その翡翠き彷徨い【第36話 立ち塞がるもの】

七海ポルカ

第1話



 サンゴール王宮の礼拝堂を管理している大司教シモン・ガンテヴァは一日の務めを終え自分の寝所へと続く礼拝堂二階の通路を歩いていた。


 何気なく眼下に見下ろした一階の祭壇の所にふと人影を見た気がした。

 先程一階の扉を閉めた時には誰もいなかったはずなのだが……。


 慣例に従い礼拝堂は夜も灯りを絶やすことはない。

 だがここは王宮の区画にあるため街の礼拝堂や教会のように夜礼拝にふらりとやって来るような旅人などもいない。務め終わりに騎士などが祈りに来ることもあるが、それにしてもすでに夜は更け遅すぎる時間だった。

 夜中に降り出した激しい雷雨が去り、サンゴール王宮にもいつもの静かな夜がようやく訪れたという時刻である。


「はて……? 気のせいか……」


 不思議に思って彼が一階に下りてみると、礼拝堂の隅の方にやはり人影があった。

 暗がりに目を凝らしてみれば、その顔に身覚えがあり大司教は息をつく。



「――メリク殿」



 女王アミアカルバの『養子格』であるサダルメリク・オーシェが暗がりの中、床に跪いた姿で両手を固く組み合わせ無心に祈っていたのである。

 メリクは王族が出て来るような礼拝には姿を見せないことが多いが、それ以外の時間に一人ふらりとここへ現われることがよくあった。

 落ち着くのだという。

 聞けばサンゴールにつれて来られた頃、一時期ラキアの修道院で二年ほど過ごしていたらしい。とにかくこの少年は女王が、その手の中に隠して慈しむように育てて来た少年であり、あまり詳しいことは外界に伝わって来ない。

 最近では宮廷魔術師になったことで、どうやら魔術の才能が著しく開花しているようだという話は伝わって来ていたが、ある時期になるとぱたりと話を聞かなくなったりと、色々不思議な少年なのだった。


 大司教シモンがメリクに出会ったのは今年の春。

 彼が宮廷魔術師になり、最初の務めを果たして王宮に戻って来た時のことだった。

 それまで一度も礼拝で見たことのなかったメリクが、礼拝堂の側でじっと聖歌を聞いている姿を見つけたのである。

 何日か続けてそういう日があったので、中で聞いたらどうかとシモンが声を掛けてやったのだ。その時はメリクは何か居心地の悪いような顔を見せたのだが、おずおずとシモンについて来て、礼拝堂内の椅子に座るとその日はとうとう夜遅くまで、そこで礼拝堂の空気に触れていた。

 ラキアの修道院に空気がよく似ていて、安心すると言っていた。


 それからというものメリクは魔術学院から定期的に城に戻って来ると、必ず礼拝堂に姿を見せるようになった。

 しかし人目を憚ってか主に礼拝堂の扉を閉めてからの、夜にやって来るので最初シモンは困り果てていたのだが、一度それとなく礼拝で話す聖言を話してやるとあまりにも熱心にメリクがそれを聞いたので、以後時間がある時はメリクだけは特別に夜の礼拝を許してやっている。


 若い青年には退屈だろうと思うような話をメリクは興味深そうによく聞いていた。

 それはそれでシモンも嬉しいことだった。

 噂には聞いていたのだがサダルメリク・オーシェの博学ぶりはより話を深い方へと導く質問なども投げ掛けて来て、彼と話すことで七十歳を越えたシモンでさえ時々ハッとすることがある。


 それに……。


 シモンもメリクが置かれている複雑な立場は心得ている。

 女王の『養子格』。

 第二王子リュティスの唯一の弟子。

 そして若くして宮廷魔術師となったこと。


 これらは周囲の人間に様々な想像を掻き立てるには十分な要素だった。

 メリクのいないところでは、

「本当にこのまま女王の養子になり玉座につくのでは」

「いや出生は卑しいのだから、それはさすがに無理だろう」

 などと王宮内でさえ口さがない言葉が最近では飛び交っているのである。


 まだ十六歳の少年だ。

 表面上はいつも静かな顔をしてはいるが、、メリクは一度祈りに入ると、それくらいの少年とは思えないほど意識の深い所で祈りに没頭する所があった。


 苦境を祈りで乗り越えようとする姿勢がはっきりと見えて、それは責めるべきものとは到底思えず、この少年が一人祈り捧げたくなるような夜を持っていたとしてもシモンは不思議では無いと考えており、彼が夜中に姿を現し祈りを捧げている時は敢えて声を掛けずにそのままにするようにしてやっていた。


 しかし今宵、シモンは驚いた。

 祈りを捧げるメリクの出で立ちである。

 まるで水の中を潜って来たかのように頭からずぶ濡れなのだ。

 けれど本人はそんなことを気にすることもなく無心に祈っている。



「……メリク殿?」



 閉じていた翡翠の瞳がハッとしたように気づいた。

「……あ……、シモン大司教……」

「一体どうされましたかそのお姿は」

「あ……いえ、今日の夜の礼拝は終わってしまったようですね。今日はどうしても聞きたくて雨の中を走って来たのですが……」

 振り返った顔には拭いきれない泥がついていて、シモンはついに笑い出した。

「ははは。そのような用事でしたか。私はてっきりどこで泥遊びをして来られたかと……。外におられたのですか、それでは雷雨にさぞや打たれたでしょう」

「す、すみません。床を汚してしまった」

「大丈夫ですよ。さあ、そんな姿では風邪を引かれます。奥でタオルと着替えを用意いたしましょう」


 シモンは促すと奥の部屋へとメリクを招き入れた。

 メリクは濡れた服を脱ぎ、用意してもらった神官服を着た。

 濡れた服を掴み上げた時、ひどく焦げた匂いが鼻を突き、言葉を失った。

「……。」

 自分の手の平を見る。

 泥に塗れてすっかり汚れていた。

「着替えられたら濡れた服はそこに掛けておきなさい。後で洗っておいてあげましょう」

「あ、はい。申し訳ありません、ありがとうございます」

 大司教の優しい声を聞きながら、メリクは自分がひどく場違いな場所に来た気持ちになっていた。


(……よく来れたものだ)


 まだ、手に残っている。




『――消えるのは貴様らの方だ!』




 浴びせた呪いの言葉。

 脱力感は、強い魔力を形も整わせないまま無制御に相手にぶつけた証だ。

 

 五人、殺した。


 あんなに簡単に、魔術師には複数の人間が殺せるのだ。

 呆気なかった。

 あれほど憎み、殺したいと思っていた人間達が一瞬にして灰になってしまった。

 ただ、人を殺したという罪悪感はなかった。

 少しだけ混乱しているのだと思う。

 何の実感もなく、今宵目撃した一連のことがただぐるぐると頭の中にあるだけ。


 そのままサンゴール城まで戻って来てしまったが、王宮に入って眠る気にはさすがになれず、礼拝堂で一人考えたかった。

 だがよく考えれば人を殺めた後に礼拝堂で祈りを捧げるなんて、まるで懺悔ではないかとメリクは心のどこかで自分を嘲笑した。


 ……憐れみなど最後まで全く感じなかったくせに。



(…………せめて血でも全身で浴びていたら)



 もっと人を殺めた罪悪感に浸れたのだろうか。


 分からなかった。


 別に自分を責めたいわけではない。

 だが人の命を奪った現実は確かなのに、この世の誰もそれを知らないという現実が不思議だった。至極奇妙なのだ。

 タオルで栗色の髪を拭きながら、ぼうっと何かを考えているとシモンが温かいお茶を用意した、と声を掛けてくれた。


「大きくなられましたなあ。私は女王陛下が貴方をつれてサンゴールに帰還された時、貴方を見ましたが……。まだこんなに小さかったというのに」


 確かに現在十六歳であるメリクの身体は、まだ所々にあどけなさを残すものの、着実に少年から青年のものへと成長している。

 大司教シモンが微笑ましそうに自分を眺めてくれるのがありがたがったが、同時に居たたまれないような気持ちにもなった。


 確かに身体は着実に成長しているのに。

 なのに心の中は何も変わっていなかった。


 相変わらず埋めることの出来ない空虚感を抱きつつ毎日を生きていた。


「……。」

 

 温かいコップを両手の中に持ったままじっと何か思い耽っているようなメリクにシモンは声を掛けた。


「今日は確か『光の章』でしたね。よろしければ一節だけ私がお話いたしましょう」


「よろしいのですか?」

 驚いたようにメリクが尋ねると、老人は穏やかな笑みを浮かべ頷いてみせた。

「もちろんです。では祭壇の方へ……」

 メリクも立ち上がり再び礼拝堂の方へ移動した。

 シモンが祭壇に灯す火を持って来る間、一番前の椅子に腰掛け祭壇の一番上に描かれた『聖竜』を見上げていると、真実を見抜くと言われる聖竜の、額の第三の目と目が合い、鏡のように自分の意志と向き合わされるような気分になった。

 抜き身の剣を人に振り下ろすような、あの感覚。


 今さっき、人を殺して来たという現実を強く見るように、促された気がしてメリクは首を振り俯いた。


(違う、罪人はあいつらの方だ)


 同族でありながら第二王子を裏切り手に掛けようとしたのだ。

 王族への大逆は死刑と決まっている。

 法に照らし合わせても殺されても仕方のないことをした人間達だったのだ。

 もしあそこから逃げ出し沈黙した方が、罪深いと非難を受けるべきだろう。

だから自分は悪くない。

 すべきことを、しただけだ。

 


 ――カタン。



 メリクが拳を握りしめた時だった。


 後ろの方で音がして誰かが入って来る靴音が響いた。

 メリクはその時、誰と話す気にもなれず顔を上げるのも億劫で、じっと足元の影を見下ろしたまま動かなかった。


「おや? これは……リュティス王子」


 大司教の声にメリクはハッと顔を上げ横を向いた。

 そこにいつもの黒衣姿の第二王子リュティスが立っていたのである。


 ドキリと心臓が震え上がった。


 まさかこんな所に、こんなタイミングでリュティスが現われると思っていなかったのである。それからすぐにメリクはリュティスの予知にも似た直感を思い出し、彼が自分の今宵の行いを諌めに来たのではないかと思った。


 そうだ。自分が放った無秩序の魔力をサンゴールで最も優れた魔術師である第二王子が見過ごすはずがないのではないか?


 自分が人を殺めたことをリュティスにだけは知られたくないと思っていたのに、すでにそれを彼は知っているのではないか、知っていなかったら常日頃会いたいと思っても、会えない第二王子が何をこの夜、この時刻に、自分の前に現われるだろうかとメリクは一気にそこまで考え魂の底から震え上がった。


 しかしメリクはすぐにその心配が杞憂だったことを知る。

 リュティスはどうやら大司教に用があって現われたらしい。

 その証拠に、第二王子はそこにいたメリクには目もくれなかった。


「いかがなさいました、殿下がこのような所へこんな時間に……」


「……今まで【斜陽殿しゃようでん】にいたのだが、急遽一週間後の神儀を女王の名代でとりまとめることになった。しばらくぶりの行事ゆえ教典を一度見直しておきたい」

「ほほう、久方ぶりのリュティス王子の神殿儀ですか。これはぜひ見ておきたいものですな」

「見に来るな、邪魔だ」

 王宮の礼拝堂を任される大司教すら邪険にする第二王子だったが、シモンは害された様子もなく笑っている。温和で知られるこの老人に対しては、憎まれ口を叩いてもリュティスもさすがに、敵意を剥き出しにするということはない。


「すぐに持って参りましょう。しばしお待ちください。――メリク殿も、今少しお待ちを」


「あ……は、い……」


 メリクは挨拶しようと中途半端に腰を浮かせた姿のまま、目の前にいるリュティスを見つめてしまった。

 変に勘ぐって身構えた分、そこに立っている第二王子の静けさに虚を突かれたのだ。


 皮肉なことに、最近見る中でその夜のリュティスは最も気配が静かだった。


 メリクが宮廷魔術師になって魔術学院寮にも入り、時々城に戻ってたまたまリュティスとはち会わせたりした時は、はっきりとメリクに気づいた途端、彼は苛々とするようなところがあって、近づくことも出来なかった。


【斜陽殿】にいたと言っていたから、精神を鎮めた後だったからだろうか。


 今は術衣だが、城の中では珍しくフードを脱いでいる。

 いつも隠している漆黒の髪と琥珀の瞳が露になっていた。


 人気の無い夜だからか。


 ――いやそれよりも。


 一週間後の神殿儀の名代。


 裏切り者が狙っていた好機というのはこれだ。

 そうでなければ普段奥館にいるリュティスが他の街の神殿に赴く機会などない。

 極秘であるはずの神殿の情報が漏れている。ということは、今回の企てその全ての黒幕は大神殿の上層部にいる可能性があった。

 確かに理想論を重んじる大神殿は、どちらかというと常々リュティスよりグインエル王子を支持していたという。しかしグインエル亡き後は他国の姫であるアミアカルバには反意を示していたが、……最近ではリュティスの力を危険視し、メリクを擁してアミアカルバの庇護に回らせようとするような動きがあった。


 要するにその時代時代の利害関係で、大神殿はかなり態度を変えて来たのである。


(聖職者の分際で……)


 メリクが怒りを再び思い出しかけていると。



「相変わらず無礼な態度は変わらんな。

 いつまでそこで俺を凝視しているつもりだ」



 リュティスはここに入って来た時からさしてメリクを見てもいないのに、冷たい声音でそう言った。

「あ……っ いえ……もうしわけありませ……」

 慌てて身体ごとリュティスから逸らし、その途端メリクはしまったと思った。

 わざわざ視線を外してしまった。リュティスに声をかけるきっかけも失ってしまったのだ。

 あの企てを耳にしたことを一刻も早く説明しなければならないのに。

 どうしようどうしようとあれこれ悩んでいると、これも珍しくリュティスの方から口を開いた。



「……何だその姿は」



 頭から濡れて神官服に着替えている感じのメリクを不審に思ったのだろう。

 普段メリクが何をしてようと無関心な第二王子にしては、それは珍しい行動だった。

 だがそれも尚更今宵のメリクを混乱させる。

「あ……いえ……その、……あの、雨の中を、走って来て」

 至極下らない理由だと思ったのだろう。

「お前も王家の末端に関わる者ならば、サンゴール王家の名を貶めるような真似をするな。宮廷魔術師の名もな」

 反論しようも無いことを言われてメリクはぐっと詰まる。


「申し訳ありません……」


 祭壇の前で、静寂の中……二人隣り合っているというのに。


(……遠い……)


 言葉に出来ないもどかしさを抱える自分と異なり、リュティスの気配は静寂そのものだ。

 少しの迷いもなくメリクの隣に立つリュティスを、漠然とした気持ちでメリクは恨んだ。


 男達に感じた怒りが強ければ強いほど、己の手を血に染めた自分が惨めで苦しみや汚れた様子がないリュティスがひどく憎かった。……そう、憎かったのだ。


 自分はこんなにもリュティスを想って、

 リュティスの為に誰かを憎み、苦しみ……、

 なのに、そんな自分をリュティスは一度として見てくれたことがない。

 メリクはそんな風に一方的に思い募る。


 拳を握りしめた。


(このまま内に秘め続けたら……僕はきっと壊れてしまう)


 リュティスの身とて危険なのだ。

 サンゴール大神殿内部に裏切り者がいる。

 王宮の中に。リュティスの身近にだ。

 今回は片付けても二度とないことだと何故言えようか。

 今回明るみに出たのは暗殺計画なのだ。ただの謀反ではない。




「――――リュティス様……っ!」




 メリクは思い切ってリュティスの方を振り返った。


 リュティスも少しだけ首をメリクの方に向けて……その目を隠すように長く伸びた前髪の間から覗いた【魔眼まがん】がメリクを見た。


 一瞬全て、ぶちまけるつもりだったのに。


 その眼に晒された瞬間、メリクは踏みとどまっていた。

 氷の剣を喉元に突きつけられたように、全身の血の全てが凍り付く。

「――……、」

 メリクは気づいた。

 自分が自覚のないまま恐ろしいほどに本当は混乱していたのだと。

 リュティスの目に晒された途端、自分でも驚くほど冷静になっていた。

 それは条件反射でもあったのかもしれない。

 目を見開き、何かを言おうと唇を開いたまま固まったメリクを、リュティスは不審そうに見ている。



 ――――それを言って……。



 貴方の為に人を殺したと言って、リュティスが自分に感謝し抱きしめてくれるとでも思ったのだろうか?


 メリクは自分の浅はかさこそを恨めしく思った。

 自分勝手な思い込みを。

 言おうとしていた次の言葉が霧散して消えていくのをはっきりと感じる。


 かつてリュティスはメリクに言った。

 自分より力の無い者に感情で攻撃を加えるなど低俗な所業なのだと。


 確かに……本当に事実を暴くことが目的なら捕らえれば良かった。

 攻撃されたことに対する反射行為だとしても、もっと手加減は出来た。


 第二王子を殺す、という言葉にメリクは逆上して魔力を使っていたのだ。


 こんな連中死んでしまえばいいと思った自覚があった。

 その事実が【魔眼】の輝きに暗く浮かび上がる。

 この瞳を前にメリクは自分の心までを偽ることは出来なかったのだ。


 メリクはそれに、と気づく。


 リュティスは、自分の言葉を信じてくれるだろうか?

