静寂の河

八雲 稔

静寂の河


     1


 闇と光が混沌と入り交じった空。

 太陽が見えないほど分厚い雲。

 山間に佇む広い川。

 波立たない水面の静けさ。


 白い石ころで埋め尽くされた川岸に。

 一人の女の子が。

 私をじっと見ていた。

 薄い紅色の着物を着ている。

 胸元にぐっと押し付けるようにして、小さな木彫りの仏像を。

 古いものらしく、塗装が剥げ落ち、肩から胸にかけて斜めに亀裂が入っていた。

 そして何よりも。頭部がない。

 首なしの木像を大事そうに抱えたその幼児は、私をじっと見つめている。


 私はなぜここにいるのだろう。

 ここはどこだろう。

 かすかな疑問を心の内側に感じた時にはもう、その少女の姿は木彫りの仏とともに消えていた。


 私は三歳の娘を思い出した。

 アパートの部屋で一人、留守番をしている。

 大人しくしているだろうか。

 夕食はちゃんと食べただろうか。

 メモに書いた通り、おかずを電子レンジで温めただろうか。

 ジュースを飲み過ぎてお腹が痛くなっていないだろうか。

 大きな音でテレビを見て、隣の老夫婦に文句を言われていないだろうか。


 胎内に宿った新しい命。

 きっと今度は男の子だろう。


 これは今なのだろうか。

 それとも過去。

 消えた時間。

 記憶としての現在。


 どこからともなく、親子が河原に姿を現した。

 母と娘。

 こんな山奥なのに、どうやって来たのだろう。

 車……それとも、電車……。

 近くに駐車場か駅があるのだろう。

 どこに。

 思い出せない。

 私は多くのことを忘れてしまった。

 理由は分からない。

 きっと一時的な症状。今は意識が混乱している。

 それだけのこと。

 しばらくすれば。


 私はゆっくりと周囲を見回した。

 四方を山に囲まれている。

 この川はどこから流れてきて、どこへ流れていくのだろう。

 ずっと向こうには平地があるのだろうか。都市があるのだろうか。さらに進むと海につながっているのだろうか。

 それとも。

 永遠に細長い水の面が続いているだけなのだろうか。

 それにしても、深い山奥だ。

 あたりの山肌に、道路や鉄道の線路や送電線のようなものは一切見えない。

 それどころから、民家や田畑も。

 針のように突き出た木々が、互いの枝や葉を密に絡ませ、隙間無く山の斜面を覆い尽くしている。

 さっきと同じ疑問が。

 それは答えに結びつくことなく、心の底の方へと沈んでいく。

 ここはどこだろう。


 若い母子。

 二人は私に気付かない。

 岸に散らばっている、大きさや形が不揃いな石に、足を取られないよう注意しながら、とぼとぼと川の水の方へと歩いて行く。

 やがて立ち止まった。

 デニムの短いスカートに薄いピンクのシャツを着たその女性は、女の子の手を引いていなければ、とても母親だとは思えないほど若々しい。

 私と同じぐらいの歳だと思う。

 一瞬、自分かと思ったほど。

 自分自身が歩いているのかと。

 私が私の娘と。

 しかし、違う。

 別人だ。

「お母さん、ゲームしたい」

 ショートヘアの女の子はくるりと体を回し、両手で母親の太ももにしがみついた。

 バッグからスマホを取り出そうとしているお母さんの体を、強く揺さぶりながら、

「お母さん、チョコレート、食べたい」

 ……チョコレート?……向こうに行ってからね……向こうに着いたら、いっぱい食べようね……

 

 二人はどこへ行くのだろう。

 私は流れのない水面を見つめていた。

 川なのに湖のように静かだ。

 どちらが上流なのか、どちらへ向かって水が移動しているのか、判然としない。

 向こう岸に目を向けた。

 そこに二人が目指している場所があるのかと思って。

 でも、こちら側と同じように石ころで埋め尽くされている岸が広がっているだけ。

 その先にはやはり暗い緑で覆われた森林があるだけだ。

 二人はどこへ行こうとしているのだろう。

 あの山の向こうに何かがあるのだろうか。

 そこに、二人を待っている人がいるのだろうか。


 いつのまにか砂利の上に座り込んだ親子は、顔を寄せ合っている。

 髪の短い女の子は、母親のスマホでゲームをしていた。

 母と娘は、時々悲鳴にも似た甲高い声を上げたり、その後大笑いをしたり。

 違うよ、その赤い方を先に取るんだよ。

 ええ、どうして。

 だから、赤いのを取れば。

 ああ、どんどん減っちゃう。

 上から来てるよ。

 お母さん、うるさい。ねえ、黙っててよ。

 だから、違うって、青いのは強いんだから。

 いいの。いい。これが私のやり方なの。

 でも、やられちゃうよ。ほら。

 ねえ、もう一回やってもいい?

 いいよ。

 本当?

