猫模様

めるば

全文

ねこ模様

今年の梅雨は雨が少ないのだと、何度もニュースで耳にした。


(校舎裏の紫陽花が綺麗に咲かないかもしれない) 

 

海津高等学校までのダラダラとした坂道を歩きながら、ぼんやりと竹谷 春介は考える。


もう完全に学校の一時限目には間に合わず、それどころかいまが正確に何時なのかもわからない。焦ったほうがいいのだろうが、今更走り出す気にもなれなかった。


今歩いている道は運動部員たちが毎日の練習にも使うような、足に負荷のかかるほどの斜面だし、なおかつ行きは上りなので尚更のろのろと歩いている。

今日は少し涼しいくらいだから、遮蔽物がなく直射日光の当たるこの道もマシだけど、毎日通学だけで疲れてしまうこともたしかだった。

寝坊して遅刻、そして今だに半分は眠っているような頭で、いっそ居眠りでもしていこうかという気分になって、竹谷は学校にたどり着いてすぐ、気がつくと無意識に裏庭に向かって歩いていた。


人からも家族からもマイペースだとよく言われる。

それは単に人に合わせることが極端に苦手で、案外神経質で、生真面目ゆえに自分のペースを乱すことができないからだと自分では思っているが、いつも生意気そうで斜に構えたような見た目から、真逆の印象を持たれてしまう。

自分と他人との摩擦で起きる微かな、けれど積み重なれば軋轢を生むような、互いに抱く感情の差異には慣れてしまった。

諦めたと言うべきか。


一度遅刻と決まってしまったら、焦ることもなく時間を潰すようなところはなるほど確かに自分勝手な印象を持たれるに決まっている。

くだらない集団生活、慣れてきた新しい学級の気だるさ、季節の変わり目の寒さと暑さが入り混じる気温のせいで、いつにも増して竹谷はじりじりと追われるような、それでいてずっとぼうっとしていたいかのような感情に覆われ、身体を持て余す。

そうしてまた、竹谷の足は、いつも通り人気のない方へと向いてしまうのだった。



しかし、ひんやりとして居心地のいい校舎裏、ひっそりとした、猫の額くらいしかない大きさの庭のようなスペースには先客がいた。

予想に反して堂々と咲き誇る見事な紫陽花たちの群れが影になっていたし、竹谷は花に見とれていたから、そこに蹲っている人物に気がつくことができなかった。


「うわ!」


咄嗟に気がついてその人を踏みつけたり蹴り飛ばしてしまうようなことはなかったものの、無理に避けたせいで花壇の手前に盛大に転ぶ。

まだ人がいることをはっきりと意識していなかったからか、恥ずかしさよりも先に、こんな風に派手に転んだのは小さかった時以来かもしれない………、と至極どうでもいいことを考えた。

あるいは、気が動転していたからかもしれないけれど。


「……だいじょうぶ?」


咄嗟につむっていた目を開くと、同時に声が降ってくる。

聞こえてきたその声音が、思ったよりも投げやりで、全然心配そうな口調ではなかったので、幸い少し擦りむいたくらいで大した怪我もしなかった竹谷は起き上がりながら、思わず視線を巡らせて声の主を探した。


ぐるりと見える美しい紫陽花に身を寄せるようにして、座り込んで覗き込んでいる人影………ではなくて、その人が腕に抱いている生き物と目があった。


「にゃあ」

「……にゃー、」


おもわずその小さなハシバミ色の瞳に見つめられて返事をしてしまってから、ハッと我に帰る。

おそるおそる視線をあげ、今度こそ人間の方と目を合わせると、キョトンとした表情で見つめ返されてしまった。

おそらく竹谷も似たような表情をしているに違いなかった。


「ええっと……」


何一つ気の利いた言葉を思いつかないまま固まってしまいながらも、相手がよくよく見るととても整った顔の作りであることや、けれどうちの学校の男子用制服を着ているということと、節々の作りや雰囲気から紛れもなく男であるし、地毛でなかったら校則違反まっしぐらであろう色素の薄い長めの髪の毛だとか、黒地に臙脂色の線が入ったネクタイをしていることから一つ上の先輩であることなど……がわかってしまい少しだけ焦る。


上下関係の厳しいような学校ではないとはいえ、先輩がくつろいでいる場所にノコノコと後輩が乱入してきたら多少力づくで追い出されるかもしれない。

そうなれば腕に覚えのない竹谷はすごすご退散するか痛い目を見るしかないわけで、そのどちらも面倒だ。

と言うところまでつらつらと考えてから、竹谷は先ほど見た奇妙なものにもう一度視線を戻す。

やっと正常な疑問が頭に浮かんだ。


(……なんで猫?)


大事そうに抱えられている猫は竹谷のことを興味深げにじっと見ている。

子猫ではないがさほどしっかりもしておらず、三ヶ月は越しているが一歳にはなっていない、と竹谷はついつい猫の方ばかりみてしまう。

さきほど派手に転んだから、遊んでいるとでも思われているのか。

気を取られていたせいで、竹谷は不意にかけられた声を聞き逃しそうになった。


「ねこ、すき?」


薄そうな体から、やはり気力に乏しい細い声が聞こえて竹谷は面食らってまごつきながら、なんとか言葉を返した。


「えっ?……嫌いではないですけど」


というか好きだけど。

男子高校生が猫大好き!というのもどうかと思い言葉を濁したが、なぜか先輩は眉根を寄せて首を振ってしまった。


「……じゃあ、ダメ」


ため息をつかんばかりに低く呟いて、そのまま後ずさるように立ち上がってしまう。

竹谷にはもう一切の未練も興味もないのか、背を向けてさっさと歩いて行ってしまう。

思ったよりも背が高く、そしていままで出会ったこともないような、十人に聞いたら十人ともが変人だと口を揃えて答えるような人物との遭遇に、竹谷は困惑しながら立ち上がった。


「なんだったんだ……」


勝手にがっかりされたような。

あまりにも失礼といえばそれまでな態度だったが、なぜか竹谷には微塵の怒りも湧いてこない。

……十中八九、猫のおかげな気もするが。

それとも先輩の容姿が、雑多なその辺にいるクラスメイトたちなどとは一線を画していたからだろうか。

けれど竹谷は、生きづらそうな雰囲気を持ったあの先輩に惹かれたり羨ましがるよりも先に、同情の感情を抱いた。自分のように他者に交われない同族意識、とでもいうのだろうか。


決して不愉快だというものではなかったが、進んでまた会いたいとも思わないのだった。

それよりも、土を払いながら、猫が好きだと答えていたらどうだったのだろう、と考える。

あの猫を触らせて貰えただろうか。

美しい容姿をしていたとはいえ男の先輩よりも、その腕の中の白くてふわふわとした毛糸玉のような猫の方に関心を寄せながら、竹谷はその意味のわからなさすぎて冗談のような邂逅に対する感情を決めかねて、遠くの方でなっているチャイムを聞くともなしに聞いていた。




その猫を見かけたのは、何日か後の金曜日の、昼休みだった。

昼寝をするために裏庭にたどり着いた竹谷は、自分の特等席が小さな先客に占領されていることに気がついて目を細めた。

暖かい日差しに照らされて白い毛並みがかすかに上下して震えている。

その熟睡している様子を納めるためにカメラを構えてから、ふと気がつく。


(あの先輩はいないのか?)


気にかけているようだったのにこんなところに猫を放置していくことから、飼い猫というわけではないのかもしれない。

細くて白いヒゲが息で震えているのをみながらシャッターを押すと、猫が驚いて目を開けた。


「ごめん……起こすつもりは」


そっと触れてなだめるようにくすぐると、猫は怪訝な顔をしつつも逃げようとはしなかった。

それにホッとして空いているスペースにそっと腰を下ろす。

竹谷の家には、竹谷がうんと小さい頃から猫がいる。

三匹の猫たちは猫好きの両親に実の息子より(母親談)可愛がられ、人間とほぼ対等に扱われていて、竹谷も猫に話しかけることが自然になってしまっているし、外で猫を見かけても、つい目で追ってしまう。

人前でやると痛くて怪しい男子高校生にしか見えない上に、色々と多感なお年頃なので普段は猫が好きだということも極力伏せて気をつけているが、この間は不意打ちで問われて驚いた。


猫の背中にある小さな黒豆のような模様をつつきながら、野良猫にしては綺麗な毛並みだな、と思った。

普段家のふくふくと肥えた猫ばかり見ているので痩せがちな猫が珍しく、ついつんつんと軽く体をつついてしまう。

猫は嫌がる様子もなく、体を起こして座りなおした。


(うちの猫は指が沈む……多少痩せた方がいいかもしれない)


竹谷が密かに飼い猫のダイエットを考えていると、突然背後から声をかけられた。


「なにしてんの」

「うおっ!」


校舎に背を向けて立っていた竹谷は、親しげを感じさせない、むしろ警戒しているような声音を理解するよりも先に思わず声をあげる。

意識せず後ろを壁だと思い込んでいた、というよりも人がいると考えてもいなかったので、文字通り飛び上がって驚いてしまったのだった。


慌てて振り向くと、相手もそこまで驚かせるとは思っても見なかったらしく、声とは裏腹に呆気に取られたような顔をして窓枠に寄りかかっている。


(あれ……この人)


校舎の中から窓を開けて猫を眺めていたらしいその人に既視感を覚えて、竹谷はあっ、と気がつく。

まさしくいま竹谷が立っている裏庭で先日出会った先輩だった。

その浮世離れした特徴的な容姿を忘れているのは自分でもどうかと思ったが、その人ほどの特徴はないといえど、相手も竹谷と同じような表情の変遷を経て、ああ、この間の……、と呟いていたから、あからさまに今思い出したという態度を取っても問題はないだろう、と勝手に判断する。


現に、特に親しくなったわけでもないし、二言三言交わした挙句、理由はわからないものの勝手にだめだとまで言われたのだし。

というところまで仔細に思い出してしまい、どういう顔をしたらいいかわからなくなってしまった微妙な表情の竹谷を気にかけることもなく、先輩は意外にも(というと失礼だが)身軽な動作で窓枠を乗り越えて猫のところへ歩いて行ってしまう。

上靴のままだというのに気にした様子もなく、この間も思ったがどこまでも自分のしたいように行動する人のようだ、と竹谷はぼんやりとその動作を目で追う。

にゃあ、と先輩に抱かれた腕の中で猫が親しげに竹谷に向けて鳴き、それを聞いた先輩は、後輩の存在を思い出したように猫と竹谷を見比べて、首を傾げた。


「……いつのまに、仲良くなった?」


それはどちらかというと竹谷ではない方へ向けての呟きで、竹谷はどうしたらいいかわからずに、否定も肯定もせず、先輩と同じように小さく首を傾げ、それを見た猫までもが真似をするように首を傾げた。


(かわいい)


反射的に携帯のカメラへ手を伸ばした竹谷と同じことを思ったのか、先輩は猫に頬ずりするように引き寄せて、ちらりとこちらを見やった。


「ねこ、すき?」


この間と全く変わらない簡素な問いかけをされた。しかし、この間よりもしっかりと明確な意思を持って、確信を持って尋ねられている気がして、竹谷はぐっと言葉に詰まる。

(もしかしてこの人ずっと、俺が猫といるところを、長いこと見てたんじゃないか)

自分が猫をかわいいと写真を撮っていたところや、そう、声をかけて愛でていたところなんかを。

羞恥で逃げ出したくなったもの、先程の先輩の口調に揶揄する響きが微塵もなく、加えて、目の前の人も先ほど同じように猫を親しげに扱っていたことを思い出して、竹谷はしぶしぶ頷いた。


「好きです」

「そう」

(……!)


