元飼い猫がCEOになって迎えに来ました。
ミクロ
1話完結
クライアントのオフィスの一室。
キャリアが認められ、プロジェクトの主要メンバーの一人として活動してきた。
けれど、この達成感にも似た喜びは、目の前に座る彼の存在によって、心乱されてしまう。
「これで、本案件の全ての業務が滞りなく完了しました。貴社の迅速なご対応に感謝いたします」
山田太郎の声は、完璧なCEOのそれだった。
あくまでビジネスライクで、一切の私情を挟まない。
彼の容姿も、声も、あの頃と少しも変わらない。
いや、むしろ研ぎ澄まされた男性としての魅力で息をのむほどだ。
けれど、その瞳に、かつて見せてくれた猫のような愛くるしさは微塵もない。
彼は今や、北欧を拠点とする企業の若きCEO。
私とは住む世界が違う、雲の上の存在になっていた。
彼がこんなにも立派になったことを、心の底から誇らしく思う。
一方で、私の胸の奥には鉛のような諦めが沈んでいた。
私はもう、彼の過去の人なのだ。
かつて彼の唯一のよりどころだった、あの小さなアパートの部屋に今も住み続けていることすら、感傷的で滑稽な執着に思えてくる。
この案件が終われば、もう二度とこうして向かい合って話すこともないだろう。
それが、私が自分に言い聞かせてきた現実だった。
「こちらこそ、大変お世話になりました。山田様のお力添えがなければ、ここまでスムーズには…」
私が言葉を続けようとすると、山田太郎は静かに手を上げた。
その仕草一つにも、彼が身につけた洗練が表れている。
「いえ、仕事ですから。それよりも…」
彼の言葉が途切れ、私の心臓がどきりと跳ねた。
何か、忘れ物でもあったのだろうか。
それとも、まだ何か確認事項が?
彼の表情から感情を読み取ろうとするが、完璧なポーカーフェイスからは何も伺えない。
山田太郎。
彼は、いつになく真剣な眼差しで、しかしビジネススーツに完璧に収まった姿勢のまま、まっすぐに私を見つめた。
その視線に、私の心臓は不規則なリズムを刻み始める。
胸の奥がざわつくような感覚。
「もしよろしければ、今夜、私と食事をご一緒いただけませんか?」
「食事……ですか?」
私の口から漏れた声は、情けないほど小さかった。
「なかなか予約の取れない店ですが、一人で入るには敷居が高くて。どうでしょうか、私に付き合ってもらえないだろうか」
その言葉はあまりにも唐突で、そして、あまりにも優しかった。
脳裏に、かつての彼の無邪気な笑顔がフラッシュバックする。
忘れられていない。
それだけでも、こんなにも嬉しいなんて。
「はい。私なんかで良ければ……」
「良かった。断られたらどうしようかと、ハラハラしていたんだ」
彼は年相応の明るい笑顔を、本当に久しぶりに私に向けてくれた。
その瞬間。
彼の瞳の奥に、わずかにあの頃の面影が宿ったように見えた。
都心のきらめく夜景を背に、私は指定された場所で約束の時を待っていた。
ビジネススーツのままで少し気まずさを感じながら、本当に彼の隣に並ぶ資格があるのだろうか、そんな思いが頭の中をぐるぐると巡る。
と、その時。
私の目の前に鮮やかな黄色の背の低いスポーツカーが、滑るように音もなく停まった。
見慣れない高級車に目を奪われていると、運転席の窓が静かに下がり、そこには紛れもない彼の姿があった。
夕闇にネオンが反射して、彼の顔が幻想的に浮かび上がる。
「悪い。少し待たせただろうか」
彼の言葉に、私は驚きを隠せない。
こんな車を彼が運転するなんて、想像もしなかった。
どこか背伸びをしているような、それでいて少し幼い印象さえ受ける。
「あ、いえ……」
乗り込もうとすると、彼はふと私のビジネススーツに目を留めた。
「申し訳ないが、少し寄り道してもいいか? 君に相応しい格好をしてもらいたい」
呆然とする私を連れて足早に車を走らせると、車が停まったのは、誰もが知る最高級ブランドの旗艦店だった。
ショーウィンドウに飾られたドレスは、ため息が出るほど美しい。
同時に手の届かない別世界の品だと感じさせる。
私の心臓がまた、嫌な音を立てて早鐘を打つ。
「ここ、ですか?」
私は思わず尋ねた。
私のビジネススーツ姿が、この店の雰囲気に全くそぐわない気がして、居心地の悪さが募る。
「その格好では店のドレスコードに引っかかるかもしれない」
当然のようにそう言った。
彼の顔には、ほんのわずかだが焦りの色が滲んでいるように見えた。
「でも……」
圧倒されて躊躇する私の言葉を遮るように、彼は腕を掴み、店内へと促した。
彼の指先が触れた腕の感覚に、体がびくりと反応する。
「あまり時間がない。入るぞ」
自動ドアが開き、店内に足を踏み入れる。
その洗練された空間に圧倒された。
天井が高く、壁には美術品のようなオブジェが飾られている。
店員が、場違いな者が入ってきたという目でこちらを見ている気がして、私は思わず俯いた。
場違いだ。
早くここから逃げ出したい。
「いらっしゃいませ」
一人の店員が、優雅な笑みを浮かべて近づいてきた。彼は、その店員に手早く指示を出す。
