第7話 吾妻と龍華

 黒い靄の中に入った龍華は、暗闇の中に出た。普通の少女なら怯むだろうが、龍華はれっきとした人外。怯むことなく暗闇の中を走り抜けると、小さな背中が見えた。それが吾妻だと気づくのに少し時間がかかった。


「あずま!」


 呼びかけるといつものように振り返る。少し長い黒髪、伸ばした前髪からのぞく鋭い目つき、退魔師らしく日焼けした肌。龍華の契約者の退魔師だ。


「いつまでここにいるの?かえるよ!」

「えっと……ここ何処だ?」

「もう、あずまのばか!ここはかくりよにちかいとこ。さっさとかえるよ!」


 ぐい、と吾妻の手を引っ張った。しかし吾妻は動かない。


「もう、なんなの!」


 吾妻は薄く笑っている。それがなんだか怖く思えた。吾妻は滅多に笑わないのに、なんで。


「俺は帰らない」

「なんで?!けいやくしたじゃない、いっしょにいるって!」

「契約内容はお前が自由の代わりに退魔師に奉仕することだろ。そんな契約はしてない」

「じゃあやくそくした!」

「そんな覚えはない」

「あずま!」


 龍華の絶叫が暗闇に虚しく響く。


「どうして、……どうして、かえれないの?おうちがあるのに」

「どうして、って……父さんはもう居ない」

「あずまのおとうさんはずっとまえにしんじゃったけど、まかげがいるでしょ」

「真影は父さんじゃない」

「そうだけど、おとうさんみたいなひとでしょ。おんじんっていってたでしょ。まかげ、しんぱいするよ。かえろう」

「真影はこの任務を依頼したのに?俺の父さんは、もののけになって死んだのに。父さんと同じようなもののけを退治させたんだよ、真影は」


 龍華は息を飲んだが、怯んではいられない。


「あずまはいらいをことわれたでしょ。まえもことわってたじゃない」

「今回は退魔局長直々の依頼だった」

「それでも、あずまがほんきでいやならまかげはやめてくれたよ。ねぇ、かえりたくないのはまかげやおとうさんがげんいんじゃないよね」


 吾妻がわずかに身じろぎした。正解だ。


「ほんとうはなんでかえりたくないか、あててあげようか」

「……」

「りゅーかのことでしょ」


 龍華は吾妻と同じように薄く微笑んだ。


「おとうさんでも、まかげでもないならりゅーかでしょ。あずま、ともだちいないもんね」

「……」

「なんかいってよ、かなしくなるから」


 吾妻は俯くと、口を開いた。


「俺は、足手纏いだ」

「まだきにしてるの、それ。りゅーかをいちばんつかいこなせるのはあずまだよ」

「そんなわけない。俺はずっと足手纏いだ。父さんの足も引っ張ったんだ。だから、父さんは化け物に……」


 吾妻はとうとうしゃがみ込んでしまった。ずっと大きく見えた吾妻が小さく見える。龍華も同じようにしゃがみながら、小さな頭で考える。


 多分吾妻は、退魔師として、ではなく、吾妻一個人として悩んでいるのだ。吾妻は自分を役立たずだと思ってしまっている。事実は関係ない。吾妻がそう思っていることが大事なのだ。


 じゃあ、龍華はどうするべきか。初めから、答えは一つだった。


「ねぇ、あずま。こんどこそ、やくそくしない?まえは、けいやくしかしてなかったから」


 俯いたままの吾妻の薬指を無理やり自分の薬指と結びつけて、龍華は口を開いた。


「りゅーかが、いっしょにいるよ。あずまが、いっしょにいる、っていったから」


 吾妻がゆっくりと顔を上げた。酷い顔をしていた。


「りゅーかはずっとたのしかった。すいかはおいしかったし、ふうりんはうれしかった。そとのせかいはこわくなかった。ひとりじゃなかったから。あずまがいたから」

「俺が、いたから……」

「りゅーかはたのしかった。あずまはどうだった?りゅーかといっしょで」

「楽し、かった。楽しかったよ……」


 絞り出すような声で、吾妻は答えた。


「そっか。ならそれでいいんじゃないの。たのしければ。あずまがたのしくてもまかげもおとうさんもせめないよ。りゅーかといっしょにいよ?」

「うん……うん」


 吾妻は薬指をしっかりと握ったまま俯いた。泣いているのは、見なかったことにした方がいいだろう。龍華とて、それくらいの気遣いはできるのだ。


「さっ、かえろ、あずま」


 *


「雪鬼を退治してくれてありがとう、吾妻、龍華」


 社務所の一角で、山神とその狛犬は人の子と龍の子に向かって丁寧に頭を下げた。


「いえ、依頼を果たしたまでです。それに、介抱までしていただいてありがとうございます」


 少々気まずげに吾妻は頭を下げた。


 山中で無事に吾妻と龍華が目覚めた後、二人は荷葉によって社務所に運ばれた。その後二人が泥のように眠り、目覚めたら翌朝だった。


「それくらいいいのよ。むしろ、こちらのせいで負担をかけてしまって申し訳ないわね」

「いえ、それが退魔師なので」

「そう。じゃあ、何か神のことで困ったら相談して頂戴。話を聞くくらいならできるから」


 そう言って山神は女神に相応しい慈悲深い笑みを浮かべた。


 親切な山神に別れを告げた後、二人は荷葉に乗せられて駅の近くまで送ってもらう。


 まだ朝なので来た時よりは涼しい。


「龍華様、吾妻様、この度は本当にありがとうございました」

「かようもおくってくれてありがと。もふもふだったよ」

「ふふ、それはよかったです」


 荷葉は龍華に向かって淡く微笑んだ後、吾妻に真剣な眼差しを向けた。


「吾妻様。幽世には、お気をつけ下さい」


 今回、吾妻が帰りたくないと思ってしまったのは、幽世に精神が引かれてしまった為だ。ここに居たくない、何処かに行きたい。そう言った思いは異なる世界を呼び寄せる。そうして父も、化け物に変貌したのだ。


 危うく吾妻はもののけになりかけたのだ。そうなれば、山神でも龍華でもどうにもできなかっただろう。幽世とはそういうものだ。


「……肝に銘じます」


 吾妻はしっかりと頭を下げた。龍華も同じように頭を下げた。


 そうして荷葉と別れると、駅に向かって歩き出す。駅に着くと、すぐに電車が来たので乗り込む。冷房にあてられていると、車窓を見ていた龍華が呟いた。


「……あずま、まかげにおこってる?」

「どうしてだ?」

「ほら、こんかいのいらい、もってきたし」

「怒ってねーよ。依頼受けるって決めたのは俺だからな」

「そっかぁ、よかった」


 龍華は笑って体の向きを変え、吾妻と同じ姿勢になった。


「ねぇあずま、りゅうかにいうことがあるでしょ」


 何処で覚えてきたんだと突っ込みたくなるほどいやらしい顔で龍華は笑う。


 色々言いたかったことは一旦飲み込む。ちゃんと言わなければいけないと分かっていたから。


「……ありがとう」

「どういたしまして」


 約束を交わした龍と人を乗せて、電車は夏の朝を走ってゆく。

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龍少女と退魔青年の契約話 市野花音 @yuuzirou

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