返答を聞いて、先輩が笑った。

その笑みは決して朗らかとか爽やかとか形容できるものではなく、どちらかといえばにんまり、という言葉がピッタリな笑い方だったが、先輩の綺麗な顔にその表情を乗せると意外なほどに親しみが増す。  


この人も笑うのか、と至極当たり前なことを考えながらその鮮やかな変化を受け、無意識に見とれてしまう。

いままでは無表情に近かったので人間味も感じる……と思ったが、竹谷が同時に思い浮かべたのは『不思議の国のアリス』に出てくる、チェシャ猫だった。

けれど先輩の笑い方にはどこか満足そうな、ホッとしたような響きが混じっていたから、単に深い意味はなく、大切にしている猫がいじめられたりしないのかが心配だっただけかもしれない。

この間は突き放すような態度を取ってしまって悪かったな、と竹谷が密かに思っていると、幻のように笑みを消して、先輩はまっすぐ竹谷を見つめると、短く、じゃあ、と呟いた。


そして、少しだけためらったように胸に抱いた猫と一瞬目を合わせてから、改めて言い直す。


「じゃあ、飼える?」

「へ?」


突拍子も無い台詞を聞いて、竹谷は思わず素っ頓狂な声をあげた。

この人といると、普段は出さないような奇声ばかり発している気がする、と心の片隅で思っていたのは、多分現実逃避だったのだろう。




竹谷が先輩に向かって遠慮なく間抜けな返答を返してから数時間後、なぜか二人と一匹は、揃って竹谷の家の、竹谷の部屋の中にいた。

青いラグの上に座って、先輩は物珍しそうにキャリーケースに入った猫を眺めては、時折蓋を開けて猫を撫でている。

その光景を、さらに落ち着かない心地で竹谷はじっと眺めてしまう。

部屋の中にどうも異質な存在がいる、という気がして。


数時間前に裏庭で、猫を飼えるか、と問われて、我に返った竹谷はあまり深く考えることもなく頷いていた。大丈夫だと思います、と。

別段無責任に安請け合いしたわけではなく、本当に困っているのならうちの猫好きの家族は特に異論なく猫をもう一匹受け入れてくれるだろう、と何の疑問もなく思ったからだった。

あまりの即答に先輩は嬉しそうな顔をしたものの、本当かどうか、本気かどうかの審議を測りかねているような表情だったので、竹谷としてもどう説明したものか困って、とりあえず放課後を待って家に来てもらったのだった。


(うちの家族に対する印象なんて会ってもらう以外に説明できないし)


キャリーケースは、学校の敷地外にあまりでないらしい猫に配慮し、万が一のことを考え、あらかじめ一度うちに帰った竹谷が用意したものだったが、猫はおとなしくされるがままに連れてこられた。

たしかに先輩が良からぬ輩に何かされそうだと心配するのも頷けるような無防備さで、悪いことをしていない竹谷でさえさらって行ってしまうような、座りの悪い心地にさせられた。


そしていまは、事情を説明するときのためにもということで、家族の帰宅を先輩にも待ってもらっているところだった。


「とりあえず、うちの家族が帰ってくるまで、お互いに自己紹介でもしましょうか」


竹谷が持ってきたお茶を出しながらいうと、先輩はハッと気がついたように頷いた。

……というよりも、本当におたがい名前も知らないのだということに気がついていなかったのだろう。

その様子をみて、ますますこの綺麗な先輩に人間味を感じて、竹谷は出会った時よりもどんどん興味を持った。

数回会話をするうちに、先輩が本当に猫が好きで、それは猫全般というのもそうだが、特に抱いている猫は大切に思っていて、意外にも、神経質そうで繊細そうな見た目よりもどこか抜けていてぼんやりとした性格だということが竹谷にも少しずつ理解できてきた。


「俺は、竹谷 春介。二年です」

「……羽代、藍。三年」


竹谷はほかに大した自己紹介の言葉を思いつかず頰をかく。

お互いのことで知っていることといえば猫が好きなこと、それから同じ学校の生徒であるということくらいなのだけれど、それ以外に交換したい情報が一向に浮かんでこない。

竹谷が思い悩んでいると、羽代から声がかかった。


「……笑わないのか」

「何をですか?」


一瞬考え事のせいで返答が遅れるが、それ以前にこの人は言葉少なすぎる、と少し不満に思う。

はじめだって、きちんと猫の里親を探していると伝えてくれれば誤解もなかったろうに。

今度も問われた言葉の意味がわからずに竹谷が首をかしげると羽代は眉根を寄せて仏頂面をした。


「女みたいな名前だって」

「いえ、別に思いませんけど」


たしかに男にしては可愛らしい名前かもしれないが、竹谷は特に違和感を感じておらず、そう伝えたところ、羽代は言わなきゃよかった……とますます渋面になってしまった。


そんなに気にするほどのことだろうか、とも思ったが、この先輩の見てくれから、女のようだとよくからかわれて来たことは想像に難くない。

ひょっとして名前をいうのに若干の間があったりしたのは、名前を気にしてのことだったのだろうか。

はじめの仏頂面で何か機嫌を損ねたのかと少し心配した自分が少しおかしくなって、竹谷は小さく笑った。

それを素早く見とがめた羽代が何か言いたげな表情をしたので、本当にコンプレックスらしいと慌てて口を開く。


「先輩を笑ったわけじゃないですって。本当に聞いた時は、綺麗な名前だと思っただけでしたし」


取り繕って行ったものの、綺麗な名前だと感じたことも嘘ではなかった。

今時分咲いている、竹谷のお気に入りの紫陽花の語源となった言葉でもあるし、バカにしたりという気持ちが起きるはずもなかった。

……正直に伝えるには恥ずかしいのでそこまで伝える事はしなかったが。

けれど相手は竹谷の言葉に嘘はないと判断したらしく、そして必至に否定した様子がおかしかったのか、軽く笑って頷いてくれた。


「おまえ、いいやつかも……春介?」

「はあ、……いえ、はい」


いきなり下の名前で呼ばれるなんて事があまりなく、戸惑いながらぎこちなく相槌を打つものの、このひとの無防備さというか、そんな風に知り合って間もない後輩を、すぐいいやつ、などと認識していいのか、最初はあんなに警戒していたのに……と竹谷は考えていたが、すぐに家にあげた自分が言えたことでもない、と気がついて苦笑した。

もしかしたら羽代もそういうところを指摘していいやつかも、と判断したのかもしれなかった。


「そういえば、こいつにはもう名前とかつけてるんですか?」


静かだと思ったら猫はケースの中で香箱座りをして、おとなしく、うとうとと眠っている。

竹谷が先輩はおしゃれな名前とかを考えていそうだと言葉を待っていると、羽代は猫の背中と頭の上の黒い模様を指差して呟く。


「ごま」

「ごま……」


復唱すると先輩がごま、ともう一度肯定して頷く。何故だか得意げに見えるのは気のせいだろうか。

そのあざらしのあだ名のような名前を口の中で呟くと、意外にもしっくり来てしまうような気がして竹谷も頷いた。

何度も名前を呼ばれて寝ている猫が珍しく煩わしそうに短く鳴いて、尻尾を一度だけ、振った。



竹谷と羽代が猫を介して少しずつ打ち解けていると、母親が仕事から帰ってきた。

誰かきているのか、という廊下からの問いかけに、竹谷は目配せをして先輩を促し、扉を開ける。


「おかえり」

「お邪魔してます」


ぺこりと頭を下げた先輩のしっかりした動作を見て竹谷は失礼だと思いつつ意外に感じてしまう。

母親はと言えば、先輩の顔を見て少し驚いて、その腕にあるものを見てさらに困惑した表情をしながらも、第一声は「まあ、イケメン」だった。

何故か竹谷の方がいたたまれなくなって、母親をつつきながらとりあえずリビングへ移動してもらい、座ってから簡単に事情を説明した。


「まあまあ、……ごまちゃん、を飼うのは、別にいいのよ。ええと、羽代くんがそれでいいなら」

「俺は……無責任なんですが飼えないので……」


名前のところで笑いをこらえているのを家族目線でわかってしまい血筋を感じながら、竹谷は申し訳なさそうに伝えた後、続く言葉を固唾を呑んで待っている羽代の肩を叩きたい気分だった。

基本的にこの母親は理不尽に厳しいことも言わず、声を荒げることもあまりないので安心して欲しかった。けれど、口を挟むのもどうかと思い黙って聞いていた。


「無責任ってことないわ、この子捕まえて飼わせる算段までつけたんだから」


この子、とは竹谷のことである。自分も他人事ではないくせに、見る目があったんだわねえ、とのんびりと呟いていたが、それよりも、と羽代に詰め寄る。

どうやら大丈夫そうだと安堵していた先輩がビクッと肩を揺らした。


「春介がこんなイケメンを連れてきた方が前代未聞なんだけど、どうやって知り合ったの?」


年甲斐ない、と竹谷が小さく毒付くと、そこそこの力で叩かれた。


「痛ってえっ!」

「春介が、……降ってきました」


竹谷の非難や母親の暴挙を意に介さず(そういうところは普段通りなんだなと竹谷は思った)、思案しながら口を開いた羽代が、途中で面倒になって説明することを放棄したのがわかってしまい、竹谷がキョトンとしている母親に、蹲っていた先輩に驚いて転んだこと、今日偶然再会して事情を把握したこと、ついでにごまがいかに人懐こく飼いやすそうであるかを説明して、勧めた。


「春介がいつも通りどんくさいのはいいとして、念のため明日病院に連れて行くまでは、ごまちゃんはそこに入っていてもらわないと」


みかんも、いちごも、くりも大丈夫だとは思うけど、という呟きに訳がわからないだろう、と竹谷は羽代にうちの飼い猫の名前です、と耳打ちする。

無意識に探すように視線を巡らせた羽代に、いまは来客中なのでかくれてると思います、とも伝えると先輩はこころなしか残念そうな顔になり、蓋を開け、ごまを撫でた。


そんな羽代を、母親は夕飯に誘った。もう遅いし、しばらく居たら猫たちも出てくるから、と。

先輩とは言え竹谷が連れてきたことが嬉しいのだろうし、猫好きそうな顔のいい男を興味本位で引き止めているような感じもしたので竹谷が口を挟むべきか悩んでいると、案外先輩はあっさりと承諾した。


「ありがとうございます」


表情筋が硬いながらも心なし打ち解けたような表情だったので、竹谷は初めて母親のあけすけで明るい性格と言動に感謝しながら、二回会っただけの先輩と食卓を囲むというのはなんとなく不思議な急展開なのではなかろうか、と少しだけ面白く感じている自分にも気がついた。


そのあと帰ってきた父親と共に夕飯を取り、改めてごまを飼う許可を貰ったりして、まごつきながら会話をする羽代を竹谷は観察しながら、時々援助して会話に加わったりして、概ね楽しげな雰囲気になった。

羽代があらかじめノミを取る市販薬を使ってノミが付いて居ないと判明したごまは、竹谷の部屋の中限定で自由の身となり、ご飯をたらふく食べた後、ベットの上に丸くなって居た。