 うん、いいよ。でも、赤い方を先に取るんだよ。それから、青いのはちゃんと避けてね。

 わかった。そうする。


 私は二人の会話を聞いていた。

 さっきはその女の子を、自分の娘と同じぐらいの年齢かと思ったが、違うのかもしれない。話し方や言葉の数からして、ずっと年上なのだろう。

 あるいは未来の娘。

 未来の私たち。


 二人は立ち上がった。

 もうゲームは飽きたのだろうか。

 それとも時間になったのだろうか。

 母親はスマホをバッグにしまうと、お菓子のようなものを取り出した。

 キャンディーか何かだろう。それとも、薬だろうか。

 母親は一粒を飲み込み、もう一粒を横にいた娘に手渡した。

 娘は黙ってそれを受け取り、母親と同じように喉の奥へと放り込んだ。

 母親は娘の手を引いて、水際へと歩いて行く。

 娘は笑いながら飛び上がったり、母親の体に抱きついたりしてふざけている。

 決して二人は手を離さなかった。

 幼い娘は時々スキップをして、自分だけ先に行きすぎては、母親に引き戻されていた。


 母子は水と地面の境界線の手前で、立ち止まった。

 母親はしゃがんで娘を抱きしめた。


 強い風が吹き抜けていく。

 それは巨大な生き物のように、川の上を走り去った。

 しかし、水面が波立つことはない。

 その透明な大きなかたまりは、水の上すれすれのところを飛んでいるようだ。

 風圧が私の体を揺らした瞬間に、別の女の子が見えた。抱き合っている親子のそばに。すぐ後ろに。

 薄紅色の着物を着た幼女。

 小さな胸に、木彫りの仏像を抱えている。

 首のない仏。

 さっきの子だ。

 幼女がわずかに唇を開き。

 何かを言った。

 色即是空。

 空即是色。

 それは声なのか。単なる響きなのか。

 子供の口から流れ出たのか。あるいは彼女の抱える仏像の木目から染み出たのか。

 仏を抱いた幼女の姿は、音とともに消えた。


 水際にしゃがんだ母親は娘を強く抱擁していた。

 体を寄せ合う二人は、決して泣いているわけではない。

 むしろ、何かしら安心したような表情をしていた。

 母親は再び立ち上がり、大きく息を吸ってから、歩き始める。娘の手を引いて。水の中へと。

 決心したのだろう。

 娘の服に血がついていた。

 母親の背中にも。

 二人のまわりだけ、かすかに水が動いているらしく、水流が細い線をいくつも描き出している。

 空は相変わらず薄暗い。

 厚い雲が陽光を遮っている。

 いや、陰鬱なこの世界には元々、太陽など無いのかもしれない。

 かと言って、闇が支配しているわけでもない。

 夜でもなく昼でもない時間。

 曖昧な状態。

 微動だにしない樹木の群れが、静かに二人を見つめている。何が起きようとも受け入れるつもりらしい。

 親子の体は少しずつ水中へと沈んでいく。

 足首が見えなくなり、膝まで水につかった。

 川の中程に来ると、上半身しか見えなくなった。

 娘は母親の手にぶらさがるようにして、顔だけ出している。

 でも、川の中央でも足が付くほどの深さなのだ。

 意外にこの川は浅いようだ。

 このままなら、歩いて向こう岸までたどり着ける。

 大丈夫だろう。

 しかし、私の安易な予想は、すぐに打ち消された。

 進めば進むほど、川は深くなる。

 川の中央を越えても。

 対岸に近づいても。

 一向に浅くなる気配はない。

 なぜだろう。

 もうすぐ向こう岸なのに、川底は水面から離れていき、波の無い水が二人の体を吸い込んでいくようだ。

 この川は何なのだ。

 向こうに見えているのは岸ではないのだろうか。

 そこにあるのは別の世界なのか。あるいは幻なのか。


 母は我が子を肩の上に抱き上げた。

 娘はしっかりと母親の首にしがみつく。

 こちらに向けられた子供の顔は。

 微笑んでいた。

 最後の時間を恐れているわけではないようだ。

 幼い子供の、自らの運命を容認した上での望みは、少しでも長く母を感じ続けることらしい。


 二人の姿はゆっくりと。

 やがて、水の中に消えてしまった。


   2


 私の性格を一言で表現するのであれば、「弱さ」という言葉が一番適切だと思う。

 何かに頼らないと生きていけない。

 そういう弱さが心の中心にある。

 寂しい。いつも。今も。

 

 私は一人っ子だった。

 姉弟がいない。でも、そのことが私の寂しさの直接的な原因ではない。

 最初からいない姉弟に、喪失や欠如の感覚を抱いたことはないのだから。

 私を圧迫する感情は、おそらく母から受け継いだもの。

 母も弱い人間だった。

 父に依存していた。

 母をないがしろにして、平気で浮気をしているような父に。


 その日、母はうれしそうに夕食の用意をしていた。

 父が出張から帰ってくるから。

 でも、本当はそれが出張などではなく、愛人との旅行だということを、母が知らないわけがなかった。

 私でも気付いていたのだから。

 それでも母はうれしそうに、狭いキッチンの中をちょこちょこと動き回った。

 久しぶりに帰ってくる父のために、食事やお酒を用意した。

 私はまだ小学校二年か三年だったと思う。

 だからもう十五年ほど前のことだ。

 なぜ、ことさらにその時のことだけを思い出すのか、自分でも分からない。

 いつもなら二人でとっくに夕食を済ましている時刻なのに、母は待っていてほしいと言った。

「どうして。ねえ、お母さん。お腹、空いたよ」

 もうちょっと待ってね。

 今日は三人で食べたいから。

 特別なご馳走を作ったんだよ。

 確かにテーブルの上には、肉料理を盛り付けた大皿だの、いい香りがするスープだの、鮮やかな色合いの野菜サラダだのが、まるで高給レストランでフランス料理のフルコースでも頼んだかのように並んでいる。

 母は興奮している様子で、早口でいろいろとしゃべっていた。

 でも、その内容はもう忘れてしまった。そもそも聞いていなかったのかもしれない。私も辛かったから。

 いつもより濃い口紅の色だけが、頭の中に蘇ってくる。

 父はカバン一杯にお土産を持って帰ってきた。

 いつもそうだった。

 父にも罪の意識があったのだろう。女性と旅行に行った後は、高価なものを買ってくる。

 そういった行為は母や私を苦しませるだけなのに、そんな基本的なことさえ、父は理解していなかった。

 父は無神経だった。

 独りよがりだった。

 自分のことしか考えていなかった。

 自分のことしか考えられないほど余裕のない、小さな人間だった。


 その時の父も、たくさんの買い物をしてきた。

 しかもそれは、旅行先で購入した物ではなく、駅前の商店街で売っている寿司やフライドチキンやケーキだった。

 それでも母は、さもうれしそうに父が取り出す品々を受け取り、今までテーブルの上に並んでいた手作りの料理を急いでキッチンのゴミ箱に捨てた。

 一瞬で、テーブルの上が、店先に並んでいる商品で埋め尽くされた。

 あの時、ゴミ箱に捨てられた料理は、今でも私の心の奥底に残っている。

 だから、私は寂しい。


 私は常に母の生き方を否定していた。

 母は古くさい人間だと。

 今は男女平等の時代なのだと。女性だって、嫌なら家を出て、自立すべきだと。一人で子供を育てている母親など、この世にはいくらでもいるのだと。それが現代の考え方なのだと。

