【世界の吃音】(1話完結小説)
ぼくしっち
第1話完結
健人(けんと)が最初にそれに気づいたのは、月曜の朝、自宅で仕事をしていた時だった。
静かな部屋に響くのは、キーボードを叩く音と、時折コーヒーメーカーが保温のために立てる小さな駆動音だけ。集中力が切れ、ぼんやりと窓の外に目をやった。電線を一羽の烏が歩いている。と、その烏が数センチ後ずさり、まったく同じ歩き方で再び前に進んだ。まるで映像が少し巻き戻って再生されたかのように。
「……疲れてんのかな」
健人は首を振り、再びモニターに向かった。締め切り間近の案件が山積みで、ここ数日、まともな睡眠が取れていない。幻覚でも見たのだろう。
しかし、その「幻覚」は続いた。
昼食のために席を立った時、テーブルの端に置いたペンが床に落ちた。カタン、と乾いた音が響く。拾おうと屈みかけた瞬間、——カタン。まったく同じ音が、何もない空間から響いた。落ちたはずのペンは、健人の足元に一つだけ転がっている。
背筋に冷たいものが走った。偶然? 音の反響? いや、違う。今の音は、明らかに「二度目」だった。一度目の音と寸分違わぬタイミング、音質、そして落下地点から響いてきた。
その日から、健人の世界は静かに「どもり」始めた。
テレビのニュースキャスターが一瞬、同じ言葉を寸分の狂いもなく繰り返す。しかし、テロップは正常に進んでいる。道ですれ違う子供が、一歩前に進み、巻き戻るように同じ一歩を再び踏み出す。その子の母親は、何も気づかずに手を引いている。
それは、ほんの一瞬、0.5秒にも満たない「吃音(きつおん)」だった。世界のあらゆる事象が、時折、ほんの僅かに、完璧な再現性をもって繰り返される。
健人は恐怖した。これは自分の頭がおかしくなったのか? だとしたら、なぜ世界はこんなにも辻褄が合っているように見えるんだ? 彼は誰かに話そうとしたが、どう説明すればいいのか分からなかった。
「昨日、猫がジャンプするのを二回見たんだ。まったく同じように」
そう言ったところで、返ってくるのは「へえ、そう」という気のない相槌だけだろう。誰にも、この異常は見えていないのだ。
彼は実験を試みた。ベランダからコインを落とす。アスファルトに当たって跳ねる。——瞬間、同じ軌道を描いて、幻のコインが跳ねるのが見えた。音も二回聞こえた。しかし、地面にあるコインは一つだけ。
世界は壊れていない。ただ、健人が認識する世界だけが、壊れたレコードのように時折同じ溝をなぞっている。恐怖は次第に、諦念に変わっていった。これはそういう「現象」なのだと。自分だけが知覚できる、世界のバグなのだと。
ある晩、彼は疲れ果ててベッドに倒れ込んだ。眠りは浅く、悪夢にうなされた。夢の中でさえ、世界はどもっていた。
ふと、金縛りのような感覚で目が覚めた。体が動かない。部屋は真っ暗で何も見えないが、すぐそばに誰かの気配がする。
(誰だ……?)
恐怖で心臓が凍りつく。必死に体を動かそうともがいていると、暗闇の向こうから、か細い声が聞こえた。
「……ねえ」
女の声だ。震えていて、怯えている。
「あなたも、見えるの?」
健人は声も出せなかった。肯定も否定もできない。女は続けた。
「よかった……私だけじゃなかったんだ。最近、おかしいの。世界が、時々……」
——時々、繰り返されるの。
女がそう言いかけた瞬間。
「——時々、繰り返されるの」
まったく同じ声が、同じ場所から、同じ抑揚で響いた。
一度目の声は、明らかに恐怖と安堵が入り混じった、人間らしい響きだった。
しかし、二度目の声は違った。
感情が一切抜け落ちていた。まるで、ただ音を再生しただけのような、無機質な「反響」。
健人は気づいてしまった。
この「吃音」は、ただの現象などではない。それは「何か」が、この世界を模倣し、なぞっているのだ。そして、その「何か」は、今、すぐそばにいる。人間を、声を、感情さえも完璧にコピーして、すぐ隣で再生している。
金縛りが解けた瞬間、健人は絶叫し、部屋を飛び出した。
もう何も信じられない。道行く人々も、街の喧騒も、自分の記憶さえも。どれがオリジナルで、どれが「反響」なのか。自分は今、本物の世界を生きているのか。それとも、寸分違わぬ精度で再生された、「二度目」の世界に囚われているだけなのか。
健人は走りながら、ふとショーウィンドウに映る自分の姿を見た。必死の形相で走っている。
その瞬間。
ウィンドウの中の健人が、一瞬だけ数メートル後方に巻き戻り、まったく同じ形相で、再びこちらへ向かって走り出した。
だが、現実の健人は、立ち止まったままだった。
ガラスの向こう側で、自分と寸分違わぬ「反響」が、滑らかに次の一歩を踏み出していく。まるで、それが本物であるかのように。取り残されたのは、健人の方だった。
【世界の吃音】(1話完結小説) ぼくしっち @duplantier
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