最終話 いつか あなたの正義が挫けたときに また……

 意識の浮上。

 真っ先に感知したものは、アラームのうるさい音だった。


 上体を起こそうとして、酷く億劫で挫けそうになる。怠い。これまでに感じたことのない倦怠感だ。まだ横たわっていたい。二度寝したい。生理はまだ先のはずだ。風邪でも引いてしまったのだろうか。それともホルモンバランスの崩れ? アラームに叩き起こされるのも、随分と久々だ。アラームは念のために設定してあるだけで、いつもだったら鳴る前に起きられるのに。「……はぁ……」とにかくまずは起きよう。体温を測るにしても、起き上がらなければならないのだから。起き上がれ!と気持ちを振り絞る。


 自室ではなく、リビングだった。ベッドでなく、ソファで寝てしまったらしい。こういうのもよくないのだろうと反省しつつ、ローテーブル上にあるスマホを操作してアラームを止める。ソファで寝るから休まらないのだ。大半の結果は、大半の蓄積によるものだから、今後は気を付けよう。

 ソファから立ち上がって、キッチンのほうへ。棚から救急箱を出し、体温計を脇に挟む。――ぴぴぴ、ぴぴぴ。体温、確認。三十六度二分。なんだ、平熱だ。


 では、この倦怠感はなんだろう。ただの疲労の蓄積だろうか。それとも……。

 心の重さに比例して、身体も重たくなっているのかもしれない。

 ストレスは万病のもとだというのは、現代医学の常識だ。

「……はぁぁぁ」溜息を吐き終え、溜息を吐いたことに気づき、さらに疲労を感じた。


 だからといって、休んではいられない。

 ストレスと戦っているのは、私だけではない。現代人、みんな、何かしらに苛まれているものだから。順風満帆という人のほうが稀に違いない。幸せそうに見えても、大抵、幸せなフリを頑張っているだけだ。SNSなんてとくにそう。みんな、幸せを演じているものだ。


 私だって、同じ。一生懸命に勉強して最難関大学に入学し、それなりに遊びながらも単位や資格の取得に励み、一流企業に就職もできた。同世代の中では待遇もよく、同世代との交流会などでは羨ましがられることも多かった。

 だからといって、幸福なわけでもない。

 今の私は、好待遇の企業でキャリアを積んでいるだけの人間でしかないのだ。

 もちろん、好待遇を得られているくせに贅沢だ!と非難されることなのは理解している。だからこんなこと誰にも言わない。当然。SNSで発信もしない。


 でも、私は私が幸福だなんて、微塵も思っていない。

 とくに、今は……。


「……まったく、もう……」

 つい、不満が零れた。最近、一人でいるときには、よくやってしまう。

 心が病んでしまっているのかもしれない。近いうちに心療内科に行ってみようか。

 でも、もしもそれがあの子にバレてしまったら、心配させてしまうに違いない。

 あの子は優しい性格だから。競争社会には明らかに不向きなほど、優しいから。


「……いけない、いけない。今日も仕事っ。支度をしなきゃっ」

 実にわざとらしく弾んだ声で宣言し、私は諸々のことをするために洗面所へ向かった。


 スクランブルエッグとソーセージとサラダとパンという洋風朝食を作り終え、せっかくなら温かいうちに食べて欲しいから、あの子に報せに部屋へ向かう。出てきてくれて一緒に食べてくれる可能性は、半々だ。短い廊下に立って、ドアをノック。

 ……、……、……。

 返事がない。寝ているのかしら。それとも、まだ帰ってきてないのかな。時々、あの子は夜中に出歩いているようだから。危ないからやめて欲しいけれど、やれること、やってみたいことをやるというのは、今のあの子には必要なことだと思ったから推奨した。


 もう一度、ノック。……、……、……。やっぱり反応はない。

 ……一応、中を確認しようかしら。うん、そうね。もう子どもじゃないのだから、勝手に部屋に入るなんて、家族とはいえプライバシー侵害行為だ。でも、万が一、突発性な病気のせいで返事ができないという危険性もある。プライバシーを優先して人命救助できないというのは、珍しい話ではない。これが他者の場合、状況は複雑になってしまうから、人命救助よりプライバシーを優先してしまう恐れもあるが、家族が相手なら踏み込んでもいいだろう。家族の場合は、プライバシーよりも人命救助に重きを置くべきだ。