彼の堂々とした態度に、店員は一切の動揺を見せず、流れるように答える。
「かしこまりました。奥へどうぞ」
案内されたのは、カーテンで仕切られた簡素な試着室ではなく、まるでホテルのスイートのような、広々とした専用の部屋だった。
そこに足を踏み入れると、私はさらに緊張した。私の足元には、ふかふかの絨毯が敷かれている。
店員は次々と美しいドレスを運び込み、私の身体に当てていく。
どれもこれも、普段の私には縁のない華やかで大胆なデザインばかりだ。
鏡に映る自分は、まるで別人のようだった。
「あの……これ、露出が……」
胸元が大きく開いたドレスを勧められ、私は思わず声を上げた。
恥ずかしさで顔が熱くなる。
精一杯の抗議のつもりだった。
「お客様は大変お美しいプロポーションですので、それを活かす形がこちらになります」
店員はにこやかにそう言った。
でもその言葉は私にとって、むしろ追い打ちをかけるようだった。
こんな体型が「美しい」だなんて、冗談だろう。
「私……こんな恥ずかしくて」
「こちらのタイプのドレスを着こなすことのできる方は多くはないです。日本人でここまでのスタイルの方は滅多にいないので、私も選びがいがあります」
そう言って、店員さんが圧のある笑顔を向けてくる。
断りきれず、言われるがままにそのドレスを身につけた。
慣れない高いヒールを履き、ぎこちない足取りで、彼の前に出る。
足元がふらつき、転んでしまいそうだ。
「ど、どうでしょうか」
彼の反応を恐れながら、視線を向けた。
嫌悪感に満ちた表情をされるのではないか、そんな不安が胸を締め付ける。
でも彼は、私を見た瞬間、息を飲むように下を向いて押し黙ってしまった。
(馬子にも衣装にならないですよね。素材が悪いとせっかくの美しい服も台無し。こんな私では、彼を喜ばせることなんてできないんだ)
不安が募り、私は思わず俯いた。
全身から嫌な汗が吹き出す。
「顔を上げなさい」
山田太郎の声は、いつになく真剣だった。
その声に促され、ゆっくりと顔を上げる。
彼の瞳は、真剣に、そしてどこか焦燥感を帯びて私を見つめていた。
その視線に、私の心臓はさらに速く打ち始める。
「そんな不安そうな顔をしなくていい」
「ですが……こんな格好……見苦しいだけです」
私がそう呟くと、山田太郎の表情がわずかに険しくなった。眉間に深い皺が寄る。
「自分を下げる発言は止めなさい。不愉快だから」
その強い口調に、私は思わず身をすくめた。
彼のこんな声を聞くのは久しぶりだ。
「……申し訳ありません」
「ち、違うんだ。……くそっ、あまり時間もない。こちらで頼む」
彼はそう言って、店員に手早く指示を出した。
その言葉の端々には、焦りと、そしてどこか幼い苛立ちが混じっていた。
何かを隠しているような、そんな不穏な空気が漂う。
「かしこまりました」
店員に促され、私は再び部屋に連れて行かれた。
そこからは、髪やメイクなど、プロの手によって次々と「加工」されていく。
鏡に映る私は、もはや普段の自分とはかけ離れた、華やかな女性になっていた。
ブランド店を出て、再び車に乗り込んだ時だった。
都心の喧騒は遠ざかり、車内には心地よい静けさが漂っていたが、私の胸に抱えた疑問は抑えきれなかった。
「あの……山田様」
私がそう呼びかけると、運転席の彼がちらりとバックミラー越しに私を見た。
視線が合った瞬間、私の心臓はまた跳ね上がった。
「どうした?」
「私、いつまで山田様と呼べばいいんでしょうか?」
私の問いに、彼が小さく笑みをこぼした。
「それか。やっぱり気づくよな」
少し嬉しそうな、どこか自慢げな声色。
話し方も以前の彼そのままだ。
緊張の連続だったけれど、ようやくホッと肩の力が抜ける。
彼が私に対して、少しだけ警戒を解いてくれたように感じた。
「当たり前です」
私は少し呆れたように答えた。
彼の顔立ちを見れば、どう考えても日本人ではないことは明らかだ。
彼の本当の名前は、スヴェン。
それは私だけが知っている秘密だった。
「戸籍上、今の俺は山田なんだ」
そう言うと、彼は助手席の私に向けて、運転免許証をさっと提示した。
私は思わずそれを受け取り、まじまじと見つめた。
そこには、確かに「山田太郎」という氏名が記載されている。
生年月日も、どう見ても実年齢とは合わない。
写真の彼は、今の彼よりも少しだけ硬い表情をしていた。
「でも、あなたの顔、思い切り外人顔じゃないですか?」
スヴェンは肩をすくめた。
その仕草も、昔と変わらない。
「でも日本人でも濃いのいるから、大丈夫だ」
その飄々とした物言いに、私は安堵する。
彼の言葉の端々には、やはりどこか掴みどころのない幼さが昔のままだ。
「ところで、その戸籍はどうやって手に入れたんですか? 免許証の生年月日だと35歳であなたの実年齢とは全然違いますよね。普通は手に入らないものを一体、どうやって……」
私の真っ直ぐな質問に、スヴェンは一瞬、言葉を詰まらせた。
彼の表情から、わずかに笑みが消える。
車内の空気が、ほんの少し重くなった。
