仕事を忘れてサンバしよう!

青王我

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「うちにサンバを躍るスリッパがいるんだけどさ」

「は?」


 昼御飯の席で一緒になった同僚がおもむろに口を開いたかと思えば、出てきた言葉は電波だった。


「ちょっと言ってることが分かんないんだけど」


 親友だったら仕事終わりに居酒屋へ誘って相談に乗るところだが、このひとは単に部署が同じなだけのほほ他人だ。初めて話すと言うわけではないが、こんな変人だとは思わなかった。

 いや? 普段の仕事の会話を見ていてもこんな変なことを話し出す人間であるどころか、理路整然として合理的、論理的な人であったように思う。だから、普段からおかしかったのではなく、最近なにかあったと考える方が素直なのかもしれない。

 私は返答を待ちながら社食のA定食を胃へ納めていたが、同僚はそのまま次の言葉を発することなくワカメそばをすすって席を立ってしまった。

 慌てて後を追おうとしたが、そばと定食では分が悪い。食べ終わった膳を洗い場へ渡してから同僚へ話を聞こうとしたのだが、席に戻った私に伝えられたのは同僚が早退したという連絡だった。


「君さ、例の件についてなにか知らない?」


 あれから同僚が翌日になっても出勤してくることはなく、聞いた話では早退する足で長期休暇を申請していったらしい。普段からほとんど休みを取ることがなく余りがちだった有給休暇を消化するには良い機会とうそぶく者もいたが、休んでいる原因は不明で復帰するかどうかも危ぶまれているとか。


「いやね、こっちも有給消化を名目にされると理由を聞きにくくてさ。人事部が電話で理由を聞いても『一身上の都合で』としか言わないみたいで困ってるんだよね」


 そう話すこの人は私の上司の上司で、いつもは工程管理を仕事にしている偉い人だ。そんな人と私が話すことなんて滅多にない、というかこれまで一度もなかった。しかも一対一で。


「いろいろ聞きまわったら最後に話をしていたのが君だと分かったんだ。もしかしたら何か知らないかと思って」

「何か……ええと、確かスリッパがどうとか言っていました。サンバを踊るための? サンバに行くための? 一言しか言わなかったので記憶が薄いんですが」

「サンバ?」


 会話どころか意思の疎通も取れなかったことを伝えると、困った表情を浮かべながら、上司の上司は「席に戻っていいよ」と言ってどこかへ電話を掛けだした。


 休暇を取った同僚が家を訪ねてきたのはその晩で、何か小包を抱えて玄関の前に立っているのを夜半に見つけた。見つけた、というのはインターホンひとつ鳴らさずに立ち尽くしていたからで、いつからそこにいたのかは分からなかった。


「誰も信じてくれないんだけど、スリッパが躍ってるの」


 寒空の下に放置するわけにもいかず部屋へ入れたものの、小包を開きながら同僚はそう宣う。

 しかしこれは、確かに、履いている人もいないのにサンバのリズムを刻むスリッパだ。激しくステップを踏むその仕草とは裏腹に、踏む人の足の裏が無いので音は思ったより少ない。

 同僚はスリッパを解放したのを最後に、ぼうっとスリッパを見つめたまま身動きしなくなってしまった。慌てて駆け寄ったものの、ただ単に見とれているだけのようだ。


「確かに不思議な物体なのは分かるんだけど、そこまで見とれるようなものかな?」


 上司か警察か救急か、電話先を迷っていたが、どういうわけか私の視線はいつの間にか躍るスリッパへ集中してしまっていた。

 サンバどころかダンスの知識なんて何にも無いけど、どう説明したものか、そのステップはとても楽しそうに見える。性別も体格も服装も分からないけど、その動きはなんの悩みもなさそうで、事実、躍っている間は悩みのひとつも抱かずにいるのを心掛けるのだろう、と思えるようにその運動には微塵の迷いもない。


 私はといえば、仕事にもちまちまと蓄積した残作業だとか、難しい後輩の教育だとか、今まさに迷惑を持ってきた同僚だとか、思えば悩みは盛りだくさんだ。

 そう思ってスリッパを見つめるうちに、不思議なことだがサンバのリズムが分かってきた。それどころか音楽さえも脳裏に浮かんできたような……?

 スマホの入力欄の上で遊んでいた私の指は、いつしか上司の番号を入力し終えていた。


「もしもし、なんだいこんな夜遅くに。何かあったのか?」

「いえあの……、うちにサンバを躍るスリッパがおりまして」

「は?」

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