そんなごまをしばらく撫でてから、羽代は安心したし帰ろうかな、と言ったので、竹谷は道がわかるところまで、と行って一緒に行くことにした。


羽代が竹谷の両親にきっちりお礼と、ごまについて挨拶や病院代は半分出すので、と伝えて、いいからいいから、と断られたりしているのを玄関で待ちながら、竹谷はやっぱり意外にもしっかりしているところはあるんだなあ、と失礼なことを考えていた。 


少ししか一緒にいないが二人きりの時先輩は竹谷のことを振り回してばかりで、説明が足らないこともしばしばだったが、あれは何故なのだろうか。

と、怪訝な表情をしていたからか、それとも自分の言動が気になったのか、羽代は竹谷を見やってから、ふと、変じゃなかったか、と呟いた。


「どういう……?」

「いつも俺は変だと言われるから……」


連れ立って夜の中へ歩き出しながらよくよく聞いて見ると、いつもはやはり言葉が足らなかったりする事で誤解されることも多いらしく、気をつけてくれていたらしい。

それでは気を張って疲れてしまったのではないか、と竹谷が心配すると、羽代は頭を振って楽しかった、と呟いた。


「お前の家は楽しい……」

「またごまに会いに来てくださいね」


それは先輩が頑張って会話をしようとしてくれたからでもあるだろう、と思ったが口には出さず、代わりに竹谷は別の約束をすることにして、羽代を誘うと、嬉しそうにお礼を言われた。


「いいのか?」

「もちろん」

「ありがとう」


ごまも羽代のことを好きだし、言わずもがな羽代もごまを大切にしているので、引き離すのはやむを得ないと言えど心苦しかったからではあるが、竹谷自身もこの不器用な先輩との関わりを無くしたくない、と思い始めていた。

普段は、人との関係を煩わしく感じていることが多いので、自身の心境の変化が妙に照れくさく感じながらも、竹谷は努めてなんでもないことのように言った。


「先輩、連絡先交換しましょう」

「うん」


お互いに慣れていない手つきでぎこちなく連絡先を登録する。

しげしげと画面を見ていた羽代は顔を上げて、


「ごまに会いたい時、連絡するね」

と言った。


その言葉を聞いて学年も違うし、先輩の家も知らない自分には、口実というものがないことに気がついて、竹谷は何故か焦燥にも似た思いを抱いた。


「先輩に会いたい時はどこへ行けばいいですか?」


口を滑らせた本人はしまった、と思ったが、その言葉を聞いて先輩は少し驚いたような顔をした後、三年五組、と呟いた。


「三年五組にきて、春介」


何故だか竹谷が猫を飼うのを承諾した時のように酷く嬉しそうに、楽しそうに笑って、羽代は待っているから、と囁いた。

ここからならわかるから、という先輩を見送って、道の半ばで別れた後も、その歌うような声が耳にリフレインして去ってくれないことに困惑しながら、竹谷は連絡先のはいった携帯を握りしめ、月に照らされて濡れたように光る帰路を一人歩いた。





その次の週から、本当に羽代から竹谷の携帯電話に連絡が届くようになった。

もっとも内容はと言えば、大体のところ〝ごまに会いたい〟というようなものだったけれど。

連絡が届くと竹谷は近日中に都合をつけて羽代を家に呼んだ。その頻度はほぼ三日おきくらいでつまり週に一度か二度であり、そのくらいの日数で充電が切れる、と羽代本人が言っていた。猫に会いたくてどうしようもなくなるらしい。


竹谷の両親も喜ぶので竹谷は一向に構わないが、羽代の方はといえば、頻繁に通っても今なお、他家の家族に混じって過ごすのは、遠慮している節がある。まあ、人の家の両親とそんなにすぐ気軽にできるもんじゃ無いよな、と竹谷は最初ほど介入しないようにしていた。

そんな羽代とは対照的に、両親に似て若干楽天的なところのある竹谷は、すっかり先輩が頻繁に家に来る状況にも早々に慣れて、羽代自身と話をしたりすることにも馴染んだ。


羽代自身も竹谷本人と一緒にいることには早いうちから打ち解けて、最近では週末になると泊まっていくことも増えた。

ごまと一緒に眠っていることがほんのはずみで話に登った時、かなり羨ましそうな顔をされたため、つい竹谷は泊まっていけばいい、と勧めてしまった。

先輩ならいいかと思ったのもあるし、切実な表情が気の毒に思えてしまったからというのが大きかった。

猫を飼えないと言っている人に、つい自慢のようになってしまったと多少の罪悪感と、猫と寝るのは竹谷も幸せを感じる時なので是非ごまと寝てほしいと思ったのだ。

案の定、羽代はかなり喜んで目を輝かせ、何度もいいのか、と子供のように尋ねてきて、竹谷としてもそんなに喜んでくれるならもっとはやくに言ってみればよかった、と思ったものだった。



今日も竹谷は、図書室で待っていた羽代を伴って帰宅した。

朝、いつものように携帯電話に連絡が来て、三年は午前授業だった為、先輩はわざわざ竹谷のことを待っていたらしい。目的は竹谷に会うことよりもごまに会うことなのだけれど……。

そんなことを考えることが増え、竹谷は内心焦って首を振る。

並んでソファに腰掛けて、テレビを見ながら猫を膝に抱えていた羽代が怪訝そうな顔をこちらに向けたので、内心をおくびにも出さず、なんでもないです、と笑った。

その膝に目線を落とすと、ごまを抱いているとばかりに思っていたが、眠っていたのはくりだった。

サバトラ模様をした体を丸めて、気持ちよさそうに眠っているものの、ぱっと見なんの生き物だかわからない。

最近は羽代が家に来ることにも慣れたのか、もともといる三匹の猫たちもこうして普通に家人に甘えるかのごとく先輩のところにもいくようになっているようで、しばしば竹谷は猫の順応力にも驚かされる。……猫も飼い主に似るのだろうか。

そんなことを考えていると、羽代の端正な顔がこちらを見ていることに気がつく。


「せんぱい?どうかしましたか」


この先輩が気になるものを見つめるのは癖のようなものらしい、と気がついてはいるものの、綺麗な顔をこう至近距離から向けられると毎度のことながら竹谷は少なからず動揺してしまう。

かろうじて問いかけると、思案するようだった先輩の目がゆっくりと瞬く。


「……なんで春介は、来ない?」


ー若干不服そうな表情に見えるのは、竹谷の気のせいなのだろうか。


「へ?……すいません、どこにですか」


まったく言われていることがわからずに困惑していると、そんな反応には慣れているのか、すぐに返答があった。


「俺の、クラス」

……待ってるって言ったのに、


と小さく呟かれてやっと竹谷は相手の言いたいことを理解した。つまり、竹谷の方から羽代のクラスを訪れてくれるのを待っていたのに、どうして来ないのか、ということらしい。


「……先輩の方からかなり頻繁に連絡くれるじゃないですか」


それに上級生のクラスに行くのって結構勇気がいるんですけど……と呟きながら弁解を試みるものの、じっと色素の薄い瞳に見据えられて何故だかドキドキしながら、竹谷はこの人も結構頑固なところがあるよな、と思った。

そしてそういう時、こうして距離を詰めて来る。

本人は無自覚なのだろうけれど、普段人とあまりスキンシップを取らない竹谷はいつも通りの距離でも近くに人がいることにギョッとすることがあるというのに、いきなり距離を詰められると心臓に悪いからやめてほしい。


いまだけではなく、こうして羽代にじっと見つめられて、竹谷が押し切られたことはままあって、別段理不尽を強いられるわけじゃないので良いにしろ、自分がこの顔に弱いからではないと思いたい。

今回も行く、と約束すれば良いのだろうか、と嘆息しそうになっていると、ぽつりと


「俺に会いたいとき……来るって言った」


呟かれて、何一つ間違ってはいないものの、そういう風に言われるとなんだか恥ずかしいような気がする、と竹谷はますます拒否したくなった。

しかし、よくよく見てみると相手の表情が不平を訴えるものとは微妙に異なっていることに気がついて、思い留まる。


(……もしかして、拗ねてる……のか?)


竹谷がなかなか教室に呼びに来ないので、もっと言えば羽代に会いたい、という理由で誘うことがないため拗ねているらしい。信じがたく思ったものの、竹谷は自分も似たような(先輩は専らごまに会いに来るためだけに俺を誘うんだろうな、というような)ことを考えていたことを思い出してしまい、ますますいたたまれない気持ちになった。


けれど、自分の反応を待っている先輩が、大好きな猫を抱いているというのにそちらには気もそぞろな様子なのを見て取って、漸く相手も同じような気持ちでいたということに小さく喜びを覚えた。


「……今度は俺から行きます」

「……やくそく」


ちゃんと約束するように頷くと、羽代は満足げに笑って体を離した。

なんとなくドキドキしたまま、けれど前とは違う距離感にいるようなお互いを思い、竹谷はいまだ離れ切らない距離にある薄い、けれど意外にも男性らしい線を持つ肩を意識して身じろぎした。


その日の夜、今日は金曜なので泊まっていきますか、と尋ねると、半ばわかっていただろうに、羽代は嬉しそうに頷いた。

夕飯が終わり、風呂から上がった竹谷が部屋に戻ると、先に風呂を済ませていた先輩は、机に参考書や問題集を広げて勉強をしていた。

その光景を見て、ああこの人も一応受験生なんだなあ、と竹谷は思う。

いつもふわふわとして浮世離れして見えるが、人並みに勉強をして試験を受ける同じ高校生なのだということに、いままでよりも実感を覚えて、戸口で立ち尽くしてしまう。


構われないので飽きたのか、ごまは部屋にいないようだった。

頻繁に会えることを覚えたのか、羽代が来るとべったりとくっついて置いていかれまいとしていたごまは、最近ではまた会えるからと安心したように離れていることも増えた。

それを寂しそうに、けれど嬉しそうに指摘する先輩の顔がなんだか父親みたいだったな、と可笑しく思い出していると、竹谷がぼおっと立ち尽くしていることに気がついて、羽代が顔を上げた。

その顔に見慣れないメガネをしているので、一瞬知らない人に出会ったかのようなぎこちない反応を返してしまい、首を傾げられてしまった。


隣に来るようラグを軽く叩かれて、ギクシャクと座り込む。

てっきり勉強を再開するのだろうと思っていたのに、そのまま片付けているので竹谷は自分が来たからだろうか、と気になった。


「いいんですか?勉強」

「別に、急ぎでもなし……」


高校三年生の夏休み前ってもっとガツガツしているものじゃないんだろうか、と心配しつつ、自分を優先されることになんとなく嬉しさを感じるので竹谷は黙っておくことにした。

それにこの人ならこんな感じでも志望校に合格するんだろうなあ、と思ったからでもある。


「……春介、見過ぎ」

「うっ……、酷いですよ!」


そんなことを考えながらぼおっと見ていると、不意に羽代が手を伸ばして視界を遮って来る。

ついでとばかりに鼻を摘まれ、からかうような仕草に顔を振って抗うと、動物のような動きが面白かったのか、声を上げて先輩が笑った。

最初に出会った頃に比べてお互いに、屈託無く笑いあうことが増えた。

竹谷だけではなく羽代も、仲良くなろうとしてくれていると思ってもいいのだろうか。


(……だとしたら、嬉しい)


いつのまにか羽代藍という人間は、竹谷の中で、同じ学校の誰よりも近くて、ともすれば家族よりも一緒にいて楽しくて、気の置けない存在になっていたのだと実感する。

それは最初から特にお互い気を使ったりせず自然体で接していたことによるところが大きいだろうけれども、それ以上にこの先輩の持つ、独特のゆったりとした時の流れをもつ雰囲気が、側にいて心地いいからだろう。

何も話さずとも側にいることが苦ではない人間を、竹谷は家族以外に初めて知った。


(けど先輩も、受験に向けてどんどん忙しくなっちゃうんだろうな)


机の端に寄せられた勉強道具にちらりと視線を投げかけながら、先輩が勉強をしているのを見たときと同じようなしんみりとした気持ちになる。

いまから寂しがる自分を嗜めるように苦笑すると、竹谷のそこはかとない異変に気がついたのか、羽代が顔を覗き込んで来る。

それで、自分が知らず知らずの内に顔をうつむかせていたことに気がついた。


「どうかした?」

「いえ……っ?」


落ち込んでると思われているのかなんとなく心配そうな表情をした羽代を見上げると、そっと頭を撫でられて思わず驚いて硬直してしまった。

家族にももう何年も頭を撫でられることなんかなく、けれどその感触がちっとも不快ではないことにますます混乱が募る。


動くこともできずされるがままになっていると、その撫で方がまるっきり、猫を撫でている時のような手つきだとわかってしまいなんとなく擽ったい。

くすくすと微かに笑う竹谷に元気が戻ったことに安心したのか、羽代も微笑んで、二、三度髪の毛を梳くように撫でてから手を離した。

それが名残惜しいとさえ心の中で思ってしまい、誰に聞かれるわけでもないというのに自分の感じた思いに竹谷は居たたまれなくなりながら、自分でも誤魔化すように髪の毛を弄る。


「春介の髪の毛はコシがある」


自分の掌を見ながらしげしげと呟く先輩に、気恥ずかしさも忘れて吹き出した。


「うどんじゃないんですから」

「うどんは、おいしい」


どこかずれた返答を上の空で返す羽代は自分の薄茶色の髪の毛を摘んでいる。

自分の〝コシのある〟黒髪とは違って、光の加減でキラキラと光るそれに、竹谷もおもわず手を伸ばした。


「ほんとだ。先輩の髪柔らかい……ってすいません!」


長めに伸びた一房を見つめて、スイ、と手櫛で梳いてから我に返る。

いくら先刻自分がされたからといって、男の先輩の髪を撫でて眺めるなんてどうかしている。それに、ものすごく失礼な気がする。

慌てて謝ると、羽代は気にした風もなく、おざなりに返事をして首を振り、自分がされると擽ったい……などと呟いている。

もともとこの人は上下関係もあまり気にかけていないようだし、よかったと別段怒ったような様子もないことに、竹谷は胸をなでおろした。


「そんなに気にすること、ないけど」


竹谷の様子を横目で見ていたらしく、ポツリと声をかけられる。

そういうわけにもいきません、と答えると、少し首を傾げられてしまった。


「親しき仲にも礼儀あり、っていうでしょう」


真面目くさった竹谷の言葉にキョトンとした羽代は、次の瞬間ふっと破顔した。


「おまえのそういうところ、好きだよ」

「そ、そうですか……?」


面と向かって褒められ慣れていない竹谷がじわじわと熱くなってきた頰を隠そうとそっぽを向くと、目ざとく気がつかれて顔を覗き込まれる。


「めずらしい、照れてるんだ」

「……照れてません」


眉根を寄せて精一杯虚勢をはる竹谷の反応が面白くて仕方がないのか、羽代は逃がさないと追い討ちをかけるようにニンマリと笑いながら、いつのまにか顔の見える位置に体を滑り込ませて来る。

その普段より俊敏な様子が先輩らしくなくて、なまけものが移動する時みたいだと竹谷はさっきよりももっと失礼なことを考えながら、だんだん何をやっているのかと耐えきれず声を上げて笑ってしまい、羽代もつられたのか年相応に笑い出す。


いつもよりも至近距離でじゃれあっていたせいか、そろそろ寝ようか、という時に伸ばされた腕に、何故だか、竹谷はどうしても抗うことができなかった。

床に敷いた布団の上で、抱き枕か何かのようにすっぽりと抱きすくめられて、恥ずかしいやら何が起こっているのか、そもそもどういう感情を抱くべきなのか自分の気持ちがわからずに竹谷は困惑しながら、様子を伺う。

それなりに暑いし、似たような体躯の男が一緒に寝ているなど、人付き合いをあまりしない竹谷でさえ何かおかしいとわかる。

不思議と、嫌悪感とかは感じないけれどもそれはそれとして。

てっきり寝ぼけているものとでも思ったのだが、予想に反して先輩の目は開いていて、腕の中にいる竹谷をじっと見つめているようだった。

暗がりの中でも、距離が近いため、目が合うのがわかってしまう。


(なんかいい匂いする気が……って何考えてんだろ)


竹谷は密着しているが故に、思わず絶対に口に出せないようなことを考えてしまい、そんなはずはないと理解っているのに相手に考えが伝わってしまう気がして、目線を外すことができなくなってしまう。

さすがに色まではわからないけれど、あの見慣れた薄い色合いの瞳に見られていることを意識してしまい、ごくりと喉を鳴らして身じろぎもできずにいると、先程のように髪の毛を撫でられた。

甘い雰囲気というよりは怯える動物のように体を固くする竹谷が、その目にはどう映ったのだろうか。

落ち着かせようと、宥めようとする撫で方が、まるでなかなか眠らないむずがる小さい子供に向けてする動作のようで、恥ずかしく、そして不満に思いつつも竹谷はだんだんと眠くなってきてしまう。

こんな状況下で寝られる自分がまるでほんとうに幼子のようではないか、と呆れながらも、先輩の手の動きとか、何故だか安心するような温もりだとか、たいして変わらないように見えて案外薄いのに大きい体に寄り添われて、ふっと体の力が抜けてしまう。


(どうしてこんなことをしたのか、聞きたいのに)


何か意図があって、いつもはしないのにこんな風に抱きしめて来るのか、尋ねたかった。

自分だけがこんなに動揺しているのだと、認めたくなくて、からかわれているにしては優しすぎる動作に戸惑い、けれどゆっくりと呼吸は緩やかになって、うとうととしてしまう。

薄れゆく意識の中で、おやすみ、と甘い声が聞こえた気がして。

果たしてその言葉に、自分が返事を出来たのかどうかさえ、竹谷にはもうわからなかった。




その日を境に週末泊まりに来ると、羽代は必ずといっていいほど竹谷を抱いて眠るようになった。

もちろん、それ以上のことは何もなくて、ただ一晩中抱き枕のようになっているだけだったが、何か普通の先輩後輩の関係からずれていってしまっているのを、竹谷は拒むこともできないで、自分自身がどう感じているのかさえ正常に把握できず、ただ煩雑な思考を持て余していた。


羽代の方に同じような考えの一端が見えるかというとそんなことはなくて、ただ言葉を交わし始めた頃と変わらない、自分の世界を崩さない雰囲気のままだ。

それで少し関係が薄れていったかといえばそんなこともなく、竹谷はむしろ先だって問い詰められた、〝先輩のクラスへ行く〟という約束を果たすために、校舎内を歩いていた。

夏休みを目前に控えて、どんどん受験に向けて授業が減って行く三年生と放課後のタイミングが合う日が、もう残り少ないだろうと思われたため、なぜか呼びにきてもらいたがる羽代に折れて、竹谷はしぶしぶ階段を上がった。


(連絡手段があるのに……)


それでも子供のようにごねる羽代がなんとなく可愛く思えてしまい、竹谷は事前に放課後の予定は空いているかという確認を取って、一度くらい訪れてみたくなった。

昼休みを境に返信が途切れている上、なんの連絡もないため止むを得なかったから、というのも理由の一つだが。


(絶対寝てる気がする)


よく授業中居眠りをしてはクラスメイトに起こしてもらうのだと本人から聞いたことがある。

そのため、返信が長く途切れる時は休み時間も眠っている時のようだ。

受験生じゃなかったのか?と思いながら、竹谷は教室の戸口から中を覗き込んだ。

ちらほらと残っている生徒たちは放課後のためか思っていたより後輩を気にせず、各々過ごしている。

もっとピリピリしているかとも思ったものの、勉強をしている生徒よりおしゃべりに興じている生徒の方が多く、竹谷は安心して体を滑り込ませた。


席についている人が少ないため、窓際の列に座って……というよりも突っ伏している見慣れた姿を難なく見つけることができた。

近寄って行くと、そばに立っていた数人の男子生徒が、物珍しげに入ってきた後輩を眺める。

視線から逃れるように羽代のかすかに上下する背を見ていると、その中の一人が声を上げた。


「もしかして、春介クン?」

「そうですが……」


なぜ見知らぬ先輩が名前を知っているのか不思議で、訝しげな表情になった竹谷に苦笑した先輩が、肩を竦めた。


「こいつから聞いたんだ、猫の後輩、でしょ」


いかにも羽代とは関わらなさそうな人工的な明るい髪の毛といくつも連なったピアス、赤い縁の伊達メガネをかけたその人は、意外にも先輩どうし気心の知れた仲らしく、ぞんざいに羽代のことを指差した。


「竹谷です」

「おっけー、よろしくな」


あまり知らない人間に名前で呼ばれるのが嫌で名字を教えたのに、わざとなのかそうでないのか、先輩は笑って流してしまう。

そのうち、どうしても起きなかったから羽代を起こしてやってくれと言い残して帰って行ってしまった。

忘れていたのか、自分は名乗らずに去って行く奔放さに毒気を抜かれてしまい、その馴れ馴れしさに不快さは感じなかった。

あまりにもよく眠っている羽代のことをすぐ起こしてしまうのも忍びなくて、竹谷は前の席に腰を下ろし、何をするでもなくぼうっと先輩を眺める。

制服にまで、竹谷の家の猫のものと思わしき毛が一本付いていて、この人は気がついても取らなさそうだな、と取ってやった。


そのまま座っていると、十五分もしないうちに教室の中にいる生徒は、二人だけになってしまった。

そろそろ起こした方が良さそうだと思いながら色素の薄い髪の毛を無意識に撫でていると、不意に先程の先輩たちの姿を思い出した。

毎日こうして教室で羽代のことを見かけ、話ができるというのは羨ましい、と素直に感じる。

何もなくても毎朝挨拶を交わし、眠たげな表情を笑って、他愛もない授業の感想などを話し合う。

それはとても魅力的な生活に、竹谷には思えた。


きっと校内で見かけることは少ないから、こうして教室で見てしまうと、当たり前だけれど来年には卒業してしまって、いなくなってしまう、と実感したから、こんな風に考えても詮無いことを考えてしまうのだろう。

首を振って気分を切り替えないと、とふと前を見ると、体を起こした羽代と目があった。


「びっくりした」


声に出ていたか、と竹谷は思ったが、声を上げていたのは寝起きの顔をした相手の方だった。

あまりにも熟睡していたのか、いまだ覚め切らないらしい頭を揺らしている。


「……クラスメイトになったかとおもった」


ぼんやりと呟かれた一言はあまりにも先程自分が考えていた妄想みたいな内容と似通っていて、前にもこんなことがあったような気がする、と竹谷は何故だか胸が締め付けられた。

