第2話 触媒と信頼、そして小さな一歩

あの足を引きづっていた獣人族の少女・リィナが工房を訪れたのは、傷薬を受け取ってから三日後のことだった。


「こ、こんにちは…! 薬、すごく効きました! あの…お礼がしたくて…」 リィナは照れくさそうに、小さな籠を差し出した。中には、森で採れたという色鮮やかなベリーと、香りの良いハーブが詰まっていた。


「わあ、ありがとう、リィナさん! これは…『シルバーベリー』と『ミストハーブ』だね! 調合にすごく使えるよ!」


アルトの目が輝いた。これらは町の市場ではなかなか手に入らない、森の奥でしか採れない貴重な素材だった。バルド爺さんがこっそり教えてくれた知識が役に立った。


「良かった…! 役に立てて嬉しいです!」 リィナの長いウサギのような耳がぴょこんと跳ね、笑顔がこぼれた。


その日から、リィナは時折、森で採れた薬草や鉱石を持って工房を訪れるようになった。彼女は森の生き物と会話できる、珍しい「森語り(もりがたり)」の能力を持っていた。魔物を避け、薬草が豊富な場所を知っている貴重な存在だった。アルトは、彼女から森の情報を教わり、代わりに怪我をした時に使える薬や、森歩きに便利な虫除けの香などを渡すようになった。小さな信頼関係が、ゆっくりと、確かに育まれていった。


一方、工房でのアルトの日々は、前にも増して密度を増していた。バルド爺さんは、アルトが基礎を確実にこなし、自ら考えて改善案を出す姿勢を認め始めたようだった。ある日、爺さんは作業台の前にアルトを呼びつけた。


「小僧、今日から本格的な『触媒』の扱いを教える。」


「触媒…ですか?」


アルトの心臓が高鳴った。触媒は錬金術において、反応を促進したり、物質の性質を変えたりする重要な要素だ。これまで扱ってきたのは、あくまで素材の単純な調合や精製が中心だった。


「そうだ。お前が提案した風魔石を使った乾燥法は、理にかなっていた。ならば、その先も見せてみろ。」


バルド爺さんは、指で小さな赤い結晶を一つ、机の上に置いた。


「これは『焔蜥蜴(ほむとかげ)の核石』。低級だが、火属性の魔力を帯びた触媒だ。これを使って、『鉄の精錬』を効率化してみせろ。」


課題は明快だった。通常、鉄鉱石から不純物を除き、純度の高い鉄を得るには、高温の炉と長時間の精錬が必要だ。この核石は、その過程で投入すれば、炉の温度を上げる補助として機能する…はずだった。


「やってみます!」


アルトは意気込んだ。健一の知識で言えば、これは『化学反応における触媒』の概念そのものだ。異世界でも応用できるはずだと確信した。


しかし、現実は甘くなかった。

最初の試みは失敗だった。核石を投入するタイミングが早すぎ、鉄鉱石が不完全に溶けたまま固まってしまい、脆いガラス状の塊になってしまった。


二度目は、投入量を間違えた。核石の火属性魔力が暴走し、炉内の温度が急上昇。危うく炉を傷めるところだった。バルド爺さんに叱られるのは覚悟していたが、爺さんは一言も言わず、ただ鋭い目で見つめているだけだった。その沈黙が、かえってプレッシャーだった。


「…ダメだ。理論はわかっているはずなのに…」


アルトは悔しそうに呟いた。現代の知識とこの世界の知識が、まだ完全には融合していない。経験値が圧倒的に足りないのだ。


「小僧、触媒というものはな。」


バルド爺さんが突然口を開いた。


「力そのものではない。火を大きく見せる『鏡』のようなものだと思え。素材の性質、炉の状態、魔力の流れ…全てを見極め、触媒を『導く』のが錬金術師の腕だ。」



それは、教科書的な説明ではなく、長年の経験から滲み出た、職人の勘所(かんどころ)だった。


「…導く…」 アルトは咀嚼するように言葉を繰り返した。


三日間、アルトは炉の前で過ごした。バルド爺さんが教えてくれた基本の手順を忠実にこなしながら、焔蜥蜴の核石の持つ魔力の「質」を感じ取ろうとした。健一の合理的思考は、観察と記録に活かされた。炉の温度、核石の状態(色や輝きの変化)、鉄鉱石の反応…細かくノートに書き留め、わずかな変化も見逃さない。

「…今だ!」 三日目の夕方、炉内の炎の色が微妙に変わった瞬間を見逃さず、慎重に核石を投入した。

**シュッ!** 小さく、しかし力強い音と共に、炉内の炎が鮮やかなオレンジ色に変わった。そして、予想よりも短い時間で、鉄鉱石が美しく溶け、不純物が表面に浮き上がってきた。

「おお…!」

アルトが息をのむと、隣に立っていたバルド爺さんが、ごつい手で軽くアルトの背中を叩いた。

「…どうやら、鏡の向きを掴んだようだな。」

出来上がった鉄は、通常の精錬品よりも明らかに純度が高く、光沢があった。必要な燃料と時間も約二割削減できていた。派手な成果ではないが、工房にとっては大きな効率化だった。


