第4話由紀子の発病と治癒、神坂俊一郎の預言曲集とその実現
由紀子の両親は、俊一郎と別れて春休みに帰省してきた娘の様子が少しおかしいことには気付きました。
しかし、単なる失恋のショックであり、何とかなると楽観視し、俊一郎から受け取った手紙も、唯の友人としての関係を継続させて欲しいとの妙な内容だったこともあり、娘には知らせませんでした。
新学期になり、京都に戻った由紀子でしたが、彼女の心の病はゆっくり進行して行きました。
由紀子は、俊一郎が選んだ歌のとおり、彼と付き合うまでは母の香世子の操り人形だったのです。
彼はそのことに気付き、愛情とともに膨大な知識を注ぎ込んで、彼女を一人の人間にしようとしていました。
彼女も、自覚はしていませんでしたが、彼のお陰で、自分で考え、行動するように変わってきていたのです。
しかし、そのことが裏目に出ました。
両親の目論見どおり卒業で恋人の俊一郎を失った彼女は、一旦は立ち直ったかに見えたのですが、今まで苦労を知らずに来て母の操り人形だった彼女が、神坂俊一郎という人間を知り、彼に頼って一人の人間として自立しようとしていた矢先に、心の拠り所を失ってしまうと、自分で歩くことも、再度母の操り人形に戻ることもできなかったのです。
そして、この時になって、由紀子は大きな疑問を持ちました。
何事も押し付けなかった神坂俊一郎、それでも自分のことを真摯に考えてくれていた彼、知識を惜しみなく注いでくれた彼、それに対し、一般的な幸福の名の元に自分を操ろうとした母、一体どちらが本当に自分を愛していてくれたのだろうと。
そこに至って、由紀子は重大なことに気付きました。
彼には散々愛を要求しておきながら、自分は彼を大切にしたことがなかった。つまりは、彼を愛してなどいなかったのだと言うことに。
そんな由紀子に追い討ちをかけるかのように、1年後の7月、俊一郎からの最後の手紙が届きました。
それは、彼の結婚を知らせるものだったのです。
私は、彼と別れた後も、今の今まで、彼との結婚に一縷の望みをかけていたのだ。
そのことを思い知らされた由紀子は、憂鬱な気分になりました。
もうすぐ大学が夏休みに入るし、そうすれば彼との思い出一杯の京都とはしばしのお別れだし、故郷広島に帰ってのんびり過ごそう。
その前に、この憂鬱な気分を何とか振り払おうと、由紀子は、土曜日に久しぶりに四条河原町辺りまで出かけてみることにしました。
由紀子、京都中俊一郎を引きずり回したつけが回って、どこに出かけても彼との思い出がよみがえってしまうため、どこにも行けなくなっていたのです。
夜道で襲われた事件の起こったあの夜、祇園から俊一郎と二人で歩いてきて、木屋町で振り切って逃げたんだよなあ、なんて思い出しながら四条通を寺町まで歩くと、何と神坂俊一郎が向こうから歩いて来たのです。
そんな馬鹿なと思いましたが、どう見ても彼です。
しかし、彼は、可愛らしい女性と腕を組んでいました。
その女性は、由紀子が勝手に描いていた彼の恋人像と大きくかけ離れていました。
大変間抜けな話なのですが、由紀子、彼と付き合っていた時に、彼の恋人像を語ったことがあったのです。
自分の恋人に対してそんな女性像を語ろうとする由紀子に、俊一郎は呆れていましたが、彼女の語った俊一郎の恋人像は、背は高め、スリム、スタイルが良く、髪が長く、顔はほっそりとしていて、細い目の和風の顔立ちで、色の白い美女というものだったのです。
俊一郎、それを聞くと苦笑していました。
何故なら、髪が長いことと、美女(由紀子、決してぶすではありませんが、目立たない顔立ちだったのです。)ということを除くと、由紀子そのものだったからです。
それに対して、彼が腕を組んでいる女性は、スタイルこそ良いものの、彼よりも大分背が低く、色白だが顔は丸くて目が大きくて、高校生、いや、中学生と言っても通用しそうな童顔の美少女という感じで、髪はショートで、長いフレアーのワンピース姿だったのです。
そうか、あれが彼の婚約者、美奈子さんとかいう名前だった、に違いないなとつい見つめてしまった由紀子でしたが、二人に声をかける勇気はもてませんでしたから、見つかりそうになると、慌てて新京極方向に逃げ込みました。
流石に俊一郎で、婚約者と腕を組みつつも由紀子の視線に気づいたらしく、隠れて見ていると、きょろきょろしていました。
連れの彼女も、由紀子にじろじろ見られたことに気付いていたようで、彼に何かを尋ね、彼が答えると、まだ由紀子を探してこちらの方を伺っている彼に笑顔でうなずいた後、彼を引きずるように四条通を祇園方向に歩いていきました。
由紀子は、二人の仲の良い様子を隠れて見ている内に、体が熱くなりました。
俊一郎と腕を組んで四条通を歩くのは、自分のはずだったのではないか。
認めたくは無かったのですが、由紀子、美奈子に猛烈に嫉妬したのです。
その後、意識が途切れました。
気付くと夜の7時で、由紀子は下宿で、電話の受話器を握りしめていました。
由紀子が電話している相手は、姉の美紀だったのです。
突然妹から電話がかかってきたかと思うと、別れたはずの神坂俊一郎と今日デートしたし、結婚するのだと言われ、美紀は焦りました。
つい何日か前に、当の由紀子が、俊一郎は10月に結婚すると残念そうに話してくれたのですから、今更彼が妹と会うはずはないし、結婚するなど更にあり得ないし、事情を聞こうにも一方的にまくしたててきて、答えてくれないありさまでした。
声はまごうことなき由紀子でしたが、言動は明らかにおかしかったのです。
焦った美紀は、今から京都に会いに行くから、下宿から出ないように言い付け、広島駅に走って新幹線に飛び乗りました。
9月に父宗吾が福岡に転勤になる関係で、元々は福岡出身の西村家、博多の祖母宅に引っ越して同居する計画で、両親ともその夜は博多を訪れていたのです。
美紀は、新幹線の車内から博多に居る母に電話し、由紀子の様子がおかしいから今から京都に行くことを伝え、夜の10時近くに妹由紀子の下宿にたどりつきました。
由紀子は、美紀を見ると突然抱きつき、こうささやいたのです。
「あの日に帰るから、私を抱いて。」。
どうやら、妹は自分のことを神坂俊一郎だと思っているらしいことは理解できたものの、美紀には言葉の意味がわかりませんでした。
そして、よく言えばボーイッシュ、悪く言えば色気のない由紀子にしては妙に妖艶な雰囲気で、明らかにおかしな状態でした。
しかし、美紀がどうしてよいかわからず半ば呆然としつつも、由紀子をしばらく抱きしめていると、彼女は泣き出し、そして眠ってしまいました。
美紀は、由紀子が眠ってから、母と祖母に電話して妹の様子を伝え、おかしいから二人に明日京都まで迎えに来てもらって、1週間早く帰省させることにしました。
そして、祖母の淑子が由紀子を連れ帰り、博多の病院に通院することも決めました。
明朝目覚めると、由紀子は、何故姉が添い寝しているのかわからず、聞きました。
わからないのは美紀の方だったので妹に確かめると、彼女は、前日昼に四条界隈に出かけた後完全に記憶が途切れていることがわかりました。
由紀子、俊一郎と美奈子を見かけたこともよく覚えていませんでしたが、姉だけでなく母と祖母までやってきたことから、自分は深刻な事態だったことを悟り、おとなしく祖母とともに博多に向かいました。
この時になって、母の香世子は、神坂俊一郎が何故二度も手紙をよこして、ただの友人でいいから娘との関係を認めて欲しい、何かあれば知らせて欲しいと訴えたのか、ようやく理解したのです。
でも、彼は、娘の美紀同様近々結婚すると言うし、世間体もあるから今更頼めないと諦め、全て医師に任せることにしてしまいました。
美紀は、妹由紀子と共に俊一郎に会っていましたし、彼の優しさと誠実さを感じとっていましたから、両親が反対した時も、絶対妹のためになるから彼との交際を認めてやって欲しいと頼んでいました。
そして、由紀子の狂気の引き金は、その日京都のどこかで俊一郎と会ったか見かけたかしたことだろうと推理していましたから、妹を何とか彼に会わせようと考えたのです。
しかし、由紀子自身が、自分がこんなになっていることを、彼にだけは教えないで欲しいと、涙を流して頼みましたから、結局は実現しませんでした。
美紀の婚約者の山本孝一は、幼なじみであり、東大を卒業後福岡の会社に就職し、地元の広島で就職した美紀とは、遠距離恋愛になっていました。
しかし、9月に美紀の両親が福岡に引っ越しするのにあわせ、10月に博多で挙式する計画を立てていたのです。
しかし、その後も美紀は広島に残って今の仕事を続け、週末通い婚の形をしばらく続けるか、仕事をすっぱり辞めるか、悩んでいたのです。
そこに妹の病気が降って湧いたことにこれ幸いと便乗し、家族を介護することになったからとの理由を付けて広島の会社を7月一杯で退職し、両親よりも先に博多の祖母宅に移り、アルバイトをしながら妹の面倒を見ることにしたのです。
そして、8月の初旬に美紀が由紀子の通院に付き添って行った時、彼女が俊一郎に話した夢のとおりの出来事が起きたのです。
二人の眼前で、赤ちゃんを抱えて走ってきた女が、もう死んでいたと思われるその子供の指を食いちぎったのです。
美紀が、指が食いちぎられる音に悲鳴を上げて耳を押さえてしゃがんだ次の瞬間、由紀子は、笑いながら走って行きました。
由紀子は、病院を出て、向かいの6階建てのマンションの屋上に上がり、手すりを乗り越えて飛び降り自殺を図ったのです。
幸い、由紀子が飛び降りる直前に彼女に追いついた白いワンピース姿の小学生ぐらいの少女が、手すりの上から引き戻してくれました。
美紀が追いついた時、由紀子はマンションの屋上で気を失って倒れていました。
その少女は、美紀に言いました。
「由紀子さんに対する私の役目は果たしました。後はお願いします。」
美紀がお礼を言って彼女の名前を聞くと、少女は、二宮令子と名乗りましたが、どう見ても正常に見えた彼女は、由紀子が通っていた精神科の入院患者だったのです。
軽度の拒食症もあって軽くなっていた由紀子でしたが、元々が妹よりもスリムで非力な美紀でしたから、四苦八苦しながら彼女を背負って病院に戻り、主治医の片岡勇に説明しました。
勇、鬱病ながらも、食欲が余りない以外ほとんど問題行動もなく、通院のきっかけとなった発作もその後出ておらず、衝動的な行動をするとは思えなかった由紀子が自殺を図ったと聞いて焦っていました。
妹由紀子の症状について、勇もまともな説明ができない状況でしたから、釈然としなかった美紀は、思い出したので令子のことを聞いてみました。
すると、二宮令子は、超能力と言っても良い予知能力と千里眼の持ち主である上、退院させようとすると、心臓が止まる心臓神経症の発作を起こしたために、入院して隔離せざるを得なくなった本当に特殊な患者であることを教えてくれました。
由紀子の意識が戻ると、勇と美紀を更に驚かせる状況になりました。
彼女、見事に二つの人格に分かれてしまったのです。
一人の由紀子は、上品で教養豊かながらも、無気力で、俊一郎とうまく行かなかったことをひたすら後悔し続ける少女のような人格でした。
対するもう一人の由紀子は、攻撃的だが正直で、大人の女の人格だったのです。
大人の人格の由紀子は、少女の人格を「陰の由紀子」と呼び、少女の人格の由紀子は、大人の人格の由紀子を「陽の由紀子」と呼んだので、勇と美紀もそう呼ぶことにしました。
それでも、主治医の勇も、姉の美紀も、二人の由紀子と接すると、果たしてこれは異常なのだろうか、と考え込んでしまいました。
勇にも美紀にも、鬱病で無気力無感動になっていた由紀子より、この二人の方が、純粋な、正直な、そして魅力ある、正常な人格に思えたからです。
そして、二人の由紀子との対話から、勇は、彼女と神坂俊一郎の関係と、彼女がおかしくなった理由、彼女と俊一郎が別れる遠因となった不幸な事件のことなどを知ったのです。
美紀は、陽の由紀子の要望でもあったので、俊一郎と妹を何としても会わせようと考えていました。
しかし、そのことを陰の由紀子に話した時、彼女はこう答えたのです。
「ありがとう、お姉ちゃん。実は、俊一郎さん自身もそうするように私に言いつけていたわ。でも、そのことは彼を幸福にはしない。いや、きっと不幸にするのよ。そして、私のことも幸福にはしない。そのことに、彼も気付いていたはずなの。私は、彼の愛した私は、一度死んで生まれ変わる。もう、神坂俊一郎さんが愛し、心で結ばれた、無邪気で子供の由紀子は死んだの。これは私の試練で、乗り越えないといけないのよ。彼に頼っちゃ、私は何時までも子供のまま。大人になりきれなかったのよ。」
意味がわからず呆然としている美紀の前で、由紀子は、陽の由紀子に人格転換しました。
凄いもので、人格が変わると、表情から雰囲気まで変わるのです。
陽の由紀子は、細身ながらも妖艶な女性の魅力を醸し出していました。
「そやね。陰の由紀子の言うとおりかもね。あたしとしては、今からでも俊一郎が欲しいところなんやけど。」
「彼、もう結婚するんでしょう。」
美紀、妹が別人のようになる発作を起こす何日か前に、寂しそうに彼が結婚することを教えてくれたことを思い出しました。
「うふふ、略奪愛も楽しそうやない。」
「もう。何てこというのよ。」
「だって、あいつ、あたしの思ってたのと全然違う女と結婚するんやもん。」
美紀、由紀子は俊一郎がどんな女性と結婚すると思っていたのか興味を覚えた。
「どんな女と結婚すると思ってたのよ。」
「細くて、スタイルよくて、プロポーション抜群で、髪が長くておしとやかな感じの和風美女。」
俊一郎同様、美紀もその答えに吹き出しました。
「あんた、髪の長さと和風美女以外は自分のことやないの。」
「そうかも。」
「やっぱりあんた、神坂さんと結婚したかったんでしょう。」
「そりゃそうよ。あんないい男、他にいるとは思えへんわ。」
「じゃあ、何故しなかったの。今になってそんなことを言い出すんなら。」
「そやね。あいつの良さがわからへんかったんかしらね。」
「だから、私は、絶対いい男だから、何とかものにしなさいって薦めたのに。」
美紀、婚約者の孝一よりもむしろ上ではないかと思ったので、由紀子には絶対ものにしろとけしかけていたのです。
「今になって、ようわかったわ。だから、俊一郎が欲しい。」
美紀は、慌てて禁じました。
「でも、他人の家庭ぶっ壊すようなことは、絶対させないわよ。」
「あたしゃ、自分さえ幸せになれればええねん。あいつなら、離婚してでも幸せにしてくれると思うもん。」
「彼の奥さんを犠牲にしての幸せなんて、本当の幸せじゃないわ。」
二人が交際していた時には、セックスを散々けしかけた美紀でしたが、婚約者の居る俊一郎と妹の不倫は、絶対認められませんでした。
「あはは、姉さんもそんなところは父さん母さん似ね。古いわ。」
「常識と言ってちょうだい。大体、略奪できるような男なら、他の女に略奪されかねないわ。」
しかし、由紀子には、神坂俊一郎を略奪したら絶対に手放さない自信があったのです。
「他の女に盗られるような男なら、あたしゃ欲しくないわよ。俊一郎は、絶対信用できる男だから言ったのよ。普通なら、絶対略奪不可能の相手よ。」
「なら、無理じゃないの。」
「違うわよ。私が、元恋人の西村由紀子が、こんなことになってたら、見捨てておけない男だから言ったのよ。私が泣きつけば、彼、婚約者と別れてでも何とかしてくれる、一生面倒見てくれると思うからよ。」
「あんた、彼にだけは教えないでって言ったじゃない。」
美紀、由紀子が変になった時、最初に俊一郎に教えようとしたのですが、両親だけでなく由紀子本人も反対したから断念したのでした。
「あんときのあたしゃ、くそまじめの由紀子だったからね。でもまあ、こうなっちゃったんやから、あたしと彼の予知を合わせて、いいとこどりするしかないか。」
「どういうことなの。」
美紀、さっぱりわけがわからないので聞き返しました。
「ああ、彼ね、ただのお友達やった時に、あたしのことやと思わんで、しょうもない預言してもうたんよ。」
「どんな預言。」
「僕は、最愛の人か妻を亡くす運命にあるって。」
「それが、由紀子とどうつながるの。」
「彼ね、あたしを殺さないために、最愛の人にも妻にもしない選択をしたんよ。」
それはそれで変な気がしたので、美紀は聞き返しました。
「じゃあ、奥さんが危ないんじゃないの。」
「そうね。でも、賢い彼のことだから、うまい手考えると思うわ。その前に、あたしの預言よ。」
「あんたも預言できたの。」
美紀、妹が預言できるなんてことは、今の今まで聞いたことがありませんでした。
「うん。何故かできたんよ。姉さんと一緒の時に起きた事件を見たのよ。狂った女が、赤ん坊の指食いちぎって、あたしも狂うの。実は、彼と別れる直前に夢に見たんや。」
それこそは、美紀と由紀子の目の前で起きた事件で、その後由紀子がおかしくなったことも事実でしたが、どうつながっていくのか、美紀には理解できませんでした。
「あんたの予知は本当になっちゃったようだけど、それと彼の予知が、どうつながってどうなるわけ。」
「私の予知やと、狂った私、飛び降り自殺するはずやったのよ。」
「本当にしかけたじゃないの。令子ちゃんがいなかったら、あんた、きっと死んでたわ。」
美紀、呆然としていて由紀子を追いかけることもできませんでしたから、令子がすばやく追いかけて自殺を防いでくれたことに感謝していました。
「その辺は、あたしの記憶にゃ全くございませんから都合良くほっといて、彼の預言にもどると、俊一郎の愛したあたしゃ、あん時死んだわけ。」
確かに、そうこじつける解釈は可能かなと、美紀も考えることができました。
「なるほどね。それで、一度死んだ由紀子はどうするわけ。」
「新たな由紀子の誕生よ。勇先生言ってたけど、あたしが陰の由紀子とうまく統合されれば、何の問題もないやろうって。」
美紀も、二人の由紀子の方が元の由紀子よりも魅力ある人格だと思っていましたから、うまく統合できれば理想的だと思いました。
「なるほど。それがいいじゃない。」
「そうなのよ。それがまたしゃくなことに、彼が送ってくれた歌の順番どおりに進んでる気がするんやけど、これって幸せに向かってるんかなあ。」
「何なのそれ。」
訳のわからない美紀が聞き返すと、由紀子は色っぽく笑ったのです。
「うふふ、彼の預言よ。面白いわ。そして、素晴らしいわ。彼が送ってくれた預言曲集。神坂俊一郎の凄さがわかるわよ。あたしの部屋にそのテープがあるはずやから、聞いてみたら。そう、あたしもまた聞きたいから、ウォークマンごと持ってきて。」
美紀、祖母宅に戻ると、由紀子の部屋から探しだして、問題のテープを聴いてみました。
谷山浩子という、美紀は名前を聞いたこともなかった割とマイナーな歌手の歌った歌だったのですが、妹の言うとおり、そのテープの曲は、由紀子のことを見事に言い当てているように思われました。
しかし、美紀は一つ疑問を持ちました。
由紀子が入院することまで予知したかのような曲集なのだから、彼はそれを未然に防げなかったのかとの。
美紀、ウォークマンごと病院に持って行くと、由紀子にそのことを確かめてみました。
由紀子は、陰の由紀子でしたが、微笑んで答えました。
「お姉様、私がお母様と神坂俊一郎さんの操り人形の由紀子のままでは、幸せにはなれませんでしょう。神坂さんは、そこまでわかっていらしたのですわ。」
「心を病んでの入院も、あんたには必要なプロセスだったってことなの。」
「そうですわ。見事でしょう、狂った私は、今積み木の部屋の中。そこから出られた時、愛される価値のあるレディー・デイジーに変身して、6月の花嫁になれるのですわ。」
「確かにそうかも。」
美紀、由紀子が言ったことを理解しました。
「凄い人ですわ。私は、今でも、神坂さんには憧れますわ。」
「何故、彼を口説かなかったの。いや、抱かれなかったの。抱かれていたら、母さんも父さんも渋々認めたんじゃないかしら。」
すると由紀子、悲しげに微笑みました。
「お姉様、大学1年生の時の私のまま神坂さんと結ばれていたら、私はきっと、子供の私のまま手の付けられないわがまま娘からわがまま妻になってしまって、大人の女性になる機会を失ったのですわ。そのことを、神坂さんも知っていたからこそ、敢えて私を抱かなかったのですわ。そして、私を解放したのですわ。」
確かに、18歳の時の由紀子は、半年以上もの間神坂俊一郎にべったりで、肉体関係がなかったことが信じられないほどだったのです。
「そうか。そうよね。あんたは子供だった。それに引換え、今のあんたは、教養豊かな少女、もう一人のあんたは、妖艶な大人の女性、二人あわせれば立派な大人の女になれそうだわ。」
すると、陰の由紀子は悲しそうに微笑みました。
「私の側の、もう一つの理由もありましたわ。」
「何よ。」
「神坂さんは、鏡のような人だったのです。」
そのことは、由紀子から以前にも聞いた覚えがあった。
「そう言ってたわね。でも、そのことの、何が悪かったの。」
「彼は、自分というものが希薄でした。その分、私を映し出して見せてくれたのですけど、その彼の愛って、私には重すぎました。」
何が何かわからなくなったので、美紀は、理由を聞きました。
「何故。」
「彼には、自分自身の望みがなかったのです。彼は、私と対した時、私の望みをかなえることしか考えていなかったのです。」
それって、むちゃくちゃ贅沢な状況だと美紀は思った。
「幸せやないの。」
「幸せだったとは思います。当時の私は、幸せ芝居と自虐的に表現してしまいましたが。でも、私が欲しかったのは、鏡の私のような男ではありませんでした。一人の、生身の人間の神坂俊一郎が欲しかったのです。彼には、自分を見せて欲しかったのです。」
由紀子、妹が俊一郎と結ばれることを諦めた理由がようやくわかった気がした。
「今、ようやくあんたが俊一郎さんと別れた理由がわかったわ。」
「そう。彼の愛は、真面目すぎたし、重すぎたのです。そんな愛を望んだのは、私自身であり、彼はそれに応えてくれただけだったのですけど。」
妹なら、そう考えたに違いないと美紀も思った。
「そやね。真面目なあんたらしいわ。」
「それに、彼の愛だと、わたし自身が溺れて死んでしまったと思うのです。」
「なるほど。そう転んでも、彼の最愛の人は死んじゃうってわけ。」
「そうなったと思いますわ。」
「じゃあ、現状で良かったのね。」
「そう。でも、悲しいことも起こりそうですわ。」
今の由紀子は、理想に向かって進んでいるように思われるし、俊一郎の預言自体がそれを示しているわけだから、悲しいことといわれても、美紀は考えつかなかった。
「何なの。悲しいことって。」
「私と彼が絡まない、変な曲が二つあったでしょう。」
「ああ、「悪魔の絵本の歌」と、最後の「鏡よ鏡」の歌ね。」
美紀も、場違いな感じの歌が2曲まぎれ込んでいるようで、その曲には違和感を覚えていました。
「最後の、鏡よ鏡は、俊一郎さん一流のジョークだと思いますけど、悪魔の絵本の歌の語り手って、ずばり令子ちゃんですわ。」
男の失恋を告げ、最後は自分自身の存在を塗りつぶさせて消えてしまうようにも思える女性、千里眼の美少女令子と考えるとぴったりしすぎの役柄でした。
「言われてみると、そうね。令子ちゃんにぴったりの役柄ね。でも、彼女元気なんでしょ。」
病室が近かったので美紀も時々見かけていたのですが、自殺しかけた由紀子を手すりの上から引き戻してくれたぐらい、病院に居ることが不似合いな、元気な美少女だったのです。
「運命は、わからないものですわ。」
「それより、あんたは何時目覚めてレディーに変身するの。」
そんな歌だったので、美紀は、皮肉りながら聞いてみました。
すると、由紀子に見事に返されてしまいました。
「王子様のキスが、必要かしら。」
「もう。あんたは眠り姫なの。」
「私ともう一人の私、二人で一人、眠り姫が目覚める時が、二人が一人になって、レディーに変身できる時なのですわ。」
ありゃありゃ、二人の由紀子の話はどこまでが本当なのやらと思いつつも、美紀は本当にそうなってくれることを望みました。
「そうなってくれることを祈るわ。ところで、最後の歌も面白いわね。」
「鏡よ鏡」という題名の歌は、白雪姫の鏡をモチーフに、人々の心の貧しさを皮肉ったような歌で、なかなかユーモアあふれるものだったのです。
「あれは、神坂さんのジョークって言いましたけど、彼そのものでもありますわ。」
「なあにそれ。」
「彼は鏡だったのです。人々の心を映す。」
言われてみると、心どころか運命まで映す鏡に思われました。
「なるほど。確かにそのとおりだったようね。」
「最後に僕のことを思い出して、貧しい心に染まらず、賢明に生きて行って欲しいってのが、真意なのかも知れませんわ。」
「心憎いまでの演出ね。」
「そう。彼は、見る人の運命を映す鏡でもあったのですわ。」
「じゃあ、由紀子は、本当に幸せになってちょうだい。」
「はい。その前に、キスで私を目覚めさせてくれる王子様を探しますわ。」
美紀、真面目な陰の由紀子ながら、時々ついて行けないと感じることがありましたから、退散することにしました。
美紀は、妹由紀子の病状の参考になるかと思って、主治医の片岡勇に、神坂俊一郎が妹に贈った例のテープをコピーして渡して聞いてもらい、医師としての意見を聞くことにしました。
勇は、半信半疑で聞いてみたのですが、その内容には驚愕しました。
「操り人形」の歌は、自我を持たずに大学生にまでなった由紀子を暗示していました。
そして、俊一郎の生い立ちと、彼の心の不可思議な構造、そして由紀子によって傷ついた彼の心を表す歌が続くのです。
由紀子本人も認めていましたが、彼女と神坂俊一郎の恋愛は、由紀子ではなく、むしろ俊一郎が傷つくものであったことを表していました。
見えない小鳥の歌は、俊一郎が、はからずも見えない鳥かごになってしまった自分から、小鳥の由紀子を解放したことを表しているように思われました。
ところが、解放されたはずの由紀子は、自分の心の部屋に閉じこもって彼と結ばれることが夢だったと話すのです。
その後の歌が、また奇怪でした。
悪魔の絵本を男に書かせ、彼の失恋を思い知らせ、最後は自分の存在すら彼に消させてしまう女性、由紀子が美紀に告げたように、これが令子であるとしたら、恐ろしいのです。
彼女が死んでしまうことを暗示していたからです。
令子は、千里眼で全てを見通しているのです。
歌の中の少女は、自分の死も見通している。
俊一郎が由紀子にこのテープを贈った時点で、令子と由紀子にはまだ接点は無く、当然、令子のことを神坂俊一郎が知るはずはないのですが、彼女としか思えない歌であることも確かでした。
何故、この歌がここに置かれたのか、そのことについても、勇は考え込みました。
時系列的に並んでいると思われる配列からも、俊一郎がその男で、由紀子に失恋したとしてしまう解釈には無理があるように思われるのです。
ですから、これが誰のどのような状態を暗示する歌となっているのか、勇はわかりませんでした。