 私は何度も母に話しかけた。

 何度も問いかけた。繰り返し諭した。

 そして、一向に意識を変えようとしない母に苛立った。

 私は腹が立ち、もう、こんな家にいたくないと怒鳴った。

 あんなお父さんはいない方がいい、と。

 それでも、母は何も変えなかった。

 母の気持ちが理解できないわけではない。

 確かに私たちは父の給料で生活していたのだから。経済的には、父親に頼っていたのだから。

 母が仕事を見つけて働いたとしても、現実問題として、私を養うのは難しかっただろう。

 それでも私は、母に変わってほしかった。

 父に依存した生き方を止めてほしかった。

 やがて私は、そういう決断ができない母を見下すようになった。

 化石化した悪しき風習に囚われた下等な人間だと。

 そんな腐った過去の思想は捨て去って、一人一人が自分の意志で生きるべきだ。私はそうする。私は母親とは違う。

 それなのに。

 私は母を蔑み拒絶し軽蔑しながらも、母親のその思考を自分の内部に吸収し続けていたのだ。

 知らず知らずのうちに、私は母と同じような人生を歩み始めていた。


 私は高校を卒業後、大学には行かずに就職した。広告会社の事務職についた。

 早く独り立ちしたかったから。

 私が家から出る時、母は悲しそうな表情で私を見つめていた。

 立派に育ってくれて、お母さんはうれしいよ。

 もうこれで何も思い残すことはないね。

 そう言いながらさびそうに笑った。

 それから半年後に母は入院した。

 腸に腫瘍が出来ていたらしい。

 以前から自覚症状があったのかもしれない。知っていながら黙っていたのかも。

 病気だという連絡を聞いて、すぐに病院に行った。

 でも、その時私の前にいたのは、以前の母ではなかった。

 痩せ衰え、食べることも話すこともできず、医療機器を使って辛うじて命を維持している。

 看護師が母の書いたメモを渡してくれた。

 そこには簡単な言葉が。

 ダメなお母さんで、ごめんね。

 元気で生きてね。

 今まで、ありがとう。

 数日後、母はこの世を去った。父は病院にも来なかった。


 母が死んだことは私に大きな苦痛を与えた。

 でも、私の心の真ん中にあったのは、母を失ったことによる寂しさではなく、あの時キッチンのゴミ箱から溢れそうになっていた、母の手料理だった。

 母もまた、捨てられたんだ。


 母を失ったことも関係していたのか、私はすぐに結婚した。

 車の教習所で出会った男性だった。

 優しい人だった。

 その時の私には、新しい人生を踏み出す意気込みがあった。

 お母さんとは違うんだと。

 私は私の人生を生きるんだと。

 夫は明るい人だった。

 趣味でバンドをやっていて、小さなコンサートを開いたり、ネットで動画を公開したりしていた。

 私は彼の活動について回った。結婚する前も。結婚してからも。

 二人はいつも一緒だった。

 でも、なぜか私たちには子供ができなかった。

 理由は分からない。

 そして、そのことが原因なのかどうかはっきりとしないが、夫は他の女性と交際し始めたのだ。

 バンドを応援してくれる女性ファンと肉体関係を持つようになった。それも一人ではなく。複数の女性と。

 そのことを私も知っていたが、逆らえなかった。

 何となく、自分に責任があるような気がしたから。

 子供ができないのは全て、私が悪いような気がして。


 二年ほどして、私は長女を妊娠した。

 その時、私は狂喜した。

 子供ができたことが嬉しかった。そして、これで夫が自分の元に戻ってきてくれると思ったのだ。

 しかし、夫は喜ばなかった。

 子供がいると、別れる時に面倒なことになる、と言った。

 妊娠したことによって、夫が私と離婚するつもりだということを、はっきりと言葉で聞くことになった。

 さっさと堕ろしてくれと、表情で語っている夫を見ながら、父にそっくりだと思った。

 私は怖くなった。

 夫に対してではない。自分に対して。

 私はいつのまにか、母と同じ人生を歩み始めている。

 自分は違うと思っていたのに。

 もしかすると、母よりもひどい人生を送ろうとしているのかもしれない。

 子供だけが夫婦をつなぎ止める最後の絆だと思っていた私は、夫の意見に従わなかった。

 娘を産んだ。

 結果は明らかだった。私たちは完全に破綻した。


 娘の前では離婚という言葉を使わなかったが、夫が私に対する興味をすっかり失ってしまったという事実は、疑いようがなかった。

 それどころか、私に対して暴力を振るうようになった。

 私だけではなく、一歳にもならない娘にも。

 自分の子供なのに。

 わざと高い場所から床に落としたり、小さな体を足で蹴ったり。

 食事中に娘が座っている椅子を倒したこともあった。本の角で頭を叩いたことも。

 夫は私に言った。

 お前がこんな子を産むから、話がややこしくなったんだ。

 分かるか? お前が悪いんだよ。お前のせいなんだよ。

 お前もこの子も死ねばいい。

 なあ、お前ら、どっかに行って死んでくれよ。これ以上、迷惑かけないでくれよ。


 全て私が悪いのだろうか。そうかもしれない。

 夫の言葉を無視して子供を産んだのだから。

 そもそもそういう人を夫に選んだのは私自身なのだから。

 私は罪を自覚している。

 しかし、私が感じていた罪の意識は、私の行為に対するものではなかったのかもしれない。

 そうではなく。

 私は母の罪の意識を、自分のものとして受け継いでしまったような気がする。

 だから、常に自分が悪いのだと思ってしまう。何をしようとも。あるいは何もしなくても。

 いつでも、心のどこかで私が悪いのだと感じている。

 まるでそれは自分の体に手や足があり、顔に目や鼻があるのと同じように、当たり前のこととして、心の中に罪が潜んでいるのだ。

 そういう精神状態を私に植え付けたのは間違いなく母だ。

 だとしても母を責めることはできない。それに責めたとしても、今の私が変わるわけではない。

 私と夫は離婚しなかったが、別居生活を始めた。

 最後まで離婚を拒んだのは、私の方だった。

 それは、経済的な問題ではない。

 広告会社の仕事は、結婚しても辞めなかったので、一人でも何とか生活していくことができた。

 それでも、私が夫から離れられなかったのは、もしかしたら、また彼が以前の優しさを取り戻してくれるかもしれないと思っていたから。

 新婚時と同じような幸せな生活が帰ってくるという期待を、私は捨てることができなかった。

 だから、本当は別居すらしたくなかった。別れたくないという気持ちが心の中に残り続けた。

 一緒にいたいと。嫌われていても。暴力を振るわれても。なぜなのだろう。

 別居は、単に娘を守るために仕方なくやったこと。

 このままでは、いつか殺されるから。


 正しい判断ができなかった私は、最悪な結果に向かって進んでしまった。


     3


 私は薄暗い河原を歩いていた。

 どちらへ向かっているのだろう。上流へ。それとも下流へ。

 流れることのない川面をいくら見つめてみても、方角が分からない。

 水の表面は水銀のように重く、ねっとりとして、ただそこに止まっているだけだ。

 試しに右手の掌を浸してみた。

 沈んでいく腕の周りに、震えるような文様が広がっていく。

 しかし、流れてはいない。


 雲のような大きな白いものが、山の上から降りてくる。

 形ははっきりとしていないが、細長く、胴のような部分がところどころ太くなっていて、ゆっくりと移動している。

 頭部に目や鼻があるわけではない。

 だから、頭も尻尾も同じだ。ただ長くて、曖昧な形をしたふわふわとした塊がやってくる。

 あれは生きているのだろうか。

 私を食べようとしているのだろうか。

 霧のようなものに私の体が包まれた。おそらく、その巨大なものの中に入ってしまったのだろう。

 しかし、何も起きない。

 周囲が見えなくなっただけだ。

 見えなくても、そこに川があることだけは分かる。

 流れることのない水。

 やがてその白いものは去って行った。

 風だったのだろうか。空気の渦が白く見えたのだろうか。


 私は立ち止まった。

 音が聞こえたから。

 ガサッ、ガサッ、ガサッ。

 音は大きくない。

 人がいるようだ。歩いている。

 足音だ。

 何人もの足音が、揃って聞こえてくる。

 行進しているのだろうか。

 ガサッ、ガサッ、ガサッ。

 土や草を踏みつける音は、たくさん聞こえてくるわりには、勢いがない。

 やがて姿を現した。

 兵隊らしい。

 カーキ色の軍服を着ている。

 長い銃を持っていたり、日本刀の鞘を握りしめていたり。

 中にはモンペ姿の若い女性の姿も。

 みんなが一列になって歩いている。

 彼らは森から姿を現し、河原を横切っていく。流れることのない水面に向かって。

 みんな傷ついていた。

 片方の足がなくなり杖をついて歩いている者、衰弱し意識が朦朧とした状態で体を前後させながら足を動かしている者、腹部から流れ出す血を手で押さえたまま肩で呼吸している者、頭部が真っ黒に焼けて鼻も口もなくなり眼球だけをぎょろつかせている者。