西日が差し込む教室で、座っているとたしかにそんな風に錯覚してしまう。

……しかしそれは所詮錯覚なのだ。


「クラスメイトなら、よかったのに」


ポツリと漏れた一言は、自分でも驚くほど寂しげで、目の前の先輩が思わず目を見開いた程だった。

場違いに、その睫毛が、髪の毛と同じように薄い色をしていて、それがわかるほど長いことを竹谷は改めて知った。


「なんで?」

「ええと、……友達になったから」


首をかしげる先輩に、自分の感情を表す満足な言葉も、またそれを包み隠さず伝えることも思いつかないまま、竹谷はなんとなく笑った。

その笑顔を見て少しだけ考えるようなそぶりを見せた羽代も、やがて、いつもよりもそれとなく優しい表情をして同じように笑いかけた。


「もう、友達」

「……はい」


その言葉をとても嬉しく思う反面、たしかに傷ついている自分に気がついて、相反する、矛盾した感情を抱えながら、けれど自分を受け入れてくれる先輩の言葉を、竹谷は噛みしめるように頷いた。


「……それで……何か、用事だった?」


少しして、席を立った羽代が不思議そうな顔で問いかけ、竹谷はまだ自分が要件を伝えていなかったことに思い至った。


「猫たちの首輪を新しくしようと思ってて。先輩、いつ空いてます?」


帰り道で予定を立てようと放課後迎えに来たことを、すっかり忘れていた。

まだ、家に来てひと月半ほどの新参者であるごまの首輪は買っていなかったし、どうせなら先輩が選んだ方が似合いのものを選んでくれるかと思ったのだ。

ついでに、他の猫たちにも首輪を新調しようと考える。

多忙な時期に、とも思うものの、息抜きも必要なのでは、と竹谷は自分を納得させた。

先輩だって無理なら断るだろうし、と。

少し考えていた羽代は、うーんと唸った。


「今日は?……急だけど」

「急ですね。大丈夫ですけど」


善は急げとばかりに提案された予定に、竹谷も特に異論はなく頷く。

休みの日、と思っていたが、考えて見ると、いつも羽代が来るときでも学校から家まで直帰していたため、放課後何処かへ行ったことはあまりない。

行くにしてもコンビニやスーパーくらいのものだ。

まあ今回も、駅前にあるペットショップや雑貨屋を覗く程度だろうけれども。


「うん、楽しみです」


念のため家へ連絡を入れてから竹谷が頷くと、羽代もかけてあったカバンを手にして、頷き返す。


「いい首輪、あるといいね」


羽代も楽しそうな様子で、心なしかせかせかと戸口へ向かう。

確かに急がないと夕方になってしまう、とその背を追いかけた。




二人でたっぷり時間をかけて猫たちの首輪を選び、帰る頃にはもう日が暮れかけていた。

橙色や桃色の空の向こうから、雲間に夜の色が迫りつつある。もう少しで月も姿を見せる頃だろう。

せっかく買ったのだから、と竹谷は家で一緒に新しい首輪を猫たちにつけようと羽代を誘い、一も二もなく肯定されて、今日も仲良く帰宅した。


この頃では、竹谷家の猫も人も羽代の存在に違和感を感じなくなって来たようで、母親なんかは普通におかえり、と声をかけるし、応じる羽代も前より遠慮なくただいま、と平然と返している。

(先輩が言うと冗談なのかもわからない)

猫たちに首輪を見せても露骨に興味なさげにそっぽを向かれてしまったが、二人で真剣に選んだだけあって、どの猫も新しい首輪がよく似合う。

似合う似合うと声をかけると、まんざらでもなさそうな顔をしてみせる猫たちが可愛くて、人間が笑う。

三毛猫のいちごには女の子らしい淡いピンク色、サバトラで色が濃い目のくりには新緑みたいなみどり色、薄い色のキジトラのみかんには晴れた空のような青い首輪をそれぞれ選んだ。


最初は、家に来た時期にちなんでつけられた名前に沿った色を探していたのだけれど、栗色?と二人で悩んでしまったのでいっそ一番似合いそうな色とデザインで選んでしまった。

古株の猫たちに首輪を付け替えてから荷物を置きに部屋へ行くと、ちょうど扉の前にごまが座って待っていた。

最近、やはりごまは特別らしい羽代が部屋でこっそりおやつをあげているので、味をしめたごまは、拾い主の足音を聞くとこうして部屋の前で待ち構えていることが多い。


「探しても見つからないわけですねえ」

「ちょうどいいけど」


最後に手元に残った首輪を眺めながら羽代がつぶやく。

二人が部屋に入る前に率先して先導する小さな背中を見て、目を合わせて苦笑した。

おやつをあげながら首輪をつけると、赤い蝶ネクタイのような大きめのリボンがついたデザインは白い毛皮に良く映えていて、二人で少し成長したごまを褒めちぎった。


「本当に良く似合ってますね」

「うん、赤にしてよかった」


最後まで色に悩んでいた羽代がホッとしたようにつぶやいていたので、流石に良く見ているんだなあ、と竹谷が笑うと、フイと視線をそらされてしまう。


「?……ほら先輩、こんなに可愛いんだから、写真撮らないと!」


何か気に障ってしまったか、と思いつつ、自分の携帯を構えながらごまがいる方を指差す。

おやつを食べ終えて満足したのか、褒められることが満更でもないのか、ごまも写真に撮られることが嫌ではないらしい。

竹谷は、自分でも写真を撮りながら、全く返答がないのを怪訝に思い振り返った。


「先輩?……ッ⁉︎」


顔を向けた瞬間、思ったよりも距離が近かったことに驚いていると、不意に唇を奪われた。

一瞬何が起こったのかわからずに息を吸うと、開いた口の隙間から生暖かいものが入って来る。


「ん、んん……!」


それが舌だと認識して、漸くキスをされていることに気がついてパニックになる。

薄眼を開けると、いまだかつてないほど近くで虹彩の薄く散らばる瞳を覗き込んでしまい、更に誰と、何をしているのかを理解してしまい体が固まる。


(なんでずっと見てんの……!)


蛇に睨まれた蛙のように抗えないでいると、緊張を感じ取ったのか、いつのまにか背に回っていた腕が、宥めるように竹谷の服の上から肌を摩った。


「ん、う……っ」


息が苦しくなりながら、その感覚にぞわりと肌が粟立ち、それが嫌悪感ではないことにハッとして羽代の胸を強く押し返す。

思ったよりもすんなりと離れてくれたものの、名残惜しげに互いの唾液が繋がっていたのを見てしまい、慌てて目を逸らせた。


「……な、なんで、」


泣きそうな思いで自分の顔を触ってみると、本当に目尻に溜まっていた涙を乱雑に拭い去りながら、切れ切れに尋ねると、羽代も自分の行動に驚いたかのように、目を瞬かせた。


「……せんぱい」


黙ったままでいるのが恥ずかしいやら気まずいやらで、強めの口調で促して睨むと、躊躇いがちな声が返ってくる。


「ごめん……かわいかったから」

「先輩はかわいければ誰にでもキスすんの?」


その言い方がまるで猫が可愛くて構い過ぎた、とかそういう口調ならばまだしも、本人にも理解しきれなさそうな言い方だったので、竹谷は思わず責めずには居られなかった。


「……わかんない」


敬語も忘れて珍しく声を荒げる竹谷に、羽代も、どうしていいかわからなさそうな途方にくれた声を出した。

サッと血の気が引いていったのは、誰でもよかったのか、と問いただしたくても出来なかったからだった。

そうだと言われたようなものだ、と思ってから、竹谷は行為それ自体に自分がこんなに苛立っている訳ではないと気がついた。


(嫌だったからじゃなくて……俺としたかったって言われたかったってことか……⁉︎)


気づいてしまった後は、うまく先輩の顔を見ることなんて出来ず、けれど相手も俯いたままだった。


「ごめんなさい先輩、……今日は、帰って」

「……、……うん」


何か言いたげに口を開いた羽代は、結局何も言わずに立ち上がり、ごまの頭を一撫でしてから静かに出ていった。

去り際にかけられたごめんね、という寂しそうな声音を背中で聴きながら、竹谷はようやく自分の中に、羽代への恋が芽生えて居たことを知った。


(友達って言われて胸が痛くなったのも、)

放課後の二人きりの教室を思い出す。


(俺だから、と言われなくてこんなに悲しいのも、)

触れて居た唇を無意識に指でなぞる。


(自分で追い返したくせにこんなに寂しいのも……全部、先輩が好きだから、なのか)


いつから、なのかは自分でもわからなかったし、むしろ自分がそれほど人を好きになるというのも信じがたかった。けれど、腑に落ちてしまったのだ。


(もしかしたら、最初から)


その目に自分の姿が映し出されたその時から、竹谷は引かれ始めて居たのかもしれない、そう思いながら、相手はそうじゃない、ということを痛いくらいに思い知った。


(でも、先輩は別に、

……俺じゃなくても、良かった)


たまたま困って居た羽代に手を差し伸べたのが自分だっただけで、竹谷でなくてはダメだったという訳ではない。

自覚した途端に無駄になってしまったと、取り残された部屋の中で竹谷は少しだけ辛くて、泣いた。

声も上げずに涙を流すその姿を、先輩が拾った猫だけが、困ったように見つめて居た。



先輩に謝ったほうがいいかもしれない、と思ったのは、休みを挟んで次の週の朝だった。

あれから羽代からの連絡はなく、週が明けてしまった。一人で悩み続けた竹谷は、やっと自分自身の思考の混沌から抜け出せることができて、多少気持ちが整理できた。

悩みの種であるところの相手から連絡が来ず、考え事には幸いだったと言えるかもしれないが、このままになってしまうことは避けたいし、羽代だってもうどうでもいいということはないと思いたい、という結論になった。

傷つけられたことは事実だとしても、追い出して、拒絶するような真似は本意と違うし、きっと羽代のことも少なからず傷つけてしまったと、竹谷は後悔した。

どんなに辛くても、この先交わっている縁が途切れてしまうことがあったとしても、羽代が卒業してしまうその時までは、短いけれど一緒にいたいと、そう思えるようになっていた。


人間の心は不思議なもので、朝が来ると自然と前向きになれるような気がする。

けれど決心して訪れた教室には、羽代の姿はなかった。

先日話をした先輩がもう来ていたので聞いて見ると、そういえば、という顔をされた。


「羽代?今日来てないねえ」

「最近は毎日いたのにな」

「そうですか……ありがとうございます」


先輩たちの反応と会話から、羽代は遅刻したり休んだりということの方が多いらしく、どちらかといえば最近は〝めずらしく〟まじめに登校していたらしい。

受験生だからかな、いやあいつはそんな風には見えなかった、まあ短縮授業の日も多いし……と好き勝手に話を続ける先輩たちに軽く頭を下げ、竹谷は教室を後にする。

急がなければ、自分もホームルームに間に合わなくなってしまう、と先輩の一人の言葉で思い出した。

廊下に出ると、先日真っ先に声をかけて来た先輩に呼び止められた。


「ねえ、羽代が最近来てるのって春介クンがいるからでしょ?」

「え……いや、わかりません」


そうなのかな、と考えはしたものの、自分の希望的観測が入りすぎていると否定した事を指摘されて思わずまじまじと相手の顔を見てしまう。

少し見上げなくてはいけない身長差が男子高校生としては複雑で、悔しいと関係ないことまで考えた。

目があったことが嬉しかったのか、先輩は明るく笑ってきっとそうだな、と呟いた。


「猫のこと話すのと同じくらい、君のことは楽しそうに話してたよ」

「そ、そうなんですか?」


猫に対して端正な顔を惜しげもなく甘くして接する羽代を見慣れているため、竹谷は動揺した。


「そうなんですよ」

「先輩は、……」


羽代と仲がいいのか、と聞こうとして相手の名前を苗字さえ聞けていないことに気がついて口ごもる。


「あ、やべ」

「あっ」


言い直そうとして口を開いた瞬間、被せるように予鈴がなって、二人とも慌てて肩を竦めた。


「まあ、この間も行ったけどあいつのことよろしくね、……これ、俺の連絡先!じゃあな」

「は?……はい……」


矢継ぎ早に一方的に捲し立てられ、小さなメモを握らされたと思った時には先輩の姿は扉の中へと消えていた。返事をするのもままならなかった竹谷は、けれどそのまま早足で歩き出す。


