第9章 静かに踏む③

 翌朝

 いつもの道なのに、少しだけ違って見えた。神宮寺咲は制服の襟を直しながら、自宅の門を出た。空はまだ柔らかい青で、通りの木々が朝の光をうっすらと浴びている。背負った鞄の重さも、靴音の響きも、いつも通りのはずなのに―― 空気の粒が細かく感じられるような、そんな朝だった。

 駅までの道に咲は慣れている。それでも、信号待ちの間に聞こえてきた電車の音が、今日はまるで遠くから祝福してくれているようにも感じられた。

 (……なんて、らしくない)

 自分で苦笑する。でも、そう思えてしまうほどに、今日という日は静かに、確かに特別だった。新学期のはじまりでもない、何か大きな節目があるわけでもない。それなのに、咲の足取りは自然と少しだけ軽くなっていた。

 校門をくぐったとき、見慣れたはずの景色がどこか新鮮に映る。校舎の壁、並ぶ花壇、通り過ぎていく制服の群れ―― そのすべてが、まるで“これから”のために並び直された舞台のようだった。鞄の中には、入部届と、新しいラケットが入っている。

 誰にも言っていない。けれど、それだけで今日の一歩は、これまでとははっきりと違っていた。咲は校舎の前でふと足を止め、春の光を背に、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 ——あの場所に戻る。

 そのための扉を、これから自分の手でノックする。静かな朝の音の中、咲の背中はほんの少しだけ、空に向かって伸びていた。

 校舎の廊下は、朝の静けさに包まれていた。生徒たちの声はまだまばらで、職員室の前も落ち着いた空気が流れている。咲は一度足を止めて、鞄の中の封筒を指先で確かめた。胸の奥に、静かに波紋が広がっていくような感覚。それでも、もう迷いはなかった。

 ノックをして、扉を開ける。職員室の奥の席に、大沼の姿が見えた。彼は机の上の資料に目を通していたが、扉の音に気づいて顔を上げる。咲と目が合うと、一拍置いて椅子から立ち上がった。

 「……神宮寺。どうした?」

 声は低く落ち着いていた。詮索する様子はなく、あくまで自然体だった。咲は鞄から一枚の封筒を取り出す。折れも汚れもない、丁寧に準備された書類。

 「入部届です。提出に来ました」

 言いながら、咲は静かに封筒を差し出した。大沼は受け取り、封を見下ろす。咲の名前が、癖のない筆跡で書かれていた。確認すると、ほんのわずかだけ、口元が緩む。

 「……わかった。確かに預かった」

 それだけを告げて、封筒を自分の机の書類の上に置く。

 「部として迎える準備はできている。初日は、無理をしなくていい。ペースは自分で決めろ」

 その言葉は、許可ではなく、理解だった。咲の覚悟に対して、余計な言葉を添えることはない。それが大沼という人だった。

 咲は深く頭を下げ、職員室をあとにする。背後でドアが閉まったとき、胸の奥に小さな熱が宿っていた。それは言葉にするまでもなく、自分自身へのはっきりとした宣言だった。

 “白凰の天才”が、再び歩き出す。

 その一歩に、迷いはなかった。

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サイレントアクシス 朽木 真矢 @kuchimaya

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