河の向こう、学校の中

ツル・ヒゲ雄

河の向こう、学校の中

 河の向こうで戦争が始まったのは、もう三十年も前のことだった。言うまでもなく、僕が生まれるずいぶん前の話。なにがきっかけで、どうやって戦争が始まったのかを僕は知らないし、今現在、どういう勢力図になっていて、人々がどうして戦っているのかもわからない。本当のところを理解している人なんて、たぶんいない。真実なんて、きっとない。どこにもない。そう信じている。

「戦争が始まるよ」

 青々とした河川敷のベンチの隣に座る彼女が静かに言った。僕は彼女の目を見た。彼女の瞳は目の前に広がる河の向こうを見つめていた。彼女の視線の先には鬱蒼とした深い森が広がり、その切れ目から灰色の濃い煙が濛々と立ち昇っていた。鈍く低い音がときおり響く。

「とっくの昔に始まっているよ」

「そうじゃなくて」彼女の細い髪が風で震えた。「学校で」

「学校で?」

 彼女は頷いた。

「僕らの?」

「そう」彼女は僕を見た。「学校で戦争が始まるよ」

 言葉を探したけれど、なにも出てこなかった。物心ついたときからずっと身近に戦争はあった。しかしそれは、近くて遠い河の向こうのできごとだった。

「行こう」と彼女は言った。「河の向こうを見に行こう」

 日が暮れるまで待ってから、僕たちは河辺に下りて、大きな橋の下に転がっていた小さな舟をそっと河面かわもに浮かべた。オールを握りしめて舟に乗り込み、無言で出発した。オールを漕ぐと軋んだ音がした。かすかに響くいつもの乾いた音は鳴りやんでいた。

 河の向こうに着くと、黒い影が一人立っていた。影に見えるだけなのか、本当に影なのか、わからなかった。

「戦争を見にきたの」と彼女は小声で言った。

 影は僕に手を伸ばした。僕は手を掴んだ。影は僕を引っ張って立ち上がらせてくれた。舟から降りて振り返ると、彼女も同じように影の手を掴んでいるところだった。

「気をつけて行くんだよ」影は頷きながら言った。頷いたんだと思う。「子どもたちよ」

 森を進んで土手を越えて、夜の市街地に出た。人っ子一人いなかった。砲撃も銃声も聞こえず、あたりは静まり返っていた。薄暗く、ちかちかする街灯のほかに明かりは見当たらなかった。ひび割れ、えぐられた道路を弱い光が照らしている。

 これといって見るべきものはなかった。崩れたコンクリート造りのビル、倒壊したあばら屋、抜け殻の錆びたジープ、空き地にぽっかりと開いた大きな穴、穴の中に詰めこまれた動かない人々。途中で拳銃を一丁拾った。

 僕たちは路上で寝転んでみた。夜気で冷えた硬いアスファルトを背中越しに感じた。僕と彼女は手を繋いだ。まるで世界に二人だけみたいだった。厚い雲で星空は見えなかった。しばらくそのままで過ごしてから、起き上がって河辺に戻った。影はいなくなっていた。再び舟に乗り込んで、オールを漕いで僕らの街に戻った。


 翌日、冷たい水をコップで一杯飲んでから、まだ薄暗い時間に家を出て学校に向かった。学校に着いて教室の戸を開けると、今まさに昇ったばかりの朝日が強い光を発していて、正面の窓から射し込む黄色い陽光で視界が溶けた。僕は思わず目を細める。人の気配がする。薄く目を開けると、教壇の上に委員長が座っていた。それと、彼女が自分の席に座っている。

「なにか聞いているか?」委員長が大きな声で言った。

「いや、具体的には」僕は首を横に振った。「でも、わかっている」

 僕は昨日拾った拳銃を腰から抜いた。銃口を委員長に向けて構え、撃鉄を起こした。委員長は微動だにせず、暗く黒い大きな目で僕を見つめた。引き金にかけた指に力を込める。乾いた音が響いて、反動が身体に伝わった。撃ち抜かれた胸部から鮮血をこぼして、委員長はその場に崩れた。頭蓋骨が教室の床にぶつかり鈍い音が鳴った。

 席から立ちあがった彼女が僕に向かって歩いてくる。隣に並ぶと、彼女はため息をついた。

「戦争が始まったのよ」

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