第7話



 そっと塀に足を掛ける。


 器用に上って行く最中に突然。


「こら。」


 臀部を剣の柄で突かれた。

 ぎゃっ! とミルグレンは驚いて地面に落下した。


「いったいわねイリディス! あんた今、王女の尻を剣で突いたわね⁉」


「失礼。引っぱったら危ないと思ったのです。夜の出歩きは禁止ですよ姫君。いい加減に覚えてください」

「うるさいな!」

「あまり聞き分けないと塀をもっと高くしますよ」

「王女の脱走を止めさせるために、塀を改築したなんて民に知られたら笑われるわよ」

 生意気にそう言った王女を腕を組んだ姿で見下ろす。

「分かっておられるならさせないでください。よろしいですか姫君。貴方は確かに母上様に似て武芸には『多少』の心得があります。そこらの少女などとは比べようもありません。

 それは、この私も同じです」

 オンディーヌ・イリディスは言った。

「それでもこの塀の外は危険な者がたくさんいるのです。私とて一人では貴方を守りきれないほどの危険が。己を決して過信してはなりません」


「私の心はお前には分からないわ」


 ミルグレンはスカートについた砂を払いながら立ち上がる。


「侍女達が言っていたわ。お前、この王城に来る前にザイウォンの貴族から求婚をされていたのに断わるために剣で叩きのめしたんですって?

『私に剣で勝てない人間には夫になる資格が無い』とか言ったそうじゃない。

 信仰の国の人間に随分なことを言うのね。

 可哀想にその人ショックで病に臥せったそうよ」


「そうですか」

 イリディスは冷たい声で言っただけだった。

「それが何か?」

 ミルグレンは険しい顔で声を荒げた。


「お前の、そういう、人の心を土足で踏みにじるようなところが大嫌いなのよ!」


 夜のサンゴール城に響く。


「国への忠義を尽くして立派になったつもり⁉

 あんたなんか誰かを本気で好きになったことなんか一度も無いんでしょ!

 人を真剣に好きになったことも無い人に、私の心なんて理解出来るわけないのよ!」


 女騎士は表情を変えなかった。

「私は国に、女王陛下に魂を捧げたのです。お仕えする間は他の何かに心を分け与えようとは思いません」

「勝手にしなさいよ! 私は知らない!」

 イリディスは剣を腰に戻した。

「姫君。私のことはよいのです。私は貴方のことを申し上げているのです。例え兄のように育ったとはいえあの者は離反者となったのです」

「誰のことよ。ちゃんと名で呼びなさいよ」


「陛下の心をその者のためにいつまで煩わせるおつもりなのですか?

 女王陛下は国のために日々多くの問題と向き合っておられる。

 貴方の使命は王女として、その母上様のご負担を少しでも軽くして差し上げることです。 お分かりか」

 怒りに任せて飛んで来た平手打ちを、片手で平然と女騎士は受け止める。

「私を手打ちに出来るのはサンゴール王の一族の方だけ。今の貴方は、ただの子供です」

「うるさいわね放しなさいよ!」




「……五月蝿いのはお前だ。何を騒いでる」




 煩わしそうな声がした。

 ミルグレンは振り返る。

 女騎士は振り返らず、すぐにその場に膝をつき、顔を伏せた。

 回廊の所からいつもの黒衣姿で立っていたのは第二王子リュティスだった。

 ミルグレンは顔を顰める。。


(リュティス叔父様だって、お母様と同じよ!)


 たった一人の弟子だったのに一度もメリクに優しくしてくれなかった。

「お前の父は魔術も使えん無能だったが、騒がしくない分お前よりマシだ」

 子供に掛けるものとは思えないいつもの冷たい言葉。

 きっと、メリクにもこんな言葉しか与えなかったんだ。

ミルグレンは腹が立った。


「うるさいな! リュティス叔父様のバカ!」


 ミルグレンはリュティス相手にも少しも怯むことなく、強い瞳で言い放つと駆け出して行った。


 ミルグレンがいなくなると、途端に辺りが静かになった。

「ご無礼、お許しください」

 イリディスは深く頭を垂れたまま、小さな声で言った。

 第二王子が小さく息をつくのが聞こえた。

「お前が詫びることではない」

 静かな声。

「母親に似てあれはどうにもならん」

「……。」

 リュティスが動く気配がした。恐らく腕を組んだのだと思うが、見ていないので分からない。


「騎士の本分は子守ではない。これ以上ミルグレンの戯れ言にお前は構わないでいい」


 驚いた。

 アミアカルバに仕える以上、第二王子とは何度か話を伝えたり伝えられたりのことはしたことがある。

 だが今のは。

 今のは自分に対してはっきりと投げられた言葉だった。

 リュティスが自分に何かを思って言葉を与えることがあるなどとは、彼女は夢にも思わなかった。


 オンディーヌ・イリディスは強い自負心と克己心で自らを鍛え、男ばかりのサンゴール騎士団で地位を得たことを誇りにしていたが 唯一、自分の生まれの卑しさだけがいかんともし難い人生の負い目のように感じて取り払えないのだった。