 サンゴールの中核に近い所に裏切りがあることを……。 

 もし、自分が……今王宮の色んな所で言われているように、王位に近づきたいが為の妄言だなどと思われたら……。


 短い間だった。

 リュティスが眉を寄せる、短い間にメリクは様々なことを考えていた。


 もともとリュティスの前だとメリクは時折こういう顔をする。

 子供の頃からそうだった。

 他の人間に対しては表情をあまり崩さないメリクなのに、リュティスに対してだけは時々追いつめられたような……こういう目を見せた。

 最近では会うことも稀だった為忘れていたのだが、今夜それを思い出してリュティスは怪訝な顔をした。


 リュティスはメリクのこの目が嫌いだ。


 もともと人と距離を置きたいリュティスにとって、メリクのこの答えを強く求めて来るような目は、いつだって鬱陶しいとしかい言いようがなかったのだ。



「なんだ」



 不快げに聞き返したリュティスの声に、メリクの翡翠の瞳が一瞬、泣き出しそうに揺らめいた。


 

 言えない。



 メリクが短い間に導き出した答えである。


 今宵の事件のことを口で説明してもリュティスは喜びもしない。

 それこそ悲しみを彼の心に刻むだけだ。


 自分に対して不穏分子がいることくらい、リュティスは昔から知っている。

【光の王】と慕われたグインエルと比べ、いつもリュティスはその危険性を指摘され続けて来たのだから。

 命を狙われたことはないかもしれないが、視線で幾度その身を刺されて生きて来ただろう。

 そのことを自分だけは、知っているつもりだったのに。


 今宵の実行犯は全てメリクが殺した。

 例えそれが相手に知られても、この結果を相手は公然と責めることは出来ないだろう。 自分達が謀反を画策したことは事実なのだから。

 恐らく状況が分かっているなら沈黙を選ぶはずだった。

 第二王子の命を狙うとどうなるかを思い知ったはずなのだから。


 いや……もし姿を現せば、それでもメリクは恐らく今どんなに悔いたとしても、また同じことを自分はするだろうと思っていた。

 人を殺したことに対する罪悪感はあるが、それでも相手も同じことを望んでいたのだという確信はある。


 しかしそういう、自分の行動を正当化し懺悔しないメリクを知ったら、リュティスはまたメリクを疎むだろう。


 それは――メリクが殺めた者達も守るべきサンゴールの民だから。

 ……そしてメリクが、そうではないから。



 リュティスのサンゴールへの想いは、自分がサンゴールの中で疎まれている、【魔眼】を持つことにより恐れられている……そんなことは踏まえた上での想いなのだ。

 疎まれていることを知っているのにリュティスはサンゴールの民を許している。

 サンゴールの為に生きているのだ。サンゴールは彼の想いに愛で報いないのに。


 そんなリュティスに、貴方の為にサンゴールの者を殺めたと言って何故リュティスが喜ぶだろう?


 また冷たい声音で遠ざけられるだけだ。

 そんなことが出来るお前はやはりサンゴールの者ではないなと言われるだけ。

 最悪、今の所は避けて通っている王位継承の件で、掛けられる必要もない不信をリュティス自身からも掛けられるだけ。


 メリクは手に込めていた力が抜けていくのを感じた。



(……言えるわけがない……)



 血に染まったことに対する代価など貰えるはずもない。

 本当にサンゴールの平和を思うなら殺すべきではなかった。

 いや……殺せるはずがないのだ。

 その事実が、メリクの中にサンゴールに対する何の愛も無いことを示している。

 メリクの中にあるのはただリュティスに対する愛だけだ。


(いや)


 愛とも呼べない……執着。

 一方的な――リュティスが関わるなら何をしてもいいという傲慢な思いだけだった。


 そういう醜い自分を、これ以上リュティス・ドラグノヴァの前に晒したくない。


 もう十分だ。


 ……この人に軽蔑されるのは。


 もう十分、軽蔑され尽くして来た。

 今更この世に存在するどんなことをしても、

 この人の心を手に入れられたり、

 自分が深く信頼され愛されるようになるようなことは永遠に無い。



「お待たせいたしました」



 シモンが教典を抱えて出て来る。


「こちらです」


「……ああ」


 教典を受け取りリュティスが振り返ると、もうメリクはリュティスを見ていなかった。 瞳にあった、あの執拗な光が消え、暗がりに何の表情も見せず俯いている。

 リュティスはそれに一度目を止めたが、メリクを敢えて促そうとはしなかった。

 第二王子は何も言わないまま、身を翻す。



 メリクは大司教と共に深く一礼してリュティスを見送った。



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