇んで観に行った。初めてのライブハウスはとても入りづらく、三回ほど通行人を装って、地下の入口に繋がる階段前を行き来してしまった。受付のお兄さんはとても髭が長くて、ガタイが良くて怖かったが、恐る恐る近づくと案外気さくに案内をしてくれた。防音扉の先は不思議な空間だった。やや歪な形をしたフロアや上部の剥き出しの配管が、ここが地下であることを意識させたが、圧迫感があるわけではなくて、そう時間をかけずに身体の置き場所を見つけることができた。今回は高校の部活動発のバンドが数バンド出演するライブで、出演者の友達や家族らしき人たちでそれなりに賑わっていた。景のバンドは一バンド目だった。トッパーと言うらしい。

 フロア内に流れる音楽の色調が変わって、景たちのバンドがステージ上に姿を現した。特段、私は音楽に詳しいわけではないが、景がよく楽器のことを教えてくれたので、リードギターはサイコマスター、ベースはジャズベースを使っていることがわかった。ドラムはスティックを四本用意していた。景はいつもの見慣れたレスポール・スペシャルだった。

「お願いします」

 景の澄んだ声が合図となって、ライブが始まった。

 轟音だった。音が振動であると、身体で感じる演奏だった。私はひらすら呆気にとられていた。正確かつ情緒豊かなドラム。うねるベース。メリハリの効いた、そして空間の広がりを感じさせるギター。そこに乗っかるのは、柔らかいのに芯のある景の歌声。確かな言葉に、鮮烈な音に、私の口角は自然と上がっていた。

「次で、最後の曲になります」

 気づくと景はそう宣言していて、そうして聴き馴染みのあるアルペジオを弾き始めた。




  少年の停めた自転車が 木漏れ日の中で小首を傾げて

  少年はひとりで森を下る ハンドルの温もりが空気に解けていく


  ころころ鳴くカワラヒワの羽音に 視線を上げる


  少女の覗く虫眼鏡が 落ち葉の秘密と神秘を探す

  少女はひとりで森を下る オレンジの街行く人に紛れる


  ころころ鳴くカワラヒワの羽音に 視線を上げる


  落し物は赤子の眼差し 少年少女の瞳の輝き

  拾いに戻る足音の溜まる スクールゾーンはずっとそこに



  少年の停めた自転車が ガレージの中でほこりを被って

  少年はひとりで森を下る オレンジの街行く人に紛れる


  ころころ鳴くカワラヒワの羽音が 空に残る


  少女の覗く虫眼鏡が 世界の秘密と神秘を探す

  少女はひとりで森を下る ハンドルを握る手に力を込める


  ころころ鳴くカワラヒワの羽音が 空に……


  わたしの好きな言葉と あなたが喜ぶ言葉はこんなに違うから

  拾いに戻る足音の溜まる スクールゾーンはずっとそこに




 その日の夜、景と私は裏山に登って月を見た。ほっそりとした品のある三日月だった。

 景は珍しく沈んでいた。

「認められなくちゃ、生きていけないんだよ」

 景はぽつりと言った。

「社会で生きていくには、認められて、お金を稼がなくちゃいけないんだ」

「それはそうかもしれないけれど、……まだ、高校生なんだし」

「そういう事じゃないんだ。かつてはみんな見るもの全てに目を輝かせて、受け止めて、大切に自分の中にしまって、ひとつずつ、ひとつずつ、歩いていたのに。そういう子どもだった人間が作った社会は、そういう営みを否定するんだ」

「……まあ、そうだね」

 景がその美しい両の目で受け止めていく日常は、たぶん私のものよりもずっと鮮明で、繊細で、広大なんだと思う。その景から生み出される音楽も、私にとっては眩しすぎるほどに鮮烈で、大切なものなのに、それらがそのままの形で社会に受け入れられるものではないことも、私には何となくわかってしまった。

「でも、探究的な景の在り方は、世界からたくさんの恵みを得て、幸せになるための営みだということは間違いないよ。絶対に、幸せになる生き方だと思う」

 景が気づかせてくれた、日常に転がる小さな機微を優しく拾い上げて、自分の中にしまって、決して忘れない在り方。生まれたばかりの私たちに、最初から備わっていた能力。成長するにしたがって、忘れてしまうのは仕方のないことだったのだと思う。成長とは新たな能力を獲得することではなくて、いらないものを切り捨てていくことだから。莫大なエネルギーを要するこの力は、たぶん身体の成熟に付随した認知能力の拡大によって、制御しなければ身を滅ぼしかねない在り方なんだと思う。言葉を用いて境界を引いて、ルールを作って整理して、見ないものと見るものを選択して、均整の取れた世界を大人は生きていくのだ。でも、景はずっと忘れなかった。私も、それを思い出すことができた。大きなコストと時間のかかる、わかりやすい成果の得難い、探究という在り方。私はそれが悪いものだとは思えない。むしろその価値に気づけた私は幸せで、気づいたからには手離すべきでは決してないのだ。

「社会に出たとしたって、きっと景なら通用するよ。うまくやっていけるよ」

 景が何かを口ごもった。

 無責任なように聞こえたかもしれない。でも、私自身の覚悟でもあるのだ。

 二歳年上の私が一足先に、景みたいな生き方で生き抜いてみせる。私にできたのならば、間違いなく景にもできるはずだから。

「結局みんな生きていけるんだから。それに、景なら社会を変えてしまうくらいのことだってできるよ」

 景は相変わらず沈んでいた。暗い表情は変わらなかった。

「そんな大した人間じゃないんだ。きっと、社会に出たら押し潰されてしまうんだ」

「そんなことはないって」

「でも、だって、おかしいじゃんか。何で探究と社会が相容れないようなことになっているんだ。ひとりひとりの人間で社会は構成されているはずなのに、何で、こんなことになっているんだよ」

 そうして景は家に向かって裏山を下り始めた。

「今日は帰ろう。まあ取り敢えず、残された時間で考えていく」

 私はすぐに歩き出すことができなかった。

 木々のざわめきに、鈴虫の音色が混ざっていた。眼下に広がる田んぼからは、カエルたちの合唱が立ち上っていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る