 何十人もの人間が一列に並んで歩いていく。

 無言だ。

 誰ももう口を開く気力など持っていないのだろう。

 あるいは、ここに来て話すことなどもはやないのかもしれない。

 ただ足音だけが。

 ザッ、ザッ、ザッ。

 彼らは長い間、行進を続けてきたのだろう。森から川に向かって。

 何日も。何年も。

 何十年も。

 そしてやっとたどり着いた。ここへ。


 この場所には時間という概念が存在していないのかもしれない。

 過去や現在が、同じ場所で共存している。

 私が見ているものは現在であり過去でもある。あるいは、私自身が現在の私であり、過去の私でもある。


 傷ついた人たちが水の中へと。

 一人ずつ。一人ずつ。

 一列に並んだ集団の全員が、川の中央に向かって沈んでいく。

 彼らが対岸にたどり着くことはない。若い母子がそうだったように。

 向こう岸に近づいても、川底は深くなっていくばかりだ。

 水面が兵隊や女生徒の腰の位置まで上がってきて、胸の高さまで上がってきて。

 誰にも迷いなどない。

 もうとっくに覚悟しているのだろう。

 顔を上げて空を見上げることもなく、後ろを振り向いて山の木々を眺めることもなく、前へ前へと自分の体を押し出していき、水の底へと。

 やがて、全てが消えた。


 私はまた河原を歩き始めた。

 自分が向かっているのが上流なのか下流なのか分からないまま。


 再び白いものが流れてきて、私を包んだような気がする。

 それが過ぎ去っていくと、空がさっきよりも暗くなった。

 頭上には相変わらず分厚い雲が立ちこめている。

 ここには昼夜の境界などない。

 闇が少しずつ濃くなっていくだけだ。


 一人の男が川岸に立っていた。

 いつからそこにいるのだろう。

 私は近づいたが、彼は気付かない。

 少し距離をとって、水際を見下ろしている彼の後ろ側に腰を下ろした。

 彼は右足を水の中に入れた。

 しかし、それ以上進もうとはしなかった。

 躊躇しているようだ。

 怖いのだろう。

 体が震えている。

 踵まで水中に沈んだ右足に、全身の体重を移動し、左足も前へ動かそうとしたが、何かが彼の行為を止めた。

 彼は諦め、数歩後ろに下がった。

 後ろに下がってもまだ、彼は水面を見つめ続けている。

 それしか選択肢がないということだけは理解しているらしい。

 でも、頭で理解しているということと、心で納得しているということは全く違う。

 彼の心は拒んでいる。

 だから、川の中に入ることができないのだ。

 私は何とかして彼を助けてあげたかった。しかし、それと同時に、私にはどうしようもないという思いもあった。

 なぜ、こんな矛盾した気持ちになるのだろう。

 それに、この矛盾した気持ちは、これまでに何度も経験したような気がする。

 何度も。何十回も。何百回も。

 私は彼に会ったことがあるのだろうか。

 一体どこで。

 夢の中だろうか。あるいは現実だろうか。


 水の中に入るのをもう諦めてしまったらしく、彼は振り返った。

 山へと戻ろうとしているのだろうか。

 ベージュのスラックス。白のワイシャツ。

 血だらけだった。

 量や染みの付き方からして、彼自身の血であることは明らかだ。

 彼は刃物で刺されたのだ。

 何カ所も。

 腹部も、胸部も、首筋も。

 顔にも傷があった。鼻と口と頬の肉が裂かれて、顔面を変形させていた。

 

 私は彼の顔を見ていた。

 見覚えがあるような気がしたから。

 いくら唇や鼻梁が原型をとどめていないと言っても、顔の輪郭や目つきは分かる。

 その顔に見覚えがある。

 しかし、思い出せない。

 私は彼の顔を知っている。それなのに、彼が誰なのか分からない。

 なぜだろう。

 なぜ私の記憶はこれほどまでに漠然としているのだろうか。


 振り向いた彼は、私の方に歩いてくると、すぐ横に並んで座った。

 彼の首からはまだ血が流れ出していた。

 私は、こんにちは、と言いながら軽く頭を下げた。

 彼も何か言ったが、喉に血が詰まっているのか、その不明瞭な言葉を聞き取ることはできなかった。

 仕方なく私は、どこかでお会いしましたか、と尋ねた。

 彼は二三度咳き込んでから、苦しそうに返事をした。

 分かりません。

 僕は何も思い出せないんです。どうしてなんでしょう。

 自分が誰なのかも分からないんです。

 ここがどこなのかも。

「私も記憶が曖昧なの。はっきり思い出せることと、全然思い出せないことがある。きっと同じね。何だか、頭がぼんやりしていて。それにしても、体中、ひどい傷。大丈夫ですか。何かあったんですか」

 僕は何も思い出せないんです。

 きっと刺されたんですね。全身を。

 どうして、こんなひどいことをされたんでしょう。

 何かの恨みでしょうか。僕が悪いことをやったから、その仕返し。

 悪人なんでしょうね、僕は。極悪人。

 殺人鬼なのかもしれませんね。

 大勢の罪のない人間を殺した。

 その挙げ句、僕は体中を刺されて、どこかに捨てられたんですよ。

 彼はそう言ってから、私の方を向いて悲しそうに笑った。


     4


 娘が生まれた頃から、私は食事をすることができなくなった。

 原因はいろいろあるのだろう。

 産後の体調不順だけではなく、夫の冷たい態度も影響していたはずだ。

 しかし、食べなければ生きていけない。そう思って食べ物を無理に口に押し込む。それでも胃が拒絶し、トイレで吐き出すだけだった。

 母乳も出なくなり、娘を育てることすらできない。

 夫と別居して、生活環境を新しくしたことで、一時期症状が改善したが、やがてすぐに元の状態に戻り、何も食べられなくなった。

 別居しても症状が改善しなかったのは、精神の病の根本的な原因が、夫との生活の問題だけではなかったからだ。

 私という人間の心の奥深い場所に、病魔が棲み着いていた。


 私は病気だ。

 夫との関係が破綻しているにもかかわらず離婚もせず、別々のアパートで暮らすという中途半端な選択をした。しかも、拒食症で食事ができず心も体も病んでいる状態なのに、それでも新しい男性と付き合い始めたのだ。

