異世界勇者の記録と曖昧な記憶

異世界勇者の記録

――はじまりは、いつも唐突だった。


「君が、勇者か。」


まばゆい光の中で、誰かがそう言った。

気がする。

というのも、その時の記憶は霧がかかったように曖昧で、私はただ、足元がぐにゃりと揺れたことと、眩しすぎて目を開けていられなかったことしか覚えていない。

何かを受け取ったような気もする。

たぶん剣だったと思う。でも、それが聖剣だったのか、量産品だったのかも思い出せない。


そのあと、たくさんの声に囲まれた。

誰かが祝福を叫び、誰かが祈りを捧げ、誰かが地図のようなものを広げて私の肩を叩いていた。

目の前で誰かが泣いていた気がする。

私は何かを答えた。

自分でも驚くほど明瞭な声で「やります」と言ったのを覚えている。

それが私の意志だったのか、場の空気だったのかは、今となっては分からない。


そして、私は旅に出た――らしい。




次に目が覚めた時、私は玉座の間にいた。

高い天井と、刺繍の施された赤い絨毯、無駄に豪奢な柱が何本も立ち並び、奥には王様らしき人がどっしりと腰かけていた。

やけにまぶしい笑顔をこちらに向けながら、「ありがとう、勇者様」と言った。


左右には拍手している人々。

中には泣いている人もいたし、金貨を抱えて飛び跳ねている人もいた。

つまり、どうやら世界は平和になったらしい。

たぶん、私は勝ったのだ。魔王に。

討伐に成功したのだ。


問題は、その肝心な部分を、私がほとんど覚えていないことだった。


自分がどんな旅をしたのか、何と戦ったのか、何を得て、何を失ったのか。

そういう「勇者の物語」の中心がぽっかりと空白になっている。

唯一覚えているのは、指の間に残る焦げたような匂いと、足元に転がる黒い羽根――そして、誰かの、やけに威圧的な低い声。


「お前が……この世界の希望だと?」


その声だけは、やけに鮮明に思い出せる。




それから私は「世界を救った勇者」として扱われるようになった。


本当は、よく分かっていなかった。

「救った」って何を?

「倒した」って誰を?

なのに周囲は祝祭ムードで、神殿の鐘が鳴り響き、街には「勇者様ありがとう!」の横断幕が掲げられた。


私はただ、疲れていた。よく分からない状況で、よく分からないまま世界を救ったらしい少女。

きっとこれが「冒険の終わり」ってやつなんだろうけど、私にとってはただの「寝たい」だった。


玉座の間の真ん中で、私はそのまま力尽きて倒れ込んだ。


「もう、何も考えたくない……。」


そう呟いた自分の声だけが、頭の奥に微かに響いている。


世界は救われた。らしい。


その知らせは、王国中を駆け巡った。

勇者が魔王を討伐し、長きに渡る恐怖の支配が終わった、と。


だが、その「討伐劇」の主役である私――勇者エルナは、玉座の間で倒れ伏してから、三日三晩、泥のように眠っていた。


目を覚ましたとき、見知らぬ天井を見上げて、私はまずこう言った。


「……ここ、どこ?」


「王城の賢者の間です。勇者様」


どこからともなく現れた侍女がそう答えた。

丁寧な口調に見合わぬ、露骨にこちらを値踏みする視線。

私は寝起きのまま無意識に伸びをして、ぽりぽりと頭をかいた。

ああ、髪が絡まってる。

風呂……入りたい。


「勇者様、魔王を討伐なさったあとの記録について、王国記録院からお話を伺いたいとのことです。」


「え、待って。記録って何の?」


「討伐の……ご偉業の全記録です。四天王との死闘や、三騎士の裏切り、魔王との一騎打ち――その全てを、後世に残すために。」


四天王? 三騎士? ……誰?