 というわけで、ドアを開いた。

 いなかった。ベッドにも、愛用のパソコンの前にも。やっぱり夜中の散歩から帰ってきていないのか。……あれ? スマホがある。一時、他人からの連絡を酷く怖がっているときがあったから、スマホを置いていったのかしら。でも、それに関しては回復したように、一緒に過ごす中では見えていたけれど。心配をかけさせないよう、そのときには嘘を吐いたのかもしれない。


 心の問題は、複雑だ。

 今の私も、まさに直面しているから、昔以上によくわかる。


 スマホのあるローテーブルの上に、ビジネス系の雑誌が置いてあった。

 見出しには『社会人の副業資格! 難しくない資格でも意外と稼げる⁉』とある。

「ふふ」素直に嬉しくなった。

 家族としてやれることは、頑張る気があるのだったら、あれこれ煩く言わずに見守ることだ。やる気があるうちに背中を押すことは大事だろうが、押しすぎれば前のめりに倒れてしまう。

 ドアを閉めて、リビングに戻る。


 朝食を食べ終え、メイクや着替えなどの支度を済ませたとき、スマホが鳴った。

 メッセージだ。嫌な予感。恐らくあの人だろうと思いつつ、スマホを手に取る。もう家を出る時間だから、やり取りをするのは駅に向かいながらにしよう。

「行ってきます」

 施錠して、エレベーターホールに向かう。


 帰ってきたあの子と会うかしら、なんて期待していたけれど、そんなことはなかった。

 天気がいい。雲一つない。快晴だ。でも、スマホを見れば、気持ちは淀むのだろう。しかし確認しないわけにはいかない。

 カノジョは、カノジョたちは、虐げられた者たちだから。

 スマホをお尻のポケットから出して、メッセージを確認する。


 送り主は、予想した通りの人だった。

 私が婚約していたあの男に弄ばれ、妊娠してしまった可哀想な女性。


 カノジョと知り合ったのは、まだ婚約していたときの、とある夜のことだ。

 何も知らなかった私は、その日も仕事帰りにあの男と会い、あの男の家で少しの間デートをしていた。この人と将来を共にするんだと思い、愛し、愛されていた。そこに、やって来たのだ。


 インターホン親機の液晶を見たあの男は酷く恐れていたし、今、思えば舌打ちもしていた気がする。そのときの私はまだ何も知らず、暢気に、同僚か友人かと思っていた。


 少し話してくるからと言ったあの男だったが、そこはさすがに私も女というか、恋愛経験は同世代と比べても乏しかったほうだけれど、これまでの人生では覚えのないような直感が働いて、一緒に行くと言って家から出た。あの男はマンションの玄関ホールに着くまでずっと、家に戻っていてくれとか、裏口から先に帰ってくれてもいいとか言っていたけれど、そんな言い方をされたら、逆にあの女性に会うべきだという使命感のようなものが大きくなっていくだけだった。私はカノジョと、広々とした、ホテルのようなロビーで対峙した。


 カレを返して!

 そう、第一声を浴びせられたときには、本当に驚いた。

 返してという言い方、そしてあの男の家まで来た、来れるという情報から、私はどういうことなのか推察できた。婚約者が私以外の女性と関係を持っていると、容易く気付けた。

 でもまさか避妊もしていなくて、それどころか、何十人という相手がいたとは思っていなかったけれど。


 後日、私はカノジョと一対一で話した。カノジョのほうから会いたいと言われたのだ。

 また怒鳴られるのか、憎悪を向けられるのか。そう思っていたけれど、そうはならなかった。カノジョは開口一番、謝ってきたのだ。自分はあの男に婚約者がいることはしらなかった、だからあなたがあの男をたぶらかしていると思って怒鳴ってしまった、でもあなたは何も悪くなかった、だからごめんなさい。そう、深々と頭まで下げられた。


 その姿を見て、この人はただただ被害者なだけだと、私は思った。

 その思いは、自分の、人として正しくあろうとしてきた信念というか生き方の土台みたいなものを刺激した。だから、味方になろうと決断するまで、時間はかからなかった。

 でも今、それが重荷になっている。


 届いたメッセージは、次の、あの男との話し合いに関する相談だった。ほかにもまだいるらしい被害女性との面談にも同席して欲しいということも書いてある。さらに、いよいよあの男と本格的な協議を進めるうえで、全員分の弁護士費用も賄って欲しい、とも。