 常に誰かに頼ろうとする姿勢が、私の根本にある。それは母から受け継いだものだ。

 同期で会社に入社した女の子と一緒に遊びに行った店で、ある男に出会い、その人が好きになった。

 衝動的に。

 相手はホストだ。

 だから、自分に対して好意を持っているように見えても、それが職業的なものなのだと、頭では分かっていた。

 でも。

 私はアキトという彼から離れられなくなった。

 彼は疲れている私に、優しい言葉をかけてくれる。

 俺がお前を守ってやるよ。

 あのさあ、そういう中途半端な生活はよくない。夫と正式に別れた方がいい。

 俺が面倒を見てやるから。

 こういう時には法律が大切なんだ。離婚手続きって大変なんだよ。俺の知り合いに有能な弁護士がいる。

 そいつに頼んでやろう。

 なあ、俺についてこい。

 俺がお前を幸せにしてやるから。


 文字通り私は彼について行こうとした。

 そして、彼によって、私の人生はメチャクチャにされてしまった。


 私は常に逃げようとしていた。

 両親から逃げ出し、夫との生活から逃げ出し、病気の自分から逃げ出し。

 ただ逃げ続けているだけで、何一つ問題を解決しようとしなかった。

 だから状況は必然的に悪い方法へと向かっていく。

 私は知らず知らずのうちに、地獄の奥底へと落ちて行ったのだ。

 事件後、刑事は私に言った。

 あなたのやったことは、殺人だと。


 しかし、その時の私は、アキトのことを何も疑っていなかった。

 会うたびに、アキトは私に優しかった。

 むしろ、会うたびごとに、以前よりもどんどん優しくなっていった。

 小さな娘がいると話してからも。

 拒食症でほとんど食べ物を口にすることができないと知ってからも。

 私の実情を知るとむしろ積極的に、私のことを考えてくれるようになった。

 やっぱり、その御主人とはもう別れるべきだ。

 そんな関係を続けていてもね、悪くなることはあっても、良くなることはないんだよ。

 あんまり過去にしがみつかない方がいい。

 前を見た方がいいよ。明日のことをね。

 私は彼の言うとおりだと思った。

 彼の言うとおり、私はいつも過去ばかりを見ている。

 過去に囚われて、自分を小さな檻の中に閉じ込めようとする。

 それが母から習った生き方だから。

 どれほど母を軽蔑していても、やはり私は母の考え方に従って生きている。

 彼は私のために弁護士と話をすると言ってくれた。

 有名な弁護士だと。

 インターネットで検索すると、その名前を見つけることは簡単だった。

 アキトの話では、彼は今かなり大きな案件を抱えているのだと。

 北海道で裁判をしていて、ちょっと時間が取れないのだと。

 それでも、自分なら話を聞いてくれるかもしれないから、直接会ってみると。

 だから、少し旅費を支援してくれないかと。

 私は五十万渡した。

 半月ほどして、アキトは弁護士に会ったと言った。

 離婚する時には互いの資産の分配が問題になるから、二人の貯金とか、資産とか、親戚の構成とかを教えてくれと。

 私は詳しく彼に伝えた。

 そうすると、もう一度北海道まで行って、弁護士に会ってくるから、お金を支援してくれと。

 私も連れて行ってほしいと言ったら、断られた。その弁護士はとても忙しいから。彼に会うだけでも精一杯なのだと。

 そういった話を全て私は信用した。

 何度もお金を渡した。

 私はアキトを信じていたから。彼だけが私を救ってくれると思ったから。

 もちろん完全に信じていたわけではない。いつまでも具体化しない会話を不審に思ったけど、そうだとしても全てが嘘なわけではないと思った。

 彼が何か隠し事をしていたとしても、それは私のためにやっていること、そう考えていた。

 何度もお金を渡し、ついに貯金がなくなった。

 アキトに勧められて、それまで勤務していた広告会社を辞め、夜の店で働き始めた。

 私は自分の肉体でお金を儲けるようになった。

 屈辱だった。

 でも、それさえも、私自身の未来のためであり、アキトのためでもあると思い、必死で耐え、何とか乗り越えた。

 今までとは桁が一つ違う額の金を手にするようになった。ほとんどは、アキトに渡すことになったが。

 それでも足りずに、消費者金融で借金もした。しかし、それには限界があった。

 要求された額を渡せないようになると、アキトの態度が変わった。

 私の部屋に来て暴力を振るうようになった。

 私の顔や腹を平気で殴ったり蹴ったりした。

 きっと嫌なことがあったのだろうと思って、しばらくは我慢したが、暴力の程度も頻度も高まるばかりだった。

 彼は、怒鳴った。

 オメエにはこういう価値しかないんだからなあ。

 金を稼げよ。この世の中、それだけだろう。

 なあ、明日までに百万用意しろよ。

 親殺してでも、娘売ってでも、金作れよ。

 もっといい仕事紹介してやろうか。

 付き合い始めた頃の優しい言葉も、北海道の弁護士に会いに行っているという話も、全て私から金を巻き上げるための嘘だったのだ。

 私の体を血だらけにしながら怒鳴っているアキトの姿は、夫と、あるいは父と同じだった。


 両親の家を出た時には、自分は今から新しい生活を始めるんだと思っていた。母親のような生き方はしないぞと。父のような馬鹿な人間とは関わらないぞと。

 しかし実は、ずっと同じ場所にいたのだ。

 歩き続けていたつもりだったが、同じ場所をぐるぐると回っているだけだった。

 アキトの拳は、まだほとんど言葉をしゃべれない娘にも向かった。

 小さな体を必死で守ろうとしたが、彼は私からむしり取り、壁に投げつけた。

 それでも。

 私はアキトに従おうとした。

 いつかは、また優しく抱きしめてくれると思っていたから。


 私は夫と離婚することもなく、アキトと別れることもなく、それでもまた別の男とも付き合っていた。

 やはり私は病気なのだと思う。

 何かに頼らずには生きていけないのだ。

 過去にしがみつき、過去を捨てることができず、ずるずると悪い状況を引きずりながら、また新しい人間を見つけ、その人に頼ろうとする。

 私がアキトに隠れて付き合っていたのは、以前働いていた会社の同僚だった。

 栗田と言った。

 大人しい男性だった。

 何一つ自分の意見を言えないような男だった。

 会社ではいつも上司に怒鳴られていた。

 新人だった彼は仕事でよく失敗したから。でもそれだけではない。

 彼は要領が悪かった。だから、自分以外の人間の責任も押し付けられた。

 みんな彼を栗田君と呼んでいた。

 君付けしていたのは、子供のように見えたからだ。

 誰もが彼を見下していた。彼をゴミのように思っていた。

 そして、軽蔑の意を込めて、栗田君と呼んだ。

 彼が怒鳴られている内容は、大抵、怒鳴っている側の人間の失態だった。

 彼は叱られているのではなく、責任をなすりつけられているだけだった。

 それでも、彼は言い返さない。

 言い返せなかったようだ。性格の問題だろう。

 私は彼のことを、自分の意見を主張できない、気弱で馬鹿な人間だと思った。

 彼は私の間違いが原因で怒鳴られていることもあった。

 ちょっと気の毒になって、彼を慰めてやった。

 さっきはごめんね。

 あの数字、私がミスってたんだよね。

 本当のことを言わなかったのは、私に気を遣ってくれたから?

