夜のファーストフードで
Suzubelle(すずべる)
第1話
終電を逃したあとの駅前は、空っぽのようで、どこかざらついていた。
コンビニの白い明かりが風に吹かれて、反射した舗道をにじませる。
それでも、体を動かす気力もなく、佐藤航はただ、歩くふりをしながら立ち尽くしていた。
足元が重い。頭もぼんやりする。
何がつらいのかは、言葉にできない。けれど、たぶん全部だった。
会社の空気。メールの言い回し。昼休みの沈黙。
自分がそこにいないみたいな毎日。
風が冷たいわけじゃないのに、首をすくめてしまうのは、
たぶん、なにかが自分のなかで固まっているからだった。
そんなとき、視界の端で、赤と黄色の光が揺れた。
看板の“M”が、少しだけ滲んで見える。
街のあちこちが眠っていくなかで、そこだけが夜に抗って光っていた。
ふらりと足を向けたファストフード店の扉をくぐると、
ぬるい蛍光灯の光と、揚げ油のにおいが、航をすっぽりと包んだ。
「ピンポーン」という電子音が鳴った。
誰もこちらを見ない。けれど、それがむしろ、心地よかった。
店内には十数人。
スウェットのまま座っている大学生。
制服のままコートを羽織って、サラダだけつついているOL。
ひとり、窓側でハンバーガーにかじりつく若い男性。
その向かいでは、MacBookに貼られたシールがやけにカラフルに浮かんでいる。
——この人たちは、いま、何を考えてるんだろう。
誰も騒がない。けれど誰も沈黙しているわけでもない。
それぞれが、自分のペースで“ここにいる”だけだった。
「コーヒーS、ひとつ」
そう言った自分の声が、少しだけ掠れていた。
それに気づいても、店員は何も言わず、静かにカップを渡してくれた。
紙コップを持ったまま、窓際のカウンターに腰を下ろす。
ガラス越しに見える駅前ロータリー。
タクシーが2台並んでいて、運転手はどちらも目を閉じていた。
カップを両手で包むと、じんわりと温かさが伝わってくる。
それは、感情というよりは、体に近いところの“安心”だった。
——ここにも、夜はあるんだな。
そう思ったとき、
不意に涙が、出そうになってしまった。
背もたれのないカウンター席は、まるで誰とも関わらなくていい場所のようだった。航はコーヒーをすすりながら、同時に、誰かのほのかな気配を感じ取っていた。
ふと、後ろのテーブル席から、話し声が聞こえた。中年の男女ふたり。声は大きくない。けれど、静かな店内では、空気を伝って自然と耳に届いてくる。
「…うん、明るくしてた方が楽しいっていうけどさ、あれって、“明るい人”にとっての話よね」
女性が、ポテトをつまみながら言った。
「こっちは別に楽しくしたいわけじゃないの。ただ、楽でいたいだけなのよ。…明るさって、意外と疲れるじゃん」
「……うん、わかる。楽しくするんじゃなくて、楽にする、ね」
男性が、小さく笑って頷いた。
——楽にする、か。
航は、その言葉を口のなかでゆっくり転がした。
苦いコーヒーの味といっしょに、その言葉が胸に染みていくような気がした。
それから、別の席。
今度はギャルが、隣のギャルに話しかけていた。
「新しい場所って、そりゃ疲れるよねー。マジ不安じゃん。だって、はじめてだもん!」
「でもさ、どこかでまた誰かと出会えるのよ。似たような思いしてる子と、ね!」
「だから、ちゃんとね、がんばりなよー。じゃなくて、“一緒にがんばろう!”って思うの。だってさ、誰かもきっと同じ気持ちだもん!」
優しい声だった。
それは誰かに向けた励ましでありながら、もしかしたら自分にも言い聞かせているような響きでもあった。
航は、ゆっくりとカップを両手で包み直した。
先ほどより、ほんの少しだけ、指先の震えが収まっていた。
——大丈夫だなんて思えないけど。
——でも、ダメじゃないってことくらいは、信じてみてもいいのかもしれない。
職場でまた、些細な確認ミス。
自分の名前がそっとメモに書かれ、会議室では沈黙が流れた。
逃げたくなった。自分のミスが続くたびに、ふと「辞めたい」と感じることはあった。
でも、心のどこかで、深夜のあの店を思い出していた。
——ちゃんと生きてるってさ、それだけで立派なことだよ。
誰が言った言葉だったかは、もうはっきりしない。
でも、あの夜の空気といっしょに、確かに航の中に残っていた。
その日、航は辞表を出さなかった。
代わりに、少しだけ早く布団に入った。
外では、雲の合間から月が静かに顔を覗かせていた。
都会の空でも、ちゃんと月は出るのだと知るだけで、なぜか少し、呼吸が深くなった。
そして週末。
金曜の夜、帰り道。
あの日、終電を逃した駅でのファストフード店はなく、今夜は自分の“暮らしている街”のファストフード店へ向かう。
店内には、小さな笑い声がいくつか、テーブルの隅に咲いていた。
カウンターで注文を終えた若者が、気の抜けたコーラを飲みながらスマホを眺めている。
黙ってノートを開いている人もいれば、うつむいてハンバーガーをゆっくりかじる女性もいた。
誰も、急がない。
誰も、急かさない。
それぞれが、ただそこに“いる”ことを許されていた。
——ここは、きっと食事だけの場所じゃない。
そう思った。
“感情の避難所”であり、
“語らいの舞台”であり、
“自分を取り戻す静かな時間”。
今この瞬間も、きっとどこかの街角で、
心の拠り所となる灯りが、誰かの心にそっと寄り添っている。
そう思えただけで、世界は少しだけ、やわらかく見えた。
航は、コーヒーを一口飲んで、そっと息を吐いた。
夜のファーストフードで Suzubelle(すずべる) @kinokonakinoko
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