しかし、その後無垢な魂は解放され、運命の結んだ相手に愛され、貴婦人レディー・デイジーへと変身して行きます。
そして、華やかなハッピーエンドではなく、二人で静かに歩んでいく6月の花嫁につながり、最後は少し滑稽な「鏡よ鏡」の歌で終わるものとなっているのです。
未来に希望が持てるだけ、救いのある預言だとは思ったものの、由紀子が狂うことまで暗示してもいるこの預言曲集を、本人に渡した神坂俊一郎の意図を、勇は計りかねました。
勇は、自分の疑問を、俊一郎の知識と教養を一部受け継いでいると思われる陰の由紀子にぶつけて確かめてみました。
「まず、操り人形の歌だが、君と神坂君、愛しているなどと言い合ったことはあったのかい。」
陰の由紀子は、にっこりと微笑んで答えました。
「ありませんでした。でも、私と彼は、心でつながってしまいましたから、その必要もありませんでした。ただ、この歌に近い意味では、私の操り手は、彼よりもむしろ母だったのだと思います。それから、愛しているの言葉についても、私と彼との関係であるとともに、私と母との関係でもあったと思います。そして、母との関係で見ると、この歌ほどではありませんが、確かにずれていたと思いますし、彼との関係では逆だったとも思います。彼は、私を愛してくれていたのだと思いますが、私は、彼を愛するところまで行きませんでした。操り人形である以前に、子供過ぎたのですわ。外面的には、母の影響から脱した私に操られ、踊らされていたのは、むしろ彼の方であったのです。」
歌だけでは、由紀子が俊一郎の操り人形であり、一方的に彼が悪いように聞こえてしまうことが気になっていましたし、「愛している」という言葉は、由紀子から聞く限りの神坂俊一郎にはそぐわない軽薄なものに思えていましたし、彼が、単純に由紀子を操り人形にするとも思えませんでしたから、彼女の答えに勇は納得し、安心しました。
勇は、次の質問に進みました。
「神坂君は、君がおかしくなることまで予知していたのではないのか。」
すると、陰の由紀子は、ちょこっと可愛らしく首を傾げました。
「先生、その見方は、根本的に誤っていると思います。私、神坂さんと別れる前からおかしくなっていたのです。彼の言い付けに逆らって逃げ出して、夜道で男に襲われて、そのことを隠そうとしたことが原因だったと思うのですが、彼との心のつながりが途切れてしまいました。その時点で、操り人形の糸も切れてしまった私は、既におかしくなっていたのです。そんな私を、彼は、一生懸命なんとかしようとしてくれていたのです。でも、当時の私は、彼から逃げ回ってしまったのです。彼とちゃんと向き合うことができなかったのです。ですから、彼も、私とまともに向き合うことができなかったのだと思います。今思うと、彼は、本当に気の毒でした。私の仕業なのですが。」
彼女の心身症に対する診断の前提が間違っていたことに、勇は少なからずショックを受けました。
「では、君の病は、2年前から始まっていたというのか。」
「そうだと思います。それでも、神坂さんが側にいる間は、何とかなっていたのです。彼は、大変だったと思いますけど。」
「どう大変だったと思うのかい。」
勇、俊一郎と交際していた当時の由紀子のことについては余り聞いていませんでしたから、良い機会だと尋ねてみました。
「私、彼の前に出ると、意識が飛ぶようになったのです。神坂さんが側についていてくれたから何とかなっていただけで、普通なら、あの時点で入院させられていたかも知れません。」
「その、意識が飛んだという発作状態は、どんなものだったんだい。」
「私自身は意識がありませんからわかりませんが、聞いたところでは、無反応になったそうです。なにもしゃべりませんし、無表情で、能面みたいな顔をしていたそうです。ですから、周囲の人たちは、気味悪がったそうです。」
「そんなになって、本当に無事で済んでいたのかい。」
「ああ、神坂さんの前でしかなりませんでしたから、彼の手をわずらわせてしまいましたが、ちゃんと二人で食事して、下宿に帰るところまで面倒見てもらえていたようです。」
「ある意味、彼に甘えていたのではないのか。」
すると、陰の由紀子にしては珍しくにっこりと微笑んだ。
「うふふ、そうだったのかも知れませんね。」
「きっと、彼は困っただろう。」
「ええ。神坂さんにとっては、家では両親に裏切られ、プライベートでは私に変になられて、ダブルパンチだったと思いますが、少し悲しそうではありましたが、余裕で何とかしてくれました。」
勇、由紀子の病状と当時の恋人神坂俊一郎の対応について、今まで誤解していたことを更に思い知らされました。
「そうだったのか。私は、君が失恋した上に、彼と婚約者の仲の良い姿を見せられて発症したものと思い込んでいた。そして、彼が悪かったのだとも思い込んでいた。」
「いいえ、その前に十分鬱になっていたのです。彼とうまくいかなかった自分を後悔し、彼には要求するばかりで、結局愛してなどいなかったのだと気付いた時点で。」
「そうだったのか。それでも、あの預言曲集、君には酷ではないか。」
狂うことを予知していたかのような曲集なのですから、勇はそれを本人に贈った俊一郎の神経を疑っていました。
しかし、由紀子はその見方を否定しました。
「いいえ、俊一郎さんは、強すぎたのですわ。ですから、自分の運命を見せられた人が、その試練に耐えられない可能性については、最初から全く考えなかったのです。見せられた私には過酷な運命でも、神坂さんにとっては、由紀子、君の運命はこうだから、途中の試練をしっかり乗り越えなさいよ、という親心でしかなかったのだと思いますわ。」
「悪気はないということか。」
勇の言葉に、また由紀子は小さく笑いました。
「神坂さんには、悪気なんてものは、元から全く存在しなかったのですわ。そして、鳥かごから解放されたものの、墜落して死ぬところだった私の小鳥は、幸いにも令子ちゃんに助けられて、積み木の部屋に逃げ込んだのです。」
そうか、解放されても飛ぶことができなかった由紀子の魂は、令子に助けられて病室に閉じ込められたのか。
そこで、神坂俊一郎とのことを後悔していたのだ。
由紀子本人が言うからにはそのとおりなのだろうと納得した勇でしたが、悪魔の絵本が気になりました。
「ところで、悪魔の絵本に描かれる男は誰なのだ。」
すると、陰の由紀子は、いたずらっぽく笑いました。
「うふふ、片岡先生は、まだおわかりにならないのですか。」
「君に関係した人物というと、神坂君しかいないだろう。」
常識的にはそれしかないと、勇は信じ込んでいたのです。
「神坂さんだと、物語がつながらないと思いませんか。積み木の部屋に逃げ込んだ後の私とも。それに、語り手についても、私ではおかしいでしょう。あの歌、私とは無関係と考えられるのではありませんか。」
その疑問は、勇も持っていた。
「確かにつながらない。君とも。じゃあ、誰だ。」
由紀子が、勇をじっと見つめたので、彼もようやく気付きました。
「あっ、そうか。これは私のことなのか。」
「やっと気付いていただけましたか。凄い預言でしょう。」
勇、知らないはずの自分のことまで予知した俊一郎には感心していました。
「何故、私まで登場するのだ。彼は、私のことなど知るよしもないだろうに。」
「神坂さんは、令子ちゃんとは全く違うタイプの預言者だったのです。おそらく、神坂さん自身は、片岡先生や令子ちゃんのことは全く知らずに並べただけなのです。」
「では、私は、君に失恋するのか。」
愕然とした勇に、由紀子は優しく微笑みました。
「先生は、精神科のお医者様なのですから、ご自身の気持ちに対しても、もっと正直になってくださいませ。先生は、幻のような私に恋をした。遠からず私のこの人格は消えます。歌詞のように、割れてこなごなの片思いは避けられないのですわ。」
勇は、何時しか上品で教養あふれる陰の由紀子に恋をしていたのです。
しかし勇、医師である立場上強がってみました。
「患者に恋などするものか、と言いたいところだが、確かに君は魅力的だ。でも、失恋しても平気だ。心配はいらない。」
すると、由紀子は意味ありげに微笑みました。
「この歌には、もっと他の意味もあると思いますから、覚悟しておいてください。」
「何だそれは。」
「その時になればわかりますわ。」
「君が、幸せになれれば、それでよい。」
「それは、大丈夫そうですわ。何とか試練は乗り越えられそうですから。」
「それでは、神坂君は、そこまで予知していたとして、君を傷つけた罪には問わないことにしよう。」
勇、俊一郎は、自分では意図しなかったにせよ、由紀子を十分傷つけることになったと考えていました。
「あはは、罪に問われるのは、私の方ですわ。気まぐれ風に傷ついたのは、神坂さんなのです。実は、添えられていた手紙では、僕は傷ついていないと言い張っていたのですけど、実は結構傷ついていたんだよと、白状しているのだと思いますから。」
そんな歌もあったことを、勇は思い出しました。
「なるほど、あの歌は神坂君の心か。」
「窓の歌は、もっとわかりやすいでしょう。」
「空想に耽る少年にとって、外の世界は狭くなって夢の行き場が無くなっていく。つまりは、彼の内面はそれだけ広かったわけか。」
勇は、そう解釈していたのです。
「そのとおりですわ。こんな私を愛してくれたことが間違いだったのですが、彼も預言者だったのです。ですから、片岡先生のことも見通せたのですわ。」
勇も、俊一郎の預言、いや、由紀子に言わせると幻視、には感心していたのです。
「凄いとしかいいようがない。しかし、普通の人間にはつきあえない相手だったのかも知れないな。」
由紀子も、そのことは素直に認めました。
「そうです。私の手には負えません。いや、誰の手にも負えないでしょう。何よりも、私では彼を包んであげることは絶対にできなかったでしょう。そして、私は、もし彼に包まれていたら、一見幸せだったかも知れませんが、大人になりきれないまま駄目な人間になってしまったと思います。これでよかったのです。」
勇は、大変な労力をかけて由紀子を教育したであろう俊一郎が、何故彼女を放り出し、かつ運命を預言するようなことをしたのか、どうしても理解できずにいたのですが、陰の由紀子との対話で、ようやく理解できた気がしました。
「ようやく、神坂君のことを理解できた気がするよ。」
「そうですか。」
「でも、どうやって君の運命を見通したのだろう。」
これも、大きな疑問でした。
「ああ、それは彼にとっては簡単なことです。」
「そんなばかな。」
「いいえ。彼は鏡だったのです。」
「鏡とは。」
「そうですね。その人の魂を映すものと考えればいいでしょうか。」
「君を映した。」
「そうです。ですから、私の運命を見通すことは簡単だったのです。」
「どうして、そんなことができるのだ。」
勇の根本的な疑問は、そちらの方でした。
「俊一郎さんは、心の鏡を持っていたのです。鏡となった時には、個人の意思も、執着も全て捨て去ったのです。ですから、それができたのだと思います。」
何だか禅問答みたいだなあと思いながらも、何となく理解できた勇でした。
「そうか。何となくわかった。」
由紀子は、勇に再度注意しました。
「でも、もう一度言います。神坂さんの預言を甘く見ないでください。いくつもの意味があることが多いのです。その時になって、ようやく理解することができて、愕然とされるかもしれませんが。」
「わかった。むしろ、楽しみにしておこう。」
勇は、強がり半分期待半分で、胸を張って答えました。
「そうですか。それなら、私もそれ以上は言いません。」
陰の由紀子は、不気味に微笑んだ後、沈黙しました。
勇としては、陰の由紀子にしては多くのことを話してくれましたし、彼女が初めて微笑んだり笑ったりしてくれたことで満足していましたから、この言葉の意味を重くは捉えていませんでした。
美紀は、妹の病院に通いながらも、自分の結婚の準備を着々と整えていました。
彼女、広島の女子大を卒業後、地元のテレビ局に就職し、婚約者の山本孝一とは、彼が福岡に就職したことで、それまでの東京よりは大分近づきましたが、遠距離恋愛が続く予定だったのです。
ところが、父宗吾が福岡に9月に福岡転勤の予定となり、元々は母の香葉子が福岡出身で、祖母淑子が郊外の広い邸宅に一人で住んでいましたから、一家でそこに同居することになりました。
都合の良いことに、幼なじみだった孝一も、一家で博多に移っていましたから、美紀は家族の介護と理由を付けて7月一杯で退職し、父より一足先に、妹の後を追うように母と共に博多の祖母宅に移ったのです。
ですから、半年前に決めていた10月挙式の予定はそのまま、結婚後は、そのまま山本家に同居する計画に変わりました。
美紀が福岡に来てから、毎日のように孝一と会えるようになると、彼も、由紀子の面会に同行するようになりました。
孝一の目から見ても、以前の正常時の情緒不安定な由紀子と比較して、現在の二人の由紀子は決して異常には思えませんでしたから、彼女を結婚式に出席させたら何らかのきっかけとなって目覚めるのではないかと言い出しました。
美紀も、陰の由紀子が言った「目覚めさせてくれる王子様」探しのためにも結婚式出席は面白いと思い、由紀子のために一時は延期も考えた式を、予定通り挙げることにしたのです。
美紀が、主治医の片岡勇に由紀子の結婚式出席について相談すると、いざというときのために、自分も付き添うことを条件に出席を認めてくれました。
奇しくも神坂俊一郎の結婚式の1年と1日後の10月14日の大安吉日(実は、俊一郎の挙式は仕事の都合で仏滅だったのです。)山本孝一と西村美紀の結婚式が挙行されました。
一時退院の扱いで病院を出て、式場でドレスに着替えて結婚式に臨んだ由紀子は、その場に相応しい教養豊かで控え目な美少女キャラクターの陰の由紀子が基調になっていたように思われましたが、披露宴では陽の由紀子も加わって、見事に社交的に振る舞っていました。
美紀も勇も、二人の由紀子が同時にというか、融合して姿を現したのを見たのは初めてのことでしたから、そのことを不思議に思いながらも、式の間は様子を見ようと、触れずにいました。
披露宴が終わって、孝一と美紀が新婚旅行に出発するのを見送る段になって、勇は勇気を出して確かめました。
「由紀子さん、君は、大人の陽の由紀子かい、それとも少女の陰の由紀子かい。」
すると由紀子、にっこり微笑みながら勇に近づいて耳元でささやきました。
「その答えの前に、一つ儀式に付き合っていただけますか。」
気味が悪いので、由紀子の変なお願いに応じる前に、勇は確かめました。
「君に危険なことでなければ。」
「私には危険はありません。それに、儀式と言いましたが、とても簡単なことですわ。」
「それならよいが、何をすればよいのだ。」
勇、半信半疑で応じました。
「勇先生、目を閉じてください。」
勇が由紀子の命令通りに目を閉じると、彼女、何と背伸びして勇の頭を抱えると、その唇にまともにキスをしたのです。
恋した女性にキスされて悪い気はしなかったものの驚いた勇、由紀子に確かめました。
「もしかして、今のが儀式なのか。」
「ええ。王子様の目覚めのキスです。さあ、レディーの由紀子の誕生ですわ。」
勇、無理矢理唇を奪われたような状況に、思わず抗議しました。
「おい。今のじゃ、王子様の目覚めのキスじゃなくて、お姫様が無理矢理奪ったキスじゃないか。」
しかし、今の由紀子には、勇の抗議を笑い飛ばす余裕があったのです。
「あはは、堅いこと言わないでください。王子様のキスで目覚めたのですから。」
男女関係に異常に潔癖だった由紀子が、勇にキスした現場をぎょっとしながら見ていた彼女の両親と美紀、孝一夫妻でしたが、キスの後、由紀子の雰囲気がそれまでとまた少し変わったことを感じとっていました。
勇は、気を取り直して、主治医としての立場で、由紀子に質問しました。
「まあ、キスの件は私としても光栄だから許そう。それでは聞こう。今の君は、大人の陽の由紀子かい、少女の陰の由紀子かい、それとも元の由紀子なのかい。」
すると、由紀子はにっこり微笑んで答えました。
「いいえ、レディーの由紀子ですわ。」
答えた後、由紀子は姉夫婦の前に進み出ると、宣言しました。
「私は、神坂俊一郎さんが理想とした大人の女性、レディー・デイジーの由紀子になることができました。次は、六月の花嫁を目指します。姉さん、孝一さん、幸せになって見守ってください。」
美紀、今の言葉が言えるのは、由紀子が本当にレディーの由紀子になれた証拠だと感じたので、祝福しました。
「由紀子もよくなってよかったわ。おめでとう。幸せになってね。」
孝一も、続けました。
「よかった。偶然でもなんでもいい。本当に思い通りになってくれた。由紀子さん、本当に魅力的だよ。幸せになってください。」
由紀子の両親も、思わず娘由紀子を抱きしめた。
美紀は、両親の後で由紀子を抱きしめ、耳元でささやきました。
「あんたのこと、神坂さんに知らせた方がいいの、知らせない方がいいの。」
由紀子、微笑みながらささやき返しました。
「知らせないでください。神坂さん、私のお友達に、こうも言ったのですわ。「特別なことのない日常、それこそが幸せなんだ。」って。今更私が出て行っては、特別なことになってしまいますから。」
これで、由紀子については一旦めでたしめでたしに終わったのですが、全てがめでたく終わらないのが運命だったのです。
美紀と孝一の結婚式の後、由紀子を詳しく診察し、特に異常は認められないと結論づけた勇は、当面通院を続けることを条件に、彼女を正式に一時退院の扱いにして両親に託しました。
そして勇は、式場を後にすると、その足で一旦病院に戻りました。
彼は、何時しか陰の由紀子に恋していた自分を道化役のようにして、王子様のキスになぞらえて、由紀子がまともに戻ったこと、いや、むしろ変身して大人の女性になったことについては、自分は確かに失恋したように思われましたし、利用されたような気もしましたし、どうにも割り切れずにいたのです。
しかし、彼女がまともになったから結果オーライでいいかと思いつつ、つい病棟の由紀子の病室に足が向くと、問題の二宮令子に声をかけられました。
彼女は危険な患者では無く、自分の立場を心得ていましたので、入院はしているものの、病室の出入りは自由にできたのです。
「先生、失恋しちゃったね。」
勇は、令子の言葉によって、改めて悪魔の絵本の歌で少女に翻弄される男は、神坂俊一郎ではなく自分であったことを確信しました。
「あはは、確かにそのようだな。王子様の代わりはさせられたが。」
流石千里眼、見抜かれたかと感心していますと、令子は更に続けました。
「大丈夫よ。由紀子お姉ちゃん、先生のキスで目覚めて、お姫様じゃなくて、貴婦人になるから。」
彼女は、俊一郎の預言曲集の存在を全く知らないはずなのに、失恋の相手を見抜いただけでなく、由紀子がキスで目覚めることから貴婦人(レディー)になるとまで言われると、全てが符合してきます。
勇は、ぎょっとしながら聞き返しました。
「由紀子は、貴婦人になれるか。」
すると、令子はいたずらっぽく笑いました。
「うん。由紀子お姉ちゃん、前の彼氏が思っていたような貴婦人になれるわ。でも、先生はふられちゃったね。」
令子は、由紀子の前の彼、つまりは神坂俊一郎の存在まで知っているようなので、勇は完全に脱帽しました。
「やっぱりそうか。」
「そうよ。でも、心配しないで。先生には、由紀子お姉ちゃんよりずっと美人で、お化粧の上手な奥様が待っているから。」
表現に苦笑しながらも、彼女の預言は絶対当たると聞いたことがあったので、勇はその「美人で化粧の上手な奥様」とやらを待ってみるかと思って、令子の病室を出ようとしました。
「ありがとう。待ってみるよ。でも、令子も幸せにならなくちゃね。」
すると、令子は突然涙ぐんで手を出したのです。
「先生、手をつないで。」
「どうしたんだ。」
勇は、少し焦って彼女の手を握ると、彼女の手は異常に冷たかったのです。
「直ぐにベッドに戻って暖かくしなさい。風邪ひくよ。」
すると、令子は涙をこぼしながら首を振りました。
「ううん、いいの。神様が私を呼んでくださるから。」
不吉なものを感じた勇が手を離せなくなっていると、令子は更に続けました。
「この手で、先生と奥様になる女性を結んであげるから、その人のことは大切にしてね。」
有無をも言わせぬ感じでしたから、勇はうなずきました。
「わかった。妻になる人は、絶対大切にする。」
すると、令子はつないでいた手を離しました。
「じゃあ、ばいばい。先生、奥様を大切にしてね。絶対離さないでね。そうすれば、とっても幸せになれるから。」
「わかったよ。ありがとう。」
勇は、後ろ髪を引かれながらその場を後にしましたが、気になってどうしようもなくなったので、他の医師の患者ではあったのですが、医局に立ち寄って令子のカルテを調べました。
そうすると、恐るべき預言の数々の記録とともに、今は全く健康なのですが、入院当初には、心臓神経症と思われる症状で、退院させようとする度に心臓発作を起こした既往症があったことが記載されていました。
彼女に心臓神経症の恐れがあることあたりまでは、精神科の医師は全員教えられていたことだったのですが、もう2年近く全く健康でいますから、警戒しなくなっていたのです。
それでも、先ほどの彼女の言動と悪魔の絵本の歌との符合から、命が危ないかもしれないと心配になった勇は、彼女の主治医の大塚実に電話をかけました。
勇と同い年の実は、既に結婚しており、2歳の子供もいましたが、ちょうど家で家族と食事中でした。
実は、滅多に他人には話しかけない令子が、勇に話しかけたと聞いて驚きながら、何を預言されたのか尋ねました。
勇が、自分の結婚相手のことを答えると、彼は笑いだしました。
そして、その預言は間違いなく実現するだろうと答えました。実が言うには、それだけ彼女の預言は凄いものだということなのです。
勇が、自分の結婚の件はめでたいことだからよいが、神様に呼ばれているという言葉は、考えようによっては死ぬことを暗示していて危ないので、放って置いてよいのかと実に念を押すと、彼も迷っていましたが、今日は何と彼にとっても結婚記念日で、家族で食事中だから勘弁してくれと答えました。
勇も、それでは気の毒なので、当直の医師に伝えて注意してもらうし、自分は預言されたところでまだデートする相手も居なくてひまだから、何かあれば任せろと言って電話を切りました。
勇は、28歳、180センチの長身の上顔もなかなかのハンサムで、見栄がする好男子なのですが、職業柄相手の性格を診断してしまうところがあり、その上恋愛よりも仕事を取る人間でしたから、女性と付き合っても長続きせず、まだ独身だったのです。
そして、現在は誰とも付き合っていませんでしたから、他の患者も受け持ちながらも由紀子にかかっていられたのです。
独身は気楽でしたが、実に電話してみて、家庭を持つとそうもいかなくなるのだろうなと実感しました。
そこで、当直の当番だった九州大学の1年後輩の佐々木弥が来るまで待って、彼に令子のことをくれぐれも注意してやってくれと伝言してから、自宅に戻りました。
帰宅すると、既に夜の9時でした。
こう言う時には結婚式でお土産に持たせてくれる料理も便利で、普段はお酒を飲まない勇でしたが、由紀子の退院祝いだと理屈を付けて、引き出物に付いてきた小壜のワインを開け、料理をつまみにしてつつきながら音楽を聴いていました。
すると、突然電話が鳴ったのです。
電話と言えば仕事しか頭になかったので、慌てて出た彼はつい叫んでしまいました。
「片岡です。二ノ宮令子の容態が悪化したのですか。」
ところが、かけてきたのは由紀子で、彼女はしばらく間を置いてから穏やかに尋ねました。
「片岡先生ですね。私です。西村由紀子です。今日はお世話になりました。ところで、病院で何かあったのですか。」
「あっ、由紀子さんだったのか。いや、式の後少し気にかかることがあったから寄ったんだ。つい叫んでしまって悪かった。」
「先生、式の後も病院に寄られたのですか。」
由紀子は、呆れていました。
「そうなんだ。何となく寄ってしまった。」
本当は何となくではなかったのですが、陰の由紀子が恋しくなったと言うわけには行きませんから、こう答えたのです。
「それでは、ワーカホリックになってしまいますわ。それでなくとも、今日は私の付き添いで仕事みたいなものだったでしょう。それに、私を退院させてしまって、本当によかったのですか。」
本人に言われて、勇は思わず苦笑しました。
「君も、そんなことを言っていては、入院中毒だな。」
「あはは、そうですね。」
「ところで、家に帰ってみてどうだい。」
勇は、彼女の現況を確かめました。
「当然とっても居心地いいんですけど、私はまだ腫れ物ですわ。姉がいなくなった後だけに、皆余計に大事にしてくれているようですし。」
「当然だ。君はまだ病人で、ほぼ治癒したと考えられるが、一時退院、自宅療養中の扱いだ。」
由紀子、勝手に治ったつもりになっていましたから、笑いました。
「あっ、そうでした。それなら、明日また会えるんですね。」
「そうだな。そのままの状態だったら無理にとは言わないが、気が向いたら、1~2週間に1回ぐらい病院に来てくれ。」
今の大変まともそうな彼女をどう捉えるべきか、それを考えると勇は少し気が重かったのですが、何とかするしかありません。
「あれ、何だか冷たいんですね。明日は、母と一緒に伺いますから、よろしくお願いします。」
勇は、彼女がどんな由紀子だと自覚しているのか、再度確かめてみました。
「ところで、今の君は、以前の由紀子さんか、陽の由紀子さんか、陰の由紀子さんか、誰だい。」
由紀子は、思わず笑ってしまいました。
「何回同じ事を聞いているのですか。私は、王子様の先生のキスで目覚めてレディーの由紀子になったと申し上げたでしょう。」
つまり、治療は成功し、彼女は治癒したことになるのですが、勇としては、王子様のキスをさせられたことといい、いまだに釈然としませんでした。
それでも、医師として迷っているのも患者のためになりませんから、割り切って考えることにしました。
「それなら、君は正常に戻った。それでいいんだよ。」
由紀子も、勇の意見に素直に従いました。
「そうですね。ありがとうございました。では、父に替わります。」
由紀子の父宗吾が替わって改めて勇に礼を言った後、由紀子の病状について尋ねたのですが、勇にしてもどうも正直には答え難かったので、ほぼ治癒したと考えているので、自宅療養でしばらく様子を見ましょうとお茶を濁しました。
その後母の香世子に替わり、また礼を言われたので、勇としては少々うっとうしくなってきたところで、またまた由紀子に替わりました。
由紀子は、最初に勇が令子のことを言ったのが気になっていたのです。
「先生、令子ちゃんどうかしたんですか。」
勇も思い出したので、失恋のことは除外し、今夜の経緯を話しました。
「わーい、私は先生のキスで目覚めて貴婦人ですか。それに、先生も美人でお化粧の上手な奥様をもらえるんですね。」
実にも絶対当たると言われたのですが、所詮12歳の少女の言ったことですから、勇は半信半疑でいました。
「彼女のご託宣って、そんな大したものなのか。」
すると、由紀子が聞きました。
「あれ、片岡先生、令子ちゃんのこと、ご存じないんですか。」
「彼女は、私の患者ではないからな。それに、彼女と話したのは、君が自殺を図って入院してきた日以来だったんだ。君は、彼女のことを知っているのか。」
「ええ。令子ちゃん、普段はお姉さんの律子さんと、大塚先生の他は、私としか話さなかったんです。それで、彼女の言うことですが、100%的中します。」
由紀子と自分はいいが、令子自身が神様に召されるのは問題だと勇は慌てました。
「私も君もいいことだが、彼女自身が問題だな。」
由紀子も、それは感じていました。
「そうですね。私も悪魔の絵本の件と言い、心配になりました。何かあったら教えてください。明日伺いますから。」
「わかった。では、久々の自宅の夜を楽しんでくれ。」
「はーい。お休みなさい。」
「ぐっすりお休み。」
勇が、音楽を聞きながら結婚式の残り物を全て平らげ、片づけも終わったから、さあ、寝るかなと思っていたところ、電話が鳴りました。
出ると二宮令子の主治医の大塚実だったのですが、今回は勇も余裕があったので、ゆっくりと確認しました。
「はい、片岡です。二宮令子の容態が急変したのですか。」
しばらくの沈黙の後、実は、残念そうに言いました。
「今病院に居る。二宮令子が死んでしまった。連絡を受けて行った時は、もう手遅れだった。10時の見回りの時点では、眠っているようだったが、君の言伝があったから、当直の佐々木君は部屋に入って確認してくれたんだ。すると、既に心肺停止状態で、蘇生を試みたが、何をしても効き目が無かった。ああ、どうして直ぐに行ってやらなかったんだろう。」
明らかに取り乱している実に、勇は優しく話しかけました。
「彼女は、自分の預言どおり、神に召されたんだよ。彼女の預言は、変えようがないんだろう。運命だったんだよ。私も、今から行く。暇だったんだから、私がずっと付き添っていてやればよかったんだ。それでも駄目だったのだろうが。」
タクシーで病院に向かう途中、勇はどうしようもない憤りを覚えました。
神様と一緒になったと言い、預言者のようになってしまったものの、まだ12歳の少女だった令子を、どうして独房のような病室に閉じ込めなければならなかったのだろうか。
社会は、彼女を何故暖かく包んでやれなかったのだろうか。
しかし、彼女に精神病の烙印を押したのは、他ならぬ我々医師なのではないか。
由紀子が、以前の恋人神坂俊一郎は、『狂人は精神病院が作る。』と言ったことがあったと話してくれたことも思い出されました。
これも極論ですが、勇は、自分の無力に無性に腹が立ったのです。
同時に、神坂俊一郎が由紀子に与えた預言曲集のことも思い出しました。
悪魔の絵本の描き手は、令子だったことが証明されたのです。
その令子は、最後は、勇の手にこだわっていたようにも思われました。
失恋した後、最後はそれまでの描き手であった令子から、「あなたの胸の中」を今度は自分の手で赤く塗りつぶすことになると言われる男、それを行う手、それは、勇自身であり、令子のカルテの最後のページの枠を赤く塗りつぶすこと、つまりは患者である彼女が死んだことを表すことになる勇の手を意味するのではないか。
由紀子のことだけでなく、勇の失恋から令子が死ぬことまでも暗示していたとは、神坂俊一郎は、なんと恐ろしい男だったのだろうか。
そこまで考えついた勇は、改めて陰の由紀子に注意されていたことも思い出しました。
悪魔の絵本の歌には、自分が陰の由紀子に失恋することと、令子が死んでしまうこと以外にも、いくつもの意味があったのです。
愕然とした勇でしたが、由紀子は、俊一郎のことを、とても優しく、責任感にあふれた男だと言いました。
それならば、彼自身が運命に操られていたと考えるべきなのか。
勇は、そこまで考えたものの、神坂俊一郎のことは、預言者であり、魂と運命を映す鏡であり、令子同様不思議な存在と割り切って、それ以上どうこう考えないことにしました。
病院に着き、弥と実から経緯を聞いた後、勇は、自分の仕事のように思えましたから、自ら令子の死亡診断書作成と、彼女のカルテの最後のページを赤枠とする(つまりは、患者が死んだことを表す。)作業を請け負い、処置室に仮安置された彼女の遺体を検視しました。
医局に戻って作業を終えた勇は、今夜は、自分一人だけでも令子のお通夜をしてやろうと考えました。
勇は、令子がそうして欲しくて最後に声をかけてきたのだと確信していました。
処置室に戻った勇は、令子の顔にかけられていた布を除けて見ると、わずかに笑みを浮かべたような安らかな死に顔でした。
しかし、顔に手を触れると、既に冷たくなっていました。
「神様に召されたか。君は、幸せだったのだろうか。」
つい何時間か前につないだ彼女の手を握って、ふとつぶやいた時、背後に気配を感じたので勇は振り返りました。
部屋の入り口に若い婦人が立っており、彼に向かって一礼し、自己紹介しました。
「私、二宮令子の姉の律子と申します。妹が、最後まで大変お世話になりました。」
律子、身長170センチを超えるすらっとした美女で、妹令子に似た整った顔立ちながら、表情がわからないような濃い目のお化粧をしていましたから、年齢がはっきりわかりませんでした。
彼女、言葉遣いはしっかりしているものの、本当はとても若いのではないか、勇はそんな気がしたのです。
令子のところに毎日のように面会に来ていた律子でしたから、勇にも見覚えはあったのですが、今の今まで全く関心がありませんでしたから、彼女の顔すら覚えていなかったのです。
初めて間近で見る彼女は、目鼻立ちのはっきりした外人のような顔立ちの美人で、綺麗に化粧していました。
「残念なことになってしまいました。我々も手を尽くしたのですが、力が及びませんでした。何と言ってお詫びすればよいのか。」
彼女は、勇の呼びかけに答えずに、令子の手を握って泣き出しました。
その時勇は、令子が「この手で、先生と奥様を結んであげる…。」と言ったことを思い出しました。
となると、私の将来の妻、美人でお化粧の上手な奥様とは、姉の律子のことだったのか。
そう考えついた勇でしたが、その考えは、律子の泣き声で中断しました。
「令子。昼は元気だったのに、どうして。どうして私を一人ぼっちにするの。あんたしかいなかったのに。」
彼女の言葉から、勇は令子と律子の境遇を思い出しました。
彼女らの両親は、2年前に交通事故で死んでしまったのですが、令子一人が、めちゃめちゃに壊れた車の中で奇跡的に無傷で助かり、それ以来神様に期限付きで生かしてもらっていると言っていたらしいことも。
姉の律子は、丁度高校の修学旅行中で事故に遭わなかったのですから、彼女はまだ20歳にもなっていないことになります。
そして、二人には他には全く身寄りがなかったのです。
令子は、当時10歳ながら聡明であり、日常生活には全く問題はなかったのですが、退院させても姉の律子が当時まだ高校2年生の17歳でしたから、何かあった際責任を持って対処することができないと思われました。
それでも、律子が妹の面倒を見ると言い張ったため、退院させようとしたのですが、令子は、退院直前に、心臓神経症と思われる症状で2回も心停止をひきおこしていたのです。
そして、それよりも問題になったのは、令子の神がかりの預言でした。
神様から与えられた能力だという彼女の預言は、全てが的中したのです。
しかも、その内容は、余り望ましくないことも多く、変えようがないので、どうにも救いのないものだったわけです。
それが余りにも危険だったので、病院に入院させておいた方が安全だと、主治医の大妻実が悩みながらも決断したのでした。
「令子さんは、神様に召されたのです。」
勇自身、ここは日本だし、律子はキリスト教徒ではないでしょうし、慰めの言葉にならないなと思いましたが、泣きながら律子が答えた内容は、衝撃的でした。
「ええ、そのとおりです。事故の後令子は、自分は、本当は両親と一緒に死んだが、姉の私を一人にしてはおけないと神様に頼んだところ、私が生きて行けるようになるまで、2年だけ時間をもらったと言いました。今日が、その2年目だったんです。」
そんなばかなと思いながらも、勇は、死ぬ直前に令子が彼に話したことを教えました。
律子は、顔を上げて勇を見詰め、おずおずと確かめました。
「あなたは、片岡先生ですね。」
何故、主治医でもないし、一度も話したことのない自分の名前を知っているのか。不思議に思いながら、勇は涙で化粧がところどころはがれた彼女の顔を見詰め返しました。
「そのとおりです。申し遅れましたが、私は精神科の医師の一人、片岡勇です。ところで、何故私の名前を知っているのですか。あなたも令子さんから何か聞いていたのではないのですか。」
預言の件もあったので、勇がかまをかけてみますと、律子は明らかに動揺し、あいまいにうなずきました。
「え、ええ。令子は、あなたが、私にとってとても大切な人になると教えてくれたんです。」
やや暗い蛍光灯の下だったが、もう一度よく見ると、律子は化粧がはがれた顔も、確かに美人でした。
やはり、『美人で化粧の上手な奥さま』とは、自分の姉のことで、令子は最後に縁結びをしていったのか。そう確信した勇は、単刀直入に切り出しました。
「令子さんは、もっと具体的に言いませんでしたか。」
「ええ、でも、私には…。」
律子、妹の預言を話すべきか、躊躇しました。
彼女は、何と今日の昼、妹から、こう言われていたのです。
「お姉ちゃん、病院に片岡勇先生って独身でかっこいいお医者様がいるのよ。お姉ちゃんの未来の旦那様だから、よく覚えておいてね。」
そんないい人なら絶対恋人がいるはずだし、高卒で働かざるを得なくなった自分と、しかも年齢を偽ってホステスをしているような女と、絶対に結ばれるはずはないと思って、律子はむきになって言い返しました。
「そんなかっこいいお医者さんなら、絶対いい人いるでしょ。」
すると、令子は、悲しそうな顔でこう答えたのです。
「ううん、本当よ。私が死んだら、絶対に思い出してね。片岡先生よ。先生が助けてくれるわ。お姉ちゃんを、一人ぼっちにはさせないから。」
本当になったら、怖いし、悲しいし、寂しいから、ついそんな預言ならして欲しくないときつくたしなめてしまった律子でしたが、令子は、自分の死と姉が勇と巡り会うことを予知していたのです。
勇は、由紀子に関する神坂俊一郎の預言曲集のことで、予知は実在すると考えるようになっていましたから、思い切って尋ねました。
「律子さん。あなたとは浅からぬ因縁がありそうです。令子さんは、私の妻になる人は、美人で化粧がうまいと言いましたし、この手で結んであげるとも言いました。」
勇の視線の先には、令子の手に重ねられた律子の手がありました。
「そんなことを。」
「ええ。つい、3時間前に、彼女は私を呼び止め、手をつないでそう言ったのです。私は、あなたがこの部屋に入って来た時にも令子さんの手を握っていた。今、あなたがその手を握っています。そして、あなたは確かに美人だ。綺麗に化粧している。偶然にしては、出来過ぎです。」
律子は、ふられるのを覚悟で、自分から告白することにしました。
「私が化粧しているのは、生活のために、年齢を偽ってナイトクラブのホステスのお仕事をしているからなんです。二人で何とか生きて行くには、こうするしかなかったんです。17歳からやりましたから、年齢をごまかすために、化粧をうまくするしかなかったんです。」
律子が、表情がわかりにくいぐらい厚めの化粧をしている理由について、勇は、妙に納得できました。
彼は、高校生の時に両親が死んでから節約癖がついていたので、酒も飲まず、ナイトクラブやスナックにも行ったことがなかったこともあってか、ホステスという職業について余り理解していませんでしたし、蔑視する考えもありませんでした。
「私は、あなたの職業を蔑視するつもりはありませんよ。」
少し嬉しいことを言われたので、律子も思い切って話しました。
「令子は、今日の昼、あなたが私の夫になる人だと言いました。でも、私は高卒だし、ホステスだし、そんな女じゃないことはわかってます。気にしないでください。」
それでも、律子は一つだけ言いたかったので、付け加えました。
「でも、これだけは信じてください。私は、心も体も売ったことはありません。」
彼女の必死の形相にたじたじとなった勇でしたが、律子には、陰の由紀子とは違った魅力を感じていました。
陰の由紀子には、神坂俊一郎が吹き込んだという知識とともに、一種の気品がありましたが、律子には、化粧に飾られた表情であっても、独特の優しさと華やかさがあったのです。
「信じますよ。そして、今夜令子さんに話しかけられたのも一つの縁です。美人でお化粧のうまい妻とはあなたのことだと思います。それが気になっていたのでつい突っ込んでしまったのです。気に障ったなら許してください。」
勇に頭を下げられると、律子は何を考えていいのかパニックに陥りました。
それでなくとも、唯一の家族であった令子を失い、他のことを考えている余裕はありませんでしたから、思わず彼に抱きついてお願いしていました。
「一つだけお願いです。少しの間だけ、あなたの胸で泣かせてください。」
勇が抱きしめると、律子のやや細身の体は痛々しく、手を離せばその場に崩れてしまいそうだったのです。
律子は、彼の胸で声を上げて泣きじゃくりました。
そんな二人を見てしまったので、その時後から部屋に入って来た実は、しばらく部屋の入り口で躊躇していました。
彼の胸で一しきり泣いた後、律子は、令子の手を握ってまた泣きました。彼女の安らかな死に顔を見ると、悲しみがまた込み上げてきたのです。
その間勇は、ずっと律子の手を握っていました。
しばらくしてようやく泣き止んだ律子でしたが、途方に暮れました。
唯一の生きがいだった妹令子を失って、何をしてよいのか、全くわからなくなってしまったのです。
勇は、律子が泣き止んだタイミングを見て、まず実に、令子が死に至った経過の説明をさせました。
実としても、心臓神経症はどんな検査をしても発作の時以外は全く異常が発見されないことが多いので、何とも説明しにくかったのですが、とにかく勇と話した時点では元気だったものが、約2時間後に、彼から頼まれた当直の佐々木医師が見回った時には既に心停止していて、蘇生を試みたができなかったことを正直に話しました。
律子は、かなり落ち着いてきていましたので、涙を拭って答えました。
「先生方の責任ではありませんわ。神様が、私のために妹の命を2年間だけ延ばしてくれたのです。あの事故の時、処理にあたった人々が全員、妹が無傷で助かったのは奇跡以外のなにものでもないと言いました。令子が横たわっていた場所だけ、きれいに人間の形に空間が残されていたのですから。そして、令子本人が、私のために神様から2年間だけ命をもらったと言いました。今日その2年がたって、令子は、神様に、両親の所に、召されたのです。」
勇も、付け加えました。
「令子さんは、今夜、私にも神様が呼んでくださっていると言いました。これも運命かもしれません。」
勇まで変なことを言い出したので、実はぎょっとしていましたが、勇は彼に確認しました。
「令子さんの預言は、絶対当たると言っていたよな。」
「ああ。律子さんはご存知だが、外れることがなかったのだ。だから、彼女を外に出せなくなった面もあった。彼女は正直過ぎた。何を言ってよいか、何を言ったらまずいか、それを考えずに、閃いた預言のような啓示を、そのまま話してしまった。彼女の預言は、された者に取っては死刑の宣告のような危険なものになってしまったのだ。当たるも八卦当たらぬも八卦程度の占いなら許されるだろうが、彼女の預言の場合、全てが的中してしまったのだから。そして、彼女に取っても預言は安全なものではなかった。律子さんには説明しましたよね。」
律子はうなずいた。
「ええ。その重さによっては、令子自身の命の危険さえ伴いかねないと。実際、一度は本当に危なかった。」
勇も、実が言わんとしたことを理解しましたが、彼の意図は別のことにあったのです。
「わかったが、もう一度聞く。本当に外れたことは無いんだな。」
「ああ。そのとおりだ。」
勇は、二人に正直に話すことにした。
「では、律子さんが、私の妻だ。」
「何、そんなことを言ったのか。」
驚く実に、勇は会話の内容を説明しました。
律子も、彼と本当に結ばれるかもしれないと思えて来ましたから、妹が自分に言ったことを正直に話しました。
すると、実は、至極真面目な顔で勇に言いました。
「わかった。それは良かった。勇も本当に年貢の納め時だ。確かに美人で化粧の上手な奥さんになってくれるだろう。」
勇は、由紀子と俊一郎のことと言い、令子のことと言い、運命を信じざるを得ない気分になっていましたし、律子はお化粧をしなくても美人でしたし、性格も良さそうですから、彼女を妻にするのも運命と思えてきたのです。
しかし律子は、初対面と言ってもよい関係の勇に、とてもそこまでは頼めないと遠慮していました。
「私に取っては、願ってもないお話ですが、片岡先生には迷惑なお話だと思います。高卒でホステスをしている私とはとても釣り合いませんし、先生のご両親がお許しになりませんわ。」
勇は、さらっと答えました。
「あっ、私にも、もう両親はいないから、気兼ねはないんですよ。」
勇の両親は、彼が高校生の時に相次いで亡くなっていたのですが、父も医者でそこそこの財産はありましたから、大学を出るまで、何とかその財産で食いつないだのです。
「えっ、すみません。失礼しました。」
律子は、彼に自分と同じ悲しい思い出を思い起こさせたかと慌てて謝りましたが、勇は、そんなことは全く気にせず、微笑んで聞き返しました。
「それとも、私では気に入りませんか。」
律子は、彼の問いかけに混乱し、つい本音を返しました。
「いいえ、もったいないお話です。お願いします。この先一人で生きて行く自信がありませんから、愛人でもかまいません。」
勇は、彼女もどうやら自分を気に入ってくれたように思えましたから、自分からプロポーズすることにしました。
「じゃあ、こうしましょう。私としては、愛人では困りますから、結婚を前提として付き合ってください。令子さんの預言だと、あなたを大切にしたら、私も幸せになれるそうですから。彼女の最後の頼み、私としてもかなえてあげたいのです。」
律子に取って、この勇のプロポーズは、天にも昇らんばかり嬉しいものだったのですが、妹が、自分の命と引き換えにして与えてくれたような気がするものでもありましたから、素直には喜べませんでした。
でも、応じないのはもっと妹に済まない気がしましたから、迷いながらも受け入れました。
「わかりました。私からもお願いします。どうか、先生の奥さんにしてください。」
勇は、深くうなずくと、令子の手の上に重ねられていた律子の手に更に自分の手を重ねました。
「令子さんの預言どおり、彼女は、その手で私とあなたを結んでくれたのです。」
律子は、妹の気持ちを思うと感極まって、重ねられた勇の手の甲に涙を落としました。
「ありがとう令子。私、片岡先生のいい奥さんになれるように頑張るわ。見守っていてね。」
実は、お邪魔虫でしかなさそうに思えましたので、席を外し、二人だけで令子のお通夜をさせることにしました。
最初は、勇を前にするとぎこちなかった律子でしたが、安心すると勇に心を開き、この2年間の胸のつかえを吐き出すように、身の上話をして彼に甘えたのです。
勇は、そんな律子を、陰の由紀子に似ていると思いました。
律子は、昼は、両親が亡くなった高校2年の2月で停止した大人になりきれない少女を、夜は、自分の心を顔とともに化粧で隠し、男たちの心を癒す大人の女を演じてきたのです。
陰と陽の由紀子を、彼女は昼と夜の律子として演じていたようなものだったのです。
律子は、それを一つの人格の中で行わざるを得なかった分、心的なストレスも大きかったに違いないと勇は思いました。
まして、世間からは狂人と思われている、預言者の妹を抱えていたのですから。
由紀子は、律子のようにお化粧の上手な姉美紀とは正反対に、すっぴんを続けていました。
女子大生になったのだから、お化粧はエチケットよと美紀は薦めたのですが、まともに付き合った最初の相手の俊一郎が、化粧の通じない変な相手(彼は、どんなに化けても、一目で見抜いたのです。)でしたし、彼と別れた後も、本当に心で通じ合った彼にさえ心を隠した後ろめたさから、化粧を拒否してすっぴんを続けていました。
律子は、両親を失った悲しみの心を、大人になりきれない少女の心を、そして大人の女を演じる後ろめたさを隠したくて、化粧をしたのです。
勇は、どちらも女心を表していて、興味深いと思いました。
律子が不安で彼に寄り添いながらも、令子の話題は努めて避けて、面白いお客さんの話ばかりをするので、勇は、いとおしくなって彼女を抱き寄せました。
一瞬びくっと体を震わせた律子は、か細い声で頼みました。
「お願いです。あなたに抱かれる覚悟はできていますが、令子の前ではやめてください。」
勇は、彼女の言葉に思わず吹き出してしまいました。
「誤解しないでくれ。そんなつもりじゃないよ。律子さん、君は不安で悲しみを隠すためもあって、面白い話ばかりしようとしている。だから、無理をしないで、気を楽にして、黙っていてくれていいんだよ、と言おうと思ったんだ。それに、私はお客じゃない。未来の夫なんだから、遠慮せずに甘えてくれればいいんだ。」
律子は、自分の誤解が恥ずかしくて真っ赤になった。
「ごめんなさい。」
「いや、確かに君は魅力的だ。化粧しなくても色は日本人離れした白さだし、大変な美人だし、スタイルも少々痩せているのが気になるが、とてもいいし。ただ、私としても、たとえ令子さんに頼まれたとしても、今、彼女の前ではとてもそんな気にはならない。医師としてのプライドもある。立場を悪用したような関係も、やはりプライドが許さない。律子さん、あなたを抱くとすれば、令子さんのことが全て片付いて、あなたが快く承諾してくれた時だと思っている。」
律子は、更に恥ずかしくなって彼に謝りました。
「そうでした。あなたは先生ですもの、失礼しました。本当にごめんなさい。」
勇は、律子が少し恥じらいながら見せた笑顔が、本当に綺麗で魅力的だと思いました。
自分は、願っても得られない大変な掘り出し物の妻を手に入れようとしていると言う気もしてきました。
そこで勇は、具体的に結婚するにあたって必要と思われることを聞いていくことにしました。
まず、律子がどこに住んでいるのか聞きました。
彼女の答えは、驚いたことに、亡き両親が建てたばかりだった廿日市の一戸建ての家に、この2年間一人で住んでいたのです。
「処分すれば、ホステスなどしないでも済んだだろうに。」
勇は、自分は両親が残してくれた財産を使って大学まで出たので、何故彼女が家にこだわったのか、わからなかったのです。
律子は、涙ながらに彼に話しました。
「私、令子のために、両親の思い出のこもった家を、絶対手放したくなかったんです。幸い、生命保険でローンは全額まかなえましたし、十分な貯蓄にもなりました。しかし、そのお金は両親が命と引換えに残してくれたものですから、手を付けたくなかったのです。自分の食費と、家の維持費と税金と、妹の入院費の一部負担を、何とかすればよかったのです。それで、令子が引き合わせてくれたナイトクラブのママに無理を言って雇ってもらったのです。」
それなら、妹亡き後、律子には困ることはないだろうに、とも思えましたが、自分と接点ができた以上、突き放す気にもなれませんでした。
それに、考えてみると、それだけの資産を持っていて、将来扶養する義務のある親族もいない彼女と結婚できることは、とてもよい条件でもあることに気付きました。
「それなら、父も医者だったが、その遺産をはたいて大学を出た私よりも、君の方が資産家だ。貧乏医者の妻でいいのかい。」
すると、律子は彼に抱きついて甘えました。
「私、心も体も売りたくなかったんです。お客さんからは何度も愛人にならないかと誘われましたし、その中にはマンションを買ってやると言うお金持ちの人まで居ました。でも、令子に、いや亡き両親に顔向けできないような人生は、送りたくなかったんです。それに、私の方が資産を持っているようなら、高卒でホステスをやっていた過去を気兼ねせずに済みます。」
なるほど、それも言えるなと思ったので、勇は交換条件を出しました。
「では、あなたもそれだけの思い入れがある家でしょうから、結婚したら、私がその家に移りましょう。それでいいですか。」
そうしてくれると、彼女としても有難かった。
「ええ。お願いします。今の家は、絶対手放したくありませんから。」
「それから、もう一つ条件があります。」
勇が真面目な顔をしたので、律子は少し不安になりました。
「何でしょうか。」
「仕事を辞めて、専業主婦になってください。」
頭を下げて頼んだ勇でしたが、専業主婦は律子の夢でしたから、喜んで応じました。
「はい。私、そうなるのが夢だったんです。でも、ちゃんと養ってくださいね。」
令子亡き今、たとえ彼と結婚しなくても、律子が比較的高給のホステスの仕事を続けなくてはならない理由はもうありませんでした。
「当然だ。妻の生活の面倒ぐらい見れなくてどうする。」
この点は、彼も九州男児であり、妻には絶対働かせたくないと思っていたのです。
律子は、勇にもう一つお願いをしました。
「私からのもう一つのお願いですが、令子のお葬式を無しで済ますことを許して欲しいのです。」
勇は、個人的には、葬式はばかばかしいと思っていましたし、お互いほとんど親族が居ない同士なのでうから、彼女の意見には賛成でしたが、何か深い理由がありそうにも思えましたから、確かめました。
「私はそれでいいと思うよ。あなたも私も、家族がいないのだし、必要もないだろうから。」
「それもありますが、それ以上に、私は、あの子をもう中傷の対象にしたくないのです。あの子は、この2年間に危険な預言をし過ぎました。残念なことですが、そんなあの子を逆恨みしている人も少なくないんです。」
主治医の実が、そのために彼女を外には出せないと判断したと聞いてはいましたが、具体的な内容については、勇は、一切他人の患者には立ち入らない主義だったので、今まで聞いたことがなかったのです。
「一体どんな預言をしたのです。」
律子は、少し顔を曇らせてから話し始めた。
「あの子は、事故当時小学校4年生でした。それで、一応クラスの友達がみんなお見舞いに来てくれたんですが、もう普通の小学生ではなくなっていた令子には、同年輩の子供たちと相容れることは、もうできなかったのです。」
「何をしたんだ。」
「令子は、未来とともに人の心を覗くこともできるようになっていました。だから、嫌々来た子には、無理して来なくていいとはっきり断ったのです。すると、そんな子供たちは、自分の本心は棚の上に上げて、入院しているって言うから折角来てやったのに、生意気だ、と悪口をいいまくったんです。」
