【あかり】05 青い季節の終わりに
冷房を効かせた部屋で毛布にくるまって目を閉じていると、自分以外の人間がこの世から消えてしまったような感覚に陥る。
あかりは小さい頃からそんなことを考えていた。
寝る前にテレビで人喰ザメの話を見た時は、絶対に足先を毛布の外に出さない。なんとなく、どこからともなくやってきたサメが、自分の足首を食いちぎっていきそうだから。出会ったばかりの頃、そんな話をしたら撫子は「怖がりね」と笑っていた。
時刻は午前四時になろうとしていた。日付が変わる頃にベッドに入ってから、まったく眠れないままこの時間を迎えている。眠れない理由は明らかだった。
なぜ私は、撫子がからっぽな顔をする瞬間を見つけてしまうのか。ふとした瞬間に撫子が見せる虚ろな表情が、なぜ私の胸を締め付けるのか。
その謎が今朝、唐突に解けてしまったからだ。
答えは「撫子のからっぽな顔が、昔自分が壊してしまった母親の大切な人形に似ているから」だった。
登校中にそのことに気付いたあかりは、その日の授業を全てサボった。
あかりにとってあの人形は母親との不和の象徴だった。同時に、自分が母親とは違う、一人の人間であることに気付いた証明でもあった。
藤尾あかりという人間のアイデンティティに、くさびのように撃ち込まれた存在。そんなものと撫子を重ねてしまうのはなぜなのだろうか。
また私は、あの人形を壊してしまうのだろうか。そう思った瞬間、足元をサメが泳いでいった。あかりは毛布の中で身体を縮めた。
と、そこに。
LINEの着信を告げる短いバイブレーション音が響いた。
あかりは部屋の電灯を点けて、スマホの画面を開いて通知を見た。送り主の名前を確認して、一瞬心臓が止まりかける。
メッセージは撫子からだった。
少しだけ悩んでからタップする。
――元気?
それだけだった。だが、既読がついたからか、撫子は続けてメッセージを送ってきた。
――起こしちゃった?
あかりは画面に指をすべらせると「大丈夫だよ」とだけ返信した。
こんな夜中になぜ撫子が。今朝のことを気にしているのだろうか。撫子が何かをしたから自分が泣いたわけではないのに。気に病んでいるなら、悪いことをしてしまった。
――そっち行っていい?
「は?」
思わず口に出てしまった。
そっちというのは、あかりの部屋のことだろうか。一体何時だと思ってるんだ。あかりは、朝の自分がそれほどまでに弱って見えたのかと申し訳なく思った。
どう返信すべきか一分ほど悩んで、「午前の授業で会ったときに話すよ」と送ろうと画面に触れた瞬間だった。
玄関のチャイムが鳴った。
あかりはホラー映画で最初に死ぬ人のようにオーバーリアクションで壁のモニターを見た。玄関ドアの前に立っているのは、幽霊でも殺人鬼でもなく、撫子だった。
もう来てんじゃん。
あかりがドアを開けると、アディダスのTシャツにトラックパンツというラフな格好の撫子が立っていた。
あかりと撫子は無言で三秒ほど見つめ合う。思いが言葉にならずに、二人の間で見えない渦を描いていた。
「ちょっと付き合ってほしいんだけど」
撫子は黒髪をかき上げながら言った。
こんな真夜中――いや、もはや早朝だ――に、いったいどこに付き合えというのだろうか。あかりの訝しげな視線を受けて、撫子は自分の背後を親指で示した。
「自転車――あるから」
あかりは寝間着のTシャツとハーフパンツのまま外に出た。自分の部屋のドアの閉まる音が、廊下全体にやけに大きく響いた。部屋の鍵を掛けて撫子の後を追う。
外はまだ暗かったが、東の空に少しだけ群青の朝の色が感じられた。
アパートの玄関には、銀色のママチャリがとまっていた。
撫子は後輪のスタンドを蹴って跳ね上げると、もうサドルにまたがっていた。振り返って無言で示す。
荷台に乗れ。
あかりは一瞬ためらったが、撫子はあかりが後ろに乗ることを全く疑っていないと気づいて、急いで飛び乗った。
自転車の二人乗りなんて、初めてかもしれない。
「掴まらないと落ちるわよ」
撫子が振り返らずに言う。
あかりは撫子の腰に手を回した。分かっていても、びっくりするほど細い。そして、熱かった。自転車はゆっくりと京都の明け方の道を走り始めた。