私は黙って自分の膝を見つめた。


いや、待て、確かに戦った記憶はある。

モンスターっぽいのも出てきたし、罠にハマって落ちた記憶もある。

魔王の間らしき場所で、めっちゃ偉そうなイケメンとにらみ合ったのも覚えている。

でも、それ以外が、曖昧だ。

誰かと一緒だったか? それとも本当にずっと一人だったのか? 自信がない。


「ごめん、その、三騎士とか四天王とか……顔も名前も思い出せないんだけど。」


「え?」


侍女が顔を引きつらせた。


「そんなこと……!」


その日のうちに、王宮の記録官、神殿の司書、そして兵団の副将が代わる代わる私のもとを訪れた。

みんな口をそろえて、私の記憶の断片を拾い集めようとする。

魔王城への道のり、使った魔法、決戦前夜の誓いの言葉……そのどれもが、私の中にはほとんど残っていなかった。


「とにかく、でっかい剣を振ったら勝ってたんです。」


「それだけでは記録になりません、勇者様!」


「いやでもほんとにそんな感じで……あ、炎の大剣、振り下ろしてきたなあ魔王。私、それに突っ込んで……勝ちました。」


「その戦術的意図は?」


「気合い?」


会議室に沈黙が流れる。


誰もが絶句していた。

中には頭を抱える者もいたし、遠い目で「……この戦いを子どもに語るのか……?」と呟いた記録官もいた。

そっちの気持ちもわかる。


けれど、私は必死だった。


記憶が曖昧なのは、事実だ。

嘘は言えないし、無理に作り話をでっち上げるのも気が引けた。

だから、できるだけ正直に言った。

……たとえ、それがどれだけ「歴史的価値」を下げる発言だったとしても。


「……じゃあ、魔王の姿を描いていただけますか?」


ある日の記録官の言葉に、私はつい首を傾げた。


「姿……ねえ……。」


沈黙。私は机の上にあった羽根ペンを手に取り、目を閉じた。思い出そうとした。

魔王の顔、声、雰囲気。

……何か、黒かった気がする。

でっかい椅子に座って、偉そうにしていて、顔は……顔は……。


「……美形だった、かな。すっごいイラっとする感じの、整った顔。」


「ほう。では、髪の色は?」


「黒?」


「目は?」


「赤? ……いや青? 緑だったかも……。」


記録官がペンを止めた。

眉をひそめ、じっとこちらを見る。

その隣に控えていた絵描きの青年も困った顔で視線を泳がせていた。


「つまり、覚えていらっしゃらない……。」


「うん。雰囲気だけでよければ、“とてもムカつく美形”でまとめていいよ。」


「……それでは肖像画になりません。」


絵描きが小声で抗議する。私は思わず笑ってしまった。

だって、知らないもんは知らない。

なんでみんな、そんなに覚えてる前提で話しかけてくるんだ。


「勇者様、おひとりで魔王城を攻略されたんですよね?」


「たぶん、そうだと思う。」


「でも、この地図には“騎士団”の記録も、“同行した魔術師団”の記録も残っているのですが……?」


「知らない人たちが勝手に着いてきたんじゃない? で、途中でどっか行ったかも。いたかな? いたような、いなかったような……。」


記録官は両手で顔を覆った。

周囲の文官たちも呆然とした様子で筆を止めていた。

だが、私にとってはそれが真実だった。本当に、はっきりとは覚えていないのだ。


気がついたら魔王と対峙していて、気がついたら勝っていた。


それ以外の細部は、まるで夢のように霧の中だった。




「この勇者記録、使い物にならないのでは……?」


「いや、それが逆に“勇者の神秘性”を高める可能性がある。」


「曖昧な記憶と個人の武勲、それが幻想を生むんだ。後世では“沈黙の勇者”とか、“記憶喪失の英雄”とか、ロマンとして語られるだろう。」


なんだその二つ名!? 私、そんな意図ないよ!