なるほど、それもありそうなことだなと勇は理解した。
「それから、令子は、危ない目に遭う友人には、そのことをはっきり注意したんです。でも、あの子が災難を避けて欲しいと思って言った言葉も、普通の人間に取っては、残酷な預言にしかならなかったんです。いくら注意しても、そのまま全て実現してしまうんですから。」
「そのとおりだな。」
勇も、その危険性は理解できた。
と同時に、同じく預言者との異名を取った神坂俊一郎が、一度後輩を非常に詳しく占って、交際したら危険な相手まで指摘したのに、そのまま全て実現してしまったため、それに懲りて、安易に人を占うのは辞め、やってもそのままずばりとは言わなくなった、と由紀子が話してくれたことを思い出しました。
俊一郎は、いろいろな経験をしていた分、賢明だったのです。
律子は、話を続けました。
「しかも、不幸なことに、令子は、一番仲が良かった友人が、死ぬことを予見してしまったんです。そこで令子は、思わずその子に言ってしまったんです。『死んじゃうから、帰っちゃだめ。』って。その言葉を、本人や周囲の人々が何と思うか、どう受け取ればよいのか、帰るなと言われてもそうはいかないことまでは、考えられなかったんですね。流石に、大塚先生がまずいと思って、その子に十分注意するように言ってタクシーを手配し、母親にもその旨連絡して迎えに出てもらったのですが、何と家の前でタクシーから降りたところを、一方通行を猛スピードで逆走してきたトラックにはねられ、母親の腕の中で「令子ちゃんは悪くない。」と言って死んでしまったんです。」
「それはまた、何と言うか。」
本当に、悲しい預言だったのです。
「それ以来、誰も訪ねて来なくなりました。私は、令子の代わりにその子のお葬式に行ったのですが、彼女の両親も、令子のせいではないことは理解してくれたのですが、悲しみの持って行き場がなくて、令子を怨むしかなかったのです。他にも、令子を悪く思っている人は多いと思います。だから、お葬式にそんな人には来てもらいたくないのです。あの子は、誰も傷つけたくなかったんです。そんな令子がざまあ見ろと思われることに、私はとても耐えられません。」
勇も、律子の気持ちはよくわかりました。
「わかった。私も、それがいいと思うよ。」
「令子は、その後は他人とほとんど口をきかなくなってしまいました。話したのは、私の他は、大塚先生と西村由紀子さんでしたね、その二人だけだったと思いますわ。」
何故、由紀子とは口をきいたのだろう、勇は疑問に思いました。
「その西村由紀子さんの主治医が、私だったのです。でも、何故彼女とは話したんだろう。」
すると、律子がその疑問に答えました。
1年前に令子のとなりの病室に、笠原麗香と言う名の26歳の女性の患者が入院してきた時、彼女は、姉の律子に聞いたのです。
「姉さん。3人死ぬのを黙って見ているのと、一人殺すのと、どっちがいいかしら。」
律子は、迷いながら答えました。
「どっちもよくないけど、今の日本じゃ殺した方が罪に問われるわね。」
すると、令子は悲しそうに微笑んで、怖い預言をしました。
「そうね。可哀想だけど、麗香さんにも赤ちゃんにも、そのおばあちゃんにも死んでもらうしかないのね。神様は残酷だわ。私に2年間の命をくれたと同時に、人の心や運命を見通す力をくれた。でも、それを変える力はくれなかったの。だから、どうしようもないの。」
流石に、怖くなって律子は実に相談し、実も、麗香の主治医御神本芳郎には、彼女を絶対に子供と義母に会わせないように頼みました。
笠原麗香は、実はロシアンクォーターだった令子や律子と違って日本的な顔立ちでしたが、はっとするほどの美人で、玉の輿に乗るような結婚をしたのです。
ところが、夫の母親が古い考えの持ち主で、事ある毎に干渉し、夫もそれを黙認したため、子供が生まれた後、育児ノイローゼになって、子供と無理心中をはかったのでした。
幸い未遂に終わったものの、錯乱状態に陥って入院させられたのでした。
病院ではおとなしく、どう見ても異常ではなかったのですが、彼女の主治医の芳郎によると、ここは、麗香にとっては、義母の干渉が及ばない聖域だから安心しているのだ、との説明でした。
しかも、彼女は、自分を一人の人間として扱い、やさしくしてくれた芳郎に恋をしたのです。
芳郎も、麗香は自分といる限り正常だし、いっそ自分が引き取るからと話し、彼女の夫とその両親の内諾を得ました。
そして、子供は夫の両親が引き取り、彼女には一生困らない慰謝料を払うことで話しが着いたにもかかわらず、令子の預言を知らなかった義母が、最後に余計なことをしたのでした。
芳郎は、令子の預言の恐しさを知っていたので、実の忠告を厳格に守って麗香を義母と子供には絶対会わせないようにしていたのですが、義母が嫁への嫌がらせに、子供を連れて面会に来たのです。
しかも、面会に来たのが、芳郎も実も休みの日曜日だったのです。
その時律子は、令子と病室にいたのですが、令子はもう間に合わないと見ると、姉に毛布を被せて、しばらく何も見ず、何も聞かないようにと言い付けました。
だから、律子自身は何が起きたのかわからなかったのですが、令子が後で語ったところによると、麗香の義母の道代は、まだ1歳になったばかりの孫の一穂を麗香に見せて、こう言ったのです。
「お医者さんに色目を使うような売女の子供でも、私がちゃんと育ててあげるから、感謝しなさい。」
すると麗香は、ぞっとするような笑みを浮かべながら両手を差し出し、「では、皆で死にましょう。」と言いました。
そして、蛇ににらまれた蛙のように動けなくなった義母から息子の一穂を受け取ると、頭を床に叩き付けて殺し、死体を抱えて病室から出て行ったのです。
そして、義母や周りの人の悲鳴で騒然となる中、麗香は死体を抱えて逃げ回り、取り押さえられたのが、病院の玄関だったのです。
折悪しく、姉の美紀とともに通院に訪れた由紀子の前で、麗香は息子の死体の指を食いちぎり、由紀子は、それを見て発狂したのでした。
麗香は、取り押さえられた直後に、極度の興奮から心不全で死に、律子が、騒ぎが遠のいたようなのでしばらくしてから部屋から出てみると、道代は、麗香の病室で椅子に座ったまま死んでいたのです。
3人死ぬという令子の預言は、見事に的中してしまったのです。
しかし、その間に令子は、発狂して走って行った由紀子の後を追いかけ、病院の前のマンションの屋上から飛び降りようとした彼女を引き戻して助けたのでした。
勇は、律子の話を聞いて、令子と由紀子の関係とともに、神坂俊一郎の預言とのつながりも理解できるようになりました。
「そうか、そんな縁だったのか。私は、由紀子さんのルートから君と巡り会ったようなものなのだが、こちらにも、令子さんに匹敵する語り部がいたよ。」
勇は、神坂俊一郎の預言曲集のことをざっと話して聞かせました。
「その人は、どうなったのですか。」
律子、俊一郎に興味を持ったので聞きました。
「由紀子さんと別れた後、いい人と巡り会って、1年前に結婚した。」
「それは良かったですわ。霊感が鋭すぎる人は、なかなか幸せにはなれないものなのですから。」
二宮姉妹は、二人とも霊感人間だと聞いていたので、勇は確かめました。
「君も、令子さんほどではないが、霊感が鋭いと聞いたことがあった。本当はどうなんだい。」
実は、令子が神がかりになる前までは、律子の方がずっと霊感が鋭く、自分がいずれは一人になってしまうことを予知し、みんなが死んだら自分も自殺すると騒いだことがあったのです。
しかし、同様に霊感の鋭かった両親に、二宮家は、代々早世だが、一人だけになったら長生きする家系だとも伝えられているから、もしもそうなったら、一人で生き抜くのが運命だと諭されていたのです。
ですから、律子は、一人では無く、勇という伴侶を得て生き抜く決心をしたと彼に伝えました。
その夜は、流石に律子を処置室に泊める訳にはいきませんから、職員のシャワー室を使わせた後由紀子の病室で律子を眠らせ、勇は、宿直室で夜を明かしました3.。
そして、二人は本格的に交際を始めることになりました。
令子の犠牲という運命がありましたが、由紀子のその後は、概ね神坂俊一郎の預言曲集どおりに進みました。
嬉しい誤算としては、令子の預言通り、勇と律子は令子の四十九日が過ぎた後入籍し、式は挙げなかったものの、由紀子の祖父母の衣装を借りて、西村家の立ち会いの下、結婚式の真似事をさせてもらうこともできました。
由紀子も、三三九度の神酒を注ぐ巫女さん役で参加しました。
この時に、二人は由紀子から、俊一郎の名言集を聞かせてもらうことができました。
普通の結婚式なら、来賓祝辞を飾る名言の数々を、神坂俊一郎の言葉を借りて由紀子から聞かせてもらえることになったのです。
律子は、俊一郎の預言曲集の6月の花嫁では無く、12月の花嫁となりましたが、彼女についても俊一郎の預言曲集が由紀子よりもむしろ当てはまる人生を送ってきており、勇についても一部が符合することになったのです。
勇は、俊一郎の預言曲集が、由紀子だけでなく律子とも符合していたことに気付きましたが、律子と結ばれた後、悪魔の絵本の歌の、更にもう一つの隠された意味に気付きました。
それは、令子の死、律子との出会いによって、自分の陰の由紀子に対する思いが完全に消滅したことでした。
つまり、自分の恋心も、赤く塗りつぶされてしまったということだったのです。
また、由紀子も、レディーの由紀子に変身した後は、神坂俊一郎を忘れ去ったのです。
自分でも不思議がっていましたが、彼は、純粋に自分のことを思ってくれたものの、それは恋でもなんでもなかったと割り切れるようになったのですから、彼女も勇と同時に恋心を塗りつぶされたと考えることができました。
それらのことに気付いた勇は、悔しがりました。
恐るべし神坂俊一郎、自分や律子までもが、彼の掌の上で踊っていたようなものだと思ったからです。
しかし、悔しがった勇も、もう一方の当事者の由紀子も、知るよしもないことなのですが、実は、俊一郎自身にも悪魔の絵本の歌の歌詞は当てはまっていたのです。
彼自身が、心の底に隠していた、由紀子と、そして幸子に関する思いもまた、自らの結婚式とともに見事に塗りつぶされていたのです。
このことは、俊一郎自身も気づかないで居たのですから、まあ、勇が悔しがることもなかったのだと思われます。
西村由紀子は、大学3年時に結局半年間休学することになったため、1年留年することになりました。
留年しないこともできたのですが、彼女自身が希望し、ちゃんと勉強する道を選んだのでした。
幸い、2月には片岡医師から完治のお墨付きを得て4月に復学し、3年生からやり直しになったのですが、自分で作る気も無かったためもありますが、高望みはしないと言いながらも、4年生になった友人達が男性を紹介しようとすると、格好良くて父みたいな人とか、教養豊かな人とか、紳士的な人とか一杯注文を付けたため、最初は親身になって捜してくれた友人達も呆れてさじを投げ、結局1年生の時の神坂俊一郎の後、大学生の間、恋人はできずに終わりました。
卒業後、由紀子は、両親や姉美紀夫婦、親友となった片岡律子、彼女の夫で精神科の主治医だった片岡勇、律子が世話になっていた高級ナイトクラブ『華』の田中敦子ママと言った気の置けない人たちのいる福岡に戻り、父の伝である中堅商社に就職することになりました。
出社初日、入社式が終わり、各部署に紹介された後、配属されることになった総務課に戻ると、直属の上司とも言える、1年先輩の男性が首を傾げながら彼女を見つめていました。
片岡医師とのやりとりや、田中敦子ママの指導で、会話も男性のあしらい方も上達していた由紀子は、その男性のところにさっと近づくと、嫌味のないように聞きました。
「今日付けで総務課に配属になりました、新人の西村由紀子でございます。何か至らない点がございましたでしょうか。」
すると、相手の男性は、感心したような顔で答えた。
「失礼。やはりあの西村さんだったんですね。僕のことを覚えていますか。中村です。」
由紀子は、直ぐには思い出せませんでした。
「失礼ですが、どちらの中村さんでしょう。」
「中学、高校と同級生だった中村雄介です。」
その一言で、由紀子は思い出しました。
「あっ、あの中村君だったんですね。思い出せなくて失礼しました。私は大学の時に病気で休学したため、1年遅れになりました。お世話になりますので、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。」
実は彼、中学の時に由紀子に一目ぼれして交際を申し込んだところ、まだ中学生だから早過ぎますと断られ、高校生になってもういいかと思ってまた申し込んだところ、まだ男女交際のことは考えていませんとにべも無く断られ、二度にわたって失恋した経験を持っていたのです。
それでも雄介は、美しく成長した由紀子を目の当たりにすると、三度目に挑戦したくなって、単刀直入に切り出しました。
「これも凄い縁だから、中学、高校と同じ申し込みを、もう一度してもいいかな。」
由紀子は、雄介の言葉の意味を察し、彼を見つめ直しました。
高校の時はひょろひょろしていて暗い感じの印象しかなかった彼でしたが、今や父に似た感じの細身ながらもいい男になっており、彼女が恋人にしたい男の条件、父に似ていて紳士的の条件はクリアーできそうでした。
「わかりました。まじめなお付き合いなら、お受けします。」
雄介は、由紀子の色よい返事にやったーとばかり大喜びしたのですが、隣で聞くともなく聞いて総務課長の島崎勝彦は、慌てて二人を別室に呼びました。
事情を聞くと、二人は昔の同級生であり、中学高校の時のやりとりを聞いて、勝彦は笑い出しました。
「それは面白い縁だね。ただ、社内恋愛については、いまだにうるさい上司も多い。私はプライベートに立ち入る気は無いが、中村君は、西村さんの直属の上司として彼女を指導するところから始めてくれ。」
雄介にそう話した後、彼は由紀子に向き直りました。
「西村さん、あなたは病気で1年休学して卒業も1年遅れているから、あくまで中村君は先輩だ。その点で公私混同のないよう、注意してもらいたい。まあ、先程の応対はなかなか見事だったから、心配は無さそうだが。」
「はい。十分気を付けます。」
由紀子が真面目に答えると、勝彦は、今度は笑顔で付け加えました。
「さて、それは仕事の話で、西村君には、本当に恋人がいないのかい。」
由紀子、俊一郎のことを、正直に話すことにしました。
「ええ。大学1年生の時に優しくしてくれた男性はいたんですけど、その彼と別れた後は、ずっといないままです。」
雄介、優しくしてくれた男性がいた話しには内心どきどきしていたが、その後恋人いないままだと言うので、少し安心しました。
勝彦は、雄介の様子を横目で見ながら、由紀子に薦めました。
「それでは、私からも中村君を推薦しておこう。彼は、このとおりなかなかのいい男なのに、何故か恋人がいない。昨年入社してきてから、皆面白がって引っ付けようとしたのだが、社内の女性に誘われても全く応じなかったし、中にはしつこく迫ったり、彼が相手にしないと陰口叩いたりした女子社員もいたから、それで嫌気がさしたのやら、本当に恋人がいないままなのだ。私は、本人乗り気でなかったから、それでもいいと思っていたが、内心少々あの気があるのかと、密かに心配してもいたのだ。」
あの気の意味がわかったので、雄介は苦笑し、由紀子は小さく笑いました。
「それが、今日は自分から交際を申し込んだので、ほっとした。女嫌いじゃなかったんだと。」
今度は、二人とも笑い出しました。
「これは、少なくとも私が知る限りでは初めてのことだ。だから、君が言うように、真面目なお付き合いで付き合ってやって欲しい。若い割にはしっかりしているし、落ち着いている方だから。」
恐縮する雄介に対し、由紀子は二人に微笑みかけました。
「わかりました、公私ともども、よろしくお願いします。」
仕事をさせてみると、由紀子は有能でした。
この点では、大学での勉強よりも、大学1年の時の恋人の神坂俊一郎と入院した時の主治医だった片岡勇医師から得た知識、田中敦子ママと元売れっ子ホステスの片岡律子から教えられた接客法の方が役立ったので、5年もかけて卒業した大学の勉強に果たしてどれだけの価値があったのか、本人としては少し複雑な心境でした。
その週の金曜日に、職場の一同と簡単な歓迎会があったのですが、その席上、交際を申し込んだばかりの雄介が、由紀子のことを心配しまくっているのが丸わかりでした。
逆に、由紀子の方が、ナンパしようとする男子社員から声をかけられる度に、『人並みに相手はいますから。』と笑顔でうまくあしらっていたので、勝彦は感心していました。
宴会が終わると、島崎は気を利かせて雄介に由紀子を送らせたので、彼は喜んで送っていき、西村家の前で、明後日日曜日のデートを申し込みました。
由紀子は、二人だけのデートは、神坂俊一郎以来だから久々だなあと、何だか感慨深くなって考え込んでしまったのですが、少し心配しながら返事を待っている雄介に気付くと、笑顔で快諾しました。
すると、彼がまた子供のように喜んだのですが、俊一郎は、こんなに素直に喜びを表現してくれることがなかったなあと思うと、由紀子も何だか嬉しくなりました。
家の前で雄介と別れて中に入ると、何と姉の美紀が出迎えてくれました。
彼女、就職した妹のことが心配で、福岡の反対側の夫の実家の山本家に夫を置いて、様子を見に来たのです。
由紀子は、お腹が大きくなっている姉を、開口一番からかいました。
「あら、お姉ちゃん随分太ったわね。」
苦笑しながらも美紀が職場での由紀子の様子を根掘り葉掘り聞き出そうとしたので、由紀子は着替えてから母の香世子と美紀に、今日までの出来事を報告しました。
仕事は、意外に面白かったとの感想だったのですが、由紀子、雄介のことは最後にぼそっと付け加えたのです。
「あっ、それから恋人もできちゃった。」
これには、お茶を入れようとしていた香世子が湯呑をひっくり返し、美紀も驚いて聞き返しました。
「今の、本当なの、由紀子。」
「今、なんて言ったの。」
二人の慌てた様子に、由紀子はおかしくなって笑い出しました。
「本当よ。でも、知ってる人なのよ。姉さんにも話したことあったでしょ。中学、高校と一緒だった中村君なの。何と、彼も家族ごと福岡に越してきてて、総務課の先輩になったのよ。」
美紀は、大学に入りたての頃、妹から聞いた覚えがありました。
「中村君って、あの6年間あんたのことを思い続けてたって男じゃなかったっけ。」
「そうなの。奇縁ね。」
「あんた、暗そうで嫌やって気味悪がってたやないの。それでええの。」
高校を卒業する時にも、由紀子のことをずっと思っていたと告白されていましたから、彼女、気味が悪いと美紀にこぼしたことがあったのです。
ですから美紀は、果たしてそんな相手で由美子の恋人が務まるのか心配になりました。
しかも、前任者が神坂俊一郎なのですから、余計に。
実は由美子、神坂俊一郎にも雄介の話をしたことがあったのですが、彼は雄介に対し、深く同情したのです。
でも、当時の由紀子は、何故俊一郎が雄介に同情的だったのかも理解できなかったほど男女関係には疎く、自分が予想していたのとは全く違う反応をした俊一郎に散々絡んで困らせたのでした。
「うん。5年ぶりに会って見ると、すっかりいい男になってて、三度目の正直は如何って申し込んでくれたの。課長さんも、彼ならいい男だから推薦するって言ってくれたし、真面目なお付き合いからお願いしますって答えたの。」
そんな事情だったのか、と少し安心した二人でしたが、美紀はふと思い出して聞きました。
「由紀子、その中村君、お父さんタイプ、神坂さんタイプ、それとも片岡先生タイプ。」
由紀子は、迷わず答えました。
「お父さんタイプよ。」
美紀は、これでようやく、俊一郎も認めていたように由紀子はよい相手に巡り合ったのだろうと安心しました。
「ようやく好みのタイプに巡り合ったのね。うまく行くようにしなさい。」
「そうね。やっとうまく行くのかも。」
話が見えないでいる香世子を尻目に、美紀は、由紀子の耳元でそっと囁きました。
「由紀子は処女よ。いいわね。」
姉の言葉に、由紀子は神妙にうなずきました。
彼女、神坂俊一郎と付き合っていた大学1年の時に、彼とのデートで機嫌を損ねて逃げ出し、その帰りの夜道で暴漢に襲われた経験があったのです。
幸い、強姦されるまでには至らなかったのですが、心に大きな痛手を負いました。
神坂俊一郎は、そのことに気が付いていたのですが、全く気にせずに以前と同じように接してくれましたし、由紀子も一旦は何とか割り切って彼に付いて行こうとしたのです。
でも、俊一郎は全てを見通してしまうようなところがありましたから、由紀子は彼に見つめられる度に忌まわしい記憶を覗かれているような気分になり、何だか自分の人格までもが失われてしまうような気がするようになってしまったのです。
その上、俊一郎の家庭に問題があったため、両親は、彼との交際に反対していました。
それで、由紀子は心身症になり、彼とデートしていると、途中の記憶が欠落することが何度も起きたのです。
それでも俊一郎は、由紀子を優しく見守ってくれていたのですが、由紀子自身が、彼にはとても頼ることができないと感じるようになって行ったのです。
そして、結局俊一郎とは彼の卒業を機に別れることになったのですが、その後も彼は気を使って、由紀子と手紙のやりとりを自分の結婚式の日取りが決まるまで続けたのでした。
3年生になった7月に俊一郎が10月に結婚するとの知らせを受け取り、今度こそお別れだなと完全に彼のことを諦めたつもりの由紀子だったのですが、その直後、京都に帰省していた彼が、四条通を婚約者の美奈子と仲良く腕を組んで歩いていたのを見かけてしまいました。
その時に、彼に話しかけるぐらいの寛容な気持ちがあればよかったのだと思われますが、思わず逃げ出した彼女は、その夜錯乱状態に陥り、福岡に連れ戻されて通院することになり、ある事件がきっかけとなって、入院するにまで至ってしまったのです。
精神科の主治医となった片岡勇は、診察で彼女が強姦されかけたことを知って、そもそも処女にこだわるのは意味の無いことだと教えました。
由紀子自身、自分はどうも処女のままのように思いましたし、処女はどうでもいいと吹っ切れたのですが、美紀は、男はなんだかんだ言いつつも処女にこだわるから、絶対処女で通すようにとアドバイスしたのでした。
その後深夜まで姉妹で話し合ってから二人仲良く布団を並べて眠ったのですが、香世子はそんな娘二人を微笑ましく思い、深夜に帰宅した父の良和も、二人の話しに少し首を突っ込んだ後、妻に確かめました。
「由紀子に、早くも恋人ができたって本当か。」
本人ではなく自分に確かめたので、香世子は笑ってしまいました。
「あなた、本人から聞いたんでしょ。」
「うむ。そうなんだが、前の彼の時ほど嬉しそうじゃなかったから、お前に確かめて見たんだ。」
香世子も、夫に言われると同感でした。
由紀子の最初の恋人神坂俊一郎は、京大生であり、スポーツマンでもあり、その上に彼女のわがままに付き合うだけの度量と教養を備えていたからでしょう、彼女は彼を恋人にできた時、完全に舞い上がっていました。
ところが、今日は控え目に付け加えて報告したぐらい、落ち着いていたのです。
「もう、子供じみた夢の相手じゃなくなったのよ。現実の夫候補としての恋人になった分、落ち着いたのよ、きっと。」
良和は、不審に思いました。
「前の彼は、違ったのか。」
香世子は思わず吹き出してしまいましたが、本人そう思いつつも、恐らく本当に夫となる対象とは捉えることができていなかったんだろうと考えました。
「そうだったんでしょうし、むしろ前の彼の方がその点は理解してくれていて、由紀子を妻にしてもいいとまで言ってくれたのに、本人はよくわかってなかったのよ。5年前のあの子の頭の中にあったのは、お伽話の恋愛の世界だったのよ。厳しい現実は見ようとしていなかったのよ。でも、今度は現実を見据えて自分で判断したのよ。現実に自分の夫となる相手には丁度よい相手だと。今の由紀子は、むしろ美紀よりも大人だわ。きっとうまく行くと思うわ。」
良和も、姉の美紀は賢明だし、要領もよいし、世の中なめたような生き方を続けてきたが、妹の由紀子は、そんな姉の生き方に憧れながらも不器用さもあってうまく行かず、深く傷つきながら歩んで来たことを知っていました。
そして、美紀は自分が先に立ってさっさと歩いていってしまった感がありましたが、由紀子には一緒に歩いてくれる相手がいたのです。
神坂俊一郎は、父のように見守りながら、由紀子が一人の人間として母の香世子の影響から脱して独立するのを助け、初めて一緒に歩いてくれた相手だったと思われましたし、美紀も、そんな俊一郎との関係に、横ではっぱをかける存在でした。
片岡医師も、治療を通じて由紀子の人格形成に深くかかわってくれましたし、彼の妻となった律子は、病後の親友として支えてくれた存在でした。
陰から適切なアドバイスをくれた田中敦子ママもいましたし、由紀子は、周囲の人々に恵まれたのです。
そのことを思えば、1年の遠回りがあった分由紀子の方が強く、今後は安心できそうにさえ思われました。
「そうだな。1年の遠回りは決して無駄じゃなかった。却って美紀の将来の方が不安だな。」
香世子にも、夫が危惧するわけはよくわかりました。
「そうね。あの子は、表向きは孝一君を引っ張りまわしているわ。あなたが、彼を教育してあげたらどう。」
香世子も、最初は、母淑子の意を受けて良和を引っ張りまわしていたのですが、その内良和がうまく工夫して、淑子とぶつからないように操縦してくれるようになったのです。
「そうだな。彼は賢いが、まだ美紀の尻に敷かれている。美紀をうまく操縦できるようにならなくては、あの夫婦はその内空中分解しかねないな。」
「そうよ。しっかりしていても、美紀は女よ。子供が生まれたら余裕がなくなると思うわ。夫にわがままぶつけるようになったら、危ないわ。孝一君は、言っちゃ悪いけど、神坂君ほどの度量は無いと思うわ。まともに受けてやり返したら夫婦の危機になると思うわ。」
「そう。美紀も孝一君も、変なところがお前に似ているからな。」
「どんなところがよ。」
「どこかで自分の方が偉いと思っているところ。」
「えっ、そうかしら。そんな積りはないけど。」
香世子は、夫の言う意味が理解できませんでした。
「いや、それが権威の受け売りみたいなところで現れていたんだよ。お母さんも同じだな。」
「親子ですからね。」
確かに、淑子ともその点はよく似ていたのです。
「そのことで、以前由紀子が面白いことを言ったこと、覚えてないか。」
「えっ、何のことだったかしら。」
「京大の彼は、恐ろしく物知りで、何でもできたが、世の中絶対はないからと、由紀子には自分の意見を押し付けなかったと言うんだ。」
「ああ、そう言えばそんなこともあったわね。でも、由紀子それを優柔不断と勘違いしたのね。」
