カイジュウvs.

蝉川夏哉

カイジュウvs.

 移り気な天気は山だけの専売特許では無くなったのか、今日の空模様は目まぐるしく変わった。

 私を濡れ鼠にした雨雲は気忙しげに立ち去り、今は三谷幸喜が『ザ・マジックアワー』のポスターに使いたがったに違いない絶妙の色合いをキャンバスに塗り広げている。


 疲労は身体の芯だけでなく私の脳の枢要な部分も痺れさせていた。結構なことだ。痺れることができるというのは、まだ生きているということの証拠である。




 アレのことを“怪獣”とは、呼びたくなかった。

 それはあくまでもスクリーンの向こう側、虚実の皮膜とは隔たったところに息づいているはずの言葉だからだ。

 しかし、多くの人はアレのことを“怪獣”と呼ぶことに抵抗はないらしい。英語でも“KAIJU”表記が当たり前になってきた。(はじめのうちは、“beast(ビースト)”だの、“behemoth(ベヒモス)”だの、聖書由来の言葉を使おうとCNNやBBCが頑張っていたが、いつの間にか抵抗をやめてしまった)


 偉大なる我らが怪獣王の名前を奉られなかったのは、アレがあまりにも醜悪で邪悪で、東宝的な姿に似ていなかったからだ。アレはどちらかというと「空を飛ばないフライングスパゲッティモンスター」とでもいうべきだろう。



 天文愛好家がアレをはじめに発見したのはもう十八年ほど前だが、各国政府は何の対処もしなかった。「やけに速くててへんな軌道の小惑星だ」としか認識していなかったらしい。

 急減速を開始して地球コリジョンコースに入る可能性が出てきた時の騒動は今思い出しても笑えてくる。

 ハリウッドザコシショウが「ソータイロンテキキューセードー!!」と叫ぶネタがTikTokでバズったのも一瞬のことで、混乱はすぐに世界中に伝播した。


 買い占めと暴動が世界を覆い尽くし、山間部や僻地に逃げる人々の車列が高速道路を埋める。大昔にハレー彗星の“毒”を恐れて自転車タイヤのチューブを買い漁ったご先祖様を笑うことはできない。




 破壊された自販機を横目に見ながら、シャツを絞ってその滴を飲む。元は雨水と自分の汗だから、害はないだろう。

 雨露をしのぐ屋根の下を捨てて逃げ惑うハメになったのは追い剥ぎの集団に追い回されたからだが、その時に囮としてリュックを捨ててしまったのが悔やまれる。あの中にはまだ、水とちょっとした食べ物、それに下着が入っていたというのに。




 南緯47度9分西経126度43分にアレが落着した衝撃で起きた津波は、太平洋沿岸の色々なものを押し流した。それは都市であり、艦船であり、人命であり、常識と秩序だった。


 インターネットは繋がりにくくなり、テレビは災害の情報とデマと宗教じみた妄想に覆い尽くされ、その内にチバチシティの空よりもう少しカラフルな色で止まることが多くなる。


 アレがパプアニューギニアを掠めたとき、それほど大きな騒ぎにならなかったのは、誰も彼もこれ以上何かが起こることを信じたくなかったからだろう。


 そして、アレは鹿児島に上陸した。




 靴下を絞って、やっとひと心地つく。空腹は限界に達しているが、野草は食べない。それで先日酷い目に遭ったばかりだった。

 アレが鹿児島南部の佐多岬に上陸した時にはまだコンビニに豊富に物が並んでいたが、空っぽになるまではあっという間だ。


 九州から逃れようとする無数の車の何台かが関門海峡トンネルの中で不幸な事故を起こし、爆発火災になって以降は何もかもがどうにもならなくなったらしい。

 時折、思い出した様に自衛隊のヘリが救援物資を落としていくが、そこに辿り着くまでに追い剥ぎが集まっているので、とてもではないが恩恵に与ることはできなかった。


 自衛隊といえば、西部方面隊はかなり善戦した、という噂だ。在日米軍も沖縄や岩国から来援し、グアムからも庵野秀明が好きそうなデザインの爆撃機がやってきた。

 だが、残念なことに、大統領が極めて個人的な野心にMOPⅡという地中貫通型爆弾の在庫を中東で浪費していたせいで、アレを退治するには至らなかった、ということだ。



 辺りが暗くなる。

 ひもじさを抱えたまま眠るかと思ったその時、耳に障るサイレンの音が響き渡った。音質の悪い、割れた声の防災無線が何かをがなり立てている。

 よくよく落ち着いて聞いてみると、それはカイジュウ接近警報だった。


 南の空が、燃えている。

 あれは、筑紫野の方だろうか。


 とにかく、逃げねば。

 門司まで行けばフェリーが出ているという話もあったが、本当だかどうだか分からない。兎にも角にも、アレとは反対側に逃げなくてはならない。


 走るというよりも歩く速さで、夜を掻き分けるようにして進む。九州電力はその英雄的献身で電力供給を継続していたが、常時というわけにはいかなくなり、今は暗闇が支配する時間だ。


 歩く。歩く。蹴躓く。歩く。

 田畑と店と住居が意識を後ろに流れていった。


 ふと気がつくと、見知った場所に立っている。ここは、北部九州で最も有名な神社だ。受験の合格祈願で訪れた人も多いのではないか。何故だか気が抜けてしまい、へたり込むようにして地面に尻をついた。


 筑豊本線の辺りが、火事で明るくなる。

 アレの影が、下からの火に照らされて浮かび上がった。


 大きい。

 二百メートルは、超えている。


 光線もビームも超音波も吐かず、ただただ歩くだけで全てを破壊していく、アレ。




 私はもう、歩くのを止めた。 

 足裏のマメが潰れて痛いのもあったが、アレほど巨大なものを見た時、生物は竦んでしまうのだろう。

 猟師を見つめる鹿の気持ちでさえもない。あちらは、ヒトのことなど認識すらしていないのだから。



 炎が近づく。

 周りを惑う人たちの声が大きくなった。

 大きい。

 とても大きい。

 ちょうどラーメンの丼のような下半身を、上面から生えた無数の触腕が支えるかたちで、アレは進んでいく。

 恐ろしい。

 見上げる首が痛くなるほど近くに、アレがいる。


 アレが、社殿にのし掛かった。

 材木が軋む間もなく潰れ、平たくなる。

 倒壊する音は、悲鳴にも、嘆きにも、呪詛にも聞こえた。



 私は、観念した。

 ここで終わりだ。

 いいことも、悪いこともそれなりにあった。

 だが。



 その時、ポツリと雨粒が頬を打った。

 雨?

 思う間もなく土砂降りとなり、雷鳴が轟きはじめる。


 親指ほどの雨粒に抗うように腕を庇に目を開けると、アレを烈しい雷が打ち据えた。


 音。

 秒速340mで衝撃が腹に響く。

 稲光。

 音。

 稲光。


 目を開けていられないほどの雷光が、アレに降り注ぎ続ける。

 何が起こっているのか。


 視界の端に、この神社が祀る、その人を描いた看板が入った。



「あ」


 祟りって、怪獣にもあるんだ。

 耳をつんざく轟音の中に疼くまりながら、私は、人智を超えた存在同士の戦いを、特等席で見守り続けたのだった。

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カイジュウvs. 蝉川夏哉 @osaka_seventeen

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