完璧な復元
ぼくしっち
第1話完結
俺、片桐健太は、自分のことを几帳面な人間だと思っている。帰宅すればまずジャケットをハンガーにかけ、カバンは定位置に置く。読みかけの本は栞を挟んで背表紙を揃え、リモコンはテーブルの隅に角度を合わせて置く。それが俺にとっての平穏であり、日常だった。
その日、異変は静かに始まった。
会社から疲れきって帰宅した俺は、玄関のドアを開けて息を呑んだ。部屋が、完璧に片付いていたのだ。いや、いつも片付いているのだが、その日のそれは「完璧すぎた」。まるで、もう一人の俺が先回りして掃除を済ませたかのように。シンクに置いておいたはずのマグカップは洗い上げられ、水滴ひとつなく棚に収まっている。脱ぎっぱなしにしていた部屋着は綺麗に畳まれ、ベッドの隅に置かれていた。
(あれ…?朝、片付けてから出たんだっけ…)
ひどく疲れているのだろう。記憶が曖昧になっているに違いない。俺はそう自分に言い聞かせ、その日はシャワーを浴びてすぐに眠った。
翌日、決定的な違和感を覚えたのは、ゴミをまとめようとした時だった。キッチンに置かれたゴミ箱の中身が、昨日と全く同じなのだ。昨日、確かに潰して捨てたペットボトルが、全く同じ歪み方でそこにあり、夕食の惣菜が入っていたプラスチックトレイも、全く同じ場所に、同じ向きで転がっている。
「…なんだよ、これ」
背筋に冷たいものが走った。誰かが侵入した?いや、鍵はかけたし、窓も閉まっている。そもそも、侵入してゴミを元に戻すなんて、何の目的なんだ?
その日から、俺の世界は静かに歪み始めた。
夕食に使ったはずの牛乳が、翌朝には満タンになっている。少しだけかじって冷蔵庫に入れたリンゴが、翌日には一口もかじられていない完璧な球体に戻っている。観葉植物の、昨日少し枯れて摘み取ったはずの葉が、青々と枝に蘇っている。
俺の行動が、俺のつけた変化が、一夜にして「なかったこと」にされている。まるで世界が、毎晩決まった時間にバックアップからデータを復元しているかのように。
恐怖は、やがて狂気じみた好奇心に変わった。
ある晩、俺は実験を試みることにした。まず、リビングのテーブルの真ん中に、わざと醤油をこぼした。次に、愛読していた文庫本の一冊を手に取り、びりびりと数ページを破り捨てた。最後に、寝室の壁に、油性マジックで大きく『お前は誰だ』と書きなぐった。心臓が早鐘のように鳴っていた。これで明日、すべてが元に戻っていたら…?
翌朝。恐る恐るリビングを覗くと、そこにはいつもの完璧な日常があった。テーブルに醤油のシミはなく、破り捨てたはずの本は、何事もなかったかのように本棚に収まっている。俺は寝室に駆け込んだ。白い壁には、マジックの痕跡などどこにもなかった。
「う…あ……あぁ……」
声にならない呻きが漏れた。自分の存在が、根底から否定されていく感覚。俺が何をしても、この世界はそれを「エラー」とみなし、完璧な状態に「修正」してしまうのだ。
ならば、これならどうだ?
この「復元」が及ぶ範囲はどこまでだ?
その夜、俺は洗面台の鏡の前に立った。手には、事務用のハサミとカッターナイフ。
震える手で、自分の前髪をめちゃくちゃに切り刻んだ。床に、黒い髪の毛がばらばらと散らばる。次に、爪を、肉に食い込むほど深く切った。最後に、左腕にカッターの刃を浅く、しかしはっきりと一本の線が残るように滑らせた。じんわりと滲む血の赤が、妙に鮮やかに見えた。
「これでも…元に戻せるのかよ…」
痛みと恐怖で意識が朦朧としながら、俺はベッドに倒れ込んだ。
そして、朝が来た。
世界が、やけに静かだ。
重い体を起こし、恐る恐る鏡を覗き込む。
そこに映っていたのは、いつもの俺だった。
髪は完璧に整い、爪は綺麗に切り揃えられ、左腕の皮膚には傷ひとつない。まるで、昨夜の狂気の沙汰など、すべてが悪夢だったかのように。
絶望が、俺の心を完全に塗りつぶした。もう、駄目だ。逃げられない。俺は変わることが許されない。この部屋、この身体、この人生という名のセーブデータの中で、永遠に同じ状態を繰り返すだけの存在なのだ。
俺は最後の力を振り絞り、家を飛び出した。走った。とにかく、この「修正される空間」から逃げ出したくて、無我夢中で走った。角を曲がり、大通りに出て、見知らぬ路地に入り込む。どれくらい走っただろうか。息が切れ、足がもつれ、その場に崩れ落ちそうになった時、俺は顔を上げた。
そして、凍りついた。
目の前にあるのは、見慣れた自分のマンションのエントランスだった。
(そんな…はずは…)
ふと、周りを見渡す。ゆっくりと歩く老夫婦。信号待ちをする赤い車。電線に止まっている三羽のカラス。空に浮かぶ、ちぎれ雲の形。
―――全部、昨日見た光景と、全く同じだった。
世界が、俺の部屋だけではなかったのだ。この街が、この世界そのものが、巨大なセーブポイントだった。そして、その「復元」に気づいてしまった俺だけが、この完璧な世界における唯一の「バグ」だったのだ。
その瞬間、俺の意識はぷつりと途切れた。
次に目が覚めた時、俺は自分の部屋のベッドの上にいた。窓から差し込む朝日が眩しい。
「…あれ…?何か、嫌な夢でも見てたような…」
頭の中に霞のような違和感が残っていたが、それもすぐに消えてなくなった。
俺はベッドから起き上がり、完璧に整頓された部屋を見渡して満足げに頷くと、いつも通りの完璧な一日を始めるために、顔を洗いに行った。
完璧な復元 ぼくしっち @duplantier
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