香世子は、夫が俊一郎に興味を示していたのが意外でした。
「へえ、あなたがそんな風に思っていたなんて意外ね。孝一君の時は黙っていたのに。」
美紀の結婚の時は、良和はほとんど何も言わなかったのだ。
「孝一君は、美紀の幼馴染だし、こちらもある程度気心知れていたからな。彼は、確かに優秀だが、苦労を知らないエリートだ。一般的な知恵は、むしろ美紀の方が上だ。しかし、由紀子の彼は違った。普通の男なら、手も出さずに由紀子にあれほど親切にはしてくれんよ。しかも、両親の離婚調停を切り盛りしていたと言うその時に。その上、妹さんが交通事故で入院して、その付き添いまでしていたと言うんだ。その合間に由紀子とデートしてくれていたというから、更に驚きだ。お前も、由紀子に一度聞いて見たらいい。」
「何を。」
「由紀子が、彼をどれだけ引きずりまわしたか。」
「京都中案内してもらったって、喜んで話してくれたことはあったわ。」
香世子はそう聞いていたから、肉体関係に進むことを心配して、できるだけ俊一郎に負担をかけないと同時に、金銭的にも借りをつくらないように由美子に言い付けていたことがあったのです。
「京都だけじゃないんだ。大阪にも、滋賀にも、一番遠いところでは若狭にまで連れて行ってもらってるんだ。それだけで、どれだけのお金がかかっているか。お前がプレゼントしたタイピンぐらいじゃ、とても割には合わんぞ。」
香世子は、娘が世話になっているからと言って、別れる前に、彼にタイピンをプレゼントしたことがあったのですが、その辺は余り知らなかったので驚いていました。
「えっ、そんなことまであったの。由紀子、全然話してくれなかったわ。」
「その点でも、彼は、由紀子を教育してくれたんだよ。」
「何のこと。」
「お前べったりから、卒業させてくれたんだよ。」
「あっ、そうね。それは言えてるわ。でも、それで由紀子変になったのと違うかしら。」
香世子は、片岡医師の説明で、由紀子の心身症の遠因は彼にもあると聞いていたので、そのことも原因だったのではないかと思い込んでいたのです。
「違うよ。本当の原因は、由紀子が彼の優しさを理解できずに、我々の意見もあって彼と別れてしまったこと。後になって、彼の真価を見誤っていたことと、彼を深く傷付けていたことに気付いたことが原因だったんだよ。」
「えっ、そうだったの。」
それが本当なら、原因は自分にあると香世子は思いました。
「じゃあ、私のせいかしら。」
「いや、前にも本人が話してくれたように、由紀子自身の弱さが原因だ。彼は、人間として弱い由紀子を捨てるに捨てられなかったらしい。だから、由紀子が冷たくしてもじっと耐えて、最後は、お前にまで手紙をくれただろう。」
香世子は、俊一郎から手紙をもらった時には、彼の真意が理解できませんでした。
「あの手紙の意味、由紀子が正気に戻って説明してくれるまで、わからなかったわ。」
内容は、由紀子との交際を認めて欲しいとのものではなく、これからも友人として見守って行きたいのでそのことを認めてもらいたいと言うものだったのです。
「彼は、由紀子の心の病を感じ取っていて、危険だから自分の恋人でなくなっても見守っていたいと親切にも申し出てくれていたんだよ。」
良和は、片岡医師、美紀と、人格が分裂した二人の由紀子のやりとりから彼の好意を知ることができたのです。
「そうだったのよね。私、そんなことを知らずに、由紀子がおかしくなったのは彼のせいだと恨んでいたわ。手紙の返事も出さなかったし、悪いことしたと今でも後悔してる。」
香世子は深く反省していましたが、良和は慰めました。
「いや、彼自身が、由紀子のことは諦めていたんだよ。由紀子の友人の話しや、お前が調べた結果によると、彼は、その後付き合った彼女とも、家庭の関係で結ばれなかったというし。」
調査の結果も、本人は大変いい人間だとありましたから、尚更気の毒な男だったのだなあと香世子は思ったものでした。
「何とも可哀想な人だったのね。でも、結婚したんでしょう。」
「社内恋愛だったと言うから、何となく因縁感じるな。由紀子も、そうなるしな。」
「あなた、よくあそこまで聞き出したわね。」
良和は、片岡医師の頼みで、由紀子が発病した原因は、俊一郎と婚約者の美奈子に会ったのが原因であろうことを確かめるため、興信所を装って彼の会社に電話し、そこまで聞き出したのです。
「娘が心配だったからな。」
「嘘おっしゃい。それだけじゃなかったでしょ。」
妻に指摘されて、良和は苦笑しました。
「いやまあ、確かに好奇心も大きかったな。由紀子の話だけだと、化け物みたいな男だし、会社では一体どんな男と思われているのか、その彼と結婚する相手はどんな女性なのか、知りたくなったんだ。それで、電話に出た女性が暇だったのか、二人の友人だと言いながら、それこそ個人情報に関わることまで、いろいろ話してくれたんだ。でも、品行方正の見本同士のカップルだと答えたのは面白いな。それから、妻になった美奈子さんだったかは、高卒だったのは意外だった。」
あの時は、夫の意外な面を見たようで驚いた香世子でした。
「あなたにも、そんな覗き趣味があったのよね。」
「娘を心配する余りだと言ってくれ。」
また言い訳するので、香世子は思わず笑い出しました。
「でもまあ、ある面ほっとしたわ。その彼が幸せに結婚してくれて。」
「そうだな。最後まで由紀子のことは心にかけてくれていたのだから、恐れ入る。結婚することになって、その報せの手紙の中で、心と体、両方が結ばれてこそ本当の愛情がわかるって教えたんだと。」
「そう言えば、律子さんが片岡先生と結婚する時、由紀子、神坂さんとは心では結ばれたことがあったと話したものね。でも、由紀子、そんなことまであなたに教えたの。」
「いや、それは、美紀から聞いた。それで、変になったのは、自分は心だけだったのに、心身とも結ばれたような二人を見かけて猛烈に嫉妬したのがきっかけだったらしい。そして、自分がその婚約者になって彼に抱かれる妄想を抱いたんだと。」
「福岡に連れ帰った前夜のことね。美紀が駆け付けてくれた。」
「そう。その夜は、美紀に迫って由紀子とは思えん状態だったと言うが、翌日は正気に戻っていたので、更に気味が悪かったと言ってたな。」
由紀子、美紀を俊一郎に見立てて、昔に戻るから抱いてと迫ったのでした。
「そうよ。私と母が行った時には全然普通だったのよ。だから、美紀から前夜の話を聞いた時には驚いたわ。」
「でも、その後の試練で由紀子は大人になれたんだ。本当に、小学生のまま大きくなったみたいな大学生だったからな。」
香世子は、美紀と由紀子のやりとりも話しました。
「そうそう。今度の彼の中村君は、由紀子と中学高校と同級生で、由紀子のことをずっと思いつづけてたんですって。」
それも、面白い縁でした。
「それは、良かったな。不思議なことに、彼の一家も福岡に越していて家も近いと言うから、何かと理解しやすいだろう。」
良和は、そう言う地縁的に近いことも必要だと考えていました。
その点でも、京都の俊一郎と娘の交際には、抵抗があったのです。
「それからね。美紀、由紀子にその中村君のことをこう聞いたの。」
「どう。」
「お父さんタイプか、神坂さんタイプか、片岡先生タイプかって。」
どう言う分類なのか、良和は理解できなかった。
「何だそりゃ。それで、由紀子何と答えたんだ。」
「お父さんタイプだって。」
「俺は、喜んでいいのか。」
良和、意味がわからずに聞き返しました。
「いいんじゃないの。由紀子の好みは、あなたなんですから。それで、由紀子の恋人像は、自分じゃなくあなただってことを、神坂さんも見抜いていたんですよ。」
「そうだったな。でも、面白い3タイプだな。どう違うんだ。」
彼は、そちらの方が気になりました。
「そうでしょう。私も面白いと思ったわ。あなたは、見栄えもよくて、紳士的で、そこそこ教養もあっての万能タイプなの。」
「ふーん。まあ、光栄だとしておくか。」
「それで、神坂さんだけど、見栄えは気にしないで知を追い求めていき、隠者と言うか、他人には押し付けないタイプみたいよ。」
「ふーん、しかし、一番理解しにくそうなタイプだな。」
「そう。由紀子も、そう言ってた。」
「じゃあ、片岡先生タイプは。」
「分析者だって。」
「医師だから、当然だな。」
「でも、笑えるの。片岡先生は、頭でっかちの上に自分が最高だと思ってるから付き合いきれないって。」
恩人の彼をけなした言葉には、良和も笑ってしまいました。
「でも、美紀も言ってたけど、先生は、由紀子には患者以上の感情を抱いたようよ。と言っても、今の由紀子じゃなくて、病院での、二人の由紀子の陰の由紀子の方だったらしいけど。」
由紀子は、美女とまでは言えないかもしれませんが、器量は悪くは無いし、上品な感じだし、見事なプロポーションを持っているから、男として惚れるのはわかる気がしました。
「当然だろうな。それはわかるな。でも、ふられちまったか。まあ、良くしてくれたことは確かだし、由紀子より数段美人の奥さんを手に入れたから、片岡先生も幸せだ。」
「そうね。よくしてくれた点は、本人も美紀も頭が下がったって言ってたわ。」
「俺も感謝したよ。しかし、考えて見れば、最近夫婦の会話も少なかったな。」
香世子は、笑っていました。
「最近はまだましよ。結婚してから由紀子が病気になるまで、本当に少なかったと思うわ。あなたは、余計なことは全然しゃべらなかったから。」
「男とは、そんなものよ。」
宗吾は、そう思っていました。
「最近の子は違うわよ。」
香世子は、今は違うと思いましたが、自分としては、夫のタイプの寡黙な男の方が好ましいと思っていました。
「そうだな。女みたいに、べらべらしゃべる。」
「女みたいに、は偏見よ。」
「そうかも知れんが、我が家の娘二人も結構長電話だ。」
「そうね。美紀は確かに長いし、由紀子は、自分じゃしないけど、かかってくると切るに切れなくなって長くなるようね。そうそう、神坂さんの電話ってどうだったと思う。」
「きっと短かっただろう。」
頭はいいし、格好を付ける人間でもなかったと言うから、簡潔だったろうと想像できた。
「そうなの。要点しか言わないから、本当に素っ気なかったって。」
「男は、それでいいんだ。」
良和は、仕事をしていても、余計な社交辞令を並べるのは嫌いでしたから、その点で俊一郎には好感を持ちました。
「それがね、電話で不思議なことがあったのよ。」
「神坂君のことでか。」
「そうなの。」
「何だか、彼にかかったら何でも不思議じゃなくなりそうだが。」
「そうかも知れないけど、彼、必ず私が電話する直前に電話してきたんですって。」
良和は、少し考えてから理由を見つけた。
「お前が電話するのは、帰省の前後とか学校行事の時とかだったから、由紀子はそのことを彼にも教えて相談したりしていたんじゃないか。」
香世子は、今までそのことには気付いていませんでした。
「そうか、なるほどね。あなた意外に鋭いのね。」
良和は、妻に感心されて苦笑しました。
「これでも、昔は秀才と呼ばれたこともある。」
良和は、有名大学ではなかったが大卒であり、成績は優秀だったのです。
「そうよね。結婚式では、成績まことに優秀でってあったもんね。」
宗吾は、その言葉を真に受けた妻に大笑いした。
「あのなあ、ありゃあ余程の落ちこぼれ以外は言ってもらえるもんだぞ。」
「えっ、そうなの。私、素直に信じてたのに。」
考えて見ると、香世子が出席した結婚式で、大卒の新郎が居たのは、自分の時と娘の美紀の時ぐらいだったから、それも無理からぬことだったのです。
「電話の話しに戻ると、三度目で気付いたから、由紀子、彼から電話が来たらその後私から電話が来るまで下宿の電話の前で待ってたんだって。あっ、由紀子の話しをする積りが、何だか別れた彼の話になっちゃったわね。」
「ああ。でも、今考えると、変わっていたがいい奴だったんだろうな。」
「そうね。だから、由紀子本人よりも人を見る目がある美紀の方が強く勧めたんでしょうね。『結婚相手には絶対いい。もし孝一さんがいなかったら、私が由紀子から横取りしてもいいと思った相手だ。』って言ったぐらいだったから。」
それを思うと、改めて彼には悪いことをしたように思える香世子でした。
「彼は、占いでも天才的で、自分は悲恋の相があり、その恋人も大変な目に遭うことまで知っていたと言うから、お前が気に病むことはないだろう。」
「誰に聞いたの。」
「由紀子本人だ。もっとも、彼は由紀子と初めて食事した時で、まさか自分の恋人となるとは思わずに言ったらしいから、間の抜けた話だ。由紀子、元気になってから、本当に大変な目に遭わせちゃったわと笑えるようになったから、いいだろう。」
「でも、そこまで知っていたのなら、何故由紀子をさっさと捨てなかったのかしら。」
香世子は、不思議に思いました。
「男だったからだよ。」
「何それ。」
「由紀子が余りに無邪気だったから、捨てるに捨てられなくなったんだろうよ。それに、前にも話したが、彼は、由紀子を自分好みのいい女にしてみたくもなっていたんだろう。」
「そう言えば、自分と神坂君の関係は、源氏物語の世界だったって話してくれたこともあったわね、律子さんが結婚する時に。」
勇と律子の結婚式もどきの時に、巫女姿の由紀子の祝辞に、神坂俊一郎の名言集があり、そのような話にも少し触れていたのです。
「そう。それが、男の夢でもある。」
「それも、由紀子の意見。」
「いや、俺の意見だ。」
「なるほどね。」
「彼は、由紀子と付き合うことになると、今度は由紀子のことを占ったんだって。」
「その結果は。」
「自分と結ばれないかも知れないが、側におけば由紀子が辛い目に遭わずに済むことを見通していたらしい。だから、由紀子には、自分の側から離れないように言いつけていたんだと。これは、由紀子自身から聞いたのだが、あいつ、折角好意で言ってくれたのに、気障な口説き文句みたいに誤解して反発したらしい。」
香世子にも、娘が反発した感じはよくわかりました。
二人とも、ストレートに言われると嫌って反発するところがあって、拗ねると大変だったのです。
「じゃあ、それで由紀子拗ねたのね。」
「どうもそうらしい。我々に交際を反対された後、冬に帰って来る前に由紀子は大分精神的に不安定になっていたらしくて、彼は見るに見かねて自分が占ったことを告白したのに、逆効果になったと言うことだ。」
となると、一番可哀想なのは、俊一郎だったように思えた。
「何だか、聞けば聞くほど気の毒だったのね、神坂俊一郎君。」
「でも、それでも彼は一切困った顔をしなかったと言うんだ。両親の件もあって、由紀子に拗ねられた時は、本当に踏んだり蹴ったりだったのだろうが。」
しかし、それでこそ男なのだろうと良和は思っていました。
最近の男は、淑子が嘆いていましたが、女にでも平気で愚痴を言って甘えるのですから、気味が悪い。
「そうね。確かに男としてまともだったのね。」
「そうだな。由紀子と別れる時になってようやく自分の家庭の事情を話したと言うから。」
「由紀子、驚いたでしょうね。」
「あれは、我々もまずかったな。」
「どこが。」
「例の調査書、最初から由紀子にも見せてやるべきだった。」
「見せないでいいって言ったの、あなたじゃない。」
淑子も香世子も、それを根拠に交際を反対するなら、本人に見せてやればいいと言ったのですが、良和は反対し、結局見せなかったのです。
「俺が見せるのに反対した理由は、彼本人には悪い点がほとんど無かったからだ。俺が由紀子なら、逆に本人これだけいい人なんだからいいじゃないって食い下がっただろう。」
「美紀ならそうしたでしょうね。最近は、本人さえ良ければいいって考えですものね。」
「結局、親心が裏目に出たって感じだな。美紀に聞いたが、由紀子は驚いた後後悔したとのことだ。」
香世子は、何故由紀子が後悔したのか理解できなかった。
「何故後悔したの。私には所詮済む世界が違う人だったって諦めたようなことしか言わなかったけど。」
「それだけの目に遭いながら、自分のことを大切にしてくれたことは、評価を誤ったってことだよ。つまり、由紀子は彼を過小評価してたってことだな。大体、両親の離婚調停やりながら大学生やって、サッカー部の副将もやって、その上で彼女とデートして、なんて俺なら逆立ちしてもできんぞ。」
それは、香世子も同感でした。
「由紀子も、超人的だとは言ってたわ。サッカーの練習と勉強の手の抜き方も物凄かったとも。」
良和も、少し聞いていました。
「テストの時には、直前15分で皆に聞いて回るだけで合格点を取るって話は聞いたな。真面目に勉強したらどんなに凄いかなって思ったけど、本人は就職するならその必要はないって言ってたらしい。それより、由紀子のお守りをしている方がいいとも言ったそうだ。」
香世子は、感心しました。
「あなた、そんなこと言ってくれたことあったかしら。」
「ないな。俺はシャイなんだ。」
これには、香世子は思わず吹き出しました。
「まあまあ、昔はそんなこと、思ってても言えなかったわね。でも彼、学生としても体育会系の部員としても、真面目じゃなかったのね。持たざるものとしては、もったいないの一言だわ。本当ならサッカーだってプロでも通用したんじゃないかって由紀子言ってたし。」
「器用貧乏の典型だともね。」
香世子がまた吹き出すと、良和は付け足しました。
「これは、神坂君本人の弁だと言うが。」
「あなたが言うと、負け惜しみに聞こえるわ。」
「聞こえるだけじゃない。完全に負け惜しみだ。しかし、彼はその才能と引き換えに家庭で試練を受けた。世の中不公平なばかりじゃない。だから、由紀子の友達に言ったそうだ。」
「何と。」
「幸せとは、特別なことが何も無いことなんだとね。」
香世子は、律子の結婚式の時にも、俊一郎のこの言葉を聞いたのですが、やはり名言だと改めて感心しました。
「俺も、そんな名言を吐いてみたいものだな。」
また香世子は笑って、夫をからかいました。
「もう一つ彼の名言を思い出させてあげましょうか。」
「律子さんの結婚式の時に洗いざらい聞いたような気もするが、忘れたから教えてくれ。」
「由紀子ね、彼と別れる時に、つい強がって言ってしまったの。『私、後悔していません。』とね。すると彼、にこっと笑って答えたんだって。『後悔しないといけないほど、君の残りの人生短くはないだろう。』って。」
一度聞いているはずの名言でしたが、良和は、改めて感心しました。
「凄いな。歩く名言集だったんだ。」
「そうよ。由紀子言ってたわ。教養の塊で、デートの度に知識を詰め込まれて頭がパンクしそうだったって。」
良和は、娘が教養豊かで上品になったのは、その効果が大きかったと今でも思っていました。
「彼のお陰で、由紀子は本当の教養とはどんなものか知ったと言ってたし、何よりもそのお陰で上品にもなったと思うな。」
「そうね。美紀は、最初から垢抜けた娘だったけど、由紀子は、素朴な田舎臭い感じの娘でしたからね。彼と付き合い始めてから、洗練された雰囲気を身に付けたと思うわ。その点では、美紀の耳学問の付け焼刃とは違うわ。それだけでも、1年遠回りしても惜しくなかったわ。」
「じゃあ、お前もほめてやれよ。本人やっぱり留年したことは気にしているんだから。」
夫に言われたものの、香世子としても言い出しにくかったのです。どうしても神坂俊一郎のことに触れてしまうことになるように思われましたから。
「率直には言いにくいのよね。彼と別れさせた手前。」
「それもそうだが、今の由紀子だけでいいからほめてやれ。幼馴染の彼も目が高いとね。」
「そうね。由紀子、大学の卒業式でも映えましたからね。」
「何を着たんだ。」
夫の的外れの言葉に、香世子はまた吹き出しました。
「美紀の赤いドレスだったけど、映えたのは服じゃなく雰囲気ですよ。美紀の方が見た目の美しさは上ですけど、あの上品な雰囲気はなかったわ。美紀自身、『負けたわ、あの気品は出せない。』って脱帽してましたもの。」
「では、早く結婚式でその違いを見せてもらうことにしよう。」
「あら、気が早いのね。いいんですか。」
美紀の時には早過ぎるのではないかと不機嫌だった夫が、一転早く結婚しろと言いたげなので驚いた香世子でした。
「いいんだ。1年いい経験した分早く結婚して、今度は人生勉強してもらえばいい。」
「そうね。私も、神坂君の預言曲集の6月の花嫁は無理だろうけど、意外に早く決まりそうな気がするわ。」
「期待しよう。」
翌週から、由紀子のOL生活が本格的にスタートを切ったのですが、中村雄介の見事な指導もあり、彼女は直ぐに仕事に慣れていきました。
1週間たった時、島崎課長は、雄介をからかいました。
「君よりも使えるかもな。」
雄介も、感心していました。
「いや、確かに僕も驚きましたよ。教養の点でも半端じゃないし、何よりも若いのに心配りができる。大した女性です。」
「私は、君との関係を、周囲に全く悟らせないことにも感心しているよ。」
島崎の言うように、職場では全く恋人同士であることを見せない見事な演技を、由紀子はむしろ楽しんでいたのです。
そうしながらも、二人は急速に接近して行きました。
初めてのデートは、福岡郊外の志賀島だったのですが、由紀子は、神坂俊一郎にねだって連れて行ってもらった若狭で見た日本海を思い出すと、感慨深いものがありました。
しかし、雄介と腕を組んで浜辺を歩いているうちに、俊一郎と雄介の二人には、いろいろな面で違いがあることに気付きました。
由紀子は、神坂俊一郎とも腕を組んだことも、おんぶしてもらったことさえあったのですが、雄介との決定的な差にまず気付きました。
俊一郎は、一見私の言いなりだったし、腕を組んだのも、おんぶしてもらったのも、全て私がせがんでさせたことでありながら、常に私のことを一段高い視点から見てくれていて、うまく導こうとしていたのです。
それに対し、雄介は、あくまで一緒に歩こうとしているし、自分であれこれ指図してくれるのですが、よくよく考えると、主役は、むしろ私なのです。
何だか、自分が5年前の神坂俊一郎になったような複雑な気分でもありましたが、恋人同士とは、むしろ雄介と私のような関係であるべきだったことを実感できましたから、由紀子には嬉しい経験でした。
そして、当時俊一郎が示してくれた配慮の数々に、素直に感謝する気分にもなれたのです。
海岸での行動にも、彼と雄介との差が歴然としていたので、思わず笑みがこぼれました。
若狭の海岸での俊一郎は、少し離れて波と戯れる私を見守ってくれていたのです。
そんな彼の視点は、私を通してもっと遠くを向いていたのです。冬の日本海だったから、大きな波が来る危険がないかを確かめながら、子供みたいに波と追いかけっこする私を見守ってくれていたのです。
それに対して雄介は、私と一緒になって、いや、彼の方がむしろ自分から波と戯れている。
そんな雄介と私は、対等な関係なのだろうし、恋人や夫婦になるにはその方がずっと自然だろう。
『君の恋人像は、僕ではない。』そう言ってくれた彼の真意が、今更ながらに実感できた気がしました。
ひとしきり二人で波と戯れた後、ベンチに並んで座って、由紀子は大学1年の時の神坂俊一郎との恋と別れ、3年になってから精神病院に入院したこと、いろいろな経験をして病気も治り、復学して1年遅れで卒業したことまでを、包み隠さず話しました。
眼前の由紀子が精神病院に入院した経験を持っていたことは、雄介には正直ショックでしたし、恋人神坂俊一郎の話も、彼がいい人であればあるほど、当時の由紀子との関係が気になってしまったのです。
そんな彼の心の動きは、俊一郎の心を覗こうとまでした由紀子には手に取るようにわかりましたから、彼とは、セックスはおろかキスさえしなかったこと、それも自分から頼んだことだったことを話して安心させると、雄介はあからさまにほっとした顔をしました。
その反応に笑いながら、由紀子は意地悪く聞き返しました。
「私は、一時期精神病で入院していた女なのよ。それでも、私を妻にする覚悟はあるかしら。」
雄介は顔をしかめて考える素振りをした後、あっさり答えました。
「うん。何故かわからないが、僕には、妻にする女性は、世の中に君しかいないように思えるんだ。だから、大学の時も何度も誘われながら、キスまでしか行かなかったし、今の職場でも何度も声をかけてもらったが、気乗りがしなくて断り続けていたんだ。それもこれも、君とこうして再会するためのものだったんだと確信している。覚悟はできてるよ。」
その言葉に、由紀子は思わず嬉しくなって彼に抱き付きました。
すると雄介の方が焦って思わずじたばたと逃げようとしたので、由紀子は思わず大笑いしてしまいました。
「雄介さん、私を妻にするなら、セックスも避けられないけど、それはどう思う。」
俊一郎とはそのことを話す機会が無かったし、最後に彼がセックスも大切だと教えてくれたものの、一方通行のまま終わってしまっていたので、由紀子、雄介には単刀直入に訪ねました。
「確かに、避けては通れないし、人間の自然な行為でもある。その覚悟もしているよ。」
「嬉しいわ。」
雄介にもう一度抱き付くと、由紀子は何となく安心できました。
雄介は、由紀子が抱き付いてくれたのは嬉しかったのですが、そのまま黙ってしまったので、心配になりました。
「どうかしたのかい。」
由紀子は、耳を彼の胸に押し当てたまま、彼の顔を見上げました。
「ううん、大丈夫よ。何だかこうしていると、安らかな気分なの。」
「それは嬉しいな。」
見下ろすと、由紀子はうっとりとした顔で見上げていたが、オフィスで見せる引き締まった中性的な顔とは別人のような顔にはぞくっとするほどの色気を感じてしまい、戸惑いました。
由紀子も、彼と密着している内に、このまま抱かれてしまいたい衝動を感じたので戸惑っていたのですが、本格的には初デートなのですから、流石にそれははばかられました。
「じゃあ、その覚悟はしておいてね。」
何とか由紀子がさらっとごまかして、そのデートは無事お開きになりました。
翌週は、唐津に出かけてのデートとなりましたが、二人とも今日にも結ばれそうな予感があり、最初からぎこちない雰囲気になってしまいました。
唐津の町を腕を組んで歩いていると、由紀子は先週感じて戸惑った一種の性衝動がまた首をもたげてきたので、ごまかしの意味もあって雄介に確かめました。
「雄介さん、女性は結婚まで処女を守った方がいいと思う。」
雄介としても、男としての衝動を抑えるのに苦労していたところで、割とちぐはぐな答えを返しました。
「うーん、結婚するまでに経験してみたいのが本音だけど、まだ守って欲しい。でも、結婚するまでは遠すぎるような。」
もろに顔に出るし、物欲しげなことはわかったので、由紀子は思い切って誘いました。
「神坂さんは、もう結婚して幸せに暮らしているんだけど、彼結婚する時に、私が最後までプラトニックを貫いてセックスを避けようとしていたことを心配してくれたわ。それで、『心と体、両方で結ばれないと本当の愛情は理解できないよ。』と教えてくれたの。だから雄介さん、私に本当の愛情を教えてちょうだい。」