「爺さん! 見てください、できました! しかも、思ったより早くて…」


「…ふん。調子に乗るなよ。」


バルド爺さんは相変わらず無愛想だったが、アルトにはわかった。爺さんの口元が、ほんのわずか、しかし確かに緩んでいるのが。そして、その目には、小さな弟子の成長を確かめた確かな満足の色が浮かんでいた。


「次は、この鉄を使ってなにか作ってみるか。」


「はい! 何を作りましょうか?」


「…お前が使う道具だ。自分の手に馴染む、一本のナイフを鍛えてみろ。」


「…!」


アルトの胸が熱くなった。それは、一人前への一歩を認める、師匠からの信頼の証だった。


その夜、アルトはリィナから届いたシルバーベリーとミストハーブを前に、新しい挑戦を考えていた。これらは単なる素材ではない。シルバーベリーには微弱な魔力浄化作用、ミストハーブには精神安定作用がある。これを組み合わせれば、疲労回復や集中力持続に効果のある、新しい薬剤が作れるかもしれない…。


「でも、まずは基本の配合から…焦らずに。」


アルトは自分に言い聞かせた。バルド爺さんの教えと、触媒での失敗と成功の経験が、彼の心に『焦るな、丁寧に』と刻み込まれていた。


数日後、アルトは慎重に調合を進め、試作品を完成させた。色は淡い銀色で、シルバーベリーの甘酸っぱい香りと、ミストハーブの清涼感がほのかに漂う。まずは自分で試飲してみた。ほんの一口含むと、ほのかな甘みの後、爽やかな感覚が口の中に広がり、少しぼんやりしていた頭がスッと冴えていく感覚があった。


「…効いてる?」


隣で見ていたリィナが、耳を立てて尋ねた。


「うん、少しだけど、頭がクリアになる感じがするよ。リィナさんも試してみる?」


「…え、いいんですか? 私、森語りでちょっと疲れてたとこなんです…」


リィナが恐る恐る一口飲むと、その目がぱっちりと見開かれた。


「わっ! なんか…目の前の霧が晴れたみたい! すごい! アルトさん、これ、すごくいいかも!」


その言葉にアルトは大きな達成感を覚えた。しかし、彼はすぐに冷静になった。


「でも、これだけじゃダメだ。効果の持続時間や、本当に安全かどうか、もっと調べないと。何人かで試してもらって、感想を聞いてみないとね。爺さんにも見てもらわないと…」


派手な発明ではない。地味な試行錯誤の先にある、小さな革新の種だった。それでも、自分の技術で誰かを助け、喜んでもらえる可能性を感じる瞬間は、何物にも代えがたいものだった。


その帰り道、夕闇迫る工房の窓に明かりが灯っているのを見て、アルトは思った。


ここには、前の世界のようなスピード感や派手な成功はない。毎日が、薬草や鉱石、炉の炎や蒸気と向き合う、地道な作業の繰り返しだ。それでも、確かに進んでいる。


バルド爺さんの技術を少しずつ吸収し、自分の知識と融合させて新たなものを生み出す手応え。リィナや、薬を受け取った町の人々の笑顔。そして何より、失敗を繰り返しても、一つ一つ課題を乗り越えていくことで得られる、揺るぎない自信。


それは、剣や魔法で敵を倒す「強さ」とは違う。自分の手と頭と心で、技術を磨き、周囲と関わり、この世界にしっかりと根を張っていく「強さ」だ。


工房のドアを開けると、バルド爺さんがいつものように作業台に向かっていた。


「おう、帰ったか。リィナの小娘、あの試作薬を絶賛してたぞ。…だがな、小僧。」


爺さんは振り返り、鋭い目をアルトに向けた。


「良いものを作ったと思ったら、そこで満足するな。それがスタートだ。より良いもの、より多くの人を助けられるものを、これからも探し続けろ。それが錬金術師の一生だ。」


「…はい、爺さん!」


アルトは力強く頷いた。

その言葉は重かったが、決して重苦しくなかった。むしろ、これからも続く長い道のりへの期待で胸が膨らんだ。師匠に背中を押され、仲間に支えられながら、この工房で、自分の「強さ」を、丁寧に、確かに、積み上げていけるのだと。


夜空に星が瞬き始めた。アルトは明日も、薬草の手入れをし、炉の火を見つめ、新しい可能性を探す。異世界の錬金術師としての、堅実で、それでいてどこかワクワクする日々は、まだ始まったばかりだった。彼はこの小さな工房で、世界を変える英雄にはならなくとも、多くの人々の日常と幸せを支える「礎」になっていくのだと、静かに決意を新たにした。

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錬金術師の僕は、この世界を丁寧に生きることにした @kuro4510

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