第13話 秘密の部屋

 レイは、動かなくなったセレスの身体をそっと床に横たえた。

 静寂が戻る。温室は甘やかな香りに満たされ、花々は風もないのに揺れていた。

 それはまるで、死の訪れを祝福するかのように見えた。


 ──そのときだった。


 床に飛び散った血の一滴が、石畳のある一点に触れた。

 直後、ぱきりと乾いた音が響き、石の隙間から光がにじみ出す。

 それは、温室の隅──以前マリスの死体が横たわっていた、あの位置だった。


 淡い光が根のように広がり、魔力の紋様が浮かび上がる。

 硬いはずの床が、まるで呼吸するように脈打ち、やがてゆっくりと開いた。


 ──隠し通路。

 地の奥へ続く、細く、深い闇。

 そこには人工的な石階段があり、微かに冷気が吹き上がってくる。


 レイは、その場に立ち尽くしていた。

 予想していたわけではなかった。

 息を呑み、無言のまま数秒間、通路を見つめ続けた。


 「……何ですか、これは」


 低く、誰にも届かぬ声で呟く。

 これは偶然なのか、それとも──誰かがそうなることを“想定して”仕組んだのか。


 足元の血は、なおじわりと石畳を濡らしていた。

 それが扉を開く鍵であったことに、嫌でも現実味が伴っていた。


 レイは一歩、開かれた床の“裂け目”の前へと近づいた。

 血の跡が輝き、床の魔紋は静かに脈動していた。


 「……血に反応した、というわけですか」


 ぽつりと呟いた声には、驚きよりも興味の色が強かった。

 そして、すぐに眉を寄せる。


 「だとすれば──なぜ、マリスでは開かなかった」


 あの日。

 マリスの身体をこの場に横たえたときも、血は確かに同じ場所に流れた。

 けれど、石畳は沈黙を守り、扉など開かなかった。


 「……違いは、血の“質”」


 レイは視線を床に落とす。

 マリスは、外から入り込んだ傭兵。

 だがセレスは、この館を支配する血を引く者だった。


 「アークライン家の──それも、当主候補の血……ということですね」


 声に微かな皮肉が滲んだ。


 「……実に、いい趣味をしている」


 誰に言うでもなく、静かに笑った。

 血で扉を開かせる。


 「……これは、入るしかありませんよね?」


 レイは誰にも聞かせるつもりのない独白を落とし、ゆっくりと足を踏み入れた。

 開かれた裂け目からは、地の奥へと吸い込まれるような冷気が立ち上っている。

 階段は幅が狭く、角度は急だった。足音は石に吸われるように消えていく。


 背後の温室から差し込む光は、数歩で背中を離れた。

 壁に手を添えながら、慎重に歩を進める。

 石造りの感触が掌に伝わる。冷たく、湿っていた。


 進むほどに、闇が濃くなる。

 五歩、十歩……光の残滓すら見えなくなり、足元の感覚が宙へとほどけていくようだった。

 まるで、世界の底へ沈んでいくような錯覚──いや、錯覚であってほしいと願うしかない感覚が、ゆっくりとレイを包んでいく。


 「……長い」


 ひとりごとのように呟いても、声は壁に反響することなく、ただ吸われた。

 この通路は、いつまで続くのだろう。

 このまま歩き続けていたら、永遠に光を見られないのではないか──そんな不安が、皮膚の裏からじわじわと染み出してくる。


 そのときだった。


 壁の感触が、唐突に途切れた。

 空気が変わる。広がる。匂いが、わずかに金属を孕んだ乾いたものに変わった。

 そして──


 ぱっと音を立てて、空間の縁が明るみに照らされた。

 松明だった。四方の壁に等間隔で取りつけられたそれが、まるでレイの到来を待っていたかのように、一つずつ順に火を灯していく。


 ごうっ、ぱっ、ぱっ……

 その音と光が、不思議と恐ろしいものには感じられなかった。

 むしろ──歓迎のような、あるいは儀式の始まりのような、整然とした重みがあった。


 レイは無言で歩を進める。

 そこは地下にあるとは思えないほど広く、天井は高く、中央には何かが置かれていた。


 (……これは)