 さすがに、負担だった。別に言っていることは間違っていない。多分カノジョとしても、私が一番頼れるから頼っているのだろう。弁護士費用にしても、そもそも初期費用をそれなりに準備しなければ強い弁護士に依頼できないし、相談にもお金はかかるから、唯一、大企業勤めの私に期待したい気持ちもわかる。弁護士費用なんて、それも慰謝料の中に入れてもらえばいいのだから、まあ、法で戦うためにも今は出費して欲しいというのも理解できる。


 ただ……問題なのは、ただただ、負担なのだ。

 可哀想だとは思う。心から思っている。でも、私はもう関わりたくなかった。

 ずっとストレスになっているから。心に負荷がかかり続けている。

 私自身としては、もう、何もかも忘れてしまいたいのだ。

 ……忘れる、なんてことは、婚約するほど信頼していた男の問題なのだから、死ぬまで不可能だろう。だとしても、もう、あの男のことに、それに関係することに、人生を使いたくないのだ。心も、身体も、お金も、時間も、何もかもをほんの少しだって割きたくないのだ。


 でも……どうしたらいいのだろう。

 一度、巻き込まれてしまったこの大渦から、どう抜け出せるというのか。

「……はぁ……」

 何か、手っ取り早く解決できる術があればいいのに。

 それこそ、魔法みたいな……。


「――お姉さん」


 不意に、すぐ右隣で声がした。

 驚きに身を震わせたあと、慌てて顔を向ける。朝からナンパか、もしくは不審者かと防衛本能が昂っていたけれど、その正体を知って少し気は緩んだ。

 一メートルほど離れたところに、一人の子どもが立っていた。くすんだ赤……赤黒いという表現が最適だろうワンピースを着ている。性別は……わからない。


 知った子かと思いもしたが、見覚えのない顔だ。

 もしかして迷子だろうか。親御さんとはぐれてしまった可能性もある……。

 通勤時間で、この辺りは治安も悪くないが、一人になって困ったから話しかけてきたのかもしれない。私は膝を軽く曲げ、できるだけ顔を近づけ、笑いかけた。


「どうかしたのかしら?」

 子どもは、真っ直ぐ、見詰め返してくる。

 ……なんだろう、とても強い目ね。

こんな小さな子に抱く感想としては変かもしれないけれど。


「我の名前は、ジャシン。キサマに提案を持ち掛けにきた」

 キサマ呼ばわりされたことは、子ども相手とはいえ不愉快ではあったが、ここは水に流そう。他人の子どもなのだ。教育だとしても、下手なことすれば、問題になりかねない。ひと昔前は、近所の大人が常識を教えることも許されていたそうだが、今は容認されない場合が多い。

「ジャシン? それがキミの名前なのかしら。親御さんは? 迷子かな?」

「名といよりは、在り方だ。原初の神の一柱。邪なる神である」


 ああ、邪神と書くのか。

 小説かマンガかアニメの影響だろうか。何かになりきりたい年頃なのだろう。

 とすると、親から離れたい時期で、一人でもできるもんと行動していたら、迷子になってしまったのかもしれない。家から一人で出かけてきた可能性もある。交番案件だろうか?


「そう、邪神さんね」本名は?なんてやり取りは警察に任せればいい。とにかく話を進めよう。「私に、提案? というのは、どういうことなんだろう。親御さんとはぐれちゃったとか、おウチの場所がわからなくなったとか、かな?」

「違う。キサマには、憎い相手、殺してやりたい相手は、いるか?」

「え? いないけれど、ダメよ? 憎いとか、殺すとか、口にしちゃ」


 他人の子どもに教育なんてよくない……と先ほど思ったばかりだが、さすがにスルーできなかった。子ども同士で言い合っているだけならわざわざ割り込んで注意なんてしなかったけれどーーいや子ども同士のじゃれ合いだとしても鋭すぎる言葉だと思うけれどーー自分に対して向けられた言葉なのだからダメと言ってもいいだろう。


