第24話 チョコレート
今年のバレンタインは、どうしよう。
二月に入ってほどなく、わたしは思った。
入社して二年になるけれど、毎年バレンタインには、同じ部署の男性同僚と上司に義理チョコを配っている。学生時代は友人に配って、あとはカレシにあげるぐらいだったのだけど、ここに新卒で入社してからは、義理チョコを配るようになった。
というのも、同じ部署の先輩女性社員である杉本さんが、毎年そうしているからだ。
部署に女性社員はわたしと彼女だけなので、わたしだけ知らんぷりというわけにもいかない。
まあそれに、義理チョコでも渡しておくと、男性同僚も上司も機嫌が良くなるし、人によってはホワイトデーにお菓子をくれたりするから、コミュニケーションの一環だと考えて、わたしも楽しんでいた。
ただ、毎年どんなチョコにするかには、頭を悩ませていたのだった。
そんな時、わたしはネットの広告で、チョコレートブランドの一つであるアシモフが、義理チョコ向けの安いチョコレートを出していることを知った。
アシモフのチョコというと、一箱に六~九粒入って三千円から五千円のものが多くて、本命にあげるならまだしも、義理で渡すには向かない……と思っていた。
だが、広告で見たものは、可愛い袋に横長のチョコが三つ入って五百円程度のものだった。
部署の男性同僚と上司合わせて六人なので、そこまで負担にもならないし、もらった側も義理とわかっていても「いいチョコもらった」って気分になるんじゃないかな。なにより、アシモフのチョコって、ほんとに美味しいし。
というわけで、今年はアシモフの低価格帯チョコを配ることにした。
バレンタイン当日。
わたしは、男性同僚たちにチョコを配った。
残るは、上司の松永課長だけなのだが……いつもは出社が早い課長が、今朝は遅い。
ちなみに、松永課長は去年の十月からこの部署に配属になった人だ。年齢は、四十代前半といったところで、まだ独身らしい。他の人の話によると、高校は男子校で大学も男性の多いことで有名なところだったとかで、女性に免疫がなさそうだということだった。
だからといって、あんなことになるなんて、この時のわたしは思ってもいなかった。
課長が出勤して来たのは、始業時間ぎりぎりだった。
なんでも電車に乗り遅れたとかで、いつもよりあとのに乗ったら、そんな時間だったのだとか。
おかげでわたしはチョコを渡しそびれてしまい……結局、渡せたのは昼休みだった。
課長はいつも外に食べに行くから、慌ててあとを追って行って、廊下の隅でなんとか渡せた。
「これを、僕に?」
手渡した時、課長は驚いた顔で訊いたものだ。
「はい。お口に合うかどうか、わからないですが」
わたしはうなずいて返した。今思えば、この時、「他の男性同僚にも渡したこと」を付け加えればよかったのだ。けれどわたしは、まさか彼が勘違いするなんて思ってもいなくて、そのまま一礼して部署へと戻ったのだった。
その日から、課長の「食事へのお誘い」という猛アタックが始まった。
最初は、訳がわからなかった。
たしかに課長は、仕事終わりによく他の人たちと食事に行ってはいた。部下との食事や飲みの席を、コミュニケーションの一環と考えている人のようでもあった。
でも今までは他の同僚たちと一緒だったし、「用があるので」と断れば、しつこく誘われることもなかったのだ。
なのに、バレンタイン以降は、「二人だけで」という状況の下、断っても毎日のように誘われたし、私用を口にすると「どんな用事だ」とか「少しならいいだろう」としつこく絡まれた。
それで困って、杉本さんに相談したところ、言われたのだ。
「課長は、あなたが自分を好きだって思ってるんじゃないかしら」
「ええ?!」
驚くわたしに、杉本さんは続けた。
「バレンタインの時、アシモフのチョコを男性の同僚に渡していたじゃない? ただ、課長はあの日来るのが遅かったから、あなたみんなとは別の時に渡したんでしょ? それで、勘違いされたんじゃないかしら」
「で、でも……本命チョコじゃないのは、見たらわかりますよね?」
わたしが焦って尋ねると、杉本さんは困ったように頬に片手を当てる。
「それなんだけど……たぶん、課長はあのチョコがアシモフだったから、すごく値段の高いものだと思っているのじゃないかしら」
言って、杉本さんが説明してくれたところによると。
四十代以上の人には、「ブランドのチョコレートは高い」というイメージがあるのだそうだ。特に、アシモフにはそういうイメージが顕著だという。
というのも、アシモフには実際、今の倍の値段だったころがあったのだという。
なので、四十代以上の人たちが二十代のころは、アシモフのチョコレートといえば、本命中の本命に贈る特別なチョコレートだったのだそうだ。