 思考が止まりそうになる。

 火に照らされたその“空間”の正体に、レイはゆっくりと目を凝らす──。


 ──そこは、祭壇だった。


 石造りの床が微かに段差を描き、中央へと視線を導くように設計されている。

 壁面には古代語らしき文字が刻まれ、松明の明かりを受けて、淡く影を揺らしていた。

 天井は高く、空間全体が冷え切っているのに、不思議と熱を帯びた圧が肌に触れる。


 祭壇の土台は灰色の石。

 しかしその表面は、削り出したばかりのような鋭さを残しつつも、どこか人の手を離れた滑らかさを持っていた。

 角には禍々しい曲線が彫り込まれ、それは“血管”にも似た模様として台座の底面に伸びている。


 そして──その中央。


 黒曜石のように黒く艶やかな台の中心に、それは鎮座していた。


 一本の剣。

 深い藍の鞘には、金の細工が細かく絡み合い、所々に鮮やかな宝石が嵌め込まれていた。

 柄もまた緻密な意匠で飾られ、手に取る前から、尋常ならざる価値を放っている。

 飾り剣ではない。鞘越しでも、確かな“力”の匂いが伝わってくる。


 レイは、無意識に歩み寄る。


 その剣が、呼んでいるように思えた。

 あるいは──すでに自分の存在を知っていたかのように、そこに置かれていた。


 レイは、台座に近づいた。

 祭壇の中央──その剣は、ただそこにあるだけで、空間の温度を支配しているかのようだった。


 そっと柄に手を添える。

 冷たい感触が指先から腕に伝い、一瞬、皮膚がざわめく。

 ゆっくりと持ち上げると、剣は驚くほど軽やかに持ち上がった。

 鞘は硬質な革に似た黒で包まれており、側面には金属の縁取りと、細かな刻印が走っている。


 レイは鞘ごと剣を持ち、静かに一歩退いた。

 そして、鞘から──抜く。


 「……ふむ」


 刃が露わになる音は、やけに澄んでいた。

 光が反射するその刃は、まるで磨き立ての水面のように歪みなく、ひと筋の汚れもない。

 試すまでもない。これは、すごく切れそうだ。


 「かなり……豪奢ですね」


 刃の根元には、金と深紅の細工が施されていた。

 鍛冶職人の誇りを映したような技巧が見て取れ、そして──


 「……この紋章……」


 柄の一部に彫り込まれた、翼を広げた獣の意匠。

 ──この屋敷で、何度か目にしたことがある。

 壁の装飾。古文書の印。使用人の制服の刺繍。


 「これが、アークライン家の剣──ですか」


 その言葉には、畏敬ではなく、わずかな皮肉が混じっていた。

 ただの飾りではない。これは、長き血統と権威の証であり、同時に──

 選ばれた者にしか手が届かない場所にあった“力”だ。


 「……思いがけず、いいものを手に入れましたね」


 レイは呟きながら、刃を傾ける。

 光が反射し、祭壇の周囲に淡い線を走らせた。

 その煌めきを眺めながら、彼は小さく──喉を鳴らして笑った。


 それは声ではなかった。

 肺から洩れる微かな呼気。

 けれど、確かにそこに含まれていたのは喜悦と、興奮だった。


 「さて……これを使って、どうしましょうか」


 口元は笑っていた。だが、その目は笑っていなかった。

 ひどく静かで、冷たい。

 それは、新たな玩具を手に入れた子供が、何に使えば一番面白いかを想像しているときの目だった。


 レイはゆっくりと鞘に納め、祭壇を背に踵を返そうとした。


 ──だが。


 どうしても、剣が置かれていた台座が気になった。

 背を向けかけた足が、ふと止まる。──何かが、残っている。

 台座は、ただ沈黙していた。だが──その沈黙が、当然のことなのにどこか奇妙に感じられる。

 まるで音のない音を聴いているような、不透明な圧が空気に滲んでいた。


 目が、離せない。

 台座から放たれているのは熱でも光でもない。

 ただ、どこかに触れてくるような、鈍い存在の“気配”。


 ──これは、第六感のようなものだろうか?

 それとも、本当に……何かが、呼んでいるのか?


 もう一度、レイは台座へと歩を戻した。

 沈黙の奥で、何かが目を覚ますような気がして。

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