カワラヒワ

きくち

1.

  少年の停めた自転車が ガレージの中でほこりを被って

  少年はひとりで森を下る オレンジの街行く人に紛れる


  ころころ鳴くカワラヒワの羽音が 空に残る


  少女の覗く虫眼鏡が 世界の秘密と神秘を探す

  少女はひとりで森を下る ハンドルを握る手に力を込める


  ころころ鳴くカワラヒワの羽音が 空に……


  わたしの好きな言葉と あなたが喜ぶ言葉はこんなに違うから

  拾いに戻る足音の溜まる スクールゾーンはずっとそこに




 けいが新居で一人暮らしを始めたというので、私は日中の疲労感とともに自転車に跨った。

 身体は重力に抗えず下へ下へと溶け出していたが、二つの眼球だけがらんらんと輝いてしまって、宙に浮いているようだった。瞳に張りついたコンタクトレンズに冷たい風が薄く当たり続けて、潤いがどんどん失われていった。眼鏡に変えてくればよかったと、小さく呟いた。しかし自転車というのは偉大な発明で、ペダルに加えたエネルギー以上の出力で身体を前へと運んでくれる。そこで節約できたエネルギーの分だけ、私はけだるさを街に置いていくことができた。

 景の家に到着すると、景はその澄んだ声で小さく歌いながら炒め物を作っていた。扇風機が足元で首を振っている。絶え間ない駆動音が私の心を落ち着けてくれた。

「ちゃんと自炊しているのね」

「――ずっとそーこにぃ……。ああうん、もちろん。わりかし楽しくやっているよ」

 あの頃は私が作っていたのにね。思わず遠い目をしてしまった。

 景は、私が二歳のときに隣の家に生まれた幼馴染で、私が大学に入学して上京するまで、田んぼだらけの田舎町で一緒に育ってきた。昼間、両親は働きに出ていて、私が昼ご飯をどちらかの家でよく作っていた。

 炊飯器が鳴った。蓋を開けると、湯気に包まれ、よく粒の立ったお米が炊きあがっていた。自分たちが食べる分だけ、田んぼ一枚で私たちの両親が作っているお米。田植えや稲刈りの時期には帰省して、私たちも手伝いをする。

「ごはんはそこのお茶碗によそってくれる」

 景が合わせ調味料をフライパンに回し入れながら言った。

「わかった。しゃもじは、どれ使う?」

「右の引き出しの中に入っているやつ……そう、それ」

「お湯は、ポットの少し借りるね」

 しゃもじを熱湯で湿らせてから、私はごはんをかき混ぜた。


「仕事、忙しいの」

 豚肉を一度お茶碗にバウンドさせた景が言う。ごはんも、豚肉とキャベツの炒め物も、穏やかな味で私によく馴染んだ。

「忙しいよね。慣れない作業がたくさんあって、精神がね」

「うん。……なんかね、環境が変わったからってのが大きいのかもしれないけれど、最近、よく昔のことを思い出すんだ」

「あの町で暮らしていたときのこと?」

「そう。例えば今みたいな扇風機の回る音とかが引き金になって」

「ああ、扇風機の回る音はあの頃と同じなのか」

「もっと昔の扇風機はうるさかったのかもだけれど、この静かな音が鳴っている夏しか記憶にないな」

「そうかもしれないね」

 かつて私たちが住んでいた田舎町。真夏の盛りでも昼下がりには気温が下がって、ガラス窓を開け放つと扇風機で快適に過ごすことができた。遠くでカワラヒワが鳴いていた。ピュリリリリ、ピュリリリリ。私はそれを聞いて、ころころと転がるガラス球を思い浮かべていた。

「あとは、ほんとにたまに、昼過ぎぐらいに家に帰って来たときの、電気のついていない部屋から外を眺めたときとかも、昔を思い出す」

 景はカーテンのかかった窓の方を見遣って、遠い目をした。その目には何も映っていなかったが、景には全てが見えていた。それは、私も同じだった。

 夕暮、私たちはよく畳に寝転がって天井を見上げていた。板張り天井の木材はいろいろな顔をしていた。いつの日か、私はシミュラクラ現象という概念を知った。木の模様が顔に見えるのは、人間の脳の機能が顔のようなパターンを見つけ出してしまうからだと、寝っ転がりながら私は景に教えてあげた。……そうなんだ。天井のあそこはあんなに悲しそうなのに、錯覚なんだ。たしかそんなようなことを景は言った。台所で野菜を切る音が聞こえ始めた頃に、ふと空気が湿って重たくなることがあった。畳に頬をつけると、少しひんやりとして、そして地面の表情がよくわかって、地響きのようなものが身体に伝わった。それは地球のただならぬエネルギーだった。雷鳴が轟き始めると、頻繁に視界が割れた。畳の上で身体を起こした私たちは、窓の外に広がる自然のエネルギーに引きずり出されそうになるのをぐっと堪えていた。黒くて厚い積乱雲が太陽の光を遮っているというのに、外は私たちのいる室内よりもずっと明るかった。私たちの部屋は薄暗く静かだというのに、窓の外は明るく元気で、生命が渦巻いていた。私たちはそれを、ただ見ていることしかできなかった。

「忘れられないよ」

「うん。……わたしはまだ、それの続きを生きている」

 ああ、そうだったのか。


 景は本当に堅実な一人暮らしをしていた。定期的に掃除機をかけて、布団を干して、トイレも掃除していた。冷蔵庫には一通りの食材と、ペコリーノ・ロマーノと、プラカップに密閉されたシノブゴケが入っていた。部屋の隅の背の低い本棚にはたくさんの文庫本と、赤べこと、小さな苔テラリウムが並んでいた。本棚の横にはレスポール・スペシャルと、エフェクターボードと、マーシャルの小さなアンプが少し寂し気に置かれていた。八畳ワンルームの家には景の生活が満ちていた。私は景の家にいる間、景の生活を乱さないように注意を払って振舞ったが、そこにストレスはなく、ただ自然とそうなっていただけだった。景が作ってくれた晩ご飯を食べた後は、少しだけお酒を飲みながら、他愛のない話をして、いろいろなバンドの「東京」を聴きながら眠りについた。やはり景と私には同じ血が流れていると感じた夜だった。一つの部屋の中で、私たちの纏う空気は一切の対流を生まずに混ざり合っていた。それはとても幸せなことだった。

 景の家をあとにするとき、景はまだ布団で寝ていた。部屋は景には少し大きすぎるようにも、ちょうどいいようにも見えた。



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