「まあ、あれだ。本当の山田太郎は借金苦でコンクリートに埋められて太平洋のどこか。と言っておこうか」
彼の声は、冗談めかしているようで、しかしその底には、深い影が潜んでいるのが分かった。
彼の、最も暗い部分を垣間見たような気がした。
「もしかして……あなたが?」
「それはさすがにない。だが、金を手にするためにブラックハッカー紛いの汚い仕事もしていたのは否定しないが」
私はそれ以上は聞かなかった。
聞かなくても、彼がどれほどの困難を乗り越えてきたのか、そして、どんなに汚い手段に手を染めてきたのか、想像に難くない。
「ろくでもないことだけは分かりました」
私は、静かにそう呟いた。
彼の言葉の裏にある過酷さを察し、ただ沈黙で応じることしかできなかった。
次に彼が連れて行ってくれたのは、都心の一等地に佇む、まるで絵画のような高級フレンチレストランだった。
ウェイターの流れるような所作、きらびやかなカトラリー、そして見たこともない美しい料理の数々。
場の空気に圧倒され、私は緊張でほとんど食事が喉を通らなかった。
フォークとナイフを持つ手が震える。
周囲の客の視線が、私のドレス姿に集まっているような気がして、いたたまれない気持ちになった。
そんな私の様子を、スヴェンは静かに見ていた。
そして、前菜にほとんど手をつけていない私を見て、小さく息を吐いた。
彼の表情に、少しだけ残念そうな色が見える。
「あまり食欲ないのか?」
「そういう訳では。ただ、場違いすぎて味が分かりません」
正直な気持ちだった。
目の前の料理が、あまりにも完璧すぎて、ただただ圧倒されるばかりだった。
「……すまない。君は、こういう場所はあまり好きではないようだ」
彼はそう言うと、テーブルに置かれたナプキンをそっと畳んだ。
彼の変わらない気遣いに、胸の奥が温かくなる。
「この店を出よう。そして、君のアパートに戻らないか? 久しぶりに行ってみたいんだ」
彼の提案に、私は驚きながらも頷いた。
慣れない場所での緊張から解放される安堵と、彼が自分のことを気遣ってくれたことへの密かな喜びが入り混じる。
彼の意外な申し出に、少しだけ心が浮き立った。
高級スポーツカーを近所のパーキングに入れるため、彼はまず私をアパートの前で降ろした。
夜の古い木造アパートは、周囲の住宅街に溶け込むようにひっそりと佇んでいる。
「先に部屋に入っていてくれ。駐車場を探してくる」
彼が車を走らせていくのを見送ってから、私は鍵を開けて部屋に入った。
昭和感漂うボロアパート。
ここが、彼と私が暮らした部屋だった。
彼はまだどう見ても未成年で、生活力皆無の彼に、私は夢中でプログラムを叩き込んだ。
私の庇護下で暮らした日々を思い出し、胸が締め付けられる。
ドレスの上からエプロンを着ける。
ガランとした冷蔵庫を開け、視界に入ったもやしと麺を見て、私は反射的に手を伸ばした。
気づけば、懐かしい肉なし焼きそばを作るべく、フライパンを熱していた。
彼がかつて好んだ、貧しい時に一番よく食べた料理。
あの頃は、こればかりでうんざりしたものだ。
今はその香ばしい匂いが、胸の奥を温かくする。
焼きそばの香ばしい匂いがワンルームに満ちる頃、玄関のドアがゆっくりと開いた。
「…悪い。土地勘はあるつもりだったが、手間取った」
スヴェン、彼の声だ。
この部屋に久しぶりに響くことが、嬉しい。
「そうなんですね。コインパーキングが一番近いと思いましたが」
「そこに停めてきた。っていうか……全然変わってないんだな。5年も経ったのに」
スヴェンは、そう言いながら疲れたようにアパートの部屋へと足を踏み入れた。
部屋の隅々まで、彼の視線が巡っているのが分かる。
「変えられませんでした。あなたがふらっと戻ってくるかもしれないと、思うと」
焼きそばの匂いがワンルームに充満する。
彼が寝ていた大きめソファーは相変わらずの存在感で、その上に彼がいた頃のクッションが置かれたままだ。
何も変えていないし、何も動かしてない。
というより、捨てられなかったし、動かせなかった。まるで思い出にすがった、未練の塊のような家。
「……ただいま」
その言葉に、私は振り返った。
「おかえりなさい」
心からそう返したその瞬間、彼の目から一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
私は驚き、心配して思わず彼に駆け寄ろうとする。
彼の顔には、普段のCEOの仮面が剥がれ落ちた、あどけない表情があった。
「大丈夫?」
「……ああ。大丈夫だ」
涙を拭い、何もなかったかのようにふわりと笑った。
その顔は、紛れもないスヴェンの顔だった。
飼い猫だったころの人懐っこい面影が、そこにはあった。
「焼きそば……か。懐かしいな」
彼は焼きそばの匂いに誘われるように、食卓に腰を下ろした。
「有り合わせでは、これが精一杯でした」
「いや、十分だ」
二人分の焼きそばを皿に盛り付け、向かい合って座る。
スヴェンは、一口食べると、懐かしむように目を閉じる。
そして、くすりと笑った。
その表情は、まるで遠い故郷の味を噛み締めているかのようだ。
「やっぱり、この肉なし焼きそばが一番美味いな」
彼はまるで飢えていたかのように、バクバクと焼きそばを食べ始めた。
その様子を微笑ましく、そして少しの寂しさを感じながら見つめていた。
まるで、あの頃の日常が戻ってきたかのようだ。
あの貧しいけれど、温かかった日々。
けれど目の前の彼は、もう大人の男性。
「山田太郎」という、遠い世界の会社のCEOなのだ。
現実は、あの頃とは違う。
沈黙が訪れる。
心地よいようで、どこか息苦しい。
私は──どうしても彼の涙の意味が気になった。
彼の口から、この5年間の空白が語られるのを聞きたいと強く思う。
「この5年間、あなたがどうしてたのか……もう少し詳しく教えてくれませんか?」
静かに、問いかける。
スヴェンは焼きそばを食べる手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
彼の瞳は、先ほどまでのビジネスライクなものではなく、まるで深い夜の海のよう。
様々な感情を湛えていた。
悲しみ、苦しみ、そして、何かを乗り越えてきた強さ。
「……『おかえりなさい』って、君が変わらず言ってくれたからな。ずっとその言葉を待っていたんだ、と改めて気づいたんだ」
その言葉に、私は理解に苦しんだ。
ただの挨拶だ。
なぜ、それが彼の涙を誘うのか。
私のような人間を迎えに来て、なぜ彼がそんなに喜ぶ必要があるのだろう。
私の胸には、彼の言葉の真意が理解できないもどかしさが募った。
「それが、どうしたのですか?」
思わず、真顔で尋ねていた。
スヴェンはそんな私の様子をじっと見つめる。
そして諦めたように、しかしどこか甘えたような笑みを浮かべた。
「……自分で言うのもなんだが、俺が一番舞い上がってた。高級車に高級フレンチにブランド服。君の好きな少女漫画の世界を再現したくて必死だったんだ」
彼の言葉に、私ははっと息をのんだ。
彼が、私の趣味を覚えていてくれた。
それが、何よりも嬉しい。
「覚えていてくれたんですね、嬉しいです。でも……憧れと現実は違いますね。このドレスも私には合わなさすぎて……恥ずかしくなりました」
胸元を覆う薄い布にふれる。
光沢感のある上質な生地は、確かに私には不釣り合いだ。
「いいや、すごく似合ってると思う」
彼はそう呟くと、視線を私の胸元へと落とした。
その視線に、私は思わず身を固くする。
丸々1年も暮らしたのに、一度だけのキスの関係だったから。
「お世辞まで上手くなって。……すっかり大人の男性ですね」
誤魔化すように呟いた言葉に、スヴェンの表情がわずかに曇った。
「君の隣にいることが……苦しかったんだけどな」
スヴェンの声はひどく穏やかで、けれど、深い後悔と愛情が滲んでいた。
あの頃の彼の抱えていた苦悩が、今になって胸に迫る。
「苦しい……ですか?」
最初は上手くいっていたのに、段々歯車が噛み合わなくなっていった日々。
彼の気持ちが分からなくなっていった。
「俺は……ヒモ同然で。自分自身が段々許せなくなってった。とにかく、早く変わりたかったんだ」
「だから……物思いに耽ることが増えて、あまり話さなくなっていったんですね」
現状維持を望む私と、変わりたいと願う彼。
上手くいくはずなかったのだ。
今なら、あの頃の彼の苦悩が少しは分かるようになった。
私も5年間で、分別のつく大人になった。
「結果的に出ていけと言ったのは君だが……言わせたのは俺だ」
「そうですね。でも、ひどい言葉で追い出したのは私です。きっとあの時は二人の間には別れしか選択肢が無かったんですよ」
諦め、後悔。
何度も何度も、あの別れを頭の中で繰り返してきた。
けれど、もう十分だ。
「今日はとても良い思い出になりました。この思い出はずっと宝物にしますね。さぁ、焼きそばが冷えてしまいますから食べましょう」
これでようやく未練を断ち切れる。
今日の思い出を胸に、このボロアパートを出ていける。
そう言い聞かせた。
私たちは懐かしい肉なし焼きそばを食べていく。
私の給料前には、もやしをたくさん入れて水っぽくなった味。
あの時はうんざりして食べていたのに、久々に作ると思ったよりも美味しい。
彼とこうして食卓を囲むことが、こんなにも満たされるなんて。
「やっぱりこの焼きそばが、最高だよな」
勢いよく食べていく様子に、昔の面影を見る。
彼の食欲は、あの頃と少しも変わらない。
「大げさです。たかが焼きそばじゃないですか」
スヴェンは焼きそばを食べる手を止め、大きく首を振る。
「いや。さっきの店より全然美味い」
そう言って、あっという間に平らげてしまう。
彼の方が大盛りだったのに、私より早く食べ終えてしまった。
「ご馳走様でした」
二人で食べ終えて、私は食器を片付けだす。
それをジッと見ていたスヴェンは私の背中ごしに話し始める。
「君を喜ばせるつもりだったのに……結局はご馳走になっちまうんだよな……」
諦めのような、少し嬉しそうな。
ぽつり、と静かに話し始めたのを確認して、食器を流しに置く。