私は抗議の目を向けるが、文官たちはもはや自分たちのロマン構築に夢中だった。

記録は神格化され、私の言葉が“深い意味のあるメタファー”として解釈されていく。


「“気合いで突っ込んだ”という発言は、恐れを知らぬ信念の象徴。」


「“一人で戦ったかも”というのは、仲間たちの死を悼む沈黙と取れる……。」


いやいや、違う、そうじゃない。




そんな調子で、私は自分の物語を“解釈”され続けていた。


「勇者様が使用された“光の板”についても、詳しくお話を伺えますか?」


そう聞かれたのは、ある昼下がりのことだった。

相変わらず王城の応接室に押し込められ、記録官や文官たちに囲まれている日々。

私は出されたお茶をすすりながら、無造作にかばんの中から取り出した。


「これ? スマホだけど。」


「……ス、マホ?」


「スマートフォン。こっちの世界に来たとき、なぜか持ってたやつ。今は電池切れてるからただの板だけどね。」


私がそう言うと、部屋の空気が一瞬凍りついた。

そして次の瞬間、周囲の者たちが一斉に立ち上がり、その“ただの板”に群がった。


「これが……これが、勇者様の“魔導具”……!」


「古代文明の遺産では!? 文字が浮かんで消えるとは、まさに“神の語板”!」


「光の板から世界を見通した……まさしく伝説そのもの……!」


「だから違うってば! SNSのログイン画面が映ってただけだってば!」


私は必死に否定したが、誰も聞いちゃいない。

なかには白手袋をした手でスマホを持ち上げ、「この金属と硝子の融合……間違いない、“空間歪曲型の転写機構”ですな!」などと鼻息を荒くする学者もいた。


いつの間にか、私のスマホは“光の預言板”として、王国国宝に指定されることになっていた。


もう笑うしかなかった。


「じゃあ、その横のこれは?」


「……イヤホン?」


「いや、これは“精霊の縄”だな。耳元で囁く形状……完全に交信儀式の道具……。」


「……どこをどう見たら……。」


私は膝に顔を埋めたくなった。




「勇者様が放った“魂の叫び”について、記録が残っています。『やってやんよ!』という。」


「ああ、それは……うん、言ったね、多分。戦闘中テンション上がって。」


「その一言が、士気を大いに高めたと……。」


「いや一人だったから士気とかないし……。」


どんどん膨らんでいく私の“勇者伝説”。

曖昧な記憶は勝手に補完され、美化され、拡張されていく。

それはまるで、自分の知らないところで自分のフィクションが作られていくようだった。


いや、フィクションじゃないんだけどね。

現実なんだけど、記憶がないってだけでここまで盛られると、逆に怖くなってくる。




「このままじゃ、私、伝説になっちゃうよ……。」


思わず漏らしたつぶやきに、そばにいた記録官が神妙な顔でうなずいた。


「すでに勇者様は“現存する神話”です。記録する我々の手によって、その神話は永遠に生き続けることでしょう。」


「うわぁ、プレッシャーがやばい……。」


私はこめかみを押さえてため息をついた。


でも、どこかで、それも悪くないかもと思い始めている自分がいた。


「勇者様、その……討伐時の仲間たちについて、もう一度お伺いできますか?」


またか、という思いで私は眉間を揉む。


「いないってば。一人だったの。一人で魔王城に乗り込んで、なんか気がついたら勝ってたんだから。」


「しかし、各地の村々に“勇者と共に戦った”と名乗る者が続出しておりまして……。」


「ええっ!?」