「――だから、当時の若い男性たちは、アシモフのチョコレートを意中の女性からプレゼントされたら、死んでもいいってぐらい有頂天になったって聞くわ」
杉本さんは最後に、そう言って話をしめくくった。
冗談じゃない。
わたしはすでに、結婚している。
子供こそいないけど、大学時代に出会って学生結婚した夫との仲は、円満だ。
いや、もしも結婚してなかったとしても、自分の倍の年齢の上司と恋愛とか、あり得ない。
「ど、どうしたらいいんでしょう?」
半ばパニックを起こしながら尋ねるわたしに、杉本さんは言った。
「さりげなく結婚していることを伝えるとか……他の男性の同僚たちに、『自分たちも同じチョコもらった』とアピールしてもらうとかはどうかしら」
杉本さんが少し考えてから、アイディアを出してくれた。
そこでわたしは、それを実行してみることにした。
実行してみたが……効果は薄かった。
というか、課長はわたしや他の同僚たちが何を言っても、右から左に聞き流しているというか……何も耳に入っていないようだった。
「課長って、ちょっと思い込みの強いとこ、ありますからね……」
「女性に免疫ない男って、思い込むと怖いとこあるかもなあ」
話を聞いて、協力してくれていた男性同僚たちが、そんなことを言う。
どうやら、今の課長の状態は、同じ男性から見ても異常と映るようだ。
そんなある日、松永課長の上司にあたる里村部長に会議室に呼び出された。
そこには、松永課長が前にいた部署の林課長もいて、まずは里村部長から話があった。
「君にはしばらく、在宅で勤務してもらうことになった」
驚くわたしに、今度は林課長が口を開く。
「松永のことで、君に危険が及びそうだと感じて、私から部長にお話したんだ」
林課長が言うには、松永課長がわたしからバレンタインに本命チョコをもらったと言って舞い上がっていることは、以前から知っていたのだそうだ。林課長と松永課長は、部署が同じだったころからの友人で、チョコの話も松永課長から直接聞かされたのだという。
ただ、話を聞いた時点で、林課長は「勘違いじゃないのか」と諫めたらしい。というのも、林課長もわたしが結婚していることを、知っていたためだ。
ちなみにわたしは、結婚していることを隠しているわけではない。結婚指輪も普通にしているし、未婚か既婚か訊かれれば、本当のことを答えている。ただ、社内では若い方なのと、自分ではよくわからないけれど、あまり生活臭がしないらしくて、わたしを未婚だと思い込んでいる人も多いようだ。
たぶん、松永課長もそうした人たちの一人だったのだろう。
林課長は、何度か松永課長を諫めてくれたらしいけれど、松永課長はヒートアップするばかりで、とうとう「彼女に贈る指輪も用意した。ホワイトデーには、食事に誘って、結婚の申し込みをする」なんてことを言い出したらしい。
それで危険だと感じて、部長に相談したというわけだった。
こうしてわたしは、しばらくの間、在宅勤務となった。
そして、ホワイトデーの日。
夕方、わたしは夫と二人、近所のお店で食事していた。
バレンタインにわたしから贈ったプレゼントのお返しが、このお店でわたしが一番気に入っている料理ということだった。
二人で楽しく食べていたら、店の入り口が騒がしくなった。
何かあったのかとふり返ったら、松永課長がわたしたちのテーブルの傍に立っていた。そして、何か言いかける夫に、手にしていたナイフをふり下ろした――。
+ + +
目覚めた時、わたしの体は汗にまみれていた。
呼吸も荒く、まるで必死に走ったあとのようだ。
ベッドの上に身を起こし、わたしはようやく息を整える。
なんて夢……。
まるで、実際にあったことのような……。
少し早い時刻だったが、わたしはベッドから出てキッチンへと向かう。
今日は二月十四日。バレンタインデーだ。
キッチンのテーブルの上には、今日のために用意した、アシモフの低価格帯チョコが入った紙袋が置いてあった。部署の男性同僚と上司への義理チョコだ。昨夜、忘れないように、目につく場所に置いたのだった。
でも……。
脳裏に夢の中の、松永課長の顔がよみがえった。
わたしと夫をめった刺しにしながら、返り血を頬や額につけて笑う、凄惨なその人の顔が。
(今年は、義理チョコ配るのやめよう)
ふいにわたしは、そう決めた。
チョコの袋を食器棚の奥へと押し込む。
その年からわたしは、会社で義理チョコを配るのをやめた。
ちなみに、わたしがそのチョコの袋を開けたのは、翌年のこと。
刻んで溶かして、小麦粉他と一緒に混ぜて、チョコレートケーキに作り替えて、夫と食べた。
だって、チョコレートに罪はないから。ましてや、ブランドものの美味しいチョコには。
お菓子で甘いひとときを。 織人文 @sashya1106
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