「少し……お話しませんか? このドレスでは洗い物も出来ませんし」
「そうだな」
私とスヴェンは年代物のソファーに腰掛ける。
彼がベッド代わりにしていたせいで、歪んで不格好になっている。
「俺は君と別れてから、まあ、察しの通りろくでもない事もたくさんしてきたんだ」
彼の瞳の奥に、激動の5年間が垣間見える。
私は、胸の奥が締め付けられるのを感じた。
彼がどれほどの道を歩んできたのか、想像するだけで胸が痛む。
「偽名を使っているくらいですし。大体は、察してます」
「それでも誇れる自分でありたかった。過程は何でも良かったんだ」
自国すら遠い昔に失って。
管理される事が当然の現代社会は、スヴェンにとってどれほど生きにくかったことだろう。
(だから、せめて)
「ただいまで涙が出るのは、それだけ頑張ってきた証です」
「どこまでも格好悪くて嫌になる。本当はスマートに、エスコートするはずだったんだ」
目の前には、当時そのままの彼。
体格が男性らしくなっても、愛嬌は変わらない。
彼のそんな姿に、私の頑なな心はゆっくり溶けていく。
「では……私を今からエスコートして下さい」
そう言って、私は彼の手を取った。
その手は、思ったより冷たくて大きく、けれど確かな温もりがあった。
「どういう意味だ?」
半分確認、半分疑問。
そんな声色だった。
彼の表情は、驚きに大きく見開かれている。
私から彼を誘うのは、彼にとって予想外だったようだ。
「言葉のままです。まず、この慣れないドレスを脱がすところから……お願いします」
びっくりするほど自然に出てきた言葉。
あれだけクヨクヨ悩んできたのに、彼の涙を見た時から、もう決心できていた。
最後に最高の思い出を作ろう、と。
「マジか……?」
ため息に似た、深呼吸のような一言。
砕けた言い方が以前の彼そのままで、私の唇から笑みがこぼれる。
「マジですよ」
取っていた手を引き寄せ、そのまま彼の唇を顔を寄せる。
あの時、彼にキスされてから、人生で二度目のキス。
たとえ今夜限りでも、たとえ彼に深い好意がなくて
も、好きな人と結ばれたい。
ただそれだけだった。
そのまま、彼の手が私の腰に滑る。
グッと抱き寄せられると、彼の熱い舌が口内にスルリと入ってきた。
突然のことに、私の思考は停止する。
わけもがわからず、それを必死で受け入れる。
最初は私からだったのに、いつの間にか形勢は逆転されていた。
彼の熱い舌が強引に私の歯列をなぞる。
彼の息遣いが荒くなり、私の心臓の音はさらに加速する。
「はん……ふぅ……ん」
自分の声じゃないような嬌声が、喉の奥から漏れる。
身体から発せられる抗えない愉悦が全身を駆け巡り、逃れることもできない。
私はただギュッと目を閉じ、彼にされるがまま口内を独占されていく。
彼の香りが、私を包み込む。
「れろ……ん…くちゅ……」
「はぁ……ん……んん……」
「今までのツケがどれほどあるかも分かってないだろう。もう……どうなっても知らないからな」
彼の声は低く、私の耳元で囁かれる。
背筋にゾクッと電気が走るような感覚。
「んん……何のこと……です?」
「分からないなら。教えてやる」
彼の舌が私の口内を深く探り、唾液を注ぎ込まれて、口の端から透明な液が伝う。
それは私の首筋を伝っていく。
ゾクッとするような感覚。
彼はそれを舐めとるように、舌先をそこに這わせていく。
甘い痺れが首筋を駆け上がる。
「………はぁ……!」
甘いうずきが腰から全身へ伝播する。
もう何も考えられない。
理性が溶けていくような感覚に、反射的に彼の服の裾を握り締めていた。
「……身体が十代だってのに自制するのにどれだけ苦労したと………思ってるんだ」
ドレスのファスナーが下ろされ、肩が露わになる。
ひんやりとした空気が肌に触れて、また身体が震えた。
その肩に向かってスヴェンが歯を立てる。
「はうぁ……!」
痛みと快楽で全身が粟立つ。
そのまま、耳朶を吸われて耳穴にざらつく舌先を最奥まで入れられてしまう。
私は為すすべもないまま、その場に強引に押し倒されていくのだった。
シーツの冷たさが、背中にじんわりと広がっていった。
薄っすらとカーテンの隙間から光が差し込む。
私はまだ夢の中にいるような心地で、身体の奥に残る微かな熱に、昨夜の出来事が現実だったことを知る。
隣に横たわるスヴェンの温もりを感じ、そっと身を寄せた。
彼の肌から伝わる熱が、私の心をじんわりと温める。
彼の規則正しい寝息。
普段の彼のピシッとしたCEO然とした姿からは想像もつかない、無防備な寝顔。
猫のような愛くるしさは、あの頃のままだった。
私はそっと彼の手を取り、指を絡ませる。
大きく、そして硬くなった手のひら。
この5年間、彼がどれほどの困難を乗り越えてきたのか、その手に刻まれた証が物語っていた。
彼の掌の感触が、私に確かな現実を教えてくれる。
どれくらいの時間が経っただろうか。
不意に、スヴェンが身じろぎ、ゆっくりと目を開けた。
彼の薄いブラウンの視線が私と重なり、一瞬だけ、その瞳に戸惑いの色が浮かんだように見えた。