(なんであの人からよろしくされなけりゃ……)


思い出して少しだけ引っかかりを覚えたものの、あの先輩にとっては友達の後輩でしかないわけだし、なんらおかしいことはない……どちらかといえば自分の思考の方が普通と違ってしまっているのだと、自身を窘める。


(それよりも……また名前聞きそびれた)


自分の教室にたどり着き、席に着いてからそっとメモを広げると、アドレスと電話番号だけが走り書きされていて、名前はどこにも記されていなかった。


(まあ、いいか……)


諦めて、しかし無視をしたと思われてしまうのも良くない、と簡単なメールを送っておいた。

それよりも羽代のことの方が気にかかる。

携帯を確かめても、やはり連絡は来ておらず、こっちから何か、と考えはするものの文面に悩んで、打ち込んでは消すのを繰り返す。


授業が始まって一旦携帯をしまいつつ、休み時間の度に連絡できず……ということを繰り返すうちに、あっという間にお昼休みになってしまった。


(俺のこと、怒ってるかな……)


躊躇いながら、そればかりを考え込んでしまっていたが、ふと具合でも悪いのか、と思い至る。

むしろその可能性の方が休みの理由としてはあり得そうだ。またしても自分を中心に考えてしまっていた、と竹谷は無意識の自惚れを恥じた。

同時に、もしも風邪だとしたら心配だし、体調を気遣うメールなら送りやすいとホッとする。


『今日、来てないですよね?風邪ですか』


白々しいと思われはしないかと考えるネガティブな気持ちを押しとどめて送信ボタンを押す。

ソワソワとしながら購買に行き、習慣になりつつある裏庭日参の為に階段を降りていると、着信音がして、竹谷は一旦踊り場で立ち止まった。


『ただのサボり』


たった一言だったが、いつもの羽代となんら変わらない文面に酷く安堵した。口調さえ思い浮かべられそうだ。いつも通りすぎて、金曜のことは夢か何かだったのかと一瞬本気で思ってしまう。

そんなはずもないので、竹谷は覚悟を決めて返信をする。


『怒ってますか?』

『怒ってない』

即座に返事が来て、さらに立て続けに先輩から連絡が来る。


『怒る理由もない』


そっけない言葉の二通が、どちらかといえば竹谷に気遣った結果なのだとわかって、小さく笑う。


『よかったです』


うまい言葉も思い付かず正直に気持ちを述べると、そのあと数分返信が途切れた。

普段も突然会話が途切れることがままあるので、名残惜しくなりながら携帯をしまおうとすると、遠慮がちに小さい音が、再び鳴り、慌てて確認する。


『うちに、くる?』

『行きます』


考えていてくれたのか、その逡巡が嬉しいと、竹谷は率直に、速攻で返した。

住所と、簡単な道順の説明が送られてくる。帰る先輩について近くまで行ったこともあるが、家の場所を確認したことはないし、学校からの行き方はわからなかったので竹谷はきちんと目を通して、道を思い浮かべる。

お礼の言葉を送ると、今度こそ返信が途絶えた。

やり取りを見返しながら、舞い上がった気持ちが鎮まって冷静に鳴って見ると、それにしても竹谷の方は常に焦りすぎだ。


(場所もわからないのに即答してしまった)


苦笑しながら、最後に添えられた、『まってる』という言葉を何度も読み返した。

少し前に、自分の教室で待ってると言った羽代の表情を思い出しながら、行けるならすぐにでも会いに行きたい、と考える。

けれどその行動は、後輩から逸脱していやしないか……わからない。

確信が持てず、竹谷は考えを振り払う為に首を振って、大人しく残りの時間を学校で過ごすことに決めた。



放課後を待って訪れた羽代の家は、普通のアパートの一室で、しかし単身向けと思われるその部屋は、高校生が住むには不釣り合いと言えなくもなかった。

てっきり家族と住んでいるとばかり思っていた竹谷は、何度も住所とドアの斜め上にかけられた表札を見比べて戸惑った。

呼び鈴を押すのを躊躇って、着きました、と連絡すると、すぐに扉の内側から鍵の開く音がした。


「ほんとに来た」

「ええ?」


扉が開かれて顔を見た瞬間のぞんざいな言葉に思わず怒るでも悲しむでもなく笑ってしまう。

竹谷が笑ったのを見て一瞬羽代も肩の力を抜いたように見え、一応この前の出来事は現実に起こったことらしい、とぼんやりと考える。

招き入れられるままに部屋に入り、お邪魔します、とおそるおそる呟くと、礼儀正しい言葉に、先を行く羽代がおかしそうに振り返った。


「俺しかいないから……大丈夫」

「一人暮らしなんですね」

「言ってなかった?」

「聞いてないと思います」


半ば予想していたので確認するように尋ねると、首を傾げられた。


「外、暑かった?……鼻、赤くなってる」


室内で顔を合わせて気がついたのか、羽代がごく自然な動作で竹谷の顔に触った。


「い、え……」


言葉に詰まりそうになりながら平静を装うと、すぐに指先は離れ、羽代が再び歩き出す。

いつもと変わらない薄い背中を眺めながら、竹谷は速くなった鼓動を鎮めようと息を吐いた。


あまり長さのない廊下を歩いて行くと、生活感の漂う部屋に入る。

一般的な冷蔵庫や布団、小さい本棚という家具は揃っていたが、それでもそこはかとない寒々しさを感じて、竹谷は自分の部屋と比べて、物がとても少ないことに気がついた。

折りたたみのローテーブルの上は乱雑に物が溢れていたが、大半が教科書やルーズリーフ、筆記具だったし、本棚の中身も辞書や少しばかりの小説、参考書くらいしか立ってない。

どこへ腰を下ろしていいか迷っていると、窓際の座椅子を指された。


「えい」

「ひっ」


おっかなびっくり腰を下ろして部屋の様子をそれとなく眺めていると、気のない声とともに不意に冷たい感触が首筋に押し当てられ、思わず悲鳴をあげる。

慌てて確認すると缶のスポーツドリンクを手にした羽代が、差し出した体制のまま困ったように苦笑しており、行き場のない飲み物を反射で受け取る。


「そんなに驚いた?」

「そりゃ……」

「俺もびっくりした」

「見りゃわかります。……ありがとうございます」


礼を言ってから、手の中で汗をかく缶のプルタブを開け、一気に飲む。

思っていたよりも汗をかいていたのか、ほとんど中身を飲み干してしまう。

飲み終わってから、ふと視線を感じて顔を上げると、物言いたげな目と目が合う。


「先輩?」

「そんなに喉乾いてたの」


俺の分も飲む?と問われたので首を振る。

流石にそこまで乾ききっているわけでもないし、この部屋は冷房が効いていて涼しいので、冷たい飲み物を飲んだら寒さまで感じる気がした。

それに、どうにも羽代の視線が、表情が、別のことを考えている様子で落ち着かない。

何を、とまではわからないものの、竹谷が玄関の扉を潜ってから、気もそぞろというか、心ここに在らずというか。竹谷は伺うように隣を見た。


「先輩、俺来ない方が良かったですか?」

「なんで。……いや、誘ったの俺だし。嬉しいよ」


羽代は、思わず、と言った調子で答えてから、自分の発言の語調が強すぎたことを誤魔化すように柔和に言葉を繋げた。


(動揺……してるのか、あの先輩が)


「それなら、よかったですけど」


有耶無耶にされたような、けれど嘘を吐いている印象は見受けられなかったので、仕方なく相手に合わせて頷くが、真意がわからずに困惑する。

思い切って何か話題転換をした方がいいかもしれないと、僅かな沈黙の後に顔を上げた竹谷は、思考に没頭していたせいで、羽代が近かった距離を更に縮めていたことに気がつかなかった。


「えっ……、」


完全に予想もしなかった距離か行為かに驚いて腰を浮かせるのを押さえつけられるかのように、接吻けが深くなる。驚いて息を吸い込んだものだから、いともたやすく口内に舌の侵入を許してしまった。


「ん……っせんぱ、い」


合間に呼ぶと、その度に首筋を指先が撫でて行く。

汗をかいているだろうからあまり触って欲しくはないのに、揺れ動く心がその微かな触れ合いさえも嬉しいと感じ取る。


「しゅんすけ」


おもむろに名前を呼ばれてぼうっとしたまま竹谷が振り仰ぐと、羽代は目を細めた。


(この間と同じ目をしてる……ような)


先程までの羽代の様子と この間の表情が被って見えたのは気のせいでは無いはずだ。その証拠に、羽代はもう一度キスをしながら、竹谷の服に手をかけた。


(欲情してるって……?)


自分に触れたいと思ってくれたことを喜ぶべきなのか、あの先輩にも性欲はあったのかと驚くべきなのか、迷っているうちに、シャツのボタンが外され、肌が外気に触れた。

ひんやりとした手が肌を撫でるのに肩を竦めながら、竹谷は密かに貞操の危機を危ぶむ思考が勘定に入れられていない自分に動揺した。


(いくらなんでも抵抗とかないのか、俺も……このひとも!)


「ちょ……っと!……んんっ」


我に返ってどうにか体を離そうとしたのを見計らったかのように露わになった胸の飾りに歯を立てられ、意思とは関係なく背中が震えた。

執拗に舐められ、指で捏ねくりまわされ、覚えのない感覚に、快感よりも居心地の悪いような悪寒にも似た感覚を覚える。

普段何も気にしたことがなかった箇所を繰り返し刺激され、すっかり見た目の変わったそこを視界に入れたくない。


「……や、っせんぱい……」


慣れない愛撫に泣きそうな声で竹谷が縋ると、微かに首を傾げた羽代が身を起こして顔を覗き込んでくる。


「やだ?」

「だって……、」


言いたいことはたくさんあるはずだし、止めなければと思うのに、口からは駄々を捏ねる子供のような声しか出て来ず、竹谷は力無く首を振った。

うつむいた拍子に見ないようにしていた自身の胸が濡れて、赤くなっているのを確認してしまい、更に慌てて目を逸らした先で自分の性器が微かに布を押し上げていて、戸惑った。