 特にこの第二王子は、今やたった一人となったサンゴール王家純血の血を継ぐ。

 エデンで最も古い王家の一つと呼ばれるサンゴール一族の高貴なる血。


 初めてアミアカルバによってリュティスと対面させられた時、イリディスは足が震えた。


 第二王子の噂はもちろん、知っている。

 アミアからも優しくない男だ、などということはよく聞かされていた。

 だから心構えをし、覚悟もしてその前に立ったのだった。

 顔を見てその噂の【魔眼まがん】に射すくめられた時、突然足が震えて止まらなくなった。


 こんなことは彼女は初めてだった。

 騎士として有能であり、女としては比類無き力を持った彼女は、これほど一人の男に正面から圧倒されたことはなかった。


 そう。女で初めてサンゴール騎士団の将校になった褒美にと願い出て、サンゴール騎士団の長い歴史の中でも特に華々しい戦歴から『最強の騎士』と謳われる、あのオズワルト・オーシェと手合わせをしてもらった時と似ていた。


 だが、あの時も足は震えたりはしなかった。

 打ち合わせる剣の重みに齢を重ねても衰えを知らない、聞きしに勝る実力を感じ取って、あのオズワルト・オーシェと剣を打ち合わせていると、心が子供のように踊りくらいはしたが恐怖は覚えなかった。


 初めてだった。


 喉元に剣を突きつけられたかのような。

 怯えは多分顔に出てしまっていただろう。

 取り繕うような余裕は無かったのだから。

 無礼を働いてしまったと彼女は思い、慌てて顔を俯かせたが第二王子は「サンゴールのために尽くすがいい」と短く静かに言葉を与えただけだった。

 オンディーヌ・イリディスはひたすら平伏したまま、何も言えなかったのである。

 剣と魔術など比べようもないと思っていたがそれは違うのだ。

 操り手は少なくとも同じ『人』なのだから。


 あのオズワルト・オーシェでもこの方には敵わない、とイリディスは直感した。

 そして……武勇の誉れ高い女王アミアカルバであってもだ。


 第二王子リュティスの『力』はサンゴールでも『最も』と形容されるべきものなのだ。

 イリディスは彼女自身非常に優れた剣士であったために、初対面でそこまでのことを鋭く感じ取った。


 下級騎士でしかなかった自分を見出してくれたのはアミアカルバだ。

 その強さを慕いこの女王のために命を捧げる決意はすでに出来ている。


 ……これは、決して口には出来ないこと。


 それでも不確かなサンゴールの未来。

 何かあったとしたら自分は必ず女王の側で戦う。

 その時相対する『敵』がもし、この第二王子だとしてもだ。


(でも、剣は抜けまい)


 その力の前に女王の盾となることは出来ても、第二王子を前に剣は抜けない。

 臆したのかと、随分イリディスはリュティスに会ってから、自分の弱さを恥じた時期があったのだが、初めて会ってからその日から三年……段々と自分の心が分かって来た。


【魔眼】に乱された、その自分の心の内が。

 剣を躊躇うその理由は恐怖だけではない。


 第二王子が回廊を奥へと去って行く。

 気配が遠ざかるのを待ってからイリディスはそっと顔を上げた。

 黒衣の長身が視界に入ると胸を締め付けられた。


(私はあの方を斬りたくないのだ)


 女王アミアカルバへの忠義に劣る事無い心で――第二王子リュティスにも彼女は敬服している。


 巨大な力も、剣も、あの飾らない身一つに宿っているようなものなのだ。

 そしてアミアの側に仕えるうちに知るようになった真実。

 民も、臣下も知らない所で、第二王子はたった一人でサンゴールの敵を打ち払い続けている。


 光ではなく闇の中でサンゴールの敵を屠るあの方こそ王国最強の騎士だ、と彼女は思った。


 決して口には出来ない心。

 永遠に封じ続けるべき想い。

 だが女騎士はサンゴール城の回廊の柱に寄りかかりふと考えた。

 もし永遠に封じるべき想いがこの世に本当にあるというのなら……。



(人は何故、誰かを愛しく想うのだろうか)







【終】


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その翡翠き彷徨い【第53話 失われた名前】 七海ポルカ @reeeeeen13

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