驚いて聞き返すと、記録官はまるで申し訳なさそうに地図を差し出した。

そこには王国全土に点々と赤い印が付けられていた。

そのすべてが、“勇者の仲間”と自称する者の出現地点らしい。


「みんな記憶の隙間を縫ってるの!? 私の記憶が曖昧なのをいいことに、“一緒に戦った”ことにしてるの!?」


「ええ……中には“私は勇者に告白されました”という者まで……。」


「告白してない! 絶対してない!!」


私は椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。


「しかもその人、男!? 女!?」


「……中性の方です。」


「もうやめて!!」


その日、私は“清廉なる無垢の戦乙女”という二つ名を新たに与えられた。




記録官たちは、もはや事実ではなく“語るにふさわしい物語”を収集していた。

そこに私の記憶があろうがなかろうが関係ないらしい。


気がつけば、私の名を冠した銅像が王都の広場に建てられ、髪型も適当な想像で盛られていた。


「こんな長くてサラサラじゃなかったってば! もっとこう、ハネててボサボサだったし!」


「勇者様、細部は芸術的表現です。写実主義はすでに時代遅れでして。」


「いやいや、史実じゃなかったの!?」




一方で、王立大学では“勇者神話学”が開講され、全国の学者たちが「曖昧な記憶こそが神性の証」と論文を提出し始めた。


「『記憶の欠落』は“過去を背負いすぎた者の代償”……。」


「“英雄は細部を語らぬ”という伝承型語り口……!」


「だから違うんだってば!」


私が叫んでも、もはや誰にも届かない。


いや、届いてはいるのかもしれない。

ただ、都合のいいように解釈されて、また新しい二つ名が増えるだけ。




もう一度言おう。


私は一人で戦った。

仲間はいなかった。

魔王のこともほとんど覚えていないし、魔法も剣技も特筆するようなものじゃなかった。


それでも勝てたのは――たぶん、本当に運か、偶然か、気合いだったのだ。


でも、その“真実”を語れば語るほど、私の伝説は歪んで膨らんでいく。


それが、なんだかとても、可笑しくて。


……そして、少しだけ、寂しかった。


魔王との戦いは、誰も知らない。


本当に、誰も見ていなかった。私しか、そこにいなかったから。


けれど今、王国中が語っている“討伐の物語”には、壮麗な協力者たちがいたことになっていた。

聖騎士団の猛攻、神殿の大魔導士の支援、飛竜に乗った斥候部隊の支援砲撃……そんなもの、全部、なかった。

魔王城に突入した時、私は一人だった。

理由?

誰もいなかったからだ。

準備が遅れたとか、戦略ミスとかじゃない。

ただ、そうなっただけ。


「魔王を討ちに行きます」と私が言った時、誰もが「今?」と戸惑った。

あの時私は、ただ気が急いていた。

もしかしたら、逃げ出したかったのかもしれない。

仲間と訓練を重ね、万全の準備を整える日々から。

誰かと責任を分け合う時間から。

私は、もう十分だった。

戦いたかった。

終わらせたかった。


だから、行った。


一人で。


そして――勝った。




それがどうしてこんな伝説になってしまったのか、最初はまるで理解できなかった。

けれど今は、少しわかる。


人は「一人で勝った」という事実を、怖がる。


「皆がいたからこそ」「協力こそ力」「団結の勝利」――そういう物語でなければ、人々は安心できないらしい。だから、都合よく「いたこと」にされる。騎士団も、魔導士も、聖女も、斥候も。


