エモーショナル・バザール ――感情の市場と記憶の鍵――
蒸気研究所
―感情の市場と記憶の鍵―
プロローグ:瓶詰めの笑顔
感情を、失くしていた。
気づいたときには、もう遅かった。
母が亡くなったのは、志音が十一歳の冬だった。あの日の朝は、空気が張り詰めるように冷たく、吐いた息が白く長く伸びたのを覚えている。だが、悲しかったか、泣いたか、どんな気持ちだったのか──まるで思い出せない。
今思えば、あのとき何かが欠けてしまったのだ。
感情そのものが、どこか遠くへ置き去りにされてしまったような感覚。
十四歳になった今でも、志音は“自分”という存在が半分だけしか生きていない気がしていた。学校ではうまく笑えず、家ではただ日々を流されるまま過ごしていた。周囲の人々はそれを「落ち着いてる」とか「大人びている」と言ったが、志音はそれを誇りにも嬉しさにも感じなかった。
ある日、いつもと同じように学校からの帰り道。路地の奥にあるはずのない階段が、そこにあった。鉄の手すりは錆びつき、ランタンが無風の空気の中でふわりと揺れていた。
吸い寄せられるように足を踏み入れると、空気の色が変わった。まるで夢の中にいるような、不思議な浮遊感。石畳の階段を下りた先に広がっていたのは、地下とは思えないほど広く、幻想的な空間だった。
無数の光が宙を舞い、屋台が立ち並ぶその光景は、まさに“市場”だった。
「いらっしゃいませ、感情の市場へ」
その声に振り向くと、黒いマントの少女が立っていた。
第1章:案内人クロエ
彼女の名前はクロエ。年の頃は志音とそう変わらないように見えるが、瞳にはまるで「ラベル」のような印が浮かんでいた。
「ここはエモーショナル・バザール。感情を売ったり、買ったり、時には盗まれたりする場所よ」
クロエは言葉を選ぶように、静かにそう説明した。
志音が無言で市場を歩くと、瓶詰めの感情がずらりと並ぶ店が見えてきた。ガラス瓶の中には光が揺れ、赤、青、金、黒と、様々な色をしていた。それぞれに小さなタグが付けられている。
『怒り』『恥ずかしさ』『恋心』『希望』『勇気』──
まるで美術品のように整然と並んだ感情たちは、どこか懐かしくもあり、そしてどこか怖くもあった。
そんな中、志音の目を釘付けにする一本の瓶があった。
『優しさ(微笑)──提供者:母親/関連記憶:最後の朝食/価格:未来の感情ひとつ』
瓶の中には、確かに“あの人”がいた。
台所でパンケーキを焼いてくれた、あの朝の笑顔。
思い出せなかったはずのその表情が、そこには確かに揺れていた。
第2章:凪とアメリア
志音は市場の奥で、ふたりの子どもに出会う。
凪は笑顔の少年だった。何を話しても、どんな話題でも、穏やかに笑って返してくる。
「怒りを売ったんだ。もう、怒る必要がなくなったから」
彼の声は柔らかかったが、その奥にはぽっかりとした空洞があった。
一方のアメリアは、感情のネックレスを身につけた少女だった。
「これは“他人の感動”」「これは“誰かの初恋”」
彼女は、自分の感情が不安定すぎて、“借り物”で心を補っていた。
「自分の感情に頼るのって、危なっかしいじゃない?」
志音はふたりの姿に、安定と喪失、自由と依存を同時に見た。
第3章:市場のルール
クロエが説明する。「感情を手に入れるには、代わりに何かを差し出す」
志音が見つめた“母の感情”の瓶にはこう書かれていた。
『価格:未来の感情ひとつ』
「たとえば、これから味わうかもしれない“初恋”や“感動”のどれかが、永遠に訪れなくなるということ」
その言葉は、志音の胸に重くのしかかった。
母の記憶を取り戻す代わりに、これからの人生の何かが欠けてしまう。
志音が迷っていると、バザールの支配人が現れた。
「過去にすがる者は、未来を失う」
無機質な声でそう語ったユゥリの目には、冷たい輝きがあった。
第4章:選択と記憶
志音は再び瓶を見つめた。
取り戻したいのは、母の“感情”ではなく、
それを「感じていた自分」なのではないかと気づき始めていた。
「思い出すことは、買うことじゃない」
その瞬間、心の中に、小さな何かが灯った。
第5章:本当の感情
志音は瓶を棚に戻した。
「もう少し、自分で思い出してみたい」
クロエは微笑んだ。「それができるなら、あなたはもうここには来ない」
バザールをあとにした志音の胸には、かすかに温かいものが残っていた。
エピローグ:朝の光
翌朝、志音はベッドの中で目を開けた。
ぼんやりと、あの朝のことを思い出した。
焦げかけたパンケーキの香り。母が口ずさんでいた歌。
そして、ふと振り返ったときの、あの微笑み。
それは瓶の中のものではなかった。
たしかに、志音自身の中にある“記憶”だった。
エモーショナル・バザール ――感情の市場と記憶の鍵―― 蒸気研究所 @rabomem
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