第2話
「……光とは、自分の内に瞬く息吹なのです。
最初からはっきりと見えるわけではない。
いつでも見えるわけでもない。
けれど確かに存在するものです」
シモンは教典を読み終えるとメリクにそう語ってくれた。
「……誰にでも、ですか?」
翡翠の瞳が何故か少し怯えたような瞳でシモンを見ていた。
大司教は穏やかに笑む。
「もちろん……。良いですか。光は命と強く結びついている。分け隔てた別々のものではないのです。生きているということは、そこに光が必ずあるということ」
メリクは物思いに沈んだまま独り言のように呟いた。
「光がある所には闇も必ず生まれるという。
では闇も……人の中に必ず、当然のようにあるものなのだろうか……」
「確かに……。人の中には闇もまた存在します。しかし忘れてはいけないことは、闇が単純なる悪では無いということです。
夜の闇が決して悪ではないように……己の暗い内面を眠らせる為にも、人の心に闇は必要なのです。メリク殿」
「……。」
「人は過ちを犯した時、光にそれは問えない。
自分の暗い奥底に、何度もそれを問うのです。
そうして何度も何度も自分の暗がりに問い続け歩き続けると、ふと、その先に光が見えるようになる。自分の罪を認め、脆さを認め、……それを受け入れることが出来た時、人は闇を疎まず、恐れず、愛しいとすら思えるようになる」
「闇を……飲み込むということでしょうか……」
メリクの言葉にシモンは深く頷いた。
「まさしく。
己の醜さを知った者は、それを他者に対して露にしてはならないことがはっきりと分かります。そして露にしてしまう者の未熟さ、哀れさも理解することが出来る。
許容することが……そういう人間こそ、人を導くことが出来ます。
人を導ける者は光を放つ者ではなく、闇の中を歩いたことがある者なのです。
何故なら人が人に導きを求める時は、必ず迷いや悲しみの底に沈んでいるときなのですから。
その時にこそ、闇を歩んだその生で人を助けることが出来るでしょう」
雷雨が去った夜。
夜が目覚める前の静かな時間だった。
真実を打ち明けることの出来ない自分の瞳を、司祭は穏やかな表情で見つめてくれた。
本当はそんな目で見てもらえるような人間ではないのにと、どこかで心が傷んだが、とても口に出来ない今宵の出来事の全てだった。
「……闇を飲む人間がいるということは……。
闇に飲まれる人間もいるのでしょうか、司祭様……」
「はは……メリク殿は聡明故、答えにくいことまで問われるものだ。
……そうですな……、私は聖職者として、人としても、貴方のような若い方に『いる』とは答えたくはない。……ですが悲しいかな、闇に飲まれる人間は確かにおります」
「……」
「しかしこの歳になって、私は思いますよ。それは最初からそうなると決まっていたわけではない。どこかで必ず、闇の底にいるその方を、助け出そうと手を差し伸べてくれる人間が必ずいるはずなのです。
全ての不幸は――どこかで道か歪んだことを本人が知らず……そして知る必要もないと諦めて目を背けてしまうことではないでしょうか?
そこで目を背けず、人の声に耳を閉ざさず……自分にも人にも絶望せず戦い続ければ、必ず闇の覆いは取り払われるでしょう。
自分の命と共に光も共にある、それを忘れなければ」
「戦い続ける…………」
「光も自分の中に、闇の隣に必ずあるのだということを忘れずにいれば」
◇ ◇ ◇
メリクは自室に戻って、寝台に腰掛けた。
……戦い続ける宿命ということなのだろうか。
どんな過ちも諦めて受け入れてしまえばそれは闇に飲まれることになる。
人を殺めたことを、常に自分に対して糾弾し続けなければならない。
リュティスも【魔眼】を己が持って生まれたわけを、闇の中に問い続けたのだろうか?
闇を飲み込んだから、あれほど自らを否定するサンゴールすら愛せるのか。
メリクが思うことは、ただリュティスがサンゴールを守り愛するなら、自分もそうしたいということだった。突き詰めればそれはリュティスへの想いに辿り着く。その想いが自分をこの歳で宮廷魔術師へと成らせた。だが同じ想いが人を殺めさせもした。
リュティスへの想いはメリクにとって光なのか闇なのか――――。
仰向けに寝台に寝て、暗い天井を見上げている。
……リュティスが一度でもメリクを信じてくれたら。
メリクはそれを一生を照らす光にしただろう。
だがそれをリュティスに求めるたびに、冷たい言葉と視線で否定されて来た。
『王家に紛れた異端の分際で!』
『貴様如きがその名を口にするな!』
「……魂の下賤…………」
一生の光にしただろう。
一度でも抱き寄せてもらっていたら。
もしその瞳の中に慈愛を一度でも見つけられたら。
だがその光がないから、いつも肝心な時に心が揺れる。
光と闇がメリクの中で溶け合って、殺し合い、結局自分の心の中には無しかなくなる。
リュティスの為に手を汚したことを、光のように思うこともある。
しかしそういう自分が賤しいと思えばそれは闇の行いにも思えた。
だが確実なのは、あの人間達を殺した自分をリュティスは決して許さないだろうし、そしてあの人間達を告発したら、……リュティスはきっと許容するのだと思った。
【魔眼】を恐れ、危険な因子だと言われても、黙ってそれを許すことと同じように。
あの人間たちは許されるが、
自分は許されないのだ。
そうなることだけは分かった。
『俺の目を凝視するな』
思い出してみれば、短い付き合いではなかったのに、結局一度もリュティスと穏やかな気持ちで見つめ合うことはなかった。
アミアやミルグレンのように、側にいて当然なものだと認識されることもなかった。
四歳でサンゴールに来た時から、今日というこの日までリュティスにとって自分はずっと『異端なるもの』だったから。
そしてこれからもずっとそれは変わらないのだろう。
リュティスを殺そうとした人間達はサンゴールの民。
そしてそれを殺したメリクはサンゴールの血を持たざる者。
持たずに王家に関わり続ける、異端。
だから永遠に信頼されることはない。
越えられぬ、血の壁。
メリクは顔を両手で覆った。
(………………遠くへ)
リュティスの存在しない、どこか遠くへ。
遠くへ行きたかった。
心の中に刻まれた姿が消えることはないが、心の中に呼び起こす光のように感じるだけになったら。……もうリュティスを自分の中の闇にはしなくて済む。
魂さえ疑われたまま、秘密を抱えたまま、歩き続けられるほど自分は強くなかった。
しかし魔術師である以上強くないでは済まされない。多くの知識を得た魔術師はいつだって人々を導ける存在でいなければいけないのだった。
自分の欲に塗れ他者を切り捨てた時点で、それは闇の術師になるということだった。
このままサンゴールにいてどうなるのだろう。
自分がいることで王位継承の話が幾重にもねじ曲げられる。
リュティスといずれ戦うのではないかと囁かれる。
そして皮肉なことは、メリクが正しい行いをすればするほど、王宮ではそういう声が強くなるということだった。
野心など持っていないのに野心家と呼ばれて。
リュティスへの愛を沈黙したまま、どこへ流されていくのだろう。
何も知らないアミアやミルグレンと、どこまで偽りながら共に笑っていけるのだろう。
(遠くに去りたい)
メリクはその日初めて脳裏に思い描いた。
リュティスとの肉体の別離。
…………サンゴールを捨てることを。
【終】
その翡翠き彷徨い【第36話 立ち塞がるもの】 七海ポルカ @reeeeeen13
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