【第五十七章】 追憶のカデンツァ

 留置所の窓から射し込む光は、まるで彼の過去を暴くための探照灯のようだった。鉄格子越しの陽は、静けさをわずかに宿していたが、その暖かさは冷たいコンクリートには届かない。

 篠宮理玖は、小さな机に広げられた譜面と向かい合っていた。『追憶カデンツァ』。それがこの楽譜の題名だった。未発表のスコア。装飾音符の合間に、赤いインクで記された注釈が走る。思考の痕跡であり、懺悔の足跡でもある。

 彼は無言で、譜面の端に置かれた写真立てに目をやった。留置の際に没収されなかった、唯一の私物。写真には、ルカが写っている。譜面台に向かう後ろ姿。おそらく誰かが何気なく撮ったものだろう。だが、彼にとっては決定的な記憶を封じた一枚だった。

 篠宮の記憶が、音もなく遡る。

 ――あの夜、彼女はただ、歌いたかっただけだったのかもしれない。

 事件の前夜、ルカは音楽理論室にいた。プロローグで描いた旋律を、夜通し反復していた。 

 彼女の絶対音感は、まるで神経を直接かき鳴らすような鋭さだった。純粋すぎて、危うい。 

 篠宮自身、その音に抗えない昂ぶりを感じていた。理性で制御していたはずの感情が、ひとつひとつ音符となって解き放たれる。

 だが、そこには美しさと並ぶ、別の感情が潜んでいた。嫉妬。羨望。そして、自分が「作り手」であり、彼女が「被写体」であるという立場の差に、いつしか彼は耐えられなくなっていた。

 彼女の音楽に触れるたび、自分の凡庸さが浮き彫りになる。だからこそ、彼は音楽に閉じ込めた。彼女の声、彼女の旋律、そして彼女の最後の瞬間までも。

 楽譜のイントロダクションには、夏休みに共に訪れた草原の情景が重ねられている。ルカが木立を指先で撫で、篠宮がその姿を遠巻きに眺めていた。あの穏やかな風景は、ピアノの低音として沈殿していた。

 しかし、アダージョに差しかかると、旋律が歪む。波打つ和音がぶつかり合い、やがて騒音にも似た重音へと変わっていく。その構造は、事件当夜の記憶をなぞるようだった。

 旧講堂。月明かりがステンドグラスを透過し、冷たい色彩で床を照らす。  

 彼女は確かにオルガンに向かっていた。

 だが、その音が乱れた瞬間、篠宮は音を通して“異変”を感じ取っていた。

 背後の壁に手を当てた彼女の動き。その一瞬が、彼にとっては永遠だった。

 "篠宮さん、聴こえますか?"

 確かに聞こえた。彼女の声に似た、けれどもどこか空虚な囁き。それは歌ではなかった。叫びだった。助けを求める声。そのとき、彼は自分が何をしてしまったのかに気づいた。

 

 篠宮は、譜面の終盤を見つめる。  

 フーガ形式で重なり合う旋律。その最後の声部に、彼は赤いインクで書き込んでいた。

 ――この旋律は、罪と救済の狭間で紡がれた、ルカへの贖罪である。

 彼は硬い椅子にもたれながら、浅く息を吐いた。胸の奥に、針のような痛み。 それでも彼は、最後の小節に伴奏を加えた。

 そっと譜面を閉じると、彼は目を細めた。  写真のルカが、どこか微笑んでいるように見えた。

 「許してくれ、ルカ……」

 その言葉は、鉄とコンクリートの静けさに吸い込まれていった。

 だが、終わったわけではない。

 この『追憶カデンツァ』は、彼の告白であり、贖罪の序章にすぎない。いつか、自分の音楽が誰かに届くなら。誰かがこの旋律に込められた祈りを感じてくれるなら。

 篠宮理玖という名は、そこで初めて意味を持つ。

 そう信じることだけが、今の彼に許された、唯一の希望だった。

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