2.

 私はその日、何を忘れていたのかに気づいたのだった。

 通学路に、高校三年生になった私は心底うんざりしていた。家から歩いて三十分の最寄り駅から、三駅隣の町にある進学校。景と私は二人ともそこへ進学していた。電車は座っていれば勝手に目的地へと身体を運んでくれるからまだいい。問題は家と最寄り駅の間、二キロに及ぶ田んぼに囲まれた田舎道である。コンクリートの割れ目はいつも同じ場所にあるし、頭が垂れ下がった雑草が道を覆っているところもあった。暑い日にはミミズが赤黒くなって死んでいた。逆さまになって手足をじたばたさせている甲虫は、見つけ次第ひっくり返してやっていたのに、次に通るときには大抵お腹を見せて死んでいた。寒い日には命の匂いすらしなかった。いつからか、通学路は死の匂いばかりする道になっていた。

 変化がなかった。私は知ったことしか起きないその道を、毎日のように歩いていた。隣には景がいた。

 私と景の学年は違うから、二人が会うのは高校の行き帰りだけになっていた。それも毎日のことではなかった。私は景と、どんなことを話せばいいのか少しわからなくなっていた。家を出る前と、放課後の集合場所である校門に向かうとき、私は頭を捻って話題を考えるのが癖になっていた。実際にはそれほど必要のない作業だった。景と顔を合わせれば馴染んだ空気感の再生ボタンが押されて、居心地の悪い日など一日もなかった。そんなことはわかっていたのに、景と話せることをあらかじめ用意できないと私は落ち着かなかった。

 変化がなかった。要するに、私自身にも変化がなかった。毎日顔を合わせるとなると、昨日と違うことがないと面白くない。私の存在それ自体がもっと魅力的であったのならば、絶対的な価値を有していたのならば話は違ったのかもしれないが、残念ながらそうではなかった。十八年間の蓄積でできた塊は、面白くないまま、用意された道をただ転がっていた。私の手を、ずっと何かがすり抜けていた。

「あ、あそこにカワラヒワがいる」

 景が指差した先、電線に小鳥が留まっていた。ふっくらとした黄色い身体、薄いピンクのくちばし、涼やかな鳴き声。この頃の景は、私とは対照的にいつでも瞳を輝かせていて、好奇心が内側からとめどなく溢れ出していた。背中にはレスポール・スペシャルの入ったギグバッグ、手には双眼鏡かルーペのどちらかが握られていた。少し前に景は言った。「自分の軸が音楽と生物の二つにはっきりしたんだ」

 景と私はしばらく立ち止まって、カワラヒワを観察していた。今日は双眼鏡の日だったから、景と私は代わりばんこにそれを使った。柔らかそうな羽毛の質感まで見ることができた。飛翔すると、綺麗な茶と黒と黄の羽が広がった。私は鳥を観るのが好きだったし、鳥を観察する景を見るのも好きだった。

 景は本当に澄んだ瞳をしている。いつも少しだけ潤んでいて、大きな黒目が忙しなく、けれど的確に動く。分け隔てなく全てを映している、というよりも、その瞳の輝きに全てが集まってきているようだった。以前、言葉が世界を分節化しているという文章を現代文の授業で読んだ。言葉によってそれとそれ以外の境界が生み出され、世界が分節化される。景の見る世界に境界はなかった。景の瞳が鏡のように、一度、全てを受け入れていた。景の瞳の情報収集能力に脳が追いつかなくなって、いつかオーバーヒートしてしまうのではないかと、私は密かに心配していた。

 その日はルーペの日でもあった。景が急にしゃがみ込んで、間もなく立ち上がるとその手はコツボゴケを一株摘み上げていた。今度はルーペを代わりばんこに使って観察した。半透明の葉は水のついたところが殊更に綺麗で、キラキラと輝いて小粒の宝石のようだった。

「景の見る景色はいつも輝いていそうだよね」

「うん、そうだね。最近は特に楽しくってしょうがない」

「いいなぁ」

 ただただ純粋に、羨ましいと思った。私の灰色の世界に光が差すのは、景がこうやって世界をお裾分けしてくれたときだけなのだ。

「いいなぁって、そんな。同じ場所で、同じ景色の中にいるんだよ」

「同じものを見たって、同じように見えるとは限らないの」

「そうかもしれないけれど、見える可能性は常に秘めている」

 私を直視するその眼差しを、真っ直ぐ受け止めることはできなかった。


 しかし世界を一変させる気づきというのは、劇的なイベントに付随するとは限らないのだ。それは何てことはない夕焼け空だった。見飽きたはずの、太陽が裏山に沈む寂寥の瞬間だった。それぞれの家までもう間もなく、一日の終わり、悪あがきのように一際強い光で私たちを照らす西日に目を細めそうになって、景の言葉が過ぎった。「見える可能性は常に秘めている」

 それは何てことはない夕焼け空だった。家族旅行から帰って来た幼い日の私が、心地よい疲労感と両親の温もりを両の手に握りしめて、広い広い頭上に見た景色だった。命の色をしたオレンジと水色が溶け合って広がって、そこにうねった白い雲が絡みつく。私はまだ覚えていた。私の隣にある素晴らしい景色を見る術を。ありのままに世界を受け取って、感動する心を。

「エウレカ」

「知っていたでしょ」

 景は笑った。


 景が畳の上で胡坐をかいて、レスポール・スペシャルを足の上に置いた。新しくできた曲がなかなかの力作なので、私に聴いて欲しいのだという。シンプルで、心地のよいアルペジオが刻まれていく。私はなぜだか嬉しい気持ちになった。傍らには段ボールから引っ張り出してきた双眼鏡があった。




  少年の停めた自転車が 木漏れ日の中で小首を傾げて

  少年はひとりで森を下る ハンドルの温もりが空気に解けていく


  ころころ鳴くカワラヒワの羽音に 視線を上げる


  少女の覗く虫眼鏡が 落ち葉の秘密と神秘を探す

  少女はひとりで森を下る オレンジの街行く人に紛れる


  ころころ鳴くカワラヒワの羽音に 視線を上げる


  落し物は赤子の眼差し 少年少女の瞳の輝き

  拾いに戻る足音の溜まる スクールゾーンはずっとそこに



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