第15話 骨喰
レイは立ち上がろうとした。だが、全身の血が鉛になったみたいに四肢が沈む。
命じられた重さはまだ解けていない。背骨の節が一つずつ石に釘で留められている感覚だけが、身体の輪郭を保たせていた。
気づけば、女はもう目の前にいた。
深い袖が床の赤をさらい、しゃがみ込んでレイの顔を覗き込む。
両の手が頬に添えられる。指は薄く冷たく、けれど愛おしむ仕草で、顎を軽く持ち上げる。視線が、まっすぐ絡む。
「そちの望みは何ぞ。ひとつならば、叶えてつかわす」
レイは答えない。睨むだけだ。
女の笑みがわずかに深くなる。
「金か。名か。女か。さもなくば──復讐か」
どく、と胸の内側で一度、荒い跳ね。
反射の鼓動が、女の指先に伝わったのか、彼女は喉の奥で小さく笑った。
「ふふ……復讐か。おもしろき生を歩んでおるな。
さあ申せ。仇のかたちを。貌、匂い、癖、名──わらわが叶えてやろう」
指先が頬の骨の稜線をなぞる。柔らかな圧で、顔の向きを少し変えさせられる。
その瞬間、胸の底で怒りがはぜた。
鉛のように沈んでいた血に火が入り、四肢のどこかがわずかに浮く。喉の奥が熱く、世界の輪郭がひと筋だけ明るむ。
レイは顎をずらし、頬に添えられていた女の手へ噛みついた。
歯に触れた感触は皮でも肉でもない、磨かれた薄膜のようななめらかさ。だが舌に広がるのは鉄の甘さで、温室に残る花の匂いを押しのけて鼻腔へ逆流した。指がひと筋だけ跳ね、女の呼気が喉の奥で細く割れる。
「……ふざけないでください。この復讐は私のものだ。誰にも──誰にも渡さない」
チッ。舌打ちが赤い空気に黒い点のように刺さる。
女は手を払って身を引き、目の光がわずかにきしんだ。
「おのれ下郎が! もはやよい。無理やりおぬしの肉体を奪うてやろうぞ」
女の輪郭がほどけた。
深い袖も、重ねた布も、白い肌も、すべてが赤い靄へ崩れ、糸くずの群れのように空気へ散っていく。靄はやがて細く裂け、鼻へ、口へ、目へ、そして皮膚の細い隙へと、吸い込まれるように流れ込んだ。
冷たい針が鼻腔を走り、喉には甘く焦げる痛みが落ちる。
眼の裏で圧が反転し、視界の赤が内側から裏返る。胸の膜が、誰かの手でひっくり返される。
レイの口が、意思とは別に裂ける。
声がこぼれた。自分のものではない声質で、赤い世界の中心に縦の傷を刻むような、鋭い絶叫が。
視界が、赤だけになった。
縁が消え、上下が剥がれ、瞼の裏に塗られた膜が世界のすべてになる。
痛みが来た。
肉がえぐられ、骨がそがれ、四肢がそれぞれの方角へ引きちぎられる。筋が糸になって引かれ、関節が逆に回る。
喉が開く。叫んだはずなのに、音は泡のように弾けては赤へ沈み、自分の耳へ戻ってこない。
そのとき、足音が現れた。
乾いた歩み。ひとつ、ふたつ、みっつ──数えることを前提にした足取りが、胸骨の枚数をなぞるみたいに近づいてくる。死の足音は、確かにこちらへ歩みを進めていた。
「私はここで死ぬのか…」
返事はない。赤だけがある。
喉に冷たい膜が張りつく。息を吸う──止める──吐く──止める。奥歯を噛む。舌に血の味。
「違う」
いちどは死ぬと思った。だが死ななかった。
「まだ終われない」
復讐をこの手で果たすまで、倒れない。
「今じゃない。ここでもない」
ぴしり。
赤の膜に、髪の毛ほどの線が走る。
浅い。まだ足りない。
背骨を一本ずつ積み直すように、胸を起こす。四拍。もう一度、意志を噛み砕いて飲み下す。
「生きる」
「奪うために、生き延びる」
ぴし、ぴしり。
細い亀裂が枝を増やし、光がその筋へ滲む。赤が軋む。
さらに踏み込む。呼気を細く絞り、世界の中心を自分の体温へ引き寄せる。
「割れろ」
ぱきん。
赤が硝子の薄片のように剥がれ、ひらひらと落ちた。
息が入った。冷たい。
気づけば、元の祭壇だ。松明の炎が戻り、石は固く、世界は輪郭を取り戻している。
女が苦しんでいた。
深い袖が床の赤をさらい、片膝をついてむせるように、喉の奥から赤い靄を吐き出す。白い頬に硬い歪みが走り、指が石の縁を掴んで震えた。