京都を舞台にした小説や映画は数多くあるが、ああいう「キラキラしておしゃれな京都」は街の東側に集中している。立身館大学のある京都の西側は、東側にくらべればどこかのどかで、悪く言えば野暮ったい雰囲気があった。うじゃうじゃいる立身館大学生がその雰囲気を醸し出しているのではないかというのは置いておく。
京都は街全体が坂になっているので、南に向かって進む限りはひたすら下り道だ。撫子が漕ぐ銀色の自転車は、妙心寺の北門の前を横切って、
天神川四条を通り過ぎ、仏光寺通りを西に曲がって、自転車はスピードを緩めた。目的地がどこなのか、あかりにはさっぱり分からない。しばらく西に進んだ自転車は、思い出したようにまた南に曲がった。
その先にあったのは土手だった。
「ねえ、あかり」
言いながら撫子は力強くペダルを蹴り、自転車を土手の上まで進めた。
薄明かりの中、目の前には
「なに?」
あかりは撫子の腰に回していた手を少し緩めた。
「もしかして――失恋した?」
「なっ――」
あかりが目を白黒させている間に、撫子は自転車を河川敷のサイクリングロードへ進入させた。川に沿ってひたすら南に道は伸びていた。
涼やかな虫の声に包まれながら、自転車はスイスイ進む。
「ああ、じゃあレポートが締切に間に合わなかったとか? バイトを寝飛ばしてクビになったとか?」
「撫子、それって――」
あかりの頭の中で、黒縁メガネの我らが千本松先生がニヤニヤと笑っていた。
「あんたの様子があまりにもおかしいから、この間千本松先生に相談したのよ。あ、その時に吐いちゃった時の話もしちゃった。ごめん」
「――」
なぜ撫子のことを相談したときに、千本松先生が大笑いをしたのかが分かった。大笑いするはずだ。あかりと撫子は同じような質問を、お互いに千本松先生にぶつけていたのだ。あかりは脱力感から、思わず撫子の腰に回した手を離してしまいそうになった。
千本松先生は思ったことだろう。
こいつらは馬鹿だ。
「千本松先生は『藤尾がぼーっとしてるのはいつものことだろ』って言ってたけど」
あんたもぼーっとしてるって言われてたわよ、とは言わないでおいた。
「急に黙ったり、変なこと口走ったり、なんか最近おかしいなって」
そう言う撫子の口調は、本当にあかりのことを心配してのものだった。
「私の思い過ごしならいいんだけど」
あかりは何も答えられなかった。
ただ、目の前を流れていく早朝の桂川の河川敷の光景に目をやった。気がつけば少しずつ明るくなっていた。世界は透明な蒼いフィルターに包まれていた。
「なんか鴨川って、見てもあんまり川って感じがしないのよね。浅いし。狭いし」
撫子がボソリと言った。
鴨川とは、京都の東側を流れている――そして土手にカップルが等間隔で座ることで有名な――川のことだ。河原町方面に遊びに行けば、目にすることになる。あかりは綺麗な川だなとしか思ったことがなかったが、撫子の感覚では違ったらしい。
「それに比べると桂川は、なんとなく川って感じがするの。私の地元、町の真ん中にでっかい川が流れてて、そこで育ったからかな」
撫子は前を向いて自転車を漕ぎ続けている。
「よくこんな風に自転車で走るの?」
「時々ね。気持ちいいのよ」
撫子に早朝サイクリングの趣味があるなんて、あかりは知らなかった。きっと撫子は地元の川のことを思い出しながら、走っているのだろう。京都の町並みが郊外へと融けていく、この桂川の道を。
あかりの脳裏に、原風景という言葉が浮かんだ。撫子という物語の原風景にはきっと、大きな川が流れているに違いない。
まったく寝ていないあかりだったが、新鮮な朝の空気を吸うことで身体の細胞が更新されていくのを感じた。撫子がこの場所、この景色を共有したいと思ってくれたことが、あかりには嬉しかった。
上機嫌になったあかりは、撫子に質問をぶつけた。
「撫子はさ、好きな人とかいるの?」
Tシャツ越しに手で触れていた撫子の腹筋が強張るのを感じた。どういう反応なんだろう。撫子は笑ったのだろうか。
「うーん、出会い頭に蹴っ飛ばしたいやつならいるかな」
否定的な言葉ではなく、想定外の変化球が返ってきたのであかりは笑った。
