第9章 静かに踏む②

 店を出て扉が閉まると同時に、街の空気が肌に触れた。少し乾いたような匂いと、日差しの温度が、さっきまでとはまるで違って感じられる。同じ通りのはずなのに、景色まで新しく見えた。それはきっと、自分の中の何かが、ほんのわずかに変わったからだ。咲は紙袋を持つ手に力を込めることなく、そのまま歩き出した。軽くもなく、重くもなく。ただ、自分の意思で選んだものの重さだけが、手のひらに残っていた。

 (本当に、買っちゃったんだ)

 目の前の交差点を渡りながら、ふと実感が胸に広がっていく。もう後には戻れない。けれど、それが嫌ではなかった。

 電車に揺られる帰り道。窓の外を流れていく景色が、どこか遠い場所のように見えた。膝の上に置いた紙袋からは、まだ微かにラバーの匂いが立ち上っている。自分の中ではもう、今日という日は特別な始まりだった。

 ホームに電車が滑り込み、足を踏み出す。手に持った袋が、少しだけ重くなったような気がした。それでも咲は、真っ直ぐ前を向いて歩き出した。

 玄関の扉を閉めて、咲は紙袋を手に持ったまま、しばらく立ち尽くしていた。数時間前まで棚に並んでいたものが、今は自分の持ち物になっている。それだけのことが、こんなにも現実味を伴うのは久しぶりだった。部屋に入り、机の上を片付けると、袋からケースを取り出した。紺と青のツートンに、線で描かれた模様が散りばめられている。華やかではない。けれど、手に取ったときにどこか落ち着く感じがして、それが決め手になった。ケースのファスナーをゆっくりと開ける。中に収まっているのは、まだ一度も球を受けていないラケット。黒と赤のラバーが、自然光を受けてほのかに反射している。その縁をぐるりと囲うのは、濃紺に細い銀のラインが走るサイドテープだった。主張はないが、角度によってほんの少しだけ光るそのラインが、咲にはちょうどよかった。

 (こういうの、昔なら選ばなかったかも)

 ささやかな装飾に、今の自分の変化が少しだけ映った気がした。

 咲はそれを取り出して、静かに構えてみた。音も言葉もない部屋の中で、手に伝わってくる感触だけが確かだった。

 (……これで、本当に始まるんだ)

 思ったより重くはなかった。それでも、その存在は手の中で静かに、でもはっきりと主張していた。咲はラケットを丁寧にケースへ戻し、ファスナーを閉じた。その音が、自分の中でなにかを区切る合図のように響いた。

 その夜、動画サイトで再生したのは、自分が最後に出た大会の映像だった。

 何度も繰り返し観た、あの敗戦。けれど今日は、少し違って見えた。ラケットを握っただけで、時間が少しだけ動き出していた。


 その後の三日間、咲は特別なことは何もしなかった。机の上のラケットに何度も視線を向け、素振りをしてはやめ、動画を再生しては途中で止めた。あの日に一歩を踏み出したことだけが、心の奥で静かに息づいていた。

 誰にも話していない。

 親にも、未来にも、岡部にも、顧問にも。

 ただ、自分だけが知っている、小さな準備を重ねていた。

 机の引き出しから封筒を取り出す。その中に、一枚の入部届をそっと入れた。何も変わらないように見える部屋の空気が、ほんの少しだけ澄んで感じられる。窓のカーテンが揺れる。その静かな揺れを見つめながら、咲は鞄の口をゆっくりと閉じた。——明日が、その始まりになる。たったひとりの、静かな衝動だった。

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