事実上セックスの申し込みであることを理解した雄介は、これで逃げ出しては男じゃないし、かと言って由紀子の処女をもらうには安っぽいラブホテルは嫌だったから、博多に戻って駅前の洒落たシティーホテルのツインルームにチェックインしました。
フロントでサインしている間中、雄介の手が震えているのを見て、由紀子は思わず笑い出し、自分は冷静になりました。
そこで、チェックインカードに由紀子の名前をどう書こうか悩んでいる彼からペンを取り上げると、『中村由紀子・妻』と書いたのです。
ぎょっとしている雄介に軽くウィンクした由紀子は、キーを受け取ると彼と腕を組んで部屋に向かいました。
何だか由紀子に主導権を握られてしまったような気がした雄介は、必死に緊張を抑えると、まず由紀子をバスルームに押し込んで、先にシャワーを浴びさせました。
その間に、何とか気持ちを落ち着け、自分は先に服を脱いでホテルのバスローブに着替えたのです。
由紀子は、手早くシャワーを浴びるとバスローブに着替えて出てきましたが、着やせするタイプであり、細身のすばらしいプロポーションの体なのに、想像よりも胸もお尻もずっと出ていたので、雄介はまぶしそうに見つめてしまいました。
「何見てるのよ。雄介さんも早くシャワー浴びてきて。」
恥ずかしくなったので雄介をシャワールームに押し込んだ由紀子でしたが、一人になると、考え込んでいまいました。
私は、本当に彼とセックスできるのかしら。
自分じゃよく覚えていないけど、襲われたこともあったから、いざやろうとしたら、怖がってしまうかも知れない。
でも、彼にはちゃんと抱かれたいし、変になった時には、京都の下宿で姉に迫ったって言うから、恐らく大丈夫だろうな。
思い直した由紀子は、そっとバスローブを脱ぎ捨て、裸でベッドに滑り込みました。
そして、彼に抱かれるイメージを浮かべながら、自分であそこを愛撫してみたのです。
すると、自分でもびっくりするぐらい感じてしまい、思わず声を漏らしてしまいました。
私は、本当は淫乱なのかしら。そう思うと自分でも恥ずかしくなり、全身が火照って、更に快感が高まって息苦しくなってしまったのです。
ああん、早く出てきてよ。待ち切れなくなった時に雄介が出てきたので、由紀子は思わず頼んでしまいました。
「早く入って来て。」
一瞬立ち止まった雄介でしたが、彼女のバスローブが脱ぎ捨ててあるのを見て、自分も裸になりました。
彼も見かけよりずっといい体をしており、由紀子は思わず見つめてしまうと更に体が火照ったのです。
彼がおずおずとベッドの隣に滑り込んでくると、由紀子は少し迷いましたが、姉の言いつけどおり、処女で押し通すことにしました。
「初めてだから、優しくしてね。」
恐らく処女なのだろうと思いつつも、少し後ろめたい思いは、由紀子の快感に油を注ぎました。
雄介も童貞ではあったのですが、長年思いつづけた憧れの由紀子を抱けると思うと感激でした。
二人は、まずキスをしました。
二人とも慣れていないのですから、うまく行ったとは言い難いキスでした。
二人とも、今の今までキスをすることの意味がわからないでいたのですが、唇を重ねている内に快感が呼び覚まされてきたのです。
「キスって、快感なのね。」
由紀子が感心しながら言うと、雄介も認めました。
「そうだな。僕も初めて知った。」
「私、キスも初めてだったんだからね。」
ちょっぴり恨みがましく言った由紀子でしたが、これは嘘でしたから、後ろめたさで快感が更に高められることになりました。
一方雄介は、由紀子の初めてを独占できると更に感動しました。
そして、彼の手が由紀子の意外に豊かな乳房に触れると、彼女は悩ましい叫び声を上げました。
「ああーん、感じちゃう。」
興奮して調子に乗ってきた彼の手が股間に滑り込んでくると、一瞬反射的に足を閉じた由紀子でしたが、思いなおしておずおずと足を開き、まず、彼の指先を受け入れました。
既に準備OKに濡れていることに驚きながら、由紀子はささやきました。
「優しく入って来て。感じちゃって死にそうだから。」
由紀子は、自分の言葉に更に快感が高まり、彼の指先が敏感な芽をまさぐると、高い叫び声を上げて最初のエクスタシーに達しました。
雄介も初めてですから戸惑っていましたが、由紀子の痴態を見せ付けられては、男として彼女を奪わずにはいられなかったのです。
彼の体が重なって来ると、由紀子はいよいよだなあと感無量でした。
中学の時に彼と出会った時、彼は本当に純真な子供のようで、私をまぶしげに見ていた。
高校の時も、まだまだ彼は無邪気で、申し出を断った時の悄然とした彼の姿に感じた奇妙な寂しさ、後ろめたさは、このことを予感してのものだったのかも知れない。
由紀子、決心して足を開いて雄介を受け入れようとしたのですが、股間に圧迫を感じ、思わずずりあがってしまいました。
これじゃいけないと思った由紀子は、雄介の背中に腕を回して引き寄せ、雄介も同時に腰を突き出したので彼のものが体の中に入って来ました。
由紀子は本当に処女だったのですから、いくら十分潤ってその用意が出来ていてもかなり抵抗があり、一瞬痛みが走りました。
「ぎゃっ、痛い。」
思わず上げてしまった悲鳴に、雄介は慌てて抜こうとしましたが、由紀子は逆に彼の腰をしっかり引き寄せました。
「いいの。私を犯して。」
自分でも思ってもいなかった言葉に、由紀子は次の瞬間エクスタシーに達して、自分でも信じられないようなみだらな嬌声を上げていました。
雄介は、由紀子の痴態に感動しながら優しくしなければと思い、ゆっくりと挿入し終えると、動かずに彼女を抱き締めました。
「大丈夫かい。」
由紀子も少し痛みはあったが、彼に抱かれたと言う安心感、充足感の方が大きく、喜びをかみしめていました。
「ええ。最初ちょっと痛かったけど、あなたのものが入っちゃったのね。嬉しいわ。」
「僕も、ついに憧れの君を抱くことをできた。本当に幸せだ。」
彼の言葉に、由紀子は更なる充足感を感じていました。
そして、神坂俊一郎の言葉を、心身ともで理解しました。確かに肉体関係も大切だったのです。
そして由紀子は、セックスでもう一つのことも学びました。
女性は、愛する男性を体の中に迎え入れることで、母性的な心を呼び覚まされ、満たされることを。
これは、神坂俊一郎も教えてはくれなかったことでしたが、如何な彼でも女性のそんな心までは理解できなかったのでしょう。
雄介は、肉体的にも魅力的な由紀子だけに、つい射精してしまいそうになったが、いくら結婚する積りでも、今妊娠させてはいろいろ支障が出て大変だと思ったので、何とかこらえていました。
しかし、却って冷静に戻った由紀子は、自分の周期から考えて今日は絶対に安全日だと確信しましたから、思い切って彼を促しました。
「大丈夫よ。安全日だから我慢しないであなたのものをちょうだい。完全に女になりたいから。」
そう言われては、雄介も我慢し切れなくなって動きました。
すると、由紀子が彼の動きに合わせて悩ましげな嬌声を上げたので、我慢できなくなり、少し荒くなりましたが、大きく腰を動かして彼女の体の中に思い切り射精しました。
由紀子は、流石に大きく動かれると痛みを伴いましたが、おぞましい快感も湧き上がってきました。
そして、彼が射精した後そのまま優しく抱かれている内に、その快感が何とも言えない充足感、満足感につながり、自分は愛され、かつ大切にされて心身とも満たされていることを実感したのです。
この時由紀子は、克服したとは言え、トラウマの一つとなっていた大学1年の時の忌まわしい一夜の出来事から完全に開放されたことを感じました。
それと同時に、自分を抱かなかった神坂俊一郎の愛情は、結局幻のようなものでしかなかったと割切ることもできたのです。
しばらく抱いてくれていた後雄介がそろそろと体を離すと、由紀子は裸のまま彼の胸に顔を密着させてみました。
ベッドの中で裸で抱き合う男と女、自分にとっては映画のワンシーンでしかなかった情景が、今自分のものとなっていました。
実感すると恥ずかしくなって、由紀子は思わず布団をかぶりました。
「どうしたんだい。」
雄介が心配して聞いたので、由紀子は正直に答えました。
「自分で映画のラヴシーンみたいなことを演じてしまったから、恥ずかしくてたまらなくなったのよ。」
雄介も、そう言われると気恥ずかしくなりました。
「僕も同じだ。初めてだったし。」
由紀子は、彼も初めてと聞いて嬉しかったが、少し後ろめたさを感じると、また恥ずかしくなって体が火照りました。
「あーん、恥ずかしくて死にそう。何とかして。」
そう言われても困るのですが、他にすることを思いつかなかった雄介は、彼女を抱き締めました。
「大丈夫。絶対結婚するから、落ち着くんだよ。」
裸同士で密着すると、彼の心臓の鼓動を感じました。
そうすると、胎児に戻ったような感じがして、由紀子は落ち着くことができました。
「うん。大分落ち着いた。あっ。」
叫んだ由紀子は、裸のままベッドを抜け出してライトを点けたので、雄介は慌てました。
「どうしたんだ。」
「ちょっとベッドを出てくれる。」
由紀子の素晴らしい裸を前にして考えるのも変だが、雄介も何となく裸を見せるのは恥ずかしかったのでそろそろと這い出すと、由紀子は布団をめくって悲鳴をあげた。
「きゃっ、どうしましょう。汚しちゃった。」
見るとシーツに血と精液が混じったものによると思われる薄いピンクの染みがくっきりと付いていました。
裸でベッドの横にしゃがみこんで狼狽する由紀子に、雄介はたまらない愛おしさを覚え、後ろから抱き締めました。
「君の誇るべき初夜の証だよ。」
そう言われるとちょっと後ろめたかったのですが、完全に処女と認めてもらえたことも嬉しかったし、今後ろから抱き締めてもらえたことも、彼の暖かさを感じて快感だったのですが、このまま放置する気にはなれなかったので、由紀子はシーツを引っ剥がしました。
「どうするんだ。」
「洗濯するの。」
「ホテルの人に任せたら。」
雄介は、何も自分でしなくてもと思ったが、由紀子はこだわった。
「嫌よ。処女の証はあなたにさえ知ってもらえればいいことよ。他の人には絶対見られたくないの。」
言った後、心の中で舌を出した由紀子でしたが、絶対他人に見られたくないのは本心だったのです。
シーツを引っ剥がしてから、由紀子はようやく自分が裸で、しかも雄介が感心したように見ていることに気付きました。
「きゃーっ、見ないで。」
思わずシーツを体に巻きつけると、雄介は笑いました。
「いやあ、素晴らしいものを見せてもらった。中学生の頃から日本人離れしたプロポーションだと思ってたけど、更にすばらしくなっているし、色も白いし、胸もお尻も突き出しているし、見事に腰もくびれているし、本当にきれいだ。」
恥ずかしくなると、由紀子は全身がピンクに染まったので、雄介は更に感心しました。
「その恥らう姿もきれいだ。」
「もう、見ないで。このシーツ何とかしたいから、後ろ向いて。」
「はいはい、奥様。」
雄介が後ろを向くと、由紀子はシーツを巻きつけたまま服をつかんでシャワールームに駆け込んでシーツの染みをきれいに洗い落とした後、シャワーを浴びて服を着ました。
服を着て出てきた由紀子に、雄介はどうする積りか聞くと、彼女何とシーツを乾燥させてくると答えました。
呆れた雄介でしたが、彼女が本気のようなので、自分も一緒に行くから待っていてくれと言ってさっさとシャワーを浴びて着替えました。
由紀子が、流石に男は早いなと思っていると、彼はシーツをホテルのランドリー用の袋に入れて二人でホテルを出ると、コインランドリーを捜して乾燥機にシーツを放り込みました。
由紀子は、直ぐにはコインランドリーを思いつかなかったので感心していたのですが、1時間ぐらいかかりそうなので、雄介は由紀子を家まで送ると言い出しました。
すると、由紀子は悪戯っぽく笑って彼の申し出に喜んで応じ、腕を組んで地下鉄の駅に向かいました。
ところが家の前で由紀子は『3分待っていて。』と言って家に駆け込むと、そのまま出勤できる服装に着替えて、替えのシーツも持って出てきたのです。
早めに帰ってきたと思ったら、また出て行こうとする娘に、香世子は怒りました。
「どこに行くのよ、帰って来たと思った途端に。」
由紀子は、正直にあっけらかんと答えました。
「彼と、ホテルに泊まるの。」
香世子は、思わず聞き返しました。
「今、何と言ったの。」
「あっ、彼、中村雄介さんと、ホテルに泊まるのって言ったの。」
「そんな。嫁入り前の娘が何と言うことを。」
慌てて引き止めようとすると、由紀子更に正直に教えたのです。
「あっ、彼とはもう寝たの。絶対結婚するって言ってくれてるから、いいでしょう。」
もう寝たと言われて、香世子はショックでその場に座り込みました。
「あら、大丈夫お母さん。」
流石に心配で駆け寄ると、祖母の淑子が出てきて由紀子を許しました。
「話は聞いたけん、行くとよか。今度はその男、手放すでなかよ。」
「はーい、おばあちゃん。行ってきます。」
上機嫌で由紀子が出て行った後、香世子はしばらく呆然としていました。
「由紀子が何と言うことを。あんな娘に育てた覚えはないのに…。」
淑子は、笑って娘の香世子を慰めました。
「由紀子も大人の女になったけん、あんたの手から離れたとよ。喜んで許してやるとよ。」
香世子は、母にそう言われると無言でうなずきました。
訳もわからずに待っていると、由紀子が着替えて出てきて、このまま明日出勤できるように用意したから、ホテルに二人で泊まると言いました。
今度は、雄介が慌てて彼女を連れて西村家に戻ると、自己紹介しました。
そして、由紀子さんを妻にくださいと切り出したのですが、そのまま玄関に座り込んでいた香世子はぽかんとして聞いていたので、彼はもう一度、真面目に考えていますから、結婚させてくださいと繰り返しました。
すると、淑子が出てきて代わりに答えました。
「わかり申した。由紀子をあんたの嫁にもらってもらうけん、はよう連れて行くとよか。」
雄介は、由紀子を家に戻す積りだったのに、淑子は二人を促して外に出したのです。
雄介は、母の香世子は黙っていたものの、祖母の淑子が思いの他理解があったことに驚き、かつ喜んだのですが、家に帰す積りが自分に託されてしまったことには戸惑いました。
しかし、折角二人の外泊を認めてもらえたので、ホテルに戻ることにしました。
由紀子は、祖母の淑子まで好意的になり、今度は手放すなと励ましたくれたのは、俊一郎のお陰かなと思いましたが、それには触れずに、途中でレストランに寄って食事をしてからコインランドリー経由でホテルに戻りました。
ホテルの部屋に戻ると、由紀子は雄介を乱暴にベッドに押し倒して抱き付きました。
「お願い、もう一度抱いて。」
頼みに応じて彼が服を脱ぎ始めると、由紀子はまず持参のシーツを代わりに敷いてから自分も服を脱ぎ、明かりの中で裸で抱き合いました。
今度は、由紀子が心から安心して身を任せていたためか、彼のものが体の中に入って来るや、小さな叫び声をあげてエクスタシーに達していました。
彼女の魅力的な肢体と声に直ぐに射精してしまった雄介でしたが、そのまま直ぐ元気になって再度挑みました。
すると由紀子は、下半身がとろけそうな快感に襲われたのです。
「えっ、嘘。そんな。こんなになっちゃうの。あっ、いい。とろけちゃう。あっ、死んじゃう。」
戸惑いながら上げる声がまた魅力的なので、エクスタシーに達した由紀子が再度全身を硬直させると同時に、彼はまた果てました。
由紀子はしばらく夢現で余韻に浸っていましたが、その夢から覚めると、これで自分も本当に大人の女、雄介の妻になった気がしました。
雄介も、由紀子の裸体の感触に、憧れの女性だった彼女が、自分のものになった喜びを噛み締めていました。
しばらくして体を離すと、雄介が先にシャワーを浴び、使わなかった方のベッドで二人寄り添って眠りにつきました。
由紀子達と入れ替わりに帰って来た良和は、娘の居所を香世子に聞きました。
香世子はまだ半ば呆然としていたのですが、夫に聞かれたので、「由紀子は、恋人とホテルに泊まると言って出て行ったわよ。」と正直に答えました。
今度は、良和が呆然とする番でした。
我に返ると雄介に腹を立てた良和でしたが、香世子は、娘は既に恋人の雄介と経験しており、淑子も手放すなと励ましたので、雄介が送ってきてくれたのに、着替えてホテルに泊まると出て行ったことを話しました。
良和は、妻の話を聞くと、しばらく無言で考え込んでいました。
実は彼、地下鉄の駅で二人を見かけていたのですが、べったり引っ付いていたし、方向も逆だし、他人の空似かと思いながら帰って来たのです。
それで気になっていて、帰宅したら開口一番『由紀子はどうした。』と聞いたのです。
香世子はその経緯を聞いて笑い出しましたが、相手の雄介は、姉の美紀と夫の山本孝一と同じく幼馴染と言ってもよい関係だし、彼の方が、由紀子が一緒に外泊すると言い出したので慌てて妻にくださいと挨拶に来たこと、母の淑子も二人の関係を認めたこと、二人が出て行ってから、淑子が、これで由紀子も親離れしたと考えて喜ぶべきだと言ったことを夫に話しました。
良和も、由紀子も自分で歩き始めたことを認め、中村家との話し合いを早急に進めることにしました。
そして、自分達も最近夫婦の関係を忘れていましたので、香世子を抱き締めてささやきました。
「今晩、由紀子もいないし、どうだ。」
香世子は、顔を赤らめ、喜んでうなずきました。
翌朝目覚めた由紀子は、自分は裸だし、隣に裸の雄介が眠っているし、一瞬これは夢だと思って目を閉じました。
しかし、昨夜のことを思い出し、自分の体にも違和感があったので、やはり彼に抱かれたのは真実だったんだと思い直しました。
すると、凄く恥ずかしくなって、思わず布団に潜り込んでしまいました。
そう言えば、紫の上が初めて光源氏に抱かれた直後にこんな場面があったな、と思い出すと、初めて読んだ高校生当時は理解できなかった紫の上の気持ちがようやく理解できた気がしたのです。
すると、雄介も目覚めたようなので布団の中から覗いていると、きょろきょろした後、『由紀子。』と呼んだので、おかしくなって笑い出してしまいました。
すると雄介が裸のまま抱き締めてきたので、由紀子は思わず悲鳴を上げてしまいました。
しかし、何故か体は雄介に擦り寄っていたので、自分に戸惑いながら、彼に聞きました。
「私、西村由紀子ですよね。」
雄介は、ぎょっとしながらうなずきました。
「あなたは、中村雄介ですよね。」
「うん。」
「じゃあ、昨日あなたが私にしたこと教えて。」
「キスからセックスまで。」
神妙に答えた雄介でしたが、それを聞くと由紀子が悲鳴をあげてしがみついてきたので、驚きながら付け加えました。
「途中で、由紀子のお母さんとおばあちゃんにも挨拶してきたな。」
「何と。」
「由紀子さんを妻にくださいと。」
「それで、どうなったんだっけ。」
「お母さんは呆れて物も言えない風だったけど、おばあちゃんは許してくれた。」
「そうよね。夢じゃなかったのよね。」
雄介は、感極まったように彼女を抱き締めながらささやいた。
「嘘なものか。憧れの君とキスからセックスまでできたんだ。人生最高の日だよ。」
その言葉にじーんと来た由紀子は、彼に思い切り抱き付いた。
「そうよね。私もいろいろあったけど、こうしてあなたと結ばれたんだもんね。でも、死にそうなぐらい恥ずかしいわ。見ないで。」
由紀子は、全身がピンクに染まっていたのですが、雄介は、そんな彼女の裸体をまぶしそうに見ながらほめました。
「由紀子の体は素晴らしいよ。服の上からはまさかこんな見事な体をしているとは気付かなかった。」
「きゃっ、恥ずかしい。」
「恥ずかしがることなんかないよ。誇るべきだ。」
ほめられると嬉しかったが、恥じらいとあいまってまた快感がもたげてきたので、由紀子は自ら求めました。
「お願い、もう一度抱いて。」
雄介は少し驚きましたが、彼も彼女の裸体に欲望をかきたてられていたところだったので、うなずいてまずキスをしました。
由紀子は、まだ恥ずかしいし、昨夜と違って明るいし、目のやり場に困って目を固く閉じてキスを受け入れました。
そして、湧き上がってきた快感に身を任せ、潤ってもまだまだ固いつぼみで彼のものを迎え入れたのです。
彼のものが入って来た瞬間小さく叫んだ由紀子でしたが、もう痛みはほとんど感じませんでした。
逆に、本能的になのだろうと思われますが、快感を求めて彼の動きに合わせて無意識の内に締め付け、腰を浮かせている自分に気付くと、由紀子は必死に言い訳しました。
「お願い、信じて。私、あなたしか知らないの。本当に初めてだったのよ。」
少し後ろめたさもある自分のそんな言葉に、由紀子は快感を更にかきたてられ、雄介もまた彼女のいじらしい言葉に快感を高められていました。
自分の動きに合わせて、彼女がとても魅力的な喘ぎ声をあげるので、雄介は我慢できなくなって大きく動いて彼女を荒々しく犯したのです。
由紀子は、自分が淫らな喘ぎ声を上げていることに気付くと、恥ずかしくて顔を両手で覆っていましたが、大きな快感の波が襲ってきたので、手を放してシーツをつかみ、全身を硬直させて叫びました。
「あーっ、死んじゃう。」
そして、同じく快感に耐えられなくなった雄介は、彼女とともに絶頂を迎えて射精していました。
由紀子は、その後しばらく夢現の快感の海を漂っているような幻覚を感じていましたが、我に返ると雄介にしがみつきました。
「どうした。」
雄介が驚いて聞くと、彼女は不安な顔で答えました。
「あなたがいなくなりそうで、不安だったの。怖かったの。ごめんなさい。」
しかし、まだ彼が入ったままだったことに気付くと、小さく叫んで真っ赤になりました。
雄介はそっと体を離すと、添い寝しながら彼女の髪をなでました。
「僕は、死ぬまで由紀子と一緒にいるよ。安心してね。」
「本当に一緒になってくれるのね。」
由紀子は、心身とも結ばれた今、却って不安になっていたのです。
「約束する。」
安心した由紀子は、雄介にまた俊一郎のことを話しました。
「私、大学1年生の時に付き合った人とは結ばれなかったの。だから、あなたが本当に初めてなの。」
処女の証を見せられた雄介は、当然と信じました。
「信じているよ。」
「その彼には、私が頼んだの。結婚するまでプラトニックでいましょうと。」
凄いことを頼んだものだな、と雄介は半ば呆れました。
「その彼は、約束を守ってくれたんだ。」
「そうなの。私の方が、つい約束破りそうになったことが何度かあったのに、彼は父のように優しく見守ってくれていたの。私、その時大きな勘違いを二つもしていたわ。」
「どんな。」
雄介としては、由紀子のことを少しでも多く知っておきたかったので、聞き返しました。
「一つはね、プラトニックでいた方が、もし何かで別れることになっても辛くないと思ってたことだったわ。」
「じゃあ、由紀子その彼と別れた時辛かったんだ。」
雄介は少し妬けました。
「彼自身は、とてもいい人だった。信じられないほどいい人だったんだけど、家庭に問題があったの。それで、母もおばあちゃんも反対したの。それに、彼自身自分の家庭のことで私との交際には迷いがあったようで、私の方が彼を理解できなくなったの。それで結局、うまく行かなくなって彼が卒業する時別れちゃったんだけど、別れた後で彼の良さがわかってきたの。本当に大人で、私を優しく見守ってくれていたことが。だから、却ってキスでもセックスでもしておいた方がよかった。それなら忘れるのがもっと楽だったと思ったほど。それで、私、彼が結婚することになった後変になって、1年遅れになっちゃったのよ。」
なるほど、病気の原因はそれだったんだ。最初のデートでは心の病とまでは聞いたが原因までは話さなかったから、雄介も遠慮してそれ以上は聞かなかったのです。
「プラトニックが軽いと思ったのが第一の勘違いだったんだ。」
「そうなの。それで第二の勘違いはもっと凄いの。」
「何だったんだ。」
「これは、今日わかったの。」
「えっ、今日。」
「そうなの。私、別れるのが怖くて、いや別れて自分が傷つくのが怖くてプラトニックにこだわっていたんだけど、私自身、その彼と本当に結ばれる気が無かったことがわかったの。そして、彼はそんな私の本心も見抜いていたから、あえて私を抱こうとしなかったことも。」
由紀子の勘違いとともに、彼の配慮に感謝しないといけないな、と雄介は思いました。
「君の勘違いとともに、相手がその彼だったことを神様に感謝したい気分だ。」
雄介が正直に言うと、由紀子も笑っていました。
「そうね。私もその彼には感謝しているわ。彼、京都大学の4年生だったんだけど、私を京都中案内してくれて、凄くいろいろなことを教えてもくれた。そして、その彼、私と別れた1年半後に結婚したんだけど、その時に最後の手紙をくれたの。」
別れたはずなのに奇妙だと思って不審な顔をした雄介に、由紀子は笑って説明した。
「あっ、彼はね、私が精神的に凄く不安定だったことを誰よりもよく知っていて、心配してくれていたのよ。だから、恋人としては別れた後も、友人として自分が結婚するまでいろいろなアドバイスをくれたの。そして、最後のアドバイスが、本当の愛情は、心と体両方が必要だってことだったの。」
なるほど、それで今日だったのか。
つまりは、由紀子は自分のことを本当に愛してくれるんだ。
それに気付くと、由紀子がいとおしくなって雄介はつい彼女を強く抱き締めました。
「嬉しいな。絶対大事にするよ。」
「私もよ。あなたに抱かれて、本当に愛し、愛されるってことがよくわかったわ。お陰で今度こそその彼のことを忘れられたわ。雄介さんありがとう。」
由紀子はそう言った後、自分から雄介にキスをした。
雄介は、由紀子が今までその彼のことを忘れられずにいたことは少し気になりましたが、由紀子を完全に自分のものにできた確信がありましたから、安心して許すことにしました。
シャワーを浴びて着替えると、由紀子は昨夜家で着替えていましたが、雄介はそのままだったので、出勤前に家に着替えに戻ることにしました。
すると、由紀子は悪戯っぽく笑いました。
「じゃあ、今朝は、私があなたの家に行くわ。」
「いや、まだいいよ。」
雄介は、由紀子とつきあい始めたことは両親に話していましたが、まだ具体的に結婚までは切り出していませんでした。
まして、昨日は男性の友人のところに泊まると言い訳していましたから、由紀子が言い出すと慌てました。
「あら、じゃあ私と結婚してくれるって言ったのは嘘だったの。」
彼の本心は理解していたので、由紀子は笑いながら突っ込みました。
「いや、その約束は絶対守る。」
まさか突っ込まれるとは思っていなかったので、雄介はしどろもどろになりました。
「じゃあ、昨夜はあなたが私の家で挨拶してくれたから、今朝は、私がご挨拶に伺うの。それでいいでしょう。」
言いながら、由紀子は自分がとても強くなった気がしました。
これこそ、抱かれたものの強みなのかな。
そう言えば、俊一郎に若狭まで連れて行ってもらった時、彼の実家の近くを通ったことがありました。