けれど、それはすぐに消え、柔らかく微笑む。
「……ん、おはよう」
掠れた声が、まだ眠気の残る部屋に響く。
朝の光が彼の髪をキラキラと照らしている。
「おはようございます、スヴェン」
私の声も、少しだけ震えていた。
彼は私の手を握り直し、もう片方の指先でそっと鎖骨に触れられる。
その優しい仕草に、私の胸は締め付けられるような甘い疼き感じた。
彼の指が触れるたびに、昨夜の熱が微かに蘇る。
「昨日のこと、後悔してないか?」
彼の声は昨夜の情熱とは打って変わって、どこか不安げだった。
私の顔を覗き込むその瞳には、真剣な光が宿っている。
まるで、私が彼を傷つけてしまうことを恐れているかのように。
「後悔なんてとんでもないです。最後にとても素敵な思い出ができましたから」
私は即座に答えた。迷いは一切なかった。
「は?……最後って?」
彼は両肘をベッドのつけ、私を覗き込む。
その目は大きく見開かれている。
彼の眉が、困惑したように寄っている。
「プロジェクトもすべて終わり、あなたとも会うこともない。もしまた仕事が頂けるのであれば、私事は持ち込まず、精一杯尽力しますね」
「あれ……俺……今有頂天だったのに、朝一で振られるのか?」
元猫なのに子犬のような目をしている。
これも私を悲しませないための演技なのだろう。
彼のそんな表情を見ていると、胸が苦しくなる。
「最後まで嘘が上手ですね。でも大丈夫です。私も今年で30歳、もう弁えてますから」
精一杯、笑顔を向ける。
行かないでと泣き叫ぶ歳は、もう過ぎた。
大人としての分別をつけなければ。
「もしかして……俺を弄んでたのか?」
彼の声に、非難の色が混じる。
「弄んでなどいません」
「でも……処女だったよな」
昨晩は想像以上に痛くて、我慢していたのに頬に涙が伝ってしまった。
それでも、いつの間にかわけ分からなくなるほど気持ち良くさせられて。
自分の身体にコンプレックスばかりだったのに丸ごと愛してもらった気がした。
「心と身体が繋がる喜びを一度でも味わう事ができました。もう後悔はありません」
好きな人に触れられる度に溶かされていくことを知った。
それだけでこれから生きていける。
そう、自分に言い聞かせる。
「あの、一つ聞くが」
「何でしょう?」
「さっきから、別れる前提で話が進んでる気がする。それは俺の気のせいか?」
彼の声色が低くなる。
これは機嫌が悪くなる前の彼の癖だ。
女々しいと思われたくなくて、私は無理に笑顔を作る。
「ベンチャーとはいえ、将来有望なCEOのあなたと私は釣り合わない。5年前の精算のために昨日はご馳走してくださったのは承知しています」
そして彼の手を取り、そっとその甲にキスを落とす。
彼の肌は、私よりも体温が高い。
「私のようなぽちゃり体型でも、夢のような一晩でした。ありがとうございます」
彼の実年齢は22歳くらいのはず。
あんなに女の身体を熟知しているのも、仕方のないこと。
それだけモテるってことだから。
彫りの深い甘い容姿も相まって、十分、納得できる。
「あのな……どこから説明すればいいんだ?」
呆れたような口調。
まるで理解力のない子供を目の前にした先生みたいな顔をしている。
「私……何か間違ってますか?」
「ああ。全部、間違ってる」
はっきり言い切られ、私は言葉を失くす。
彼の視線が、私の心の奥まで見透かすように感じた。
「まず一つ目。お前、太ってないからな」
君からお前に呼び方が戻っていた。
話し方もすっかり5年前の彼だった。
その呼び方に、私の心は大きく揺さぶられる。
「えっ、でも。服は13号ですし……それは太ってるってことですよね?」
「スカートやパンツは何号なんだ?」
「えっと……5号ですね。アンバランスで不気味なのは昔からなんです」
「それ、世間一般には羨ましがられる身体なんだが」
彼の言葉が、私の凝り固まった常識を揺さぶる。
「……羨ましがられる、ですか?」
スヴェンの言いたいことが全く見えてこない。
混乱する私の頭に、彼の言葉が響く。
「過去のトラウマに踏み込むからあえて言わなかったが……中学の時にその大きな胸をからかって来た奴ら。あれ、お前のこと好きだったんだと思うぞ」
スヴェンは私の元飼い猫。
だから、私の身辺については詳しいのは当然としても。
でも………そんな馬鹿な。
「そ、そんなはず……」
「あるんだ。これが」
彼の大きな両手が私の胸を包み込む。
それを弧を描くように揉んでいく。
火照ったままの身体は、簡単に快楽に変わってしまう。
彼の指が触れるたびに、甘い痺れが走る。
「……ちょ、やめ……はぁ……ん」
「鉄壁のガードと最底辺のコミュ力で今まで無事だっただけ、なんだからな」
彼の指が先端の敏感な所を掻く。
そこはすでに待ちわびていたように硬くなっている。
上下に揉まれながら敏感な所まで責められる。
私はシーツを握り締め、それに耐えていく。
頭の中が真っ白になる。
「んん……はぁ……はん………っ」
「普通は手のひらに納まるもんだ。こんなにはみ出るなんて反則中の反則なんだ。分かったか?」
「……ひゃ………は、……はい」