その様子に気がついたのか、羽代がぐっと膨らみを触った。


「……きもちいいんじゃないの」

「そ、んなこと……」

「けど、勃ってる」


確認するような、聞き分けのない子に聞くような優しい口調だったので、竹谷は余計に惨めな気持ちになる。

赤い顔を隠そうと腕を持ち上げると、ズボンのチャックが開かれ、おもむろに中身を取り出される。


「……っ!」


羞恥に駆られ息を飲むと、そのまま羽代は菓子でも食むかのように、屈んでそれを咥えてしまった。

信じがたい光景を認識できずに、座椅子から力の抜けた体がずるずるとずり落ちる。それでも特に不便を感じないのか、羽代は舌を絡めてきた。


「あっ、……せんぱ、ッそんな……、」

「いい?」

「……ッ、」

「どう……?」


どうやら竹谷の言葉を気にしているようで、腰骨を抑えながら上目に訊いてくる。

こちらとしては声を押し殺すのに必死なのだし察してほしい、と思うものの、答えずにいると鈴口を舌で刺激され、腰が跳ねる。

唇を噛んで強い快感に耐えていると、細い指が咎めるように優しくなぞる。


「春介」

「……き、きもちいい、ですっ……!」

「そう、よかった」


やっと口を話してくれたと思ったら、重ねて問われるように名前を呼ばれ、根元を抑えられる。

やけくそに答えると満足げに微笑まれ、解放されるとホッとしたのもつかの間、またしても口に含まれる。


「ひ、……っん」


下腹の皮膚を舐められ、陰嚢を揉まれて腰がビクつく。確かな快感を口にしたことで、タガが外れたかのように竹谷の体が快感だけを追っている。


「や、……イく、からっ……ぁ、……っ!」


離してくれ、と訴えても、ゆるやかな愛撫が止まることはなく、髪の毛がサラサラとあられもないところにかかる感触で、竹谷は誰と何をしているのかを如実に認識してしまい、そのまま達してしまった。

我に返り、青ざめて、床に近い場所から、体を起こす羽代に手を伸ばした。


「すいません……!」

「なんで?」


その喉が話す前に上下したのを見て、竹谷は何が嚥下されたのかを理解して更に申し訳なくなる。

まさか先輩にそんなものを飲ませるなんて、考えたこともなかった事態に、平然としている羽代の顔を直視できなかった。


「おわりじゃないんだけど……」


一人顔を赤くしたり青くしたりする竹谷を見兼ねて、その腹に飛び散った精液を羽代が指で拭う。


「え」

「春介だけ、ずるくない?」


ニンマリと笑うその顔は、怯える自分をからかうもので、竹谷は後ずさろうとするものの、座椅子に背が当たって、逃げ場がないことを改めて思い出した。


「大丈夫……入れはしないから、」


さっと触れるだけのキスを落とし、羽代が竹谷のズボンを取り払って足を抱える。


「いっ……」

「春介、からだ固いね」


いつもと変わらない声音で感想を述べながら、ほぼ裸の男を抱えているのはどうなのか。

竹谷がじっとりと睨むと、そんなのは歯牙にもかけないのか、軽やかに微笑んで返される。


「今度はいっしょにしよう」

「えっと……⁉︎」


その綺麗な顔から性的な匂いのする発言が平然と並べ立てられることに何度も動揺していると、急に体を密着させてきた羽代が、鎖骨の下を軽く吸う。


(跡……)


その甘い所有印の感覚に身じろぐと、相手の性器が取り出され、自分のものとは異なった熱が擦り付けられているのに気がついた。


「あ、ッ……」

「春介も、さわる?」

「ん……」


その手で二本まとめて握った先輩が、触って、ではなく何気ない風に尋ねてくるものだから、緩やかな刺激に物足りなくなった竹谷は、無意識に頷いて手を伸ばす。

熱に浮かされた積極性がおかしかったのか、嬉しかったのか、羽代が微かに喉の奥で笑った。


「なんですか」


近い距離だったので笑いの振動がわかってしまい、文句を言いたくて上目で睨むと、ますますおかしそうな目をして、薄い色素の眼球がこちらを捉えた。 


「かわいいなっておもったんだよ」

「え、」


咄嗟にきき返そうとしたのを、照れるかのように抑え込まれ、抱き寄せられる。

互いの間にあった僅かな隙間もなくなり、さしたる抵抗もできないまま竹谷は薄い、けれど自分よりも広い肩に持たれかかった。


「髪の毛がくすぐったい……」

「ん、ん……」


引っ張られた拍子に持たれかかり半ば膝に乗るような形になって、跨ぐような姿勢に体が痛むものの、耳元で呟かれて体を揺らされ、微かな刺激に肌が粟だった。


「……ん、」

「……あ、んん……っ」

(これじゃまるで……っ)


股の間に、羽代の性器が抜き差しされるのを、どちらのものとも言えないヌルヌルとした液体で太腿が滑る感覚で理解し、力を込めてしまう。

体を揺すられ、刺激を与えられて、息遣いすら相手を高めるのに作用するなら、最後までしているのと変わらない、と竹谷は白い肌に爪を立てた。


「なに、しゅんすけ」

猫みたいだ、とふっと笑って髪の毛を撫でられると、何故だか泣きたくなった。


(愛し合ってる、恋人みたいな)


こんなことをしているなんて信じがたい、と竹谷は思ったけれど、もっと信じたくないことに自分たちは何一つお互いの気持ちを知らないし、伝え合ってもいないということだった。

竹谷がこんなに好きなことを羽代は知らないし、竹谷は相手が何を思ってこんなことをしているのかわからない。


「う、あ……っせんぱ、ッ」


限界がまたしても近づいてきて、縋るものを欲してぎゅっと抱きつくと、耳元にリップ音が聞こえた。


「いいよ、イッて……っ」

「んん、……、……ぅ」


強く腰を打ち付けられ、一際声が出そうになって、無我夢中で竹谷は目の前の肩に歯を立てた。



「……痛い」

「え、……す、すいませんっ」


脱力していた体を起こしてみてみると、くっきりと赤く歯型が残ってしまい、かろうじて二の腕あたりで引っかかっていたシャツで唾液を拭う。


「いいけど……よほど目立つ跡だし」 


背中をぽんぽんとあやすように優しく叩かれ、口調は揶揄しているようなのに、先ほどの行為とのギャップも相まって笑ってしまいながら、もう一度竹谷は目の前の体に持たれかかった。

夢中で気がつかなかったが、相手の体も自分と同じように汗ばみ、しっとりとなめらかな肌が湿り気を帯びていて、改めてこの綺麗な人もちゃんと同じ生き物だということに感動した。


(出すもの出して今更すぎるけど)


どうにもセンチな自分の思考に苦笑して、目を閉じると、肌の下から鼓動の脈打つ音までが聞こえてくるようだった。

その音を聞いていると、何故だか安心してしまう。


「春介?……ねむいのか?」

「いえ……」


そういうわけではなかったけれど、眠いと答えることで少しでも長くこの音が聞いていられるなら、頷いて見せるのも悪くないな、と竹谷はぼんやりと考えた。

けれども何も言わなくたって、羽代は竹谷の気がすむまでこうしていてくれるだろう。

竹谷は確信にも似た思いで、そう感じてもいるのだった。




竹谷と羽代の関係が変化してから夏が過ぎ、秋になった。

五月蝿かった蝉の声も途絶えて久しく、学校の周りの木々もすっかり紅葉している。

裏庭を囲む植物たちも例外なく色を変えている。

暖かい飲み物を手で持って、埋もれるようなベンチに座りながら、竹谷はもう長いこと考えることを止められないでいた。

肌寒い季節になると、思考回路も灰色になってしまうような気がする、と竹谷はため息を吐いた。


(俺と先輩は、どういう関係なんだろう……、……)


夏休みの間も互いに予定を合わせて出かけたり、互いの家に泊まったりした。そしてあれからも、幾度かそういう接触もあった。

どちらから、というのでもない代わりに、羽代が最後までしようとすることはなかったし、それ以上の、付き合うだとか、好きだと言葉を交わすだとか、という段階に進むこともなかった。


竹谷は専ら、自分たちの関係性が具体的に表すことのできる形あるものとして成り立っていないことが不安だった。

相手の好意を感じることはあるけれど、確かな言葉を貰ったことも告げたこともない。

すぐにでも掻き消えてしまうような軽い関わりではないにしろ、相手の気まぐれ一つで疎遠にならないとも言い切れない。

正常なのかそうではないのかは個人の見解に偏るから置いておくにしても、手順を踏むのは思っていたよりも大切なことなのだと竹谷は自覚した。


(けど確かめて詰め寄ってみて……、

それで、卒業までの関係とか言われてしまったら)


立ち直れる気がしない、それ以前に少なからず聞く前と聞いた後でも心情が変わってしまう。

それに、自分のことを好きかなんて聞ける強さがあればこんなことにはなっていない……。


(女々しいかな)


よく教室で女の子たちが彼氏に本当に愛があるのか、自分はどうか、という話をしているのが耳に入ってくることがあるけれど。

共感してしまっては、自分は可愛い女の子ではないのだから、と考えないようにしていた。

先輩だって彼女が居たり欲しければ男なんて選んだりしないだろう、つまりちょっとは執着心があると期待できるかもしれない……いやいや手軽だから、楽だから手を出したのかも……。

とりとめのない思考回路は纏まらず、竹谷は盛大にくしゃみをした。


(寒い)


没頭していたせいで気がつかなかったが、太陽の角度が変わったせいで裏庭は薄暗くて、さっきよりも温度が下がっている。

そろそろ昼休みも終わるころだと思い当たって、竹谷は慌てて教室に取って返した。




考え込んでいたら午後の授業は瞬く間に終わってしまった。

放課後になって廊下を歩いていると、何度かネクタイの色が違う生徒とすれ違うことに気がついて、その人数の多さから、今日は三年生も出席している日なのか、と竹谷は思った。

我ながら思考が先輩中心に動いているような気もするものの、足は自然と羽代の教室へ向かう。

さっきまであんなに悶々と悩んでいたというのに、まるで懐いた犬のようだと、自嘲しながら内心笑った。


だが、階段を上るうち、段々と弱々しいことを考えていたのがバカバカしく、自分はそんなに意気地の無い、繊細な性格だったろうか、と思えてきた。


(俺のことをどう思っているのか、なんて、それはちょっと......、)


なんとなく、羽代に会ったらどういう風に言えばいいのかを考える。


(だからと言ってこのまま、流されるのは、それこそ女々しいような)


問いかけて、気のない返事が返ってきたら怖いとは思うけれど、それなのに毎回手を出すほうが悪いのだから、そのときは一発殴ったっていい、と物騒なことさえ思った。

そんな暴力的なことは、あのマイペースな先輩を前にしたら良い意味でも悪い意味でも、できないだろうけど、と肩をすくめる。

少なからず自分の中に好意があるから尚更。


(いや、でも今すぐじゃなくったっていいんだよな。

そう、先輩が次に手を出してきたとき......ってアホか、俺は)


階段の踊り場に差し掛かったとき、あまりにも自分の思考が恥ずかしくて、思わず立ち止まる。

そんな状況に陥るまで先延ばしにするから、いまこうして悩んでいるのだろうが、と分かっているのに、足が動かない。

面と向かって俺のことが好きか、なんて男が男に聞けるわけないだろう、と頭を抱えていると、不意に上から声をかけられた。


「あれ?春介クンじゃない?」

「え?」


変なところを見られた、と慌てて声のした方を向くと、いつぞやの伊達メガネの先輩が立っていた。

あれからもたまに三年五組の教室で声をかけられるが、いまだに名前を知らない。

向こうは親しげに接してくるが、竹谷の方は先輩のクラスメイトという認識しかないし、彼の方も羽代の親しい後輩という印象しかないだろうに、なぜか毎回人懐っこい笑みをこちらに向けてくる。