その時、『我が家に寄るか。』、と聞かれたことがあったのです。
由紀子は、それは絶対嫌と逃げ、俊一郎は苦笑して許したのですが、あの時は、将来家族になるかもしれない人だったのに、会うことがとても怖かったのです。
でも、今は違いました。
娘として、妻として、胸を張って彼の両親に会うことができる自信がありました。
その自身の源はと言えば、やっぱり彼に抱かれたことだったのです。
そうか、そんな意味でもセックスは大切だったんだな。
愛する人とのセックスには、沢山の意味があったんだ。
きっと、俊一郎は、このことも教えたかったのかもしれないな。
由紀子には、そんな気がしました。
結局、二人でホテルに泊まったことは内緒にしてあいさつに行くことで折り合ったのですが、雄介も、昨日まではどこかはかなげで不安そうな陰があった由紀子が、自信に満ち溢れたように変わったことを感じていました。
これもセックスの魔力かな。
そう思うとまた抱きたくなってしまったので、彼女を1回しっかり抱きしめた後、しっかり腕を組んでホテルを後にしました。
雄介の家、由紀子の家とは博多を挟んで反対の、義兄山本孝一の家に近い方角だったのですが、地下鉄の駅を降りて家に向かう中で、彼の父雄一郎とばったり出会ってしまいました。
雄介の父雄一郎も会社員で、由紀子の父よりもずっと上の役員クラスだったのですが、朝は息子よりも早く家を出て、会社に一番乗りするのが習慣になっていたのです。
雄介は、慌てて由紀子から離れて彼女のことを父に紹介しようとしましたが、由紀子が機先を制して自分から自己紹介しました。
「雄介さんとは、中学生の時からの友人の西村由紀子と申します。今は雄介さんと同じ会社の同じ課で働いています。そして、おつきあいさせていただいています。どうか、よろしくお見知り置きください。」
由紀子が挨拶すると、雄一郎は息子よりもはるかに鋭かったので、彼が昨日外泊したこと、今朝由紀子が一緒に来たことから、二人の関係を一目で見抜きました。
「雄介の父の雄一郎です。息子ともども、末永くよろしくお願いしますよ。」
結納の時のような挨拶を返すと、彼は二人を連れて家に戻り、妻の良美を呼びました。
中村家は、西村家と違って洋風の建物で、敷地自体はそれほど広くはなかったのですが、家は広く、立派な応接室がありました。
雄介が着替えている間、雄一郎夫妻は彼女と応接室で話すことにしました。
最初に由紀子が自己紹介すると、雄一郎が付け加えました。
「雄介のフィアンセの西村由紀子さんだ。」
「へえ、そうなの。」
良美は、驚きながらも喜んで由紀子に話しかけました。
「私、雄介の母の良美です。あなたみたいな素敵な娘が欲しかったの。家は男二人で、兄の信一郎は大学からアメリカに行ったっきりだし、雄介も今まで全然だったから、何時になったらお嫁さんを連れてきてくれるのか心配していたのよ。息子ともどもよろしくお願いするわ。」
由紀子は、婚約者と認めてくれたことはとても嬉しかったのですが、まだまだ恥ずかしくて真っ赤な顔で頭を下げました。
「ええ。こちらこそよろしくお願いします。まだ婚約者は早いかもしれませんが、その積りで雄介さんとお付き合いさせていただいております。本当によろしくお願いします。」
二人は初々しい由紀子に感心し、どこで息子と知り合ったか尋ねました。
由紀子が中学、高校と雄介のことをふった話をすると、二人とも大笑いしましたが、彼女は三度目で付き合い始めて直ぐに親しくなったから、やはり縁があったと思うと付け加えると、二人もにっこり笑ってうなずいた。
「そう。その縁を大切にしてくださいな。」
良美にも認めてもらえたようで由紀子がほっとしていると、流石に男で、雄介はもう着替えて出てきました。
由紀子が両親とすっかり打ち解けているのを見て、雄介も安心しましたが、彼はこの機会にと思って両親にはっきり告げた。
「由紀子さんと結婚したいと思っているので、許してください。」
由紀子が、どうなるのか緊張して二人の答えに注目していると、二人はにっこり微笑んで彼女の顔を見た。
「もちろん許す。由紀子さんは、雄介と同じ歳とは思えぬほど独特の気品と落ち着きがある。良くぞ捜してきたものだ。いや、中学生の時から知っていると言っていたから、良くぞ口説き落としたものだ。我が家の一員として大歓迎だ。由紀子さん、もよろしいかな。」
由紀子は、輝くような笑顔で答えた。
「はい。雄介さんの妻としてよろしくお願いします。」
良美も、喜んでいた。
「私も大歓迎よ。それでは、早々にあなたのご両親に挨拶に伺わなくてはいけませんね。」
雄介は余りにスムーズに進んだので拍子抜けしていましたが、由紀子が素直に喜んでいることが、一番嬉しかったのです。
二人は、由紀子の両親の方は大丈夫か雄介に確認し、昨夜彼女の母の香世子と祖母の淑子の許しは得たことを聞くと安心したが、聡一郎はその言葉から二人が昨夜一夜をともにしたことを確信しました。
しかし、それには触れずに夫婦で今度の土曜に挨拶に伺うと由紀子に告げました。
由紀子が恐縮しながらも喜んでその申し出を受けたので、二人はそんな彼女を微笑ましく思いました。
出勤の途中まで3人は一緒だったのですが、雄介は、自分には恐ろしく厳しい父が、由紀子にはとても優しく理解を持って接しているのが驚きであるとともに、喜びでした。
父も、彼女を気に入ってくれており、娘と認めてくれたことを示していましたから。
雄一郎と地下鉄の車内で別れた後、二人は駅から出るまでは一緒でしたが、由紀子が先に出社し、雄介はそのあたりを散歩し、始業時間ぎりぎりに出社しました。
そして、何食わぬ顔で仕事をしていた二人だったのですが、雄介は男で、何とか由紀子のことを頭の中から切り離すことに成功していましたが、由紀子はそうは行かなかったのです。
この一日、余りにいろいろなことがあり過ぎて胸が一杯でしたし、体には、まだ彼を受け入れたままのような違和感がありましたし、そのことを感じると、体が疼くような気がして、雄介に擦り寄りたくなったのです。
雄介はそれとなく心配して見守っていたのだが、由紀子がほわんとして赤い顔をしたままなので、課長に申し出て、早退させることにしました。
由紀子は、最初は大丈夫と言い張っていましたが、彼に「由紀子にも僕にも記念すべき経験をして疲れているんだし、もうお互い自分だけの体じゃないんだから、無理をしないで早退しなさい。」と言われて素直に従うことにしました。
香世子は、昨夜出て行った由紀子が早退してきたので驚きましたが、その後更に驚くようなことを聞かされました。
つまり、昨夜の初体験、彼と二人ホテルに泊まってのセックス、そして今朝は彼の両親に挨拶してきたこと、その二人が、今度の土曜に西村家に挨拶にくることになったこと。
最後の件には香世子も焦りましたが、淑子も出てきたので同じことを話すと、彼女は豪快に笑い飛ばしました。
「由紀子も大したものとね。ゆっくり休むとよか。今度は、良和の居る時に彼を連れて来るとね。」
そして、香世子には、中村家に対する挨拶は早い方がいいだろうから、良和とよく相談して応対するように言い付けたのです。
父に電話している母を尻目に、由紀子は着替えて昼寝をすることにしました。
一人で寝ていると、昨日から今日にかけてのことが思い出されて、幸せな反面、一晩で全て経験したことが、改めて恥ずかしくなりました。
でも、彼が今も仕事をしているかと思うと、たまらなく会いたくなったのです。
その時、はっと気付きました。
この会いたい感情も、大学1年の時と全く違っていることを。
あの時の私は、神坂俊一郎に会いたいとは思っていましたが、彼の優しさに甘え、彼から得られる知識で満足していました。
それは、純粋に精神的なものだった、いや、精神的なものでしかなかったのです。
しかし、今は違います。
雄介に会いたいという感情には、彼に抱かれたい思い、つまり肉体的なものが大きな割合を占めているのです。昨日初めて抱かれたというのに。
そして、会えない寂しさにも、心だけでなく、体の疼きが伴っていたのです。
これが愛情なのだとしますと、神坂俊一郎が教えてくれたように、精神的なものだけでなく肉体関係も伴った、完全な愛情といえるのかもしれません。
でも、セックスの快感を愛情と錯覚しているだけと言う考え方もできるのかなあと、由紀子は疑ってみました。
神坂俊一郎と築いた心だけの交流は、何ものにも代え難いものだったと今でも思われますが、自分が迷ってその関係が崩れてしまうと、とても空しく感じられてしまいましたし、何らかの証を伴わなかった分、却って精神的なショックは大きかったことを、身をもって感じていたのです。
逆に、雄介との肉体関係を伴った愛は、充実している反面、このまま別れても意外に平気な気がして、由紀子は自分が怖くなりました。
私は、雄介と結婚して、子供も産んで、幸せに暮らすんだ。
そう自分に言い聞かせて見たのですが、そこでまた疑問に突き当たりました。
果たしてそんな生活が幸せなのだろうかと言う。
でも、俊一郎も、姉の美紀も、その平凡とも言える生活を選んだではないか。
そう自分に言い聞かせて見ましたが、釈然としませんでした。
最後は、由紀子と俊一郎の共通の友人であり、俊一郎に恋をして悩んでいた吉野美香に対して彼が最後に言った名言で納得することにしました。
「本当は、特別なことが何も無いのが一番の幸せなんだよ。」
ほっと安心すると、寝不足のせいか眠くなったので、由紀子は眠りました。
香世子は、家事が一段落すると、娘の様子を見に来ましたが、彼女がとても幸せそうな顔で眠っているのを見ると、微笑ましく思いました。
姉の美紀は、賢明な選択を繰り返して平凡ながら幸福な生活を手に入れたのですが、由紀子は違ったのです。
大学に入るまでの由紀子を支えていたのは、母の香世子でした。
すると由紀子は、香世子のコピーのような少女になってしまったのです。
恐らく、神坂俊一郎はそのことに気付いたのです。
彼は、由紀子に自分の持っていた知識を惜しみなく注ぎ込むことで、自分の理想の女性に仕立てようとしたのです。
お陰で由紀子は、気品を身につけ、母である香世子の考えの間違いを冷静に見分けるようになりました。
自立しようとする心が、芽生えたのです。
その過程では、本来父である夫の良和が果たすべき役割の一端を、俊一郎が果たしてくれたとも言えたのでしょう。
ただ、残念なことに、二人には十分な時が与えられませんでした。
もし後1年続いていたら、由紀子は俊一郎によって大人にも、女にも、なっていたでしょう。
しかし、そのことは由紀子の幸せにはつながらなかったとも考えられました。
由紀子は、彼の心の中の闇を垣間見ることにつながったに違いありません。
とても優柔不断なところがあると由紀子は言いましたが、それは彼の狡猾な一面であり、姉の美紀は見抜いていましたが、本当は恐ろしく強い人間だったのだと思われます。
もしそのことを知ったら、当時の由紀子には、許せなかったでしょう。
俊一郎は、そこまで見抜いていたのです。
だからこそ、由紀子を抱かずに別れたのです。
ただ、彼と別れた時、不幸な事件もあり、まだ由紀子は自立し切れていませんでした。
そのため、彼女には大きな不安が残ってしまいました。
そして、その不安が、結果的には1年の遠回りをもたらしたのですが、由紀子が大人になるためには、必要なプロセスだったのです。
由紀子自身が認めていましたし、俊一郎は、全てを予知していたに違いないとまで言いましたが、二人は、出会うべくして出会い、別れるべくして別れたのでしょう。
そして、俊一郎と別れ、傷つき、立ち直った由紀子は、普通の恋人となった雄介には、きっととても幸せな抱かれ方をしたのだと思いました。
由紀子と雄介のセックスは、由紀子には最初から喜びだったのです。
そんな幸せな関係を持つことができたのは、幸運以上の何かがあったはずで、由紀子にとっては運命の相手だったのだと香世子は確信していました。
由紀子の姉の美紀も、山本孝一と婚約する時、由紀子と同様彼に処女を捧げていたことを香世子は気付いていました。
知らぬふりで通したのですが、彼女の初体験は大きな苦痛を伴っていたものだったことが、次の日の様子でも、後に由紀子に『引き裂かれるかと思った。』と語っていることでも、知れました。
当時の二人は、どちらかと言えば美紀の方が孝一に惚れていた関係であり、由紀子と雄介のような相思相愛ではなかったのです。
婚約してからの美紀が、貞淑な妻になるために涙ぐましい努力をした過程で、ようやく孝一の愛情が追いついてきたのです。
香世子と良和は、由紀子が発病した時、何かの参考になるかと思い、神坂俊一郎と美奈子夫婦のことを調べていました。
美奈子は、由紀子よりも1年年上なのですが、京大卒の俊一郎には不釣り合いな高卒の学歴しかない女性で、出身も山形の農家で、4人兄弟の末っ子だったのです。
容姿も、由紀子とは対照的で、小柄で少し太めで、幼さを感じさせる女性だと書かれていましたが、その育ちの分芯は強かったのだろうと思われました。
女子大卒で誰が見ても美人の美紀と違って、美奈子は童顔の美少女ではあっても、美人ではないとのことですし、恐らく陰では一流大卒の上、天賦の才能を欲しいままにしていた俊一郎に似合う女性になるために大変な努力をしたに違いないとも思われました。
俊一郎と結婚してからの美奈子は、家庭的で、上品で、彼にお似合いの奥さんだとの評判であると書かれていましたから。
また、大阪出身の俊一郎と山形の美奈子の家族とは、その考え方の違いによる軋轢もあったようでしたが、美奈子の両親は、彼が超一流の京大卒なのに娘を選んでくれたことと、父がいない可哀想な孝行息子であることを捉えて、彼の母の理不尽な振る舞いは大目に見たようでしたし、俊一郎の母や妹は、田舎の高卒でそれほど美人でもない美奈子のことを随分馬鹿にしていたようでしたが、自分の家族の反対は、彼が強硬に押し切って抑え込んだのです。
結婚後の神坂夫妻は、俊一郎が妻の美奈子の尻に敷かれているように見えるとのことですが、恐らく実態は彼がうまく操っているのでしょう。
その点、孝一は、完全に主導権を握るまでには至っていません。
お互い時々わがままをぶつけあいながら、何とか収拾して幸せな夫婦らしい家庭作りに努力している程度です。
まあ、それが普通の家庭なのでしょうが。
香世子は、世間的にはエリートと言われる一流大学卒の孝一や俊一郎のことを、本当は好きではありませんでした。
二人とも大した能力のある人間でしょうし、今は共に家庭的な夫と見られてもいるようですが、どこかで自分は他の人間よりも優れていると思い込んでいるように感じられたのです。
だから、俊一郎と付き合い、その教育を受けた由紀子が、その後他の男を恋人として見ることができなくなったのも無理からぬことだったでしょうし、大きな試練を克服した後、彼女が逆に俊一郎のような人間ではなく自分に近いものを持っている雄介を選んだことも、偶然ではなかったはずだと香世子は考えていました。
由紀子にとって雄介は、程ほどに賢明で、自分と一緒に歩いてくれる相手だったのです。
由紀子は、俊一郎のことを、孫悟空を掌の上で遊ばせたお釈迦様のようだったと言いましたし、孝一も、自分にとって損だと判断すれば自ら引くことで、美紀からそれ以上の譲歩を引き出す戦法を取っているように思えたのです。
凡人であることを選んだ由紀子には、自分と一緒に歩いてくれる雄介が一番なのです。
香世子は、娘の寝顔を見ながらそんなことを考えました。
由紀子は、余程疲れたのか夕方になってもまだ眠っていましたが、香世子が添い寝して髪の毛をなでてやると目を開けました。
「お母さんだったの。よく寝ちゃった。もう夕方なのね。」
「どう、雄介さんとはうまく行きそうなの。」
「うん。私、雄介さんに抱かれてようやく神坂さんが話してくれたいろいろなことが理解できたの。」
やはり、そんなことがあったのかと思いながらも、香世子は娘をほめた。
「あなたもようやく大人の女になれたのね。私も、神坂さんが私によこした手紙の意味がようやく理解できた気がするわ。」
由紀子は、確かめて見ました。
「母さんは、神坂さんのことを、どう思ったの。」
「母さん最初は、神坂さんて言う人は、ストーカーみたいにあなたのことをずっと追いかけていたかったのかと思ってたの。」
ストーカーには、由紀子思わず大きな声で笑いました。
「母さんは知らないけど、彼は確かに陰で凄く気を使うところはあったけど、本当は明るい人だったのよ。」
香世子は、うなずいた。
「そうでしょうね。美紀も、神坂さんのことを、陰があるけど、明るくて強い人よと言ったし。」
美紀は、その人の人となりを見抜く特技があったので、香世子も俊一郎個人の素晴らしさは認めていた。
「じゃあ、どうわかったの。」
「そうね。本当に先を見ていたことに気付いたの。あなたが一人で歩けるようになることを。」
母の言うことはよくわかったのですが、由紀子にはどうしても一つだけ理解できないことがあったのです。
「今思えばそれがわかるんだけど、彼何故唐突に自分の結婚のこと教えて私を放り出したのかしら。」
香世子は、娘の言葉に驚き、呆れました。
彼にも自分の生活があるし、社会人なのだから当然のことで、それが理解できない由紀子ではないはずです。
「神坂さんにも自分の生活があるのよ。複雑な家庭で結婚してやって行くのよ。あなたとは違うのよ。そんな彼と結婚した相手も大変だっただろうけど、彼が一番大変だったはずよ。あなたのことまでかまっていられると思う。そこまで甘えてどうするのよ。」
由紀子は、少し複雑な顔をしました。
「うーん。常識的にはそうよ。でも、あの人なら妻の美奈子さんと同時に、私と野々宮沙依さんと、それから同い年の夷川幸子さんの3人、計4人の相手をすることだってできたはずなの。それほどの能力と度量のある人なのよ。だから何故かなと思ったの。結果的には私のためだったんだろうけど。」
由紀子の言うように神坂俊一郎は超人的なのだろうが、娘は大きなことを見落としているので香世子は笑いました。
「あんた、本当に抜けてるわね。」
姉の美紀によく言われる言葉でしたが、母にまで言われると少し抵抗がありました。
「何が、抜けてるのよ。」
「神坂さんは、由紀子の言うように妻プラス3人の相手ができるぐらい凄いひとだったかもしれないけど、その4人は、特に奥さんは、それを許せるほど大きな人かしら。」
由紀子は、母の言葉でようやく理解できました。
「あっ、そうか。そのこと忘れてたわ。手紙だけの関係やった私まで美奈子さんに嫉妬して変になったぐらいやから、もし美奈子さんが私たちのこと知ったら、耐えられへんわ。そうやったんや、なるほど、抜けてたわ。」
香世子は、呆れていました。
「それにねえ、あんた彼に頼ってたら、何時までも大人の女になれなかったんやないかしら。」
「それは、言えるわ。」
由紀子、気付いて明るく笑った。
「あんた、神坂さんにどこまで要求したかったの。」
「うーん、わからへんけど、彼の卒業で恋人ではなくなっても、心のどこかでは、私が結婚決まるまで彼も待っていてくれて、甘えていたかった気がする。」
「あんた、それでお互い恋人ができて、うまく行くと思って。」
「行かへんかしら。」
無邪気にとぼけている由紀子に、香世子は更に呆れました。
「あんた、神坂さんの後、学生時代は結局恋人できなかったでしょう。」
「うん。だって、皆子供なんやもん。体目当ての下心見え見えか、マザコンかで、紹介してくれてた友達も怒って最後は誰も声かけてくれなくなっちゃった。でも良かったわ、1年の時に神坂さんと付き合えて。」
「何が良かったのよ。1年の時は幸せだったでしょうけど、その後が大変だったじゃないの。それに、誰も付き合ってくれないからつまらないって文句言わなかったかしら。」
由紀子、2年以後は、誰も付き合ってくれないからつまらないと何度もこぼしていたのです。
「いや、確かにそうやったけど、良かったって言ったのは、神坂さんに1年の時に4年分ぐらいまとめていい思い出もらったから良かったのよ。でなきゃ、私の青春真っ暗だったわ。」
ものは考え様だと、香世子は、由紀子の言葉に笑ってしまいました。
「世の中良くしたものね。」
「そうやの。神坂さんには本当に美しい思い出ばかりもらったわ。だから心苦しかったの。それからお母さん、今だから正直に言えるけど、私、神坂さんと付き合っていた時に、襲われたことあったのよ。」
「えっ、彼そんなことしたの。見損なったわ。」
母のとんでもない誤解に、由紀子は慌てて説明しました。
「違うわよ。誰だかわからない人によ。夜道で襲われたから、顔さえわからなかったのよ。」
香世子、そのことは以前に少し聞いた覚えがあったので、彼を誤解したことが恥ずかしかった。
「そうよね、絶対そんなことする人じゃないわよね、で、由紀子大丈夫だったの。」
「うん。失神していたから何が起こったかわからなくて、そのこともずっとトラウマになってたんやけど、昨日雄介さんに抱かれて見ると、私、処女だったことが確信できた。わずかだったけど出血したの。だから、本当に安心した。」
「神坂さん、そのこと知ってたの。」
香世子は、そのことも気になりました。
「私は、隠したかったんやけど、翌日会ったら、一目で見抜かれちゃった。それに彼、私が心配だったから、その夜も自分の側から離れるなって言ってくれてたのよ。」
「何で離れたのよ。」
「うーん、ようわからへんけど、彼の態度が許せなくて、逃げてみたの。」
「もう。自業自得やないの。」
「そうなの。ひどい目にあわされた上に、雨まで降ってきて、ほんとに死んでしまいたかったわ。彼ね、心配で下宿の前でしばらく待っていてくれたのよ。もしその時出会っていたら、どうなってたかわからないけど、きっと彼に抱きついて泣きまくったと思うし、キスぐらいはしてもらったと思うし、その後の人生変わってたとも思うわ。」
香世子にも、その感じはわかりました。
「でも、会えなかったのね。」
「そうなの。後で聞いたら、ほんの2~3分の差だったみたい。」
そんなことがあっても、彼は、由紀子と別れなかった。
何故だろう。
「それでも別れずに、由紀子には優しかったのね。」
「そうやの。彼、私が処女かどうかなんて全く気にならなかったみたいやの。傷ついた私にとても優しくしてくれたし、今考えて見ると、最初に変になったのって、男に襲われたことが原因やったし、彼、私が変になったから余計に心配してくれて、母さんに手紙まで書いたんやと思うわ。私がもしその時彼に素直に頼ることができてたら、きっと彼と結婚してたと思うわ。」
香世子は、由紀子自身がその選択をどう考えているか確かめました。
「あんたは、その方が良かったと思うの。」
由紀子はあっさりと首を振りました。
「ううん。私、もしそうなってたら、死んでたと思うわ。」
死ぬとは、穏やかならぬ話です。
俊一郎は大変な紳士であり、香世子には、彼が由紀子を捨てるようなまねをするとは思えませんでした。
「何故死ぬのよ。神坂さんは、あんたを捨てたりしないでしょ。」
「あっ、神坂さんね、預言者といってもいい人だったのよ。」
香世子も、例の預言曲集の話を聞いていましたから、彼が、そんな能力も持っていたことは想像できました。
「そうだったらしいわね。」
「それでね、初めて私とデートしたとき、私をその当人と思わずにとんでもない預言をしちゃったのよ。」
「どんな。」
「自分は、最愛の人を亡くす運命にあるとね。だから、もしあの時私が彼に頼っていたら、私は、彼の最愛の人にはなれたと思う。でも、死ぬことになったとも。」
香世子には、なぜ由紀子が死ぬのか理解できませんでした。
「何故死ぬのよ。神坂さんに愛されたなら、幸せになったはずでしょ。」
由紀子は、寂しげに微笑みました。
「彼、本当は物凄く怖い人でもあったと思うの。私には見せなかったけど、京大の人も、本当に怒らせたら彼が一番怖いって言ってた。彼のこと、暴力団の人ですら怖がっていたみたいなの。」
調査報告にも、それらしいことは書いてありました。
「そうだったみたいね。その筋の人と対等に話ができたらしいから、確かに彼強かったんでしょうね。」
「それで彼、卒業の時に暴力団の組長の養子にと望まれたらしいの。彼と結婚すること、きっとお母さんもおばあちゃんも反対したでしょ。それでも一緒になるためには、彼逆にそっちの世界に行くことを選択したんじゃないかって思う。」
「そっちって、そうなりゃあんた極道の妻やってたわけ。」
堅気の香世子には、想像もつかない怖い話でした。
「私、彼に抱かれてたらそうなったと思うわ。でも、あの世界甘くないでしょう。彼、本当は無茶苦茶非道なことでも、相手が尊敬に値しなければ平気でしたとも思うの。それが彼の強さであり、エリートの冷たさだったのよ。」
それはなんとなく香世子にもわかるし、それが彼女のエリートに対する反感にもつながっていたのですが、俊一郎がそこまでして由紀子を選んだとは思えませんでした。
「神坂さん、あんたのためにエリートの座を捨ててそこまでしたかしら。」
由紀子は、笑い出しました。
「やっぱり、母さんにもわからないのね。」
「うん。」
「やーさんの世界も会社と同じなのよ。組長の養子とでもなれば、幹部候補の超エリートで、その中でも、彼は最大の組織の後継者を狙える組から声がかかったらしいのよ。そんじょそこらの会社勤めよりもはるかに凄いわよ。」
空恐ろしい話です。
「それで、何であんたが死ぬのよ。」
「私、彼が最愛の人になっていたら、彼の冷酷さに耐えられなくなったと思う。それで、自殺するか、彼の身代わりになって死ぬこと選んだと思う。」
香世子は、娘が、命をかけてまで俊一郎を愛することができるとは思えませんでした。
「あんた、そこまでできるの。」
「うん。彼はやるとなるとそこまでしてくれる人なの。だから、私もそれに応えようとしたでしょう。彼、私だけを愛するようになったら、他人にはめちゃくちゃ冷たくなったと思うわ。それに、本当に冷酷なところもあったのよ。だから、もし私が身代わりになって殺されてたら、いや傷付けられただけで、その相手の組を皆殺しにしたと思うわ。」
「そんなものなの。」
香世子は、別の世界の話になったので戸惑いました。
「私にもよくわからへんけど、そんなもんなんやろうと思ったわ。だから、お互いこうなって正解やったのよ。彼、さっきも言ったけど、最初は私を恋人にする気なかったんよ。それが、最愛の相手になりそうになって焦ったの。そこでおあつらえ向きに私が襲われた事件があって、彼冷静になって自分を見つめ直したの。」
それでも、彼は優しかったと言うではないか。
「でも、彼、あんたには優しいままだったんでしょう。」
「そうなの。見かけはそのままやったけど、本当は襲われた件で自分を逆恨みするような態度を取った私の心の貧しさを見つけて、最愛の相手にはしないでおこうと思い直したんだとも思うのよ。まあ、彼両親にまで逆恨みされて、それどころやなかったんかも知れないけど。」
なるほどと思いながらも、調査でも親孝行で優秀とされていた彼が、何故両親に逆恨みされなくてはならなかったか、ふと考えた。