 栗田はきょとんとしていた。

 別に私のことを思って黙っていたわけではなかったようだ。単に状況を把握できていないだけだったのだろう。

 やはり頭が悪いのだろう。

 でも、そんな彼が可愛いと思うこともあった。なぜなのだろう。

 自分の中にこういう気持ちがあるのかと少し驚いた。

 私はいつも他人に頼り、誰かに守ってもらおうとしている。

 それなのに、彼が自分よりも弱い人間だと思った瞬間に、私が彼を守ってあげたいと、そんな気がし始めたのだ。

 でも、それは本当に愛情だったのだろうか。

 ある意味で、私は彼をペットのように思っていたのではないだろうか。

 彼と私は、飼い犬と飼い主だった。

 とても愛や恋と言ったものではない。

 でも、彼は私を慕ってきた。

 今まで誰にも相手にされないような人生を生きてきたから、話をしてくれるだけでうれしいのだろう。

 捨てられたペットは、拾ってくれるなら誰にでもなつこうとする。それしか生きていく術がないのだから。

 それと同じだと私は思った。


 アキトとお金の問題でもめ始め、私が会社を辞めても、栗田はついてきた。

 アパートにやってきて、私のことが心配だと言った。

 何を言っているのだろうか。

 私ははっきりと言い返してやった。

 あんたなんかに気にしてもらわなくても、私はちゃんと一人で生きていけるんだよ。

 そんな暇があったら、自分のことを心配しなよ。

 それでも彼は帰ろうとしなかった。

 私は自分の力を見せつけようとした。私は弱い人間ではないと。彼とは違うのだと。

 玄関でぼそぼそと話している彼を部屋の中に連れ込み、ベッドの上に押し倒して、馬乗りになった。その時、初めて彼と肉体関係を持った。

 彼はまだ童貞だったのではないだろうか。行為の間中、ひどく興奮していた。それから、恥ずかしそうに帰っていった。

 一度味わった快感が忘れられないのか、彼は何度もアパートにやってきた。

 玄関でぼんやりしている彼は、同じことを言った。私のことが心配なのだと。

 彼が本当に私のことを案じているとは思えなかった。たとえその気持ちが事実だとしても、彼のような力のない人間が私を助けることなど、できるはずがないと思った。

 それでも、私は彼との関係を切ろうとはしなかった。

 母を失い、夫を失い、アキトも失い、これ以上失いたくないという気持ちが、私と彼をつないでいたのだろう。

 ある時運悪く、私のアパートで、栗田とアキトが顔を合わせた。

 私はこっぴどく殴られた。

 この浮気者が。この色ボケが。

 肋骨にひびが入った。

 しかし、痛い目にあったのは、私だけではなかった。彼も。


 何もできない栗田と一緒にいて、少しだけ良かったことがある。

 彼が私の娘を大事にしてくれたこと。

 おしめを替えてくれたり、お風呂に入れてくれたり。

 私が夜仕事をしている間、預かってくれた。

 それまでは、店の近くの保育園に預けていたが、そこは狭い部屋にたくさんの幼児を詰め込んでいて、良い環境と言えるものではなかった。私のような仕事をしている女性を専門に営業している、深夜専用の安い施設だったので、誰も文句は言わなかったが。

