【第五十八章】 音なき旋律の向こうへ
朝の校門をくぐると、朝の光がやけに眩しく感じた。
いぶきとミユは、いつものように登校していた。
だが、いつもとは違う。
何かが静かに変わったあと――すべてが、ようやく音を取り戻した朝だった。
「……新聞、また分厚くなってない?」
ミユが少しだけ眉をひそめる。
今日も正門前には、例の少女が仁王立ちしていた。
さやかである。
堂々たる腕組み。
その手には、校内新聞『新譜(しんぷ)タイムズ・特別号』がご丁寧に何部も束ねられている。
「おはよう、いぶきくん、ミユちゃん。ほら、今日のも。強制配布だから逃げないように」
「うわ、また写真盛ってる……。何この“旧講堂七不思議解明!”とか“密室殺人を暴いた美少女記者の真実”って……」
ミユが呆れ声で呟く。
「“美少女記者”……って、まさか自分のこと?」
いぶきも思わず目を丸くした。
「え、他に誰がいるの?」
……こうして、新聞部の活動は“校内の探偵的役割を果たした”として正式に課外功績に認定され、今や生徒会からも一目置かれる存在となったらしい。
さやかは相変わらず強引だったが、その根にある責任感と行動力は、本物だった。
「まあ……目立つのは得意だからな」
いぶきは苦笑する。
そのころ、理科準備室では、真壁が黙々と半田ごてを握っていた。
「ロジックボードの精度、もうちょい詰められるな……」
静かな声でつぶやくと、彼は配線の隙間に細いハンダを落とす。小さな火花とともに、微かな焼けた匂いが立ちのぼった。
事件の夜、彼はBluetoothスピーカーを抱えて、音楽棟の裏手を歩いていた。そのことを覚えている者は、もうほとんどいない。彼もまた、何かを背負っていたのかもしれない。
──けれど、それを口にすることはなかった。
彼が最初に作った簡易スピーカーは、ルカの演奏のためだった。特別に頼まれたわけではない。ただ、ある日ふと、旧講堂の廊下で聴こえてきた音に、足を止めたことがあった。
音の正体を探るように近づくと、誰もいない舞台で、一人の少女が鍵盤に触れていた。
淡い光の中で、音に溶け込むように弾かれる旋律。それが、ルカだった。
名前も知らなかった。けれど、その日から、彼はその音を何度も思い出すようになった。機械より、正確で、優しかった。
スピーカーを抱えていたのは、ただ“もっと遠くまで、あの音が届けばいい”と思ったからだ。何かを伝えたかったわけじゃない。ただ、あの音が好きだった。それだけだ。
「……次は、低音域のレスポンスを……」
独り言のように呟きながら、真壁はまた半田ごてを動かした。
誰に聴かせるでもない、小さな回路。けれどその手元には、あの日の音が、今も微かに残っていた。
柘植は今日も変わらず廊下を歩き、誰彼かまわず鋭利な視線を飛ばしていた。
生徒たちはそのたびに背筋を正し、あらぬ方向へ視線を逸らす。
彼女は言葉が少ないが、事件の真相を“すべて知っていた”ような空気を纏い、やはり何かを見抜いていた気がしてならなかった。
そんな日常。
何気ない朝の教室。
でも、すべてが以前と同じではない。
ふと、窓の外に目をやる。
あの旧講堂の屋根が、わずかに朝焼けに染まっていた。
「ねえ、いぶき」
ミユが不意に声をかける。
「もし、あのとき――あなたが動かなかったら、どうなってたと思う?」
いぶきはしばし沈黙し、それから微笑んだ。
その眼差しには、もう迷いはなかった。
「……“誰かの音”が、届かなかっただけだよ」
「え?」
「だから動いた。届かない音って、たぶん――いちばん、怖いからさ」
その言葉には、どんな旋律よりも強い、決意の響きがあった。
ミユはそっと目を伏せた。
それは、静かな終止符だった。
チャイムが鳴り終わるころ、いぶきはふと、胸ポケットに指を伸ばした。中に仕舞っていたのは、小さな紙片――ルカの筆跡で綴られた、あの楽譜の断片だ。
《追憶カデンツァ──変ホ長調 第三主題・未完》
いぶきはそっとそれを取り出し、光にかざした。かすれた鉛筆の線が、どこか震えて見えたのは、気のせいではない。けれど、その不完全な譜面こそが、彼女の“音”だったのだ。
未完成のままでも、誰かに届いた音がある。そう思えた瞬間、いぶきはようやく、心の中でルカに別れを告げた。
そのとき、どこか遠くから、小さなオルガンの音が聴こえた気がした。
──もちろん気のせいだ。今この時間、旧講堂は誰もいないはずなのだから。
だがいぶきは、そっと目を閉じた。耳を澄ます。
それは残響のようでいて、はじまりの音でもあった。
窓の外には、新しい朝の光。
その向こうには、まだ誰も知らない旋律が、きっと待っている。
檻の音階、箱庭の亡霊 kirigasa @kirigasa
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます