第6話 吾輩は就活英雄伝を聞いた──はずだった
朝である。
久しぶりにこの部屋には、焼けた油の匂いが立ち込めていた。
フライパンの中で何かがじゅうじゅうと音を立て、隣の鍋では汁物が静かに沸いている。
吾輩にとっては、ただの匂いと音だ。
だが人間にとっては、これが少しばかり特別らしい。
昨夜ガスが戻り、湯気の出る夜を経て、今朝はこうして“料理”ができる。
グラビンは台所に立ちながら、
「……俺はな、就活の頃はちょっとした英雄だったんだぞ」
と、誰に言うでもなく呟いた。
吾輩は壁際に座り込み、前足をぺろぺろと舐めながら、ちらりと目を上げた。
(就活英雄伝、であるか。……さて、どんな茶番が始まるのやら)
「いやほんとに……当時の俺はさ、履歴書に“悪川由紀夫賢治漱石過激虎之介”なんて名前を、仕方なく全部書いたんだよ」
グラビンは、鍋の蓋をずらしながら自嘲気味に笑った。
(仕方なく、とはまた人間らしい方便だな)
「ガキの頃からずっとこれでいじめられてきたからな……。面倒だし、どこかで省略したかったけど、就活じゃそうもいかねぇだろ? 正式な名前をちゃんと書かねぇと通らねぇから」
吾輩はひとつ大きく瞬きをした。
(この人間の“正式”とやらも、随分と生きづらいものである)
「そんでな……履歴書の氏名欄に収まりきらなくてよ、仕方なく折り畳み式の紙をくっつけて全部書いたんだ。自分じゃ“工夫”のつもりだったけど、向こうから見りゃ怪文書だよな……」
フライパンの中で油が弾ける音がした。
その音が、やけにこの語りより生き生きとして聞こえた。
「面接官がさ、メガネをきゅっと持ち上げて眉間に皺寄せて……それだけで分かったんだ。『ああ、こりゃダメだな』って」
グラビンは菜箸を持つ手を止め、小さく肩を落とした。
「結局、変に名前の長さに突っ込まれて、それを面白がって終わりさ。帰り際に駅の改札で履歴書が風に煽られてな……落っことした紙が開いて、周りの奴らに“賢治漱石過激虎之介”とか見られて……もう穴があったら入りたかったわ」
吾輩は尻尾を揺らしながらも、別に何も言わなかった。
(つまり、それがおぬしの“就活英雄伝”であったわけだな)
「……ったく、どこが英雄だよ。笑わせんな……」
グラビンは弱い火加減で煮えている鍋をぼんやり眺めながら、そう吐き捨てるように言った。
「……で、結局だよ」
フライパンの火を止め、皿に焦げ目のついた肉を移しながら、グラビンはぽつりと呟いた。その声は、さっきまでのどこか懐かしげな笑いとは別種の、妙にくぐもった響きを持っていた。
「やっと見つけた就職先がさ……どうしようもないブラックでな」
吾輩は壁際からそれを聞いていた。前足の爪をそろえ、丹念に舐めるふりをしながらも、耳だけは彼に向けていた。
「初日からおかしかったんだよ。自己紹介のときに、先輩が勝手に俺のことを“悪之介”って呼んでさ。そりゃあまあ、全部名乗るのは長ぇけどよ」
(悪之介、であるか。随分とぞんざいな省略の仕方だな)
「しかもだ。客先へ行っても、先輩が平気な顔で『こちら悪之介です』って紹介するんだよな。……何だよ悪之介って。どこの盗賊団だよ……」
彼はそう言って乾いた笑いを一つ零し、汁物の鍋に目を落とした。
その目はもう笑っていなかった。
「で、三日だ。三日で辞めた。耐えられなかったよ。あの社内の空気も、客先でのあの目も……全部、無理だった」
鍋をかき回す手が止まる。
水面に浮かんだ油の輪が、ゆっくりと消えていった。
「後から聞いたんだがな、その会社……職安からの補助金目当てだったらしい。新規雇用の人数稼いで、補助金だけちゃっかり貰う。辞めてもらった方がむしろ都合がいいんだとさ」
吾輩は小さく尻尾を揺らした。
(つまりおぬしは、その金勘定の歯車の一つだったわけか)
「ハハ……いや、笑えねぇよな。俺なんか、笑ってごまかさなきゃもう何も残んねぇもん」
そう言うとグラビンはフライパンをシンクに放り込み、シンクに手をついたまま項垂れた。
「それで、今は……だ」
彼は視線を上げ、部屋の奥に転がるノートパソコンや梱包用のダンボールを見やった。
「売れない小説を書いて、小銭が稼げりゃ御の字。あとはメルカリでゲームやら読み終わった本やら売り払って……そんなんで生きてる」
(それが、おぬしの今の“英雄伝”か。……なるほど、たいそう立派なものだ)
グラビンはそれを聞いたわけでもないのに、小さく笑った。
自分の言葉に、あるいはケトルんが鼻先でふっと息を吐く音に、自嘲の意味を見つけたのかもしれない。
「だけどよ……それでも俺は、書くんだよな。今もこうして、少しは読んでくれる奴がいるからさ。……くそ、これだからやめらんねぇ」
彼は鍋の蓋を閉じ、その湯気を一瞬じっと見つめた。
「なあ、お前。……俺、まだどっかで“詩神”だと思ってんのかな」
吾輩は返事をしなかった。
ただ薄暗い壁際から、その男の痩せた肩を眺めていた。
(……まあ、好きにするがいい。詩神でも、悪之介でも、おぬしはおぬしだ)
***
ケトルんはその日、壁際で丸くなっていた。
朝から油の匂いが部屋に立ち込めて、煮立った湯気が鼻先をくすぐる。
それだけで、少しばかり贅沢な気持ちになれる。
そんなときだった。
「……取っ手、取れやがった」
小さくぼそりと、いつもの声が台所から聞こえた。
グラビンが鍋の取っ手を片手に持ち、情けない顔でこちらを見ている。
「鍋買ってくる……」
それだけ言うと、グラビンは財布をポケットに突っ込み、ドアを開けて出て行った。ドアの閉まる音が、やけに軽かった。
(まぁ、そのうち帰ってくるじゃろ)
吾輩は前足をぺろぺろと舐め直しながら、再び目を閉じた。
この男はどうせまた、古びた鍋の一つでも抱えて戻ってくるに決まっている。
どれほど時間が経っただろうか。
再びガチャッ、と鍵の差さる音がして、ドアが開いた。
「……ふぅ」
ため息交じりに靴を脱ぎ、グラビンは台所へと入っていく。
手には紙袋。中からは、新品の鍋の金属光沢がちらりと覗いていた。
「いやー……参ったな、あれは……」
彼は紙袋を置き、手を拭きながら、誰に聞かせるわけでもなく話し始めた。
「ホームセンターのレジがやけに混んでてさ……列の脇に置いてあるワゴンなんか、ゴチャゴチャいろんなもん突っ込まれてんだよ。園芸の肥料だの犬用ガムだの、木炭だの……」
吾輩は耳だけピクリと動かした。
(またどうでもいい買い物をしたか)
「そん中にな……動物の絵が描いてある袋があったんだよ。なんか、猫かウサギかわかんねぇようなヘラヘラした顔のやつ」
グラビンは照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「……たまにはさ、お前にも、ちょっとマシなもん食わせてやっかと思ったんだよ」
「俺は例の会社みたいに補助金目当ての汚い金じゃねぇ、自分の金でちゃんと買ったんだからな……」
そして紙袋から、その袋を取り出して台所の隅に置いた。
吾輩は顔を上げ、目を細めた。
(ほう、贅沢でもさせる気か。……らしくもない)
「別にいいだろ、そういうの。お前、いつも俺の残飯ばっかだったしな……」
言い訳のように呟くその声は、小さな罪滅ぼしか、それともただの逃げ口上か。
吾輩には、それを見分ける気にもなれなかった。
ただ、薄暗い部屋に置かれたその袋は、やけに安っぽい光を放っていた。
ケトルんはいつもなら真っ直ぐ椀に向かうのに、そのときだけはふいにグラビンの足元に絡みつき、小さく体を擦り寄せた。
「おいおい、どうしたよ……」
そう呟きながらも、グラビンは無意識にその背を撫でて、茶色い安物の椀に小さな山を作った。やった。
「……ほらよ。せっかくだから椀に盛ってやったぞ」
乾いた粒が、カラリと心許なく音を立てる。
ケトルんは一歩前へ出て、鼻先をひくつかせた。
(ほう……これは随分と妙な匂いだ)
普段の残飯の寄せ集めとは違う、油とも肉ともつかない、しかしどこかそそる匂い。ケトルんは椀の縁をしばし見つめ、それからふいに頭を下げると、その小さな粒を一口、口に含んだ。
「……何だよお前、別に取り上げたりしねぇよ?」
グラビンは肩を竦めて笑った。
吾輩はちらりと彼を見上げ、それから椀の端に噛みつくと、器ごと引き摺った。
「……おいおい、椀ごと持ってくのか?」
グラビンは笑いながらも、その動きを止めようとはしなかった。
ケトルんはひとつ唸るように、低く「ふ……うぅ……」と喉を鳴らした。
(これは吾輩のだ。……誰にも邪魔はさせぬ)
椀はやがて部屋の外へ、畳の上をカラリカラリと鳴らしながら消えていった。
***
どれほどの時間が経っただろう。
ケトルんは今、小さな木の扉の奥に蹲っていた。
そこは、アパートの端にある共同物置。かつては住人たちが古い掃除用具や工具をしまっていたらしいが、今は屋根から雨漏りがして、誰も寄り付かなくなった場所だ。
湿気と黴の匂いが鼻を突き、それだけで少し安らぐ。
(……ここなら、誰にも邪魔はされまい)
椀の中にはまだいくつか、粒が残っていた。
ケトルんはそれを一つ一つ、時間をかけて口に運んだ。
どこか懐かしい味だった。
暖かくも、冷たくもない、妙な舌触り。
それでも──
(……まあ、悪くはない)
目を閉じると、さっきのグラビンの間抜けな顔が浮かんだ。
長ったらしい名前を持ち、いつも誰かに笑われ、腹の中ばかり煮詰めていた男。
──思えば、少しだけ暖かかったな。
ケトルんはそこで、ふぅと小さく息を吐いた。
そして椀の端に鼻先を預け、そのままじっと動かなくなった。
外では、また雨が降り始めていた。
屋根の穴を伝って落ちる水滴が、朽ちた木箱にぽつり、ぽつりと染み込んでいく。
どこか遠くで、自転車のブレーキが軋む音がした。
それきり、また静寂。
きっとこの猫は、少しだけ贅沢な食事に酔ってしまっただけなのだ。
この寂れたアパートで、唯一自分だけの時間を味わいたかっただけなのだ。
──そう思えば、ほんの少しだけ胸の奥が温くなる。
どこからか、また雨水が一筋、ぽたりと椀の縁に落ちた。
それが小さく弾けて、ケトルんの鼻先を濡らす。
しかし吾輩は目を開けようとしなかった。
静かに──このまま、眠るように蹲っていた。
やがて物置の中は、細やかな雨音だけで満たされていった。
了
吾輩はケトルんである──ご主人様の名はまだない 夏目 吉春 @44haru72me
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます