第14話 血の静寂
レイは、祭壇の前で足を止めたまま、しばらく動かなかった。
剣を手にしても、台座の“沈黙”は破られなかった。
それが“まだ何か足りていない”ことを、空気が告げていた。
冷たく、圧のある気配。見えない何かが、この空間に留まっている。
剣を手にしたまま台座を見つめていた。
すでに手に入れたはずなのに──何かが、終わっていない気がした。
目の端に映る空間の歪み。温度ではないのに“温度”を感じるような、不自然な静けさ。
それは、誰もが見落とすだろうほど些細な違和感だった。
確証はない。ただ、そう“思えてしまった”。
そういった直感にはしたがった方がいい。
レイは鞘ごと剣をそっと台座に戻した。
そして、踵を返す。
階段を引き返し、再び温室へと戻っていく。
死と花の匂いが混じり合う空間は、何も変わらずそこにあった。
ただ一つ、セレスの身体だけが──時の止まったような静けさの中で、横たわっている。
レイは無言のままその前に膝をつき、ゆっくりと手を伸ばした。
ためらいはない。迷いもない。
ごく自然な所作で、胸を裂き、その中から“鍵”を取り出した。
数分後──
敷石が短く鳴る。
再び戻った地下の祭壇。空気は先ほどと変わらず、沈んだまま凪いでいた。
だが──手にしているものが違う。
彼の掌には、赤黒い塊があった。
血に濡れたその輪郭はまだ生温かく、鈍く脈打つように見える。
セレスの心臓だった。
温室に横たえていたその身体から、レイが自ら抉り取ってきたものだ。
彼の瞳に感傷はない。
ただ、次に進むための“鍵”として、それが最も相応しいと判断しただけだった。
レイは無言のまま、祭壇の前に立った。
かつて剣が置かれていた黒い台座。その中央に、手にした心臓を──
ぽたり、と置いた。
丁寧でも、慎重でもない。
まるで試すように、あるいは捨てるように、それはやや乱暴な動作だった。
血が、台座に滲む。
その瞬間、空気が軋んだ。
ぴしり──と。
ぱきん、と乾いた音が一つ。
次の瞬間、台座の黒が内側から弾け、ひびの線に沿って赤が噴いた。
細い裂け目は、最初は髪の毛ほど。だが圧は待ってくれない。ぶしゅっと音を立てて血のような液が押し出され、石の目地を走り、段差を越えて足元へ転げた。
匂いが一変する。
鉄。甘さ。濡れた石粉。温室に残った花の香りがその上に薄い膜を張り、舌に金属の粒が転がる。
飛沫が頬に触れた。ぬるい。体温と、もう少しだけ高い温度。
松明の炎が、赤に塗り替えられる。
壁の浮彫は細い川の底のように揺れ、空間はいつしか赤一色の幕の内側になった。
靴底が「ぺた」と鳴る。粘りが吸い上げる。片足を置くたび、床から細い糸が伸びて切れた。
その赤の中から、湧いた。
液体の泡立ちではない。声が。
声と呼ぶには、形が足りない。母音のかけら、押し殺した息の端、濁った喉の震えだけが増幅され、空気の葦が一斉にざわと鳴る。
聞き取れない。だが、意味だけが直に触れてくる。
恨み。喪失。呼び戻せない名。
それらが幾層にも折り重なり、骨の内側を爪でひっかく。
うるさい。
鼓膜ではないところで鳴っているから、手で耳を塞いでも減らない。
低い唸りが臓腑の底で共鳴し、高い針が後頭部の奥でチリチリと火花を散らす。
レイは呼気を整え、鞘口をわずかに押さえた。爪の下の黒い筋がズキ、と一度疼き、その痛みが妙に世界を水平に戻す。
声はなお大きくなる。
音が層を増すたび、視界の奥行きが削られていく。赤い壁も松明の輪郭も、砂糖水に溶ける線画みたいにぼやけ、代わりに音の粒が目の前へ降り積もる。見ることが、聴くことに押し潰される。
声はやがて、形を帯びはじめた。
赤の濁流の中から、粘る音が索になり、索が指になり、指が手になる。
見えない掌が何十も、皮膚の上で探る。頬骨、喉、胸骨の溝。
ひとつが口へ、ひとつが目へ、ひとつが心臓の位置へ——こじ開けるように。
「……」
レイは喉を閉じた。呼気を薄く、水面の膜一枚だけ残すように。
音の手が押し寄せる瞬間、ほんの半拍だけ意識をずらす。
杭に戻る。黒い筋の疼き。四拍。
——耐える。
次の瞬間、すべての手が、ふっと消えた。
世界が、無音になった。
耳鳴りさえない。音があったという痕跡だけが空気の温度として残り、あとは空白。
松明は燃えているのに、炎の割れる音がどこにもない。
レイは瞬きをした。
真っ赤な空間の中央に、誰かが立っていた。
女——としか言いようがない。
幾重にも重ねた布を身にまとっている。胸元で布の端が斜めに交わり、腰は幅のある帯のような布で固く締められていた。
袖は深く、内側に闇を抱えた筒のようで、裾は赤の床をすべって薄く揺れる。
髪は黒く長い。肌は血の幕の反射で白く沈み、目は灯の色を飲んだまま揺れない。
その手には、細長い金属の板があった。
剣だろうか。しかしレイのよく知る剣とは形状が違う。
わずかに弧を描き、片方の縁だけが鋭く、もう一方は背のように厚い。
握りの部分は紐で堅く巻かれ、手と金属のあいだに楕円の輪のような仕切りが挟まっている。
金属の面は磨かれ、松明の赤を吸って返す。刃の線は、視線を撫でるだけで皮膚を薄く冷やす。
女は無言でレイを見ていた。
赤い世界に、ただ二人の静止だけが置かれている。
息の四拍だけが、レイの内側で続いた。
ふう、と女がひとつ息を吐いた。
赤い空気が薄く揺れ、唇の水膜がきらりと割れた。
輪郭は、現世の質感からわずかに外れている。光の当たり方が像めき、肌理は石像のように滑らかで、綺麗という言葉では追いつかない。
「封を解きしは、そちか」
声は低く、古い井戸の底から聞こえてくるように澄んで届く。
女はわずかに口角を上げた。笑みが赤を含み、血に濡れた女神の像が一瞬だけ完成する。
「跪け、痴れ者」
それは命令というより、重さだった。
空気が形を持って肩にのしかかり、背骨を一節ずつ押し曲げる。
抗えば折れる、と身体のどこかが先に理解した。
レイは、石に膝をついた。
膝頭が冷たさを拾い、骨を通って心臓の裏側まで届く。
金属の長い板が、女の指の中で微かに鳴った——刃ではない側で空気を撫でる、乾いた、短い音。
無音はつづく。命令の形だけが、まだ彼の全身を押さえつけていた。
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