「皆が勇者を助けて、共に勝利した」という物語は、美しい。


でも、その美しさの裏で、私はただ、ひとりだった。


燃える大広間、崩れ落ちる玉座。

魔王の目が、最後の一瞬だけ、驚きに揺れた。


「お前、一人で……?」


その時の声が、私の耳にこびりついて離れない。




それでも、誰も私の真実を信じようとはしない。


「いや、一人だったの。本当に。」


「ご謙遜を。」


「謙遜じゃないから!」


どれだけ強く否定しても、「謙遜」「武士の情け」「騎士道精神」と、また新たな伝説が生まれていく。


「“己の勝利を仲間に譲る謙虚な勇者”という見出しでどうでしょうか。」


「やめてくれ……本当の話をしてるだけなんだ……!」


私の声が、薄く、遠くに流れていく。


それでも、私は知っている。


本当に、誰もいない魔王城で、一人きりで剣を握っていたあの夜を。


あの寒さを、あの重さを、あの最後の、一撃を。


それを覚えている限り――私は、私を信じていられる。


戦いは、あんなに静かだったのに。


魔王城――その中心にあった大広間は、空洞のようだった。

吹き抜けの天井から差し込む月光だけが、乱れた絨毯を照らしていた。

崩れた壁、焼け焦げた柱、瓦礫の山。

どこかで、風が笛のように鳴いていた。


魔王は、私の前に静かに立っていた。


巨大な鎧に包まれた体。

背後に黒い翼。

炎の剣を握りしめ、表情は……何もなかった。

冷たい、というより、諦めのような無表情。


その瞳の奥で、何かが揺れた気がした。


「お前、本当に……一人で来たのか?」


その問いに、私は頷いた。


それだけだった。


叫びも、怒号もなかった。

ただ、剣と剣がぶつかる音だけが、虚空に響いた。

火の壁が立ち上がり、雷鳴が走り、私は何度も膝をついた。

それでも立ち上がった。

誰かが支えてくれたわけじゃない。

ただ、ここで倒れたら、誰も後を継げない。

それだけの理由で。


私は、ただの人間だった。

特別な加護も、奇跡のスキルもなかった。

だけど一つだけ、確かにあったものがある。


「――絶対、勝って帰るって決めたから。」


言葉に出した瞬間、体が軽くなった。


魔王は最後に、かすかに笑ったように見えた。


「……それが、“勇者”か。」


その一言の後、すべてが終わった。




「だから、私は一人だったの。」


私はその話を、記録官に語った。

これが真実だと、信じてほしくて。

けれど彼は静かにペンを止めて、困ったように微笑んだ。


「申し訳ありません。勇者様の心情は確かに重要な要素ですが……それは“文学的表現”にしておきましょうか。」


「……なんで?」


「だって、孤独な戦いなんて、物語にならないじゃないですか。」


私は唖然とした。物語にならない? 本当のことが?


「一人で勝った勇者なんて、現実味がなさすぎて、誰も信じませんよ。」


それは、まるで私の存在を否定されたような気がした。


信じてもらえないなら、語らなければいい。

そう思って口を閉ざしかけたそのとき、扉の外から子どもの声が聞こえた。


「勇者様は、本当に一人で戦ったの?」


私は目を見開いた。


廊下の影に、小さな少年が立っていた。

目は真っすぐで、疑ってはいなかった。

ただ、知りたかったのだ。


私はゆっくりと、頷いた。


「うん。怖かったけど、ちゃんと戦ったよ。ほんとに、ひとりで。」


少年はぱあっと顔を輝かせて、小さな拳を握った。


「やっぱり……すごい! 勇者様、やっぱり本物だ!」


……信じてくれる人は、ちゃんといる。


たとえ、それが一人でも。


私は少しだけ、肩の力を抜いた。


「勇者様は、英雄の中の英雄。だから、真実よりも大事なのは“希望”なんです。」


それは、王城の図書館で資料を読み漁っていた私に、記録院の筆頭官僚がぽつりと告げた言葉だった。


「……希望?」


「はい。子どもたちが憧れ、兵士たちが誇りにし、民が信じて進める……そういう“勇者像”が、世界には必要なのです。」


私は本を閉じた。

古びた羊皮紙に記された“私の足跡”は、もうすっかり他人の人生のようだった。

森を抜け、ドラゴンと戦い、仲間を背負い、涙を流し、そして魔王を斬った。

……どこまでが“演出”で、どこまでが私なのか、もうわからない。


「でも、それ、私じゃない。」


「ええ。ですが、それが“皆が見たい勇者様”です。」


記録官はにっこりと微笑んだ。

私は何も返せなかった。

彼らが悪いわけではない。

彼らは“私の名”を使って、世界の明日を繋ごうとしている。

その行為は尊く、正しい……のかもしれない。


でも。


「それでも、私は……覚えててほしいんだよ。」


自分でも驚くほど、小さな声だった。


「本当は、誰もいなかったってこと。怖かったし、痛かったし、寂しかったけど、それでも踏み込んだのは、自分だったってこと……忘れたくないんだよ、私が。」


それが、たった一つの誇りだった。

誰もいなかった。誰も頼れなかった。

けれど、自分で決めて、自分で剣を抜いて、そして勝った。

それがすべてだった。

だから、忘れたくなかった。


「……わかりました。」


筆頭記録官は、ふっと息をついた。


「一部だけ、“真実の記録”として別冊に残しましょう。“勇者エルナ非公式補遺”として。公式には公開されませんが、真実を知りたがる者は、きっとどこかにいるはずですから。」