 私が働いている間は、彼が娘の面倒を見てくれた。

 娘も彼になついていた。

 アキトの暴力はずっと続いていたので、娘を彼のところに預けると安心できた。

 相変わらずアキトは私のところに来て、金を要求し続けていたから。払えないのなら、娘を殺すと脅されていたのだから。

 私は殺されても自業自得かもしれない。でも、娘は違う。

 娘には何の罪もないのだから。娘の人生はまだ始まってもいないのだから。


 やがて私は妊娠した。

 栗田の子供を。


 そのことを、アパートにやってきた彼に伝えた。

 私は夜の仕事に行こうとしていた。彼はその前に娘を預かりに来てくれたのだ。

 私は玄関に現れた彼に、ふとその事実を話した。

 彼の言葉は意外だった。

「もう終わりにしよう」

 私はどきっとした。

 何を終わりにするのか。

 私と彼の関係を。

 つまり、この子を堕ろせと。

 そう言いたいのか。

 どれほど曖昧な表現をしたところで、内容は残酷だ。

 男はみんな同じだと思った。

 子供が欲しくてセックスするんじゃない。

 ただ、自分が気持ちよくなりたいだけだ。

 あれほど、私のことを心配していると言っておきながら、最後には悪魔のようなセリフを吐いたのだ。


     5


 私は河原に座っていた。

 横には血まみれの男が。

 空が次第に暗くなっていく。

 もうすぐ全てが闇に飲み込まれてしまうのだろう。

 男が誰なのか思い出せない。

 彼の方を見ると、やはり首から大量に出血していた。

 もはや、死んでいるのか生きているのかも分からない。

 ここでは生死の区別すら曖昧なのだろう。

 私さえもそうだ。

 自分の鼓動の音も聞こえなければ、呼吸をしているのかどうかも判然としない。


 ここはどこなのだろう。

 なぜここにいるのだろうか。

 私はこれからどこへ。


 男はまたふらふらと立ち上がった。

 水際まで歩いて行き、何とかして水の中に入ろうとする。

 右足を踏み出して。

 体重を移動し、左足を。

 でも。

 彼は打ち勝てないのだ。恐怖に。

 無理だ。一人では無理だ。


 私は今までに何度も、彼の苦しむ姿を見た。

 見るたびに思った。何とかしてあげたいと。

 それなのに。

 どうして、私は。

 約束だから。

 私は誰と約束したのだろう。


 彼はまた後ずさった。

 出来ないのだ。沈んでいくのが怖いのだ。

 彼は後ろに下がった拍子にバランスを崩した。

 私は急いで彼のそばに行き、力を失って倒れる彼の体を支えようとした。

 しかし、私も彼と一緒に河原の石ころの上に崩れ落ちてしまった。

 彼はもう意識がなかった。

 私は足を崩して座り込むと、彼の頭を自分の膝の上に載せて寝かせた。

 彼の全身の傷はすさまじかった。

 胸にも深い傷がいくつかあった。

 腹部にも足にも腕にも。

 切り傷や刺し傷が数え切れないほど。

 きっと、痛かったんだろう。

 よく我慢したと思う。


 私は少しずつ、忘れていた記憶を取り戻し始めた。


     6


 私はその時、怒っていた。

 栗田の言葉が許せなかったから。

 言い返した。

 なんだよ。終わりにしようって。馬鹿じゃないの。

 結局、みんな私を捨てるんだよ。

 あんたも一緒だよ。単なる獣だよ。

 今まで気持ちよかったか。それで満足か。

「違う。そういうことじゃない。でも、もう終わりにしないと。もうこれ以上は無理だから」

 何が無理なんだよ。全部、自分の都合だろうが。

 私が妊娠したのが気に入らないなら、堕ろしてやるよ。

 それで解決だろう。

 あんたは気持ちいいことしたいだけなんだろう。私の体が目当てなんだろう。

「そうじゃなくて……」

 そうじゃないなら、自分のやったことに責任持てよ。

 まだ小さな命かもしれないけど、このお腹ん中では、あんたの魂が生きてんだから。

 責任とってみろよ。

「責任ならとる」


 私には彼の言葉の意味が理解できなかった。

 彼は責任をとると言った。どうやって。

 じゃあ、父親になる覚悟があるのか。

「いや」彼は否定した。もう、父親にはなれないと。

 どういうことなんだよ。

 父親になれないってことは、堕ろせってことだろう。

「そういうことじゃない」

 意味、分かんない。

 そういうことじゃないって、じゃあ、どういうこと。

 彼は返事をせずに、部屋のキッチンに行き、一番大きなナイフを取り出し、握りしめた。

 殺される。

 そう思った。

 彼は私と娘を殺そうとしている。

 それが〝終わり〟という言葉の意味なんだ。

 私が悲鳴を上げよとした時、なぜか、彼は持っていたナイフをカバンに入れてしまった。

 そして、玄関から出ようとした。

 どこに行くの? そんなナイフを持って、どこへ行くの?

 私は尋ねたが、そんなことは聞く必要がないような気もした。

 彼はアキトのところへ行こうとしている。

 なぜ。

 ……終わりにするため……

 彼が終わらせようとしていたのは、アキトの行為。あるいは、アキトに脅され、たかられ、怯え続けている私の生活。

 彼はアキトを殺そうとしている。

 でも信じられなかった。

 彼にそんな大胆なことができるはずがない。

 私は馬鹿馬鹿しくなって、思わず笑い出した。

 そんなのあんたには不可能だよ。

 そんな根性ないでしょう。

 あんたに人が殺せるわけないでしょう。

 私は、彼の頭はおかしくなったんだと思った。

 きっと、私が妊娠したと聞いて、気が狂っただけなのだろうと。

 私は気軽に言った。殺せるなら殺して来いよ。

 彼は頬を引き攣らせながら、

「できるかどうか、分からない。でも、今のままじゃダメだ。君も、あの子もダメになってしまう。だから、終わりにしないと」

 私が黙っていると、彼は少し苦しそうな表情をした。

「約束してほしい。二人をちゃんと育てると」

 私は何も答えなかった。

 真面目な質問だとは思えなかったから。

 ごめんなさい、そう謝ったのは彼自身だった。


 彼はそう言うと玄関から出て行ってしまった。

 私はしばらく考えていた。これから何が起きるのか。

 彼にアキトが殺せるとは思えない。

 そんな度胸も勇気も力も彼にはないのだから。

 でも、万が一殺したらどうなるのだろう。

 彼は殺人罪に問われる。

 何年か刑務所に入ることになるだろう。でも、一人殺したぐらいでは、死刑になったりはしない。それにアキトが私にやった暴力も加味されて、それほど重い罪にはならないはず。

 きっと大丈夫だろう。

 そんなことを考えてから、仕事に出ることにした。深夜の保育園に電話して、今日だけ娘を預かってほしいと頼んだ。

 私が玄関を出ようとした時、妙なものを見た。

 ドアを開けると、外に女の子が立っていたのだ。

 着物を着た幼女。

 知らない子。

 その手には首のない仏像が。


 仕事中は何もなかったが、アパートに戻ってから電話がかかってきた。

 警察からだった。

 深夜だが、すぐに署の方に来てほしいと。

 確認したいことがあるから。

 有無を言わせぬ口調だった。

 嫌なら逮捕するぞという圧力を感じた。


 取調室で刑事は私に尋ねた。

 今日、私が栗田とどんなことを話したのか。

 彼が何をやったのかは教えてくれなかった。

 しかし、普通ではない状況だということは、刑事の表情から分かった。

 おそらく、彼はアキトを殺したのだろう。

 私は全てを正直に話した。

 その時はまだ、それほど重く考えていなかった。

 アキトは殺されて当然の人間だと思っていたから。

 栗田も数年すれば刑務所から出られるのだから。

 それほど大きな出来事ではないと。

「なぜ、その時、あなたは栗田を止めなかったのですか?」

 説明を聞いた刑事が尋ねた。

 さあ、どうしてでしょうね。

 本気だとは思えなかったんですよ。

 彼に人が殺せると思ってなかったし。

 むしろ、止めるというよりも、殺せるもんなら殺してみろっていう気でしたよ。

 だって、そうでしょう。

 アキトは私に暴力を振るうだけじゃなくて、娘にも手を出して。

 それで私の金を巻き上げて。

 あんな人間死んだ方がいいじゃないですか。

 彼が殺してくれるなら、それはそれでいいと思ってましたよ。

 殺せるなら殺してみろって。

「そういうことは言わない方がいい」

 刑事は丁寧に教えてくれた。

 彼が私と同意の上でアキトを殺したのなら、私にも殺人罪が適用されると。

 司法には共同正犯という考え方があり、二人でやったことなら、直接手を下していない方も厳罰に処せられるのだと。

 私はびくっとした。

 私も逮捕されるんですか?

 でも、そんなつもりじゃ。

 だって、そもそも本気だとは思ってなかったから。

 彼が人を殺すなんて。

 そんなこと出来ないと思ってたから。

 すみませんでした。


 その刑事は私に言った。

 殺されたのはアキトではないと。

 栗田自身なのだと。


 私はその時刑事が説明してくれたことを覚えている。

 もうアキトの取り調べは済んでいたようだった。

 刑事は、栗田がアキトのアパートに行って何をしたのかを私に話した。

 私の頭の中には、栗田とアキトが言い争っている姿がしっかりと残っている。

 それは、刑事の話を聞きながら私が思い浮かべたことでありながらも、単なる想像よりもはるかに現実味を帯びていて、まるで自分がその場に居合わせて二人を見ていたのではないか、そんな錯覚に陥ってしまうほどだった。


 栗田は言った。

 もう脅しは止めてほしいと。もう私や私の娘に会うのは止めてほしいと。

「お前、馬鹿じゃねえの。お前に何の権利があって、そんなこと、言ってんの。お前には関係ないだろう」

 栗田ははっきりと答えた。

 僕には関係がある。

 僕は父親だから。

 そして、彼はカバンからナイフを取り出した。

 しかし、彼はそれを握って構えただけで、アキトを刺そうとはしなかった。

 躊躇したのだろうか。

 怯えたのだろうか。

 いずれにしても、その戸惑いをアキトは見逃さなかった。

 アキトは彼の手からナイフを奪い取ると、それで彼の体をめった刺しにした。

 おそらく怒りがコントロールできなくなっていたのだろう。

 何度も腹部や胸部を。

 感情の暴走だけが、彼を残忍な行為へと誘導したわけではない。

 栗田は何度刺されても、なぜか倒れなかった。

 そして、喉の奥から絞り出すような声で言い続けた。

 もう私たち二人に対する暴力や脅しは止めてほしいと。もう会わないでほしいと。

 アキトが握っているナイフが、栗田の首筋を切った瞬間に、おそらく頸動脈が傷ついたらしく、血がほとばしり出て、彼は意識を失って玄関の床に倒れた。

 それでも、床板の上に横たわったまま、栗田は口をぱくぱくと動かしていた。

 もうそれは筋肉の痙攣のようなものだったが、アキトには彼がまだ生きていて、何かしゃべっているのだと思えた。

 アキトはまた、倒れた栗田の上に覆い被さり、彼の体を何度も刺した。

 その後、栗田は病院に搬送されたが、すでに心肺停止状態だった。


 刑事は私に言った。

 それはアキトのことだった。

「本人は正当防衛だったと言ってますね。玄関にやって来た男に、いきなり刃物を突きつけられたから、と。しかし、それにしてはやり過ぎでしょうね。傷の状況からして、傷害致死罪は免れないでしょう。まあ、これまでの経緯もあるようだし」