「神坂さん、両親のために離婚調停の仲介をしていたこと、由紀子も知ってるんでしょう。」
「うん。それで、私に彼謝ったの。」
「どうしてなの。彼何か悪いことしたの。」
献身的に娘の面倒を見てくれた彼が、一体何を謝ったのか、香世子には見当も付かなかった。
「ううん。そのごたごたで、私のことを十分にかまってあげられなかったって。私、驚いちゃったわ。あれで不十分だったら、十分かまってもらえたらどんなだっただろうって。」
香世子は、十分だったら、きっとセックスまで行っただろうと思って娘を見つめた。
すると、由紀子も同じことを考えていたと見えて、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「嫌だ。お母さんも同じこと考えたでしょう。」
香世子はさらっと受け流しました。
「夫婦ってそんなものよ。きっと彼ならそうしたでしょう。」
「そうよね。私もようやくわかったわ。」
雄介とセックスして、由紀子もそのことを認識していました。
「でも、何故逆恨みされたの。」
香世子は、娘の別れた恋人ながら、俊一郎のことには興味がありました。
「彼ね。親孝行だったんやけど、それ以上に正し過ぎたんやと思うわ。彼のお母さんは、自分と夫を公平に見たことが許せなかったんやと思う。彼、お母さんの代理人だったんだから。きっと彼のお母さんは、息子は完全に自分を支持してくれていると思ってたんでしょう。でも、彼は、自分が正しいと思う案を組み立てていったらしいの。それで、丁度私が変になった頃に、調停も最終局面を迎えていて、最後の最後に、正しいはずの彼の提示した案を、両親とも拒否した上に、二人して彼をののしったんですって。」
何と言う悲しい家庭だろう。
香世子は、俊一郎に同情しましたが、娘が彼と結婚しなくて正解だったと、改めて思いました。
「可哀想な人だったのね。」
由紀子は、わずかに微笑みました。
「今ならわかるんやけど、彼、私と会っている時が唯一の慰めだったんやと思う。その私にまで変になられたのよ。ショックは計り知れないわ。私だったら、狂って死んでたかも。」
そんな経緯があったことを香世子は知らなかったし、それだからこそ娘を彼と別れさせることもできたのだと思われましたが、別れさせたこと自体は、結果的には正解だったとも思いました。
「でも、別れて正解だったのよね。」
「そう。寂しそうやったけど、彼もそれを望んでいたでしょう。何もしてあげられなかったのが心残りやけど、結婚してたらただじゃ済まなかったと思うし、これでいいのよ。」
「そうね。でも、そんな彼も、今は普通の家庭の良き夫兼良き父になってるわ。」
その一言で、由紀子はぴんと来ました。
「あーっ、お母さん彼のことまた調べたのね。」
香世子は、悪びれずに認めました。
「そうよ。ばれちゃったわね。私、あんたが変になってから、彼のこと調べて見たのよ。」
他人の秘密を覗くとは、ひどいことをすると思った由紀子でしたが、やはり興味があったし、母の行為も自分のためであったと思えば許せました。
「それで、今どうしてるの。」
今や恋人が出来、結婚も視野に入って来た娘も、やはりまだ気になっているんだとわかると、二人で覗き見をしているような気がして笑えて来ました。
「彼、二人の子供に恵まれて、今栃木にある研修所で教官みたいなことをしているんだって。」
もう子供が二人もいるんだ。それを思うと随分年月が経ったような気がしましたが、結婚してからもう3年近いわけで、同じ年に結婚した姉にも子供が生まれるし、律子もお腹に子供がいると言うし、不思議なことではありませんでした。
「じゃあ、幸せなのかな。」
ちょっぴり複雑な思いを持って言うと、母の答えは変わっていた。
「今は幸せなようだけど、新婚当初は、彼の母が、無理難題を押し付けて離婚寸前まで行ったらしいわ。」
「えっ、彼はいい人でしょ。」
「そのようね。」
「じゃあ何故。」
「結婚は、本人だけのものじゃないのよ。私やおばあちゃんが心配しただけのことはあったのよ。」
由紀子は、彼が可哀想になりました。
「何やら、どこまでも不幸な人やね。」
「そうね。折角才能に恵まれても、それを生かすことができる環境は与えられなかったのね。」
香世子は、京大に何の苦労も無く入れた、いや、家庭でそれだけの苦労をしながら入れた彼の才能は、本当にもったいないと思っていました。
「だから、言えたのね。『特別なことが何も無いのが本当は一番幸せなんだ。』と。今ならよくわかるわ。でも、彼は逆に自分の才能を活かすことが幸せにはつながらないと思っていたみたいよ。」
娘の言葉に、香世子もそうかもしれないと思いました。
エリートで一生懸命働いて、出世して、それが結局何につながるのだろう。夫の良和は、まあまあ優秀と言う程度だが、それでさえ都合よく働かされているように思えるし、何だか可哀想に思えることもありました。
でも、それが社会であり、神坂俊一郎も優秀な社員と目されているのです。
「でも由紀子、神坂さんだって今はエリートサラリーマンなのよ。」
すると由紀子は、驚くほど大きな声で笑い出した。
「何故、笑うの。」
「お母さん、彼のこと知らないからよ。」
「と言うと。」
「彼なら、持てる力の十分の一発揮するだけで、優秀な社員なのよ。」
「そんなに凄い人なの。」
娘が言い切るからには本当なのでしょうが、香世子にはイメージが湧きませんでした。
「凄かったわ。能力も凄いけど、彼のもっと凄いのは、集中と分散を見事に使い分けられるところだったわ。」
「どう言うことなの。」
香世子には、皆目見当が付かなかったので、聞き返しました。
「そうね。普通の人なら、何でも集中してやりなさいって言うじゃないの。」
当然のことのはずである。
「そうじゃないの。」
「うん。彼、集中しても凄いけど、私たちのレベルの思考なら、平行して三つぐらいのことを考えられたのよ。」
「へえ、本当なの。」
感心すると、由紀子は少し悲しそうな顔になりました。
「でもね、それが、私が彼を誤解する原因にもなったの。彼、私だけを見ていてくれなかったから。」
「じゃあ、他に何を見てたの。」
「そうね、私と話しながらも周囲の状況を見てるの。後ろに目があるみたいだったわ。だから、空手の有段者だったって言う彼のお友達のヤーさんが、彼を怖がったのもわかるわ。」
「えっ、何故。とっても紳士だったんでしょう。」
「彼、隙が無いの。それに、何考えてるかわからないのよ。」
「ふーん、そうだったの。」
それなら、娘が誤解するのも無理は無いし、話に聞いたとおりだとすると、不気味な男でもあることになる。
「母さん、それだけで感心してちゃ駄目よ。まだ先があるのよ。」
「えーっ、まだあるの。」
「そうなのよ。私も、実態を知った時は、驚くよりも呆れたわ。」
「話してよ。」
「彼、私と話しながら、周囲に気を配っているだけでなく、全然別のことまで考えていたのよ。」
「何考えていたの。」
「きっと、お家のことだったんだと思うわ。私と付き合っていた時が最悪だったって言ってたし、調停のことでも考えていたのかしらね。」
それは超人的かもしれないが、失礼だし、許せないと香世子は思いました。
「じゃあ、あんたが誤解して当然よ。失礼じゃない。」
しかし、由紀子は苦笑しました。
「ううん、それでも普通の人間が、私一人だけを相手にしていたとしてもとてもできないようなことまでやってくれてたのよ。彼、別のことを考えながらでも私と話しているし、ちゃんと受け答えもしてるのよ。私、最初は満足だった。彼は、恋人とは言いにくかったけど、最高の相談役であり、運転手であり、観光ガイドであり、家庭教師でもあったんだもん。」
「じゃあ、どうして不満になったの。」
「私、彼の内面を覗けるようになったの。いや、彼が私のことを認めてくれて、安心して自分の心の内面まで覗かせるようになったのよ。だから、私とデートしながら別のことも考えてることまでわかるようになったの。」
香世子は、神坂俊一郎に更に興味を覚えた。
「他にも何かあったの。」
「彼、私と一緒の時は、常に仏像のようなスマイルを浮かべていたんだけど、一人になると、凄く苦しそうな、寂しそうな顔を見せることがあったの。それで、私も段々彼の心の中が覗けるようになってきたから、私と一緒の時でも彼が別のことも考えてることがわかってきたの。」
「やっぱりひどい人じゃないの。デートの時は、恋人だけを見るものよ。」
香世子は、夫が自分と話しながら別のことを考えていたら許せないと思った。
「ううん、一概にそう決め付けないで。彼が平行して考えていてくれたことには、私のことも含まれていたんだから。私、今ならわかるんやけど、恐らく彼みたいに長い間一緒に付き添ってくれて、色々なことを教えてくれて、色々なところに連れて行ってくれて、優しく包んでくれる人には、一生巡り合うことは無いわ。これで彼を責めたら罰当たりだと思うわ。」
「そうかしら。」
「今思えばそうなのよ。当時は私、母さんみたいに許せないと思ってしまったんだけど、それはひどい高望みだったのよ。」
「そうなの。確かに美紀も言ってたわね。あなたのわがままに付き合ってくれた神坂さんは超人的だって。」
「そうなのよ。私、そんな彼の努力を踏みにじったんだと思う。それを思うと、涙が出るわ。」
由紀子は、ぽろぽろと涙をこぼしました。
「もう過ぎたとこよ。それに、彼はそこまで見通していたんでしょう。恨んではいないわよ。」
香世子が慰めると、由紀子は大きくうなずきました。
「そうよ。彼、人を恨んだりしなかった。両親のことだって、最後は、『いい経験させてもらった。』と笑ってた。姉さんには、私がかまわなければ、本当に味気ない学生生活で京都にいながらどこにも行かずに終わってたかも知れないって言ってくれたし。」
香世子も付け加えました。
「私への手紙でも、由紀子と一緒に京都中巡ることができて楽しかったって書いてたわ。」
「そうだったの。とにかく彼は、私に素晴らしい思い出をくれた。そんな彼の悲しみを理解できなかった私は、大馬鹿者よ。」
「今更どうしようもないわよ。そう思うなら、彼と同じで、『いい経験させてもらった。』と思って自分で幸せをつかみなさい。それが、彼に対するせめてもの思いやりよ。」
「そうかしら。」
「そうよ。彼は他人の不幸を望むような人じゃないでしょう。」
「そうだ。確かにそうだわ。よし、雄介さんと二人で幸せになろう。」
香世子は、笑いながら釘を刺しました。
「彼と神坂さんを比べちゃ駄目よ。」
由紀子は悪戯っぽく笑いながら答えた。
「うん。でも、私は幸運だったわ。」
「何が。」
「雄介さんが初体験の相手になったことが。」
「何故。」
聞き返しながらも、香世子は自分も夫の良和しか知らないな、と気付いた。
「夫婦生活ってよく言ったもので、セックスで結びついて行けば、神坂さんと比較しないで済むなって実感したのよ。やっぱり、神坂さんには抱かれないでよかったわ。」
それが言えると言う事は、娘と中村雄介はセックスの相性も良かったに違いないと香世子は思った。
「まあ、夫婦は仲良くやることね。それより、本当に大丈夫なんでしょうね。」
香世子は、すっかり結婚する気になっている娘が心配で聞いたのだが、由紀子は誤解した。
「えっ、何のこと。セックスなら、とっても良かったわ。」
娘のとんちんかんな答えに、香世子は吹き出しました。
「何言ってるのよ。結婚のことに決まってるじゃないの。大体、先にやっちゃったのはいいとしても、仲人無しで二人で両家を行き来したんでしょう。家はいいけど、中村家は大丈夫なのって確かめたかったのよ。」
香世子は心配していたが、由紀子は雄介の両親にも気に入ってもらえたと信じていた。
「大丈夫よ。気さくな感じで、私のことも気に入ってもらえたようだし、土曜日にご挨拶に伺いますと言ってくれたもん。」
「それは良かったけど、朝帰り直行ってのがいいわね。私ならとてもそんなこと思い付きもしなかったわ。きっとあなたが言い出したことなんでしょう。」
昨日初めて会った雄介は慎重そうなタイプだし、セックスのことだってきっと由紀子から迫ったに違いないと香世子は考えていました。
「そうよ。ホテルに誘ったのも私。で、昨夜二人で泊まろうって頼んだのも私。今朝、雄介さんが着替えに戻るので、ふと思い付いて無理言って付いて行って挨拶してきたのも、みーんな私の仕業でーす。」
香世子は、姉の美紀も夫の孝一に自分から迫ったことを知っていましたし、それ以外のことも自分で計画していたことは確かだったのですが、彼女の場合は非常に巧妙に、最初は偶然を装って両家の顔合わせを演出しており、その辺は古典的な見合いの手法を踏襲したものだったのです。
しかし、策を弄し過ぎの感もありましたから、単刀直入そのものずばりの由紀子の方がむしろ好ましくも思えました。
恐らく、雄介の両親もそんな由紀子の飾り気の無い正直さを気に入ってくれたのだろうとも思えたのです。
そう言えば、神坂俊一郎も、由紀子の無邪気なところをほめていました。
ただ、彼の場合、無邪気と言うよりはわがままに振り回されて終わってしまったようで気の毒に思いましたが。
「あんたは、本当に得なものを持っているわね。」
半分呆れながら言うと、由紀子はきょとんとしていました。
「そうかしら、私美紀姉さんと違って不器用だったから、1年遠回りしちゃったと思ってるんやけど。」
「ううん、そうじゃないわ、あなた美紀にもほめられてるでしょ。」
「何のこと。」
「私の前では清楚な女子大生、神坂さんの前ではそれに加えて処女と少女が同居したような顔してたって。」
全てに要領のよい姉の美紀に、自分はとても真似できないと言ったら、彼女は逆に俊一郎の前の由紀子のような顔はとてもできないって言われた覚えがありました。
「でも、昔のことやないの。」
「違うわよ。あんたその点じゃもっと磨きがかかったのよ。」
「えーっ、そうかしら。」
由紀子は、自分では大人になった反面そんな魅力は無くなったと思い込んでいました。
「あんたの方が、美紀より上よ。」
「えーっ、そんなことないわよ。私、姉さんみたいに気配りしないもん。」
「だからいいのよ。」
「どう言うこと。」
香世子は、姉の美紀は配慮の上に配慮を重ねてくるが、自然に見せようとしてどこかでわざとらしさを感じること。由紀子は正直に自分をさらけ出してくるから、真実の重みがあり、生来の無邪気さとあいまってとても魅力的な雰囲気を醸し出していることを説明しました。
由紀子は、言われて見ると確かにそうかも知れないと思えましたが、その姉にも凄く世話になっていましたから、姉のお陰もあるかなと答えました。
香世子はわざと、シーツを持って行って持って帰ってきた理由を聞いてみました。
すると由紀子しばらく考えて持って返ってきたのがホテルのシーツであることに気付き、慌てだしました。
「わっ、私持って帰って来たのホテルのシーツだったわ、どうしましょう。」
「どうしてホテルのシーツ持って帰って来たのよ。」
「いや、それは。」
娘が真っ赤になったので、香世子は理由を察しながらからかいました。
「我が家のシーツがそんなに気に入らなかったのかしらね。」
「うー、言いにくいじゃないの、お母さんも察してよ。」
由紀子は、思い出しただけでも恥ずかしかったのです。
「わかってるわよ。初めてで汚しちゃったんでしょ。それでつい取り替えて間違えて持って帰って来たと正直に言いなさい。」
「うー、確かにそのとおりよ。でも、どうしよう。」
まだつまらないことを考えているので、香世子は笑いながら娘を抱き締めた。
「大丈夫よ。いい記念になるでしょ、家のシーツは安物だし、もらっておきなさい。」
「はーい。」
安心した表情がまた輝いていていいな、と香世子は自分の娘ながら感心しました。
「あっ、それからね、私、ホテルのチェックインのとき、雄介さんが私のこと何と書こうか迷ってたからペンを取り上げて『中村由紀子、妻』って書いちゃったの。」
香世子は、おやまあと呆れました。
「真面目に考えてるんだろうけど、あんたたち、本名書くとはいい度胸してるわね。」
由紀子は、そんなこと考えもしませんでした。
「ラブホテルじゃないもん。何だか新婚気分を先に味わっちゃった。」
「本当にあんたには驚かされるわ。大学までほんとうにネンネで困ったものだと思っていたら入学したら直ぐに恋人めっけてくるし、うまく行くかと思ったら大騒ぎになるし、その後は23歳の今までろくに恋人もできないからえらく晩生かと思っていたら、一晩で全て済ませてしまうし。」
「でも、良かったと思うわ。」
由紀子は改めてそう思ったし、香世子も娘の言うとおりだろうと思った。
「そうでしょうね。ところで、雄介さんとは変な感覚はあったの。」
由紀子は、何のことかわかりませんでした。
「変なって。」
「神坂さんとの時みたいな、心でつながってるってやつ。」
「あっ、それはないわ。」
「ちょっぴり残念かしら。」
香世子、由紀子が俊一郎と付き合っていた当時、彼とは心でつながっていて、側にいて一言も話さないでも気にならないと信じられないようなことを言って喜んでいたので、雄介とはそんな関係になれないことをどう考えているか確かめてみたのです。
「ううん、そんなことないわ。前にも話したし、律子さんにも言われたんだけど、神坂さんとの関係は、一方通行だったのよ。彼は、私の全てを心で感じ、優しさで包んでくれていたと思うけど、私は彼に同じことをしてあげられなかったし、できなかった。全てが彼の手のひらの上のできごとだったのよ。」
「雄介さんとは違うのね。」
「そう。彼とは心でつながったことはないけど、その分以上に体で満たされたみたい。」
「もう。はずかしげもなくよく言うわ。」
香世子は、処女を失った翌日に言う言葉かと呆れました。
「そうよね。確かに恥ずかしいけど、実感ね。その点でも神坂さんは正しかった。」
「何が。」
「体も大切って。」
「その彼があんたを抱かなかったのは、運命の皮肉ね。」
由紀子もそのとおりだと思っていました。
「そうよ。でも、彼だってやって初めてわかったんだと思うわ。母さんどう。」
「もう。確かにあんたの言うとおりよ。でも、初めてのときは悲惨だったわよ。当時はまだ女性は我慢するのは当然ってところがあったから、自分でもそんなもんかって思ってたけど。」
「でも、良くなったんでしょう。」
香世子、由紀子は失恋しておかしくなって、それがなおって、今度は処女を失って、そのおかげでずいぶんさばけたと思いました。
「あんたも変わったわね。」
「うん。こんなこと前なら聞けなかったわ。」
「そうよね。美紀は結構さばけてたけど、あんたは本当にネンネだったもんね。でも、確かにあんたの言うとおりよ。何度かやってるうちに本当によくなったわ。満たされてるって言うか。それでようやく夫婦って実感したかしらね。」
「わーい。私もう実感できたわ。」
無邪気に喜ぶところは、まだ子供かなと思いながら、香世子はからかった。
「今からそんなこと言ってたら、結婚する前に飽きられるわよ。」
「えっ、そうなの。じゃあ、やらないようにした方がいいかしら。」
冗談を真に受けるところは、まだまだ子供だなと香世子娘を微笑ましく思いました。
「冗談よ。あんたきっと私に似て感じやすいんでしょう。」
聞くと由紀子、真っ赤になりました。
「うーん、そうかも。恥ずかしい。」
「いいのよ。それは自分にも幸せだし、男の人にも最高の魅力なのよ。感じなくなったらおしまいよ。」
「じゃあ、いいのね。」
「そうよ。自信を持ちなさい。」
「うん。何だか私、雄介さんとセックスしたら、自信ができたの。」
由紀子、彼とのセックスを経験して自分の中で一番大きく変わったのは、この自信かなあと感じていました。
「それが女の強みかもね。」
「えっ、そうなの。」
「そうよ。母になってごらんなさい。もっと強くなれるわよ。」
「ふーん、そんなものなんだ。」
以前の由紀子なら、全然実感が湧かなかっただろうが、今やそんな気もするようになったから、進歩だなあと自分でも感じていたのです。
「じゃあ、とにかく中村家とまずはうまくやらないとね。」
「うん。今朝ご挨拶してきたし、心配はしてないけど。」
これも、以前の由紀子なら考えられない度胸だなと、香世子は感じていました。
「それは、私たちに任せなさい。何でも一人でやるもんやないのよ。」
由紀子はふと、俊一郎は何でも一人でやったかもしれないなと思い付きましたが、自分のことは両親にお願いすることにしました。
「そうね。頼りにしてますから、お願いします。」
香世子、この辺も由紀子の得なところだなあと思っていました。
姉の美紀は、一生懸命勉強した成果ではあったのだろうが、冠婚葬祭入門に書いてありそうなことをきっちり計画してお膳立てしてきましたから、西村家の婚姻の感じが薄かったのですが、由紀子なら西村家、中村家、双方の良さを引き出せそうな気がしました。
母の淑子も、今回は妙に乗り気でしたし、この分では半年もせずに娘の結婚式が見られるのではないか、そんな予感があったのです。
「いいわ。今回は、私たちに任せなさい。ただし、本人同士は、きちっと詰めなさいよ。」
「はい。私には心強い味方が、少なくとも5人はいるから、大丈夫よ。」
香世子、5人とは誰かが気になったので聞き返しました。
「5人ってだあれ。」
「まず、先輩になる姉さんと孝一さんでしょ。」
「それから。」
「やっぱり先輩の、律子さんと勇先生。」
「なるほど。でも、後一人はだあれ。」
香世子、後一人が思いつきませんでした。
「敦子ママ。」
高級ナイトクラブ「華」のママである田中敦子は、律子とともに由紀子に一日ホステス入門をやってくれた後も、面倒を見てくれていたのです。
「なるほどね。でも、中村家たまげるから、大事なお友達かもしれないけど、敦子ママと華の人たちは呼んだら駄目よ。」
「うーん、残念だなあ。みんな面白い人たちだから、祝ってもらいたかったんだけど。」
由紀子、母が反対する理由もよくわかったのですが、残念でした。
「私も、あなたによくしてくれたことは本当に感謝してるけど、あなたは雄介さんとは社内恋愛にもなるわけでしょ。」
「そうなるわね。」
「そうなると、雄介さんの関係からも、式に呼ぶのは会社の人中心になるのよ。」
「律子さんと勇先生は、駄目。」
由紀子、二人だけは呼びたいと思っていました。
「二人はいいけど、病気の話しは出さないのよ。」
これも、中村家と会社に対する配慮であることを由紀子は理解できましたが、病気があって二人とは何ものにも代え難い友人になれたし、乗り越えた自分がいるのだし、隠すのも変な気がしていました。
「まあ、常識的にはそうなのよね。」
「そうよ。おめでたい席での配慮だと思いなさい。」
「うーん。まあ、いいか。でも、代わりに敦子ママにお願いしようかしら。」
「何を。」
「結婚式の二次会。」
「えっ、あんたまさかナイトクラブで二次会やる積もり。」
「だって、おせわになった皆様だし、会社とはすっぱり区別して、純粋に個人的に祝って欲しいのよ。」
香世子、面白い提案だとは思いましたから、無碍には否定しないことにしました。
「そうね。確かに面白いから、お父さんに許しを得てから、律子さんと一緒に敦子ママに相談してごらんなさい。」
「わーい。やってみるわ。」
結構とんでもない提案だったのですが、確かに面白いし、以前の由紀子なら考えつきもしなかったことでしょう。ただ、雄介はどこまで知っているのか、それが気になりました。
「そう言えば、雄介さんにはどこまで話したの。」
「どこまでって。」
「病気の話し。」
「ああ、それは全て話したわ。」
「大丈夫だったの。」
香世子、心の病は今でも気にする人が多いことは知っていましたし、それがもとで破談にならないか心配だったのです。
「大丈夫よ。ご両親には雄介さんからちゃんと話してもらうわ。」
この辺も、夫以外には妹の病を隠した美紀とは大きな差だなと思った香世子でしたが、本人がこれだけしっかりしていれば、確かに大丈夫そうに思えましたから、娘の思うようにやらせることにしました。
「あなたも本当にしっかりしてきたから、そちらの話しは自分の責任で進めなさい。」
「はーい。」
由紀子、母が信用して任せてくれたことも嬉しく思えました。
西村家と中村家は、次の土曜日に話し合いを持って婚約を整えました。
同じ課で交際、結婚はやはり具合が悪かろうと、由紀子は、1か月で退職して雄介の父の会社に移り、彼の秘書を務めることになりました。
由紀子と雄助は、姉夫婦と同じ10月か、来年の6月挙式を計画していたのですが、何と雄助の母の知人が経営する結婚式場で、1ヶ月後の6月の大安吉日に突然キャンセルが出て、破格の値段でサービスしてもらえることになったから、挙式を早めてはどうかとの中村家からの打診を受け入れ、1ヶ月後の6月に入籍、挙式となり、俊一郎の預言通り、6月の花嫁が誕生することになったのです。
俊一郎の預言曲集、由紀子を対象にしていたことは明らかなのですが、まさか、ここまで的中するとはと、由紀子本人も驚く、付き合い始めてから結婚まで2か月のスピード結婚となりました。
しかし、雄助と由紀子、二人の関係は、恋愛から結婚までが通常よりも早かったこと以外は、何も特別なことのないものだったのです。
この点も、由紀子は、俊一郎の言葉を信じました。
何も特別なことのない日常こそが最高の幸せであるとの。
その結果、めでたく俊一郎の預言曲集は成就したことになりました。
そして由紀子は、結婚前に雄介の父の会社に移り、秘書を務めることになったのですが、雄介も退職して父の後を継いだため、10年後には、由紀子は社長夫人となり、今は亡き二宮令子の預言、「由紀子は貴婦人になる。」、も当たったのです。
もっとも、生き残った預言者の神坂俊一郎本人は、自分も、妻となった美奈子も、出世には全く興味がなかったためか、学歴の割には、地味な人生を送りました。
とは言っても、管理職や役員にならなかっただけで、同じ会社に定年退職までの38年間、継続雇用6年と、44年勤めながら、彼ほどいろいろな仕事を経験した人間はまずいなかったため、彼自身は、面白い仕事がいっぱいできたと、仕事でも満足した人生を送りました。
その点は、サヴァン症候群の超越的な頭脳を駆使して彼がシミュレートした何百通りもの人生で一番良いものを選択したと、妻の美奈子の質問に答えた言葉は、嘘ではなかったのでしょう。
彼の預言曲集の最後にあった「鏡よ鏡」の歌については、白雪姫の継母(本当は実母だといいますが)のように、自分よりも上のものは殺してしまえ、手に入らないものはなくしてしまえという、人間の心の貧しさを皮肉ったような歌でした。
心の貧しさとは無縁の幸せを手に入れることができた、俊一郎自身、美奈子、由紀子、律子には無縁のものであり、俊一郎のジョークだったとしておきましょう。
一応完
神坂家の物語 神坂俊一郎 @nyankomitora
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