「なんで連絡くれないのさ〜」

「は?ああ、そういえばそんな物も」

「ひでぇ〜」


指摘されて、そういえば連絡先を夏前に貰っていた、と思い出した。

携帯の中に登録自体はしてあるけれど、名前の欄が空欄のままだし、連絡した事はない。

言葉とは裏腹に先輩は気にせず笑っていたが、竹谷は少しだけ申し訳なく思った。


「すいません、先輩の名前を知らなかったので」

「それこそメールして聞いてくれたらいいのに!」


なにが面白かったのか、先輩は竹谷の言葉を聞いて吹き出した。

こういう変なところが、羽代と彼が友人な所以なのかもしれない、と失礼なことを考えながら、ごまかすように竹谷は頰をかく。


「俺はねぇ、」

「春介、何してるの?」

「へ?」


階段を、竹谷と同じ踊り場に降りてきた先輩が名乗ろうと口を開いた瞬間、別な声に遮られる。

その声は、決して大きく無くて、むしろいつも通り気力に欠けた声音だったけれど、不思議と竹谷の耳にはよく聞こえた。


「先輩......、」

「名乗ってたんだよ〜?」

「えっ」


羽代の突然の登場にも驚いたことなく、目の前の先輩が笑って振り返る。

その言葉に、羽代はなんとなく気まずそうな顔をした。


「ごめん、柳田......」

「いや、あのさ、先に言わないでほしいなぁ。

威嚇されたことよりそっちのがひどいってー」

「ご、ごめん」

「は、ははっ、あ、いや、すいません......、」


二人のやりとりが気心の知れた友人間のそれで、まるで漫才のようだったから、思わず竹谷は声を上げて笑った。

羽代が、この先輩と話すときはあまり気を使わずにいつもの調子なことに悔しさもあるが、それよりも竹谷は嬉しかった。

笑ってしまってから、二人が自分をまじまじと見ていることに気がついて、慌てて謝る。

だが、先輩二人も後輩に釣られてなんとなく雰囲気が緩んだ。


「ほらぁ、笑われてるけど?」

「それより、名乗れば?今度は邪魔しないから」

「ああ、そう......。

春介クン、俺、柳田 海実って言うんだ」

「.......よろしくお願いします」


(藍と海実、......)


女子高生みたいだ、と思ったことは、少なくとも羽代はかわいらしい響きの名前がコンプレックスらしいので声には出さないでおいた。

だが、柳田はそんな竹谷の肩を抱いて、ヒソヒソと声を潜めて話しかけてきた。


「あいちゃん、うみちゃんってめちゃかわいい女の子想像するよね〜?」


それが面白くて最初連んだの、と言われ、再び竹谷は吹き出す。

その笑い声を聞いて、羽代がとてもわかりやすく拗ねた顔をして割り込んできた。


「なに、春介はあげないよ」

「いや、取らないよ!

ほら、返してあげようね〜」


まるで物の譲渡のように竹谷のことを羽代に引き渡すと、柳田は一言じゃあね!と告げて颯爽と帰って行ってしまい、残された二人は呆然とその背を見送る。

やっぱり類は友を呼ぶのだろうか、と竹谷はチラリと真横に立つ羽代を窺った。

てっきりまだ違う方向を向いていたと思ったのに、その目はしっかりとこちらを向いていた。


「なんの話してたの」

「えっ、いや大したことはなにも」

「本当に?」


さっきまで問い詰めてやろうなどと考えていたことなど忘れて、竹谷は逆に問い詰められて、何の非もないのに焦ってしまう。

胡乱な表情を浮かべる羽代に手を振って見せると、微かに首を傾げて、距離を詰めて来る。

ほんの少し動けば口付けられそうな近さに、竹谷はますます慌てた。


「せんぱい、近い!

誰かに見られたらどうするんですか」

「どうもしないけど......、ちょっと来て」


(やっぱり先輩のペースだ......)


羽代に手を引かれて、階段を上がる。

その背中を見ながら、ずいっと問い詰めて返答によっては暴力も辞さないなどと考えていたというのに、先手を取られてなす術なくついていくしかない。

別に勝負をしているわけではないけれども。


廊下を歩き、ほどなくして空き教室に辿り着くと、勝手知ったる仕草で羽代は扉を開けて、少し埃っぽい床に座り込んだ。

昼寝場所が中庭のほかにもあると以前言っていたから、この空き教室も誰もいないときに使っていたのかもしれない。

会った時から衣服が汚れること頓着しないのは相変わらずだな、と腕を引っ張られて向かい合う位置に腰を下ろしながら、竹谷は思考を変なところへ逃す。

そうしないと、誰もいない場所で、静かに二人きりで、しかも至近距離にいることに、心臓が耐えられなさそうだった。

もっと恥ずかしいことを何度もしているわけなのだが、それでも何となく先輩の見透かされそうな目線に晒されることに慣れない。


「で?」

「で、って言われても。

......だから、別に何の話もしてないですよ」

「でも、笑ってた」


(ここまで詰め寄られると、さすがに面倒くさい)


元々、隠すようなことでもないのだし、と鼻白みつつ、竹谷は渋々口を開いた。


「あいちゃん、うみちゃんで可愛い名前でしょ、って言われてただけですよ」

「.......、」

「だから言わなかったのに」


やはり名前はコンプレックスらしく、複雑そうな顔で黙り込んでしまった先輩を見て、竹谷は悪いと思いつつも、やっと意趣返しが出来たような気分になる。

羽代が脱力して肩にもたれかかってきて、そっと腹に腕が回されても、竹谷は拒む気になれず、されるがままになっていた。

お互いの顔が見えない、いまならば、ちょっとだけ本音が言えそうだと、口を開く。


「ねえ先輩、嫉妬したの?」

「した」

「ふぅん」


思いの外即答されて、気分が良くなった。

またわからない、と答えられると踏んでいたのに、案外自分たちは同じように悩んでいたのかもしれないとさえ思った。

受験生に余計な波風は立てたくなかったのだけど、お互い必要なことを言わないせいでここまで来てしまったのが良くなかったのだ、と半ば強引に結論付ける。

それに、相手の気持ちばかりを聞きたがるのは自分も同じかもしれない、と気がついて。

そう思ったら、自然に言葉が口をついて出た。


「俺、先輩のことが好きですよ」

「うん、知ってるよ......かわいいね、春介」

「じゃなくて!」


よしよし、と頭を撫でられて、頭を振ると、羽代がもたれたままだった体を起こした。

その声が微かに笑っているのを感じて、こちらが聞きたいことをわかっていて、からかわれたのだと竹谷は理解した。


「俺も好きだよ」

「......知ってます」


普通のトーンで告げられるものだから、仕返しとも言えないくらいの抵抗を竹谷が口にすると、羽代はへらりと相好を崩す。

その表情を見て、おや、と思った。


「もしかして、照れてます?」

「わかる?」


てっきり平然と返されると予想していたから(実際返事には躊躇いが無かったものの)、羽代が指摘されて、はっきり気恥ずかしそうに目を逸らしたのを見て、竹谷は驚いた。

何度もこの人も人間らしいところがあるものだと感じたことがあるが、そのとき初めて自分と同じくらいの歳なんだな、と実感した。

当たり前だけど、この人もこんな普通のことで照れたりするのだ。


「余裕そうだね?」

「いや、そんなこと、」


さっきまで悩んでいたし、という言葉は、不意に口を塞がれたせいで声にならなかった。

柔らかいその感覚は、慣れているはずなのに今までとは少し違うように思える。


一瞬触れただけで唇を離し、ゆっくり瞼を開けると、こちらを見つめていた目と目が合う。

薄い色の瞳が細められて、さっきとは違う、見慣れた笑みを浮かべた。

チェシャ猫のようなその表情が、嬉しいときに彼が浮かべるものだと竹谷は知っているから、自分もつられて微笑む。


目の前の唇に、今度は自分から口付けた。



おまけ

「先輩は、いつまで俺と居てくれるんですか、」

「は?」


ぽつりとこぼした呟きに、先輩が思い切り怪訝そうにこっちを見る。

晴れてお互いの気持ちがわかったからと言って、関係が大きく変わったわけではないけれど、関係性には恋人という名前がついた。

それで安心できたのも束の間、今度は羽代が、高校を卒業したらさっさと居なくなってしまうのではないかという不安に駆られ、竹谷は思わず口にしていた。

だが、言ってからすぐに後悔する。

相手を信じていないと言っているも同然だし、なにより面倒なことを考えている自覚があったから。

それに、先輩は眉を潜めて黙ってしまった。

当たり前だ。

先輩の家でなんとなくそんな雰囲気で体を繋いでから間もない時に話す内容じゃない。

お互い何も身につけず布団に寝転んでいるのに、一歩間違ったら別れ話になるような。

ピロートークに相応しい話題はもっとほかにあるだろう。

ただ、あまりにも幸せだと、人は時に不安になることがあるというのを身をもって知った。


「変なこといって、ごめん」

「......だめ」


何も言わない先輩に耐えきれなくて、謝ると、静かな声で否定された。

そのまま起き上がった羽代が、布団を肩にかけたまま覆いかぶさってくる。

お互いの体の間にできた隙間が肌寒い。

すっかり息を整えた先輩の指先も少し冷たかった。

ルームランプの灯りだけが浮かぶ暗がりの中で、羽代の体はいつもどおり薄くて、随所に骨が浮かぶほど細いのに、自分がいつもこの男に抱かれているのだと思うと、それどころじゃないのに竹谷の鼓動は高鳴る。

合わさった唇も、さっき水を飲んでいたせいかヒンヤリとしていて気持ちが良かった。


「逃す気、ないけど」

「へ?」


首元で囁いた吐息が擽ったくて身を捩ると、跡をつけられた。


「春介が、嫌だって言っても、逃してあげない」

「......、」


それが、先程の独り言に近い呟きに対する答えだと気がつくのに少し時間がかかった。

普段の無気力な彼からは想像できないほど真剣な声音に、竹谷は目を瞬いた。

そうして、理解してもとっさに話すことが出来なかった。


「泣くの?」

「な、泣きません!」


実際は、ほぼ半泣きだったし、多分先輩もわかっていて聞いたのだろうけれど、竹谷は目を乱暴に拭って、目の前の首にしがみついた。

嬉しいです、と呟くと、しっかり聴こえていたようで、ほのかに驚いたように問い返される。


「嬉しいの?」

「うれしい、です」

「そう、よかった」


竹谷が彼のことを嫌だなどと思うわけないし、これから先も同じだとと伝えたかったけれど、今度こそ泣き声になりそうで、口を閉じた。


「案外、泣き虫」

「......うう、」


軽やかな声音は、こちらの伝えたいことを言わなくても察したのかもしれない。

竹谷が呻くと、その子供のような仕草が可笑しかったのか、羽代は珍しく声を立てて笑った。

肌が剥き出しだから、きっと涙が溢れたことにも気がついているだろう。


「かわいいね、春介」

「なんですか、もう.....」


顔を隠していたかったというのに、宥めるように髪の毛を撫でられ、あやすように額にキスを落とされては、顔を上げないわけにいかなくて、竹谷が拗ねたような声で返事をすると、目尻の涙を吸われた。


「なまえ、呼んで」

「......藍さん」

「うん、」


もっと、とねだる声が甘い。

あんなにコンプレックスだと憚らないくせに、近頃この先輩は名前を呼ばれたがる。

その心情は、察して余りあるけれど、それが余計に恥ずかしい。

竹谷は顔が熱くなるのを感じながら、もう一度名前を呼んだ。


「藍さん。

......俺もずっと、側に居たいです」


精一杯の愛情を込めたつもりだけれど、その声は今にも泣きそうに震えていたかもしれない。

返事の代わりに、ギュッと力強く抱きしめられた。

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