 経緯とは、今までアキトが私を脅し、私や娘に暴力を振るっていたこと。

「それにしても、どうして、栗田は逃げなかったのでしょうね」

 なぜ、刺され続けているのに、玄関に立ち続けていたのかと。

 ナイフを奪われて、殺されると分かっていながら、どうして外に出ようとしなかったのかと。

 どうして、大声を出して、助けを呼ばなかったのかと。

 刑事のその疑問は、むしろ私に事実の全てを理解させた。

 栗田が最後に言った言葉。

 私のお腹の子供の責任はとるけれども、父親にはなれないと。

 二人をちゃんと育ててほしいと。

 二人……。

 彼は娘だけでなく、私が今孕んでいる胎児もちゃんと育ててほしいと言ったのだ。

 でも、そこには父親としていられない。

 なぜなら。

 そのことを最後に謝った。


 彼は私とアキトの関係を終わらせようとした。

 そのために、彼はアキトを殺すのではなく。

 彼はどこまで考えていたのだろう。

 もし彼が殺人を犯せば、刑事が言ったように、私さえも殺人罪に問われる、そのことを予期していたのだろうか。

 それでは何も解決しないと。

 そんなことになれば、何も解決しないどころか、私は娘まで手放さなければならなくなると。

 彼はそこまで考えて、アキトを殺すのではなく、自分が。


 刑事が言ったとおり、アキトには傷害致死罪が適用された。

 裁判を通して、私は行政や各種の支援団体とつながることができた。

 アキトと私の関係は完全に絶たれた。

 それまでうやむやな関係を続けていた夫とも、正式に離婚した。

 私は栗田との子供を出産することもできた。男の子だった。

 私は一般企業に再就職することができ、働きながら二人を育て始めた。

 もしかすると、これが栗田の思い描いていた未来だったのかもしれない。


 生活が軌道に乗ったころ、私はある夢を見るようになった。

 男が川沿いに立っている夢。

 それは普通の場所ではなかった。

 山奥なのに、なぜかそこだけ開けていて、大きな川が。

 しかも、その川の水は少しも動いていない。

 微動だにしない水面が、薄暗い空の下に続いていた。


 三途の河。

 

 そこに立っていたのは栗田だった。

 栗田は岸に立ったまま、戸惑っていた。

 彼には勇気がないのだ。

 ナイフを握りしめていても、人を殺す根性などない、彼はそんな男だった。

 彼の手は、刃物で人を痛めつけるのには似合っていない。泣いている私の娘のおしめを替え、そっと湯船につけて小さな体を洗うための手なのだから。

 彼にはアキトを殺すつもりなど最初からなかった。そんなことはできないと自分でも分かっていたのだ。

 だからと言って、彼は死ぬ覚悟もなかった。

 死ぬのは恐ろしい。

 だから、彼はアキトに全身を刺されてもなお、三途の河の前で立ちすくんでいるのだ。

 肉体が死んでもなお、魂はどうすればいいのか分からなくなって苦しみ続けている。


 彼には殺す勇気もなければ、自分が死ぬ勇気もなかった。

 あったのは、命を捨ててでも私の生活を守ろうとする勇気だけだった。

 そして、彼はそれを素直に実行した。

 私のために。

 私と二人の子供のために。


 彼は何度も夢の中に現れた。

 繰り返し繰り返し。

 三途の河を渡ることができない男。


 助けてあげたい。

 彼は私を助けてくれたのだから、今度は私が彼を助けてあげたい。

 でも、彼の願いは。

 彼は最後に。

 私に。

 ちゃんと二人を育ててほしいと。

 だから、今は。

 今は、そこに行くことができない。


 水面を見下ろしたまま途方に暮れている彼の姿。

 私は同じ夢を数え切れないほど何度も見た。

 そのたびに、私は囁いた。

 苦しいよね。

 辛いよね。

 助けてあげたい。

 でも。

 ごめんね。

 まだ。

 だって、約束したから。

 だから。


     *


 今はいつなのだろう。


 あれから長い年月が過ぎたような気がする。

 もう娘は三歳ではない。

 娘も息子も健康に育ち、成人し、独り立ちした。

 私の元から去って行った。

 私は一人になった。

 そして、私の人生も終わりの時を迎えた。

 彼との約束は最後まで果たした。

 今度こそは同じ失敗を繰り返さなかった。


 どれだけの時間が過ぎたのか。

 分からない。

 でも、やっとここまで来た。

 何度も夢の中で見続けた場所に。

 あなたが苦しんでいる場所に。

 やっと助けてあげられるよ。

 やっと一緒に。


 全てがつながったような気がした。

 今目の前にいる男が誰なのか、やっと認識できた。


 私は膝の上に頭を乗せて横たわっている男に……栗田に声をかけた。

 大丈夫?

 痛い?

 彼は目を開き、私の方へ顔を向けた。

 私は血まみれの彼の手を握った。

 彼も私の手を握り返してくれた。

 おそらく、彼も私と同じように、やっと私が誰なのか認識できたのだろう。

 私は尋ねた。

 ねえ、立てる?

 彼はうなずいた。

 私たちは互いの体を支え合いながら、よろよろと立ち上がる。


 ごめんね。

 気が付いてあげられなかった、あなたの本当に気持ちに。

 なんにも分かってなかった。

 あなたのことも。自分のことも。

 結局、私、あなたを、

 こんなに苦しめてしまって。

 ごめんなさい。


 いつのまにか、そばに、薄紅色の着物を着た幼女が立っていた。

 首のない仏を胸に抱きしめている。

 もう時間なのだろう。

 私たちの終わり。

 次第に空が暗くなっていく。

 闇が二人を覆い始めた。

 私と彼は歩き始める。

 重い水の中へと。

 一歩。また一歩。

 私は彼の方を見て微笑んだ。

 彼もうれしそうに笑ってくれた。

 川は次第に深くなっていく。

 後ろから幼女の声が聞こえた。

 色即是空。

 空即是色。


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静寂の河 八雲 稔 @yakumo_minoru

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