「なにそれ」
普段はまるで恋愛に興味がなさそうな撫子だったが、気になる相手はちゃんといるらしい。地元に残してきた片思いの相手か。それとも元恋人か。実は大学内に好きな人がいるというパターンか。しかし、蹴っ飛ばしたいというのはどういうことなのだろう。可愛さ余って憎さ百倍という言葉もあるが。あまりにも好きすぎると、そんな心境に至るのかもしれない。
「今その人は、海外にいるの――三年ぐらい会ってないけど」
「海外!?」
好きな相手がいるのも意外だったが、その相手が海外にいるというのはさらに意外だった。撫子というクローゼットの、全く開けたことがない引き出しを開けたような気分だった。バイオリン職人を目指してイタリアに修行に行ったとか? それとも何かのプロスポーツ選手で海外を転戦してるとか? 見たこともない「蹴っ飛ばしたい相手」の姿が、あかりの脳内でいくつもの像を結んだ。
撫子は「そうか、もう三年か」と噛みしめるように繰り返した。その小さな声には、痛みに耐えるような悲壮さがあった。
あかりは背中側からは伺えない撫子の表情を想像した。
からっぽな顔をしているのだとしたら、悲しい。
「好きなんでしょ? その人のこと」
あかりはぐっと身体を撫子に密着させた。露をはらんだ河川敷のしっとりとした空気と反するように、自転車を漕ぐ撫子の身体は熱を帯びている。
「うん。でも――」
景色は流れていく。
同じ場所に留まっていないのだから当然だ。
鬱蒼とした草木の向こうに青い桂川の流れがある。
「私はあいつがいなくても、生きていけるんだな――ってことを実感してる最中って感じかな」
撫子は努めて明るく言おうとしたのだろう。
それでも、その言葉を発した撫子の背中は震えていた。
あかりは撫子の身体をきつく抱きしめた。今自分は、撫子のからっぽさの
私達は生きている。日々変化し続ける。永遠に続くと信じた情熱さえ、その手で掴み続けることはできない。炎はいつか消える。川の流れは変化し、同じ水が流れ続けることはない。明日吹く風は、今日の風とも昨日の風とも違う。
私達は軽率に、過去の自分を裏切る。どんなに切実な思いも、時間の中に溶かしてしまう。だから、常に今の自分が何者なのかを考え続けなければいけないのかもしれない。
あかりの小説の向こう側に。
撫子の蹴っ飛ばしたい誰かの向こう側に。
人生の次のステージが控えている。
それは、つらいことなのだろうか。
「ねえ、撫子」
すれ違う者さえいない朝のサイクリングロード。
銀色の自転車の上で、二つの心臓が限りなく近いところにあった。
「なに?」
あかりは撫子と自分の魂が重なり合っているように感じた。だから、今、この腐れ縁を祝福したかった。
「青春の次に来るのは何だと思う?」
芝居じみた謎掛け。
撫子は少しだけ悩んで答えた。
「世界の終わり?」
想像の斜め上を、撫子は行った。
「どんな世界観で生きてんのよ、あんたは」
アニメ映画の主人公かよ。あかりは顎を撫子の背中にくっつけて笑い、そして告げた。
「青春の次はね――
「しゅか?」
朱い夏。
いつか母親が教えてくれた、自分の名前の由来。朱い季節に咲く
こうやって、母親の言葉を噛み締められる自分に驚きながら、あかりは撫子の黒髪に顔を埋めながら叫んだ。
「楽しいことは――私達の人生の夏は、今から来るのよ!」
あかりの余りの勢いに、自転車がよろめく。なんとか態勢を立て直した撫子が、身体を反らせて振り返った。
その顔は、からっぽなんかではなかった。それを見た瞬間、ああ、私もきっとからっぽな顔をしていたんだと――ようやく――気づく。だから、撫子は私をこうやって連れ出してくれたんだ。私は今どんな顔をしているんだろうと、あかりは思った。
「何よ、それ」
自転車はぐんぐん進む。
消えていく思いもあれば、新しく生まれる思いもある。あかりと撫子は、南に向かって走り続ける。太陽はもう、青い早朝の空気を破って輝いていた。
了
青い季節の終わりに たぬき85 @shimizu_n
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