「いない? そう、そうか、いないのか。うふふ」

 その笑い方は、なんだか、大人びているという表現を超越したものに感じた。

 妖艶というのではない。不気味というか、不自然というか。

 上手く形容できない。


「ええ、いないわ」

「嘘だな。キサマの中には、憎い相手、殺してやりたい相手が今まさにいるし、これまでだっていたはずだ。何人も何人も何人も何人も。邪な感情を向けたい相手がなっ!」

 子どもが声を張った。

 ちょ、そんな大きな声を出されたら目立つ……と思って周りを見たけれど、誰もこちらに顔を向けていなかった。本当に、向けていないのだ。


 え? それはあまりに、妙な光景だった。

 いや妙といえばそもそも、そう、私たち自体が妙な光景で、だから、何事だ?と思って私たちを見る人がいてもおかしくないのに。

 いない。不自然でしかないほどに、いない。


 とにかく気持ちが悪くなって、子どもの右手を掴んだ。

「交番、行きましょうか。すぐ近くだから。お話はそこの大人にしてちょうだい」

 歩き出す。しかし、足が止まった。

 子どもが歩いてくれていないのだ。

 何よ、もう! 力を入れて引っ張ろうかしら。でも、そんなのさすがに暴力的だわ……。


「いるだろう? 心に浮かぶはずだ、苦しんで欲しい、消えてもらいたい人間の名前が、顔が。今、それを告げてみろ。我がキサマの邪な思い、成就させてやるぞ」

 にんまりと三日月を描く唇と双眸。

 大人でもできない顔をしている。

 その圧のせいか、私は思い浮かべてしまった。


 いくつかの顔を。

 いくつかの名前を。

 つい最近のものだけでなく、もう何年も会っていない学友のものさえも。


 暗い感情が。

 渦巻くのを。

 感じる。


 これは……

 これは……

 ダメだ。

 ダメなものだ!


「……必要ないわ」

「うふ。必要ないと言うことは、いることはいるのだな。憎く、殺したい相手が」

 勝ち誇ったような顔を向けてくる。

 私は、真っ向から受けてたって、見詰め返して、真剣に、言葉を紡ぐ。

「ええ、いるわ。でもね、もし何か罰を与えるべきだとしても、それは法の裁きでなければならないわ。憎くたって、どれほど殺したくたって、法律以外で罰してはダメなのよ」


 法の裁き以外で誰かを罰するなんて、正義に反することだ。

 法が狂っていると主張する者たちもいるけれど、だからといって私的に裁いてはいけない。それこそ私欲のために他者を攻撃する者たちと同列になってしまうから。法が正しくないと思うなら、まずは正当なやり方で、法を正すことからやるべきだ。


 勝ち誇り顔が、僅かに崩れる。意表を突かれたようなものに思えた。

「ほう……自分が酷な目に遭っても、我慢するべきだと言うのか?」

「我慢すべきとは言っていないわ。その国の法で罰してもらう、と言っているの。それ以外のやり方で他者を攻撃することは、たとえ自分が虐げられた側だとしても、許されてはいけない。私的に裁く行為をしてしまったら、自分自身も、自分が憎い相手と同列に成り下がってしまうしね。わざわざ自分で自分の価値を下げることもないでしょう?」


 って、私は子ども相手に何をマジになっているのかしら。

 いや、これぐらいの年齢の子には、真面目臭いぐらいが適切なのかもしれない。

 子どもだとナメてかかるから、子どもたちも大人の言うこと信じなくなるのだろう。


「……ふっ」子どもは笑った。子どもらしくない笑みで。「よくわかった。キサマは、よほど強固に、正しくあろうとしているのだな」


 正しくあろうとしている、か。


「そうね。その通り。私は普通の人間だから、弱いときもあるし、負の感情が芽生えることもある。でもね、それに屈しないように、正しくあろうと頑張って生きているの」

「……そうか。そうかそうか。残念だ。これ以上は会話しても無駄のようだな」


 ふっと、繋いでいた手が軽くなった。

 子どもの姿がなくなっていた。

 ゾッと、鳥肌が立つ。

 まさか、オカルトの類だったのか?

 初めての体験だった。


「――いつか、キサマが普通の人間でいられなくなったとき、正しくあろうと努めることが馬鹿馬鹿しくなったとき、また会おうじゃないか。キサマのような善人こそ、堕ちるときはどこまでも、とことん、堕ちていくものだからな。別世界線の、従属たちと同じように。うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」


 ボリュームが徐々に絞られていく笑い声は、やがてパッタリと消えてなくなった。

 手にはまだ感触があるし、耳の奥では声の残滓もある。

 一体、なんだったのだろう。オカルト? 

 ……邪神?

 まさか、ね。


 ……あの子に話したら、興味を持つかしら。ダークファンタジーとか、好きだし。


 駅に向かって、歩き出す。

 大切な、たった一人の家族の反応を想像すると、少しだけ気分はよくなった。


                  ※


 完結です。

 読んでくださった方々、評価してくださった方々、本当にありがとうございました!

 これからも別作品で自分なりのダークファンタジーを書いていくつもりなので、もしも興味を持っていただけましたら、読んでみてください!

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ゲームが好きだったおかげで救えて満たされて……さようなら 富士なごや @fuji29nagoya

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