最期の代償
さえき あかり
最期の代償
それは日本に安楽死の制度が可決された翌年の夏の出来事だった。センチメンタルな気分に浸るには、まだ少し早かったのかもしれない。走馬灯のように過ぎる思い出を整理しながらそう思った時には、もう遅かった。
プシュー、この場に不釣り合いなまでに爽やかな柑橘系の香りとともに密閉された薄暗い箱の中に死を告げる音が鳴り響く。死に至る毒ガスが永遠の眠りへと誘う。
「もう少し一緒に居たかった。」そう夫から告げられたのは安楽死の手続きを終えた日の夜のことだった。本当は私ももう少し一緒に居たかった。そう思いながらも、複雑に絡まり合ったうつ病に蝕まれながら生きることへの疲労感と、見送る側には絶対になりたくないという自分勝手な理由で、このタイミングでの死を選んだのだ。上の娘も下の娘も社会人になり、子供がいなくなったのだからいい機会だと思った。
目を閉じ、意識が途絶えたあとの光景はまるで夢を見ているかのようだった。動かない肢体、見慣れた光景。私は自宅へ戻ってきていた。だが、うまく説明できないが様子がどこか奇妙だった。そこへガチャリと音が鳴って、誰かが帰ってきた気配がした。家族3人が揃って暗い面持ちで、魂の抜けた亡霊のように立ち尽くしていた。
扉のガラス面にはかつて幾度となく一緒に行ったテーマパークで売られていたぬいぐるみたちが反射して映っている。そしてその隣には写真もたくさん並んでいて、それらは全て家族みんなで集めた思い出の数々だった。そのうちのひとつ、一番大きなくまのぬいぐるみを夫が撫でる。すると不思議なことに、なでられた感触が私の魂を揺さぶった。
娘たちは何も言うことなく、それぞれの部屋へ向かっていく。残った夫は一人、一番大きなぬいぐるみを大事そうに抱き抱えると寝室へと向かっていった。私の意識もそれに釣られて寝室へと向かっていくのを静かに感じながら、ぬいぐるみの身では感じるはずのない夫のぬくもりをどこか感じ取っていた。
同時に、冷たい雨のような涙がぬいぐるみの生地に吸い込まれていく。夫の嗚咽と濡れた顔、赤く染まった鼻。楽になるはずの心が、より強い重みへと変わり、そして夫をただ傷つけるだけに終わってしまったという事実に直面させられる。
私は想像の何倍もの心の重みを感じながら、何もかもを拒むようになった夫をただ見ていることしかできない焦燥感に襲われる。けれど、そう思うことすらもが空しくジリジリと心が焼けるように熱かった。いかに私の存在そのものが夫にとって生きる原動力になっていたのかを思い知ることとなったのだから。そして、夫は娘たちが仕事へ行っている間に重度の熱中症で倒れると、くまのぬいぐるみを抱いたまま眠気に誘われて、そのまま眠るように亡くなった。
夫の死後、くまに魂の宿った私もまた、夫に抱かれたまま火葬場へ向かう。娘たちの意向で一緒に棺桶に入れることにしたらしい。火葬場の中は魂の芯から燃え盛るような息が詰まるほどの耐え難い熱と、それに伴う絶望感をゆっくりと時間をかけて味わいながら、まだうら若き娘たちにこんな選択をさせることにすら考えが及ばなかった事実に自らへの怒りを感じていた。
くまのぬいぐるみは炎に巻かれて跡形もなく消え去り、私の魂に呼びかける何者かが言った。「後悔先に立たず。自死も同然の死を選んだ報いを思い知るがいい。」私は冷淡な言葉の意味を知り、夫と永遠に別たれることとなったことを悟った。夫は一人、輪廻の輪を巡り生まれ変わり、一方で私は誰にも認識してもらえない、幽霊のような存在としてこの世を永遠に彷徨うことしかできない身となってしまったのだから。
<終>
最期の代償 さえき あかり @SaekiAkari
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