「おぬし…生まれたての童がなぜそんなに殺意を持っておる…一体その体に何を飼っておるのだ!」
「さあ? 何が私の中にいるのでしょうか?」
自分でも、どこか他人の声のように平らだった。
ふと、二人の間。女が手にしていた細い金属の弧が、床の赤に半ば沈みながら転がっているのが目に入った。刃は灯を吸って、細く呼吸しているみたいに冷たく光る。
レイの足が、勝手に動いた。ふらふらと、引かれる糸に導かれるみたいに。思考の手前で、指が柄の巻きを握りしめる。布の堅さが掌に食い、金属のひやりが骨へ届く。
その瞬間、胸骨の中央から音がした。からり、と乾いた輪の噛み合う音。皮膚の下から何かが突き上がり、鎖が一筋、胸を破って外へ伸びた。黒に近い鉄色。節へ節へと滑り、まっすぐ刃へ絡みつく。握りの根元、楕円の輪の境目に、鎖がきっちりと巻き付いた。
「やめろ! なにをする! やめろ!」
女の声が跳ねる。だが遅い。鎖はもう、二巻き、三巻きと増え、金属同士のこすれる音が低く、整って鳴った。床石がひとつ、重さに応えて沈む。
何が起きているのか分からない。ただ、感覚だけがはっきりしていた。――この存在は、もうこちらへ踏み込めない。脅威の温度が一段、下がった。
女の手が伸びてくる。指は白く、袖の闇が流れる。レイに触れる寸前、鎖がしゅると走った。輪が解け、別の輪が生まれ、女の手首にぴたりと巻き付く。音は小さいのに、止める力だけが確かだ。手首の骨がわずかに跳ね、指先の形が空気の中で凍る。
「離せ……!」
女が腕を引く。鎖はたるまない。刃の根から胸へ、一本の線で結ばれた重さが、見えない楔になって空間を固定する。金属の匂いが強まる。赤い光の中で、鎖の節が一つずつ、静かに息をしていた。
女がもがいているのに、レイはもう耳を貸していなかった。視線も呼吸も、手の中のそれに奪われている。
刃は、静かだった。
きらびやかな飾りはない。柄の巻きは堅く、手の骨にしゅっと馴染む。楕円の輪は影を落とし、握りと刃との境に薄い闇をはさむ。
金属の面は磨かれすぎて、光を返すより吸っている。刃の片側にだけ通った細い線は、冬の川面に張った薄氷のように白く、揺れるたび花弁の縁だけが淡く浮き立つ。背は厚く、弧は控えめ。重心は、手の内に沈んで動かない。
先ほどのアークライン家の剣を、良いものだと思った。だが、これを前にすれば──あれは飾りにすぎない。
宝石の一つも付いていないのに、比べようがないほど美しい。そして、美しいだけではない。
この刃は、どれほどの命を咲かせ、どれほどの喉笛を静めてきたのか──金属に染み込んだ冷たい歌が、手首の内側でかすかに震えた。
「貴様! 骨喰はわらわの刀だぞ!」
女の叫びに、レイの耳がぴくりと動く。
「この形状の剣は刀というのですか……骨喰。──気に入りました」
ようやく、レイはくるりと女の方へ向き直った。
「あなたの名は? ここで何をしていたのですか?」
女はレイを睨み、ふいと横を向いた。唇を結び、答える気はさらさらないという仕草。
レイは小さくため息を吐く。
「少しくらい答えても良くありませんか? 骨喰さん?」
「わらわの名は骨喰ではまい! 骨喰はその刀の名じゃ!」
「名前を答えてくれないなら仕方ないじゃないですか。骨喰に縛り付けられてるし、骨喰でいいでしょう」
「ふん」
女が鼻を鳴らし、踵を返して離れようとする。だが、一定の距離で鎖がまた現れ、刃の根から女の手首へ伸びて、ぴんと張った。
「……っ」
さらに一歩を試みるたび、鎖はするりと巻き直され、見えない杭が近さを固定する。
女──骨喰は、歯噛みして怒っている。袖の闇が揺れて、幼い癇癪のような影を床に落とした。
先ほどまでの恐ろしさは変わらない。けれど、その苛立ちの色は、どこか可笑しくさえあった。
──怨霊、骨喰との出会いだった。
赤い蛇は命を咲かせる スザキトウ @suzakito
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