私は、そっと笑った。


それだけで、十分だった。




数日後、町に出た。

変装して、ひっそりと市井の声を聞きたくなったのだ。


広場の屋台で、少年たちが「勇者ごっこ」をしていた。

木の棒を振り回しながら、誰かが“魔王役”をして倒れこみ、「今のが気合い斬りだ!」と叫んでいた。


その言葉に、私は思わず吹き出した。


ちゃんと伝わってるじゃん、“気合い”って。


嘘みたいな話をして、信じてもらえないこともある。

でも、ほんの少しでも、誰かの記憶に残るなら。それは確かに、生きた証なのだ。


「勇者エルナ様。次の時代の歴史教科書が、完成いたしました」


王宮に呼び戻された私は、金縁の装丁を施された一冊の分厚い書物を手渡された。


「“勇者戦記:栄光の時代”……。」


口に出して読んだその瞬間、何とも言えない気持ちが喉の奥に詰まった。


表紙をめくると、私の肖像画が現れる。

美しく整えられた姿――実物の三割増しどころじゃない。

髪は絹糸のように流れ、目は星のように輝き、背後には仲間たちと手を取り合い、勝利の光を浴びている。


「……違うなあ、って言ったら、やっぱり消される?」


「いえ。ですが、これは“人々の勇気を支える物語”として――。」


「うん、わかってる」


私は本を閉じた。

これはもう、私の物語じゃない。

けれど、誰かの支えになるなら、悪くないと思えるようになっていた。


「ただ、一つだけ。最後のページ、私が一人で立ってる絵にしてくれない?」


記録官が少し驚いたように目を丸くして、やがて頷いた。


「それが……真実ですか?」


「うん。たとえ誰が信じなくても、それが私の物語の最後だから。」


その夜、私は城の屋上に立ち、夜空を見上げた。


星が、滲むように輝いていた。


魔王の最後の一撃。

あの火の剣。

剣の芯に燃える青い炎が、夜の星と重なった。

今でも目を閉じれば、あの刹那の緊張と、体を貫いた熱と衝撃がよみがえる。

恐怖を感じる暇もなかった。

とにかく前へ、踏み込んで、斬った。

それだけだった。


それだけだったのに。


いつしか、その「だけ」が、「すべて」になっていた。




「勇者様。」


声をかけられ振り返ると、あのときの少年が立っていた。

目を輝かせ、手には古本のような小冊子を持っていた。


「これ、読んだよ。“非公式補遺”ってやつ。誰かがこっそり写してたんだ。僕、こっちのほうが好きだな。」


「そっか。ありがと。」


私は小さく笑って、彼の頭を撫でた。

そこには、もう飾りも肩書きもいらなかった。

ただ、伝わるものがあればそれでよかった。




そして、ある日。


王国図書館の地下、誰も足を踏み入れないアーカイブの片隅に、布に包まれた一冊の手記がそっと収められた。


表紙には、こう書かれている。


『異世界勇者の記録と曖昧な記憶 ―本人による回想―』


著者名は、記されていない。


けれど、それを開いた者は、必ずこう呟くという。


「……これが、“本当の勇者”の話なんだね。」


私はもう、「勇者」と呼ばれることに違和感を覚えなくなっていた。


あの戦いの記憶は、今でも完全には戻ってこない。

けれど、それでよかったのかもしれないと思っている。


私の剣が、何を守ったのか。


私の行動が、誰に届いたのか。


それを他人が語る限り、物語は続く。

誤解だらけで、都合のいい幻想で彩られていても、その中にほんの少しの“真実”があれば、それでいい。


たとえば、「一人で戦った」という事実が、一行でも、たった一人の胸に届いているのなら――それだけで十分だ。




街を歩けば、私はもう“誰か”ではなかった。


勇者の名は石碑となり、祝祭となり、やがて伝説の枠へと納まっていった。


新しい冒険者たちが笑いながら「気合い斬り!」と叫び、子どもたちが私の銅像にいたずら描きをして怒られる。

そんな日々が、なぜかとても愛おしい。


かつて、魔王の城で剣を振ったあの夜を、私はもう語らない。


誰かに尋ねられても、私はこう答えることにしている。


「うーん、なんかムカつくイケメンと戦った気がするよ?」


そして、笑う。


そうしているうちに、少しずつ、私の中の記憶は“曖昧なまま、やさしい物語”になっていった。




最後に残されたのは、一冊の手記だった。


『異世界勇者の記録と曖昧な記憶』


誰に読まれることも、誰に称賛されることも求めない。

それはただ、一人の少女が、孤独に剣を振るい、そして帰ってきたというだけの、静かな記録。


けれど私は、確かにこの世界にいた。


確かに剣を振るった。確かに恐れて、確かに進んだ。


それだけは、誰に否定されようと、私が一番よく知っている。


――だから、大丈夫。


この記録が、たとえ誰にも読まれなくても。


たとえ、伝説の隅に埋もれてしまっても。


私は、生きた。


それが、すべてだ。


『異世界勇者の記録と曖昧な記憶・完』

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