絞り出すような声で答える。
「分かればいいんだ」
ようやく解放されて、私は一息つく。
でも彼の薄いブラウンの瞳はまだ不満の色が隠れていた。
「あと、もう一つ。俺のこと、処女を一晩の遊びで済ませるクズに思われていたのが心外だ」
彼の真剣な眼差しに、私の心臓がまた跳ねる。
「決してあなたを悪く言うつもりはないんです……。ただ、この関係が長引けば、私も物分りがいい女でいられる自信もありません。ですから、一晩限りにしましょう」
これが、私に残された最後のわがまま。
これくらいは、言ってもいいはずだ。
「だから!! どうして別れる前提なんだ!」
彼が私に覆い被さってくる。
そして、至近距離で静かに見下ろしてくる。
彼の瞳には、怒りと、そして深い悲しみが混じっているように見えた。
「ようやく並べるようになったと思ったのに、またお前は俺を突き放すのか?」
「な、並ぶ……あなたと私が?」
彼の言葉が信じられない。
私と彼が、対等に並ぶだなんて。
「そうだ。いきなり呪いが解けて人間に戻れても。こんな複雑になり過ぎた社会じゃ野垂死んでもおかしくなかった」
「私があなたを公園で拾ったんです。飼い主なら当然のことをしたまでです」
あの雨の日。
灰色の低い空を恨むように仰ぎ見ていた不思議な猫。
それがスヴェンだった。
ただの猫だと思っていたのに、本当の彼は人間だった。
その事実に、どれだけ驚いたことだろう。
「じゃあ、なぜ俺に仕事を教えた? システム開発やアプリケーションなんて何の知識も持ち合わせていない奴に教えるのは、かなり骨が折れたはずだ」
「それは……これからを生きていく上で必要になるかもしれないから。500年前と今ではあまりに社会構造が違い過ぎます。ですから、私の持っている知識をすべて教えただけです」
最初は不審者が私の部屋に侵入してきたと勘違いして大騒ぎした。
けれど、彼の記憶と、ネットでの故郷の北欧の情報があまりに合致していて。
ただの世迷い言ではないと、認めざるを得なかった。
私の持つすべての知識を彼に教えることで、彼がこの新しい世界で生きていけるようにと、ただそれだけを願った日々。
「元飼い主で。生きるための術を教えてくれた。こんな大恩人、敵うはずないって思わないか? 普通」
「でも! たった1年ですよ。私が何年もかけて得た知識を簡単に超えていった。正直、嬉しさもありましたが、ショックでもあったんです」
「簡単なもんか。1日でも早く、隣に並びたい一心だったんだからな」
彼の努力は知っていた。
猫時代に覚えたというヨーロッパ全土の言語が、彼の学習を後押ししていた。
外国の文献を容易く読むことの出来たこと、ネットでそういった情報を収集しやすさが驚異的な習得スピードを生み出していた。
「ずっとこの時を待ってたんだ。もう一度、俺を必要としてくれる日を。もう飼い主の責任なんて言葉で片付けられてしまわないように」
私を覗き込むスヴェンの表情が和らぐ。
彼の瞳は、かつての猫の愛くるしさを湛えながらも、深い愛情と決意に満ちていた。
彼は私を優しく抱き寄せ、額にキスを落とした。
唇が触れた額から、温かい感情が全身に広がる。
「スヴェン……」
「地位も金も。お前の集めてた漫画みたいになるために。お前の憧れに近づくために、戸籍も肩書も全部手に入れたんだ」
彼の腕の中で、私はため息をついた。
ようやく、この5年間の空白が埋まっていくような気がした。
私から得るものが無くなり、捨てられたのだと思っていた。
それでも、前に進むことをやめないでくれ、という最後に残した言葉を糧に、この5年を生きてきた。
「そんなに頑張らなくても……私の心は5年前から変わっていませんよ」
「お前の好意には、気づいてた。だが、ヒモ暮らしが肌に合わなかったんだ」
私の気持ちを知っていて。
立ち止まることを選ばす、進み続けることを選んだ。
スヴェンらしいといえば、確かにそうだろう。
「相変わらずズルい人ですね。私がずっと一緒にいることを望んでいたのに、私を置いてアパートを出ていったんですから」
彼の腕の中で私は少しだけ身体を離し、彼を見上げる。
私の髪を撫でながら、彼は静かに話し始めた。
その指先が、優しく私の頭をなぞる。
「やっと並べたと感じたから、仕事の依頼をしたんだ。5年も掛かったんだからな」
「私は……もうとっくに追い抜かされていて……遥か遠くに行ってしまったのだと、ずっと思ってました」
お互い不器用で、譲れないことが多すぎて。
こんなにも遠回りしてきた。
けれど、その遠回りがあったからこそ、今、こうして向き合えているのかもしれない。
「改めて仕事を一緒にしてみて、俺は実感した。君は変わらず誠実で有能だ。もし良ければ、また一緒に暮らさないか? 仕事でもプライベートでも君が必要なんだ」
彼の瞳は、強い決意に満ちていた。
それは、ビジネスライクなCEOの顔ではなく、私の知っている、かつての少年のような、けれど今は頼もしい男性の顔だった。
彼の言葉一つ一つに、偽りのない真剣さが込められている。
「あなたのようにデフォルトで進むことを止めない人と一緒に居るのは、一般人からしたら、とても骨が折れるんです」
「それは……駄目という事か?」
彼の顔に、不安の色がよぎる。
まるで、私が彼を拒むのではないかと恐れているようだ。
「でも……空っぽだった5年より有意義で満ち足りたものになりそうな気はします」
私の言葉に、彼の瞳が輝いた。
大人になっても、変わらず少年のような人。
それが、私にとってのスヴェンだった。
「じゃあ……!」
彼の声が期待に弾む。
「待って下さい。私からも、ひとつ質問に答えて欲しいことがあります」
「何だ?」
「一晩共にして新たな疑問が湧きました。まだ本当の年齢は20代前半で若いはずなのに、どうして……あんなに女の身体を熟知してるんですか?」
私の問いに、スヴェンが言い淀んだ。
こんな姿は珍しい。
彼の表情に、困惑と、ほんの少しの照れが混じっている。
「言えませんか?」
「いいや。いずれ君はパートナーになるのだからハッキリ言っておかなくちゃならない。実は人間だった500年前……俺には年上の伴侶がいたんだ」
(伴侶……スヴェンに妻が……)
500年も昔ならあの年齢で結婚しているのは、十分あり得る。
それでも、胸が少しチクリと痛む。
彼の過去に、私が知らない女性の存在があったから。
「その方との出会いは? どんな方なのですか?」
「俺は……12歳で結婚した。だが、相手は19歳だった。当然、話も合わず、ほとんど会話もなかった」
(12歳……)
過去を語りたがらない彼に聞いた数少い情報では、500年前にかなりの地位に居た人だと推測できた。
それにしても、さすがに結婚という一大イベントができる年齢じゃない気がする。
「まだ子供じゃないですか」
「それはそうだ。まだ精通もしてない本当の子供だった」
「そんな……」
当時としては、さして珍しいことでもなかったのか。
スヴェンは淡々と話を進める。
彼の声は、どこか遠い過去を懐かしんでいるようだ。
「結婚して3年目くらいから、少しずつ打ち解けていって。相手はプライドも高かったからすごく苦労したんだ。結局、俺達の間に子供を授かることはなかったな」
「なるほど……でも、その人とはその後どうなったのですか?」
「王位の継承権で揉めて、俺は呪い殺されるはずだった……でも、今もこうして生きてるって訳だ」
彼の言葉に、身震いする。
彼がどれほど壮絶な過去を生き抜いてきたのか、改めて思い知らされる。
「じゃあ……結婚していたその方は?」
「年寄りと再婚したよ。当時の貴族の娘なんて、それくらいの価値しかなかった時代だからな」
今の価値感とは全く違う。
長い時を生きていてもその中で答えを見つける彼の柔軟さ。
改めて素直に尊敬する。
そして、彼の過去の苦悩が、彼の今の強さを作っているのだと感じた。
「あなたにとって……その結婚はどうでしたか?」
スヴェンは少しだけ考える素振りを見せる。
自分の中で答えを見つけたのか、まっすぐの瞳を私に向ける。
その瞳は、嘘偽りのない真実を語っているように見えた。
「政略結婚だったけど、彼女を愛していた。こんなお互い裸で言うのも何だが、俺を作ってきた一部であるのは間違いないと確信できる」
(本当にズルい言い方。でも……)
彼の言葉に、胸の奥が温かくなる。
彼の過去のすべてを受け入れたいと、心からそう思った。
「分かりました。複雑な事情はある程度察しがついてました。結婚していたのは驚きましたが……500年の間も生きていた猫に比べればずっと現実的ですし、今更気にしません。ただ……」
「ただ? なんだ?」
彼の目が、私の次の言葉を待っている。
「あの黄色いスポーツカーはレンタルなのですか?」
「いいや。ローンで買った」
(やっぱり……)
彼の顔に、少しだけ気まずそうな表情が浮かぶ。
「では近いうち売ってください。そしてあなたが住んでいる都内のマンションも。私と一緒に居たいなら、生活水準を以前にまで戻してもらいます」
(身の丈に合わない贅沢は敵ですから)
「それは……手厳しいな」
彼は眉を下げて、困ったように笑った。
「嫌ですか?」
彼は私の髪をそっと撫でながら、改めて私を見つめた。
その眼差しは、真剣で、そして深い愛情に満ちていた。
「仕方ない。俺は、君がいないとダメだから。スヴェンという本名を知るのもこれから先も君だけだ」
そう言って、彼は再び私を強く抱きしめた。
彼の腕の中で、私は安堵の息をつく。
彼の温もりと香りが、私を包み込む。
「これからも末永く、よろしくお願いします。ベッドだけは大きくて新しいものに新調しましょうね」
私は彼の胸に顔を埋め、彼の温かい腕に抱きしめられた。
これからは、彼と共に、新たな未来を築いていける、そう確信する。
このボロアパートから、二人の新しい人生が始まる。
未来に期待を膨らませる心臓の音が、私の耳に心地よく響いていた。
元飼い猫がCEOになって迎えに来ました。 ミクロ @tadwpgjm
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