魔除けの歴史 著:大橋梨花 長月出版 2004年


鬼瓦で描かれている怪物はもともと鬼ではなかったと考えられています。鬼瓦はそもそも中国から日本に伝わりましたが、中国において鬼とは矮小な存在でそのようなものが他の怪異を追い払えると信じられてはいなかったからです。では中国における鬼瓦とは何を描いたものだったのか。村田治郎氏などの研究から中国の鬼瓦の起源が約3000年前、周にあることは確実視されています。中国の王朝は夏、殷、周と続きつまり周は三番目に古く鬼瓦の歴史の深さが伺えます。さらにこの頃の鬼瓦(学術的には半瓦当と呼ばれます)に描かれている怪物自体は更に古代まで遡れます。この怪物は角、突出した眼、牙を持っており、同時代に使用されていた饕餮紋とうてつもんであると考えられています。饕餮紋は5-6000年前、つまり新石器時代には既に存在し周時代では鼎などの器に使われていた図像で饕餮という怪物を描いたものだと推測されています。ちなみに鼎というのは亡くなった祖先へ生贄を捧げるための容器です。饕餮は蚩尤という怪神とも同一視される恐ろしい怪物で人を食らう一方で他の怪物をも食らうとされたことから当時から魔除けの紋様として使われていました。鬼の容姿の由来は今もってわかっていませんがもしかすると鬼瓦の模様、すなわち饕餮が日本における鬼の造形に影響を与えた可能性があるかもしれません。また鬼とはあまり関係が無いのですが、中国において怪物とは基本的に死霊だということと鼎が死者へ捧げものをすることにはなにか関係がありそうです。

(中略)

また、饕餮以外に鬼瓦の対象としては龍も考えられています。東京国立博物館は鬼瓦の角が枝分かれしている、目と口を大きく見開いているなどの特徴が「隋唐時代の龍の造形にも連なる」と指摘しています。実際、ウイグル人によって湖に浮かぶ島に建てられた宮殿、ポルバジンでは鬼瓦に近似しているタイルが見つかっていますが厄除けの龍を描いたものであると考えられています。



中国のことわざ辞典 著:岡村舞子 習究出版 1989年

その38 鼎の軽重を問う (かなえのけいじゅうをとう)

意味:権力者の地位を奪おうとすること

由来:かなえとは中国の古い青銅でできた入れ物のことで神さまや亡くなった祖先への捧げものを入れるのに使われました。中国最初の王朝、夏王朝の最初の王さまである禹は天下を統一すると各地から青銅を集め「九鼎」という王位を示す九つの鼎を作らせました。九鼎には怪物とそれへの対処法が彫られており、これにより人々は安心して暮らせるようになったとされています。

「九鼎」には意思があり、持ち主が王として相応しくないと感じると軽くなりどこかにいってしまい、逆に相応しいと感じると重くなり決して動かないという伝承があります。このことわざはこれを踏まえたものです。

楚の王さま、荘王が…

(中略)

…戦乱によって、「泗河」に沈んでしまったそうです。始皇帝は一度沈んだ九鼎を見つけたのですが綱で引き上げようとすると鼎から龍が出てきて綱を嚙み切ってしまい失敗したと言われています。

(中略)

もし見つけたとしたら大変な発見なので今でも「あの「九鼎」を発見した!」と主張する人がいるのですがいずれも偽物だと考えられています。





考古学的知見から見た饕餮紋 著:青山 陸 2013年


饕餮紋とうてつもんとは新石器時代から殷、周王朝まで中国で使われていた紋様であり一対の角と

見開いた眼を特徴とし龍を模したものである。

(中略)

饕餮とは四つの眼を持ちあらゆるものを食らう恐ろしい怪物であり饕餮、そして饕餮紋は中国の神にして怪物である蚩尤を表したものでもある。

(中略)

饕餮紋は一般的に殷王朝とそれに続く周王朝の青銅器に彫られる紋様としてよく知られるが実際には殷王朝と同時代、あるいは先行する長江文明、夏王朝、龍山文化などの新石器時代に存在した文化でも使われていた。以下ではそれぞれの事例を個別に見てゆく。なおこれ以降は饕餮紋で描かれている対象を有角神、つまり角もつ神、と呼称する。


・長江文明 三星堆遺跡

長江文明において饕餮紋が使用された器物は3000年以上前のものと推定される三星堆遺跡で頻繁に出土する。最も有名なものは青銅縦目仮面だろう。突出し吊り上がった眼、斜め上方に伸びる耳、大きく裂けた口、一対の角が特徴的な仮面で身体はヒトのものだけでなく龍身のものも発見されており有角神を表したものだと考えられる。徐朝龍氏によると朱色の塗料の痕跡が見つかっている事からこの龍の身体は赤かったという。

(中略)

三星堆の神、つまり有角神は祖霊などの死者の神という説も存在する。

(中略)

・夏王朝 二里頭遺跡

夏王朝は4000年前から3500年前にかけて黄河流域、中原に存在した中国最古の王朝であり饕餮紋はその王都である二里頭遺跡から出土する。夏王朝での饕餮紋は盾状の銅器にトルコ石を埋め込むことで表現されており、この器物は三星堆遺跡でも発見されていることから夏王朝から三星堆遺跡などの長江文明に伝わったと考えられている。

この楯状の銅器も三星堆遺跡の仮面と同様に龍の身体が付けられたものが発見されており、三星堆の朱色とはこの銅器の赤銅色を真似たとも考えられる。しかし三星堆の仮面とは異なり遺体とともに埋められることが多かったという特徴がある。

(中略)

二里頭遺跡からは有角神と同種のものと思われる双頭四眼の龍の紋様も頻繁に見られ、一部の文献には夏王朝と二頭の龍に関する記述があることから有角神がどのような神と考えられていたかが推察できる。

文献によると祖霊の神、そして王朝が終わる時に現れる神と考えられており、また夏王朝の創始者、禹は大洪水、反乱、血の雨、死者を祀る廟に出現した龍、吠える犬、夏でも水が凍るほどの冷害、複数に増えた太陽を人面鳥身の神と供に治め王となったという記述がある。

興味深いのは三星堆遺跡でも龍と鳥が対比、対立する存在であった点である。三星堆遺跡の出土品から鳥が地上に恵みを与えると考えられていたであろうこと、蚩尤や饕餮が恐れられていたことも踏まえると死者や死後の世界の神であり国が滅びるほどの災害を齎す存在として考えられていたのではないか。なおこの二頭の龍は人類を産んだ兄妹の神々、女媧と伏羲の原型だという説もある。

(中略)

王光尧氏によるとこの楯状青銅器に描かれた神、すなわち有角神が後に蚩尤となった。杜金鹏氏は夏王朝滅亡によって人々は長江上流へと移行し三星堆へと移ったとしている。


・遼河文明 紅山文化 

紅山文化は5500年前から5000年前に遼河流域、つまり朝鮮半島のほど近くに存在した新石器時代の文化で遼河文明に含まれる。

紅山文化から発掘された玉製の小像は突出し吊り上がった眼、斜めに跳ね上がった耳、一対の角を持つという三星堆遺跡の仮面と極めて類似した特徴を持つ。この小像は人型だが紅山文化からは最古級の龍の像が見つかっており、その龍の顔は平たく人面のようでありまた眼が小像と類似することからおそらくは小像と同一の対象だと考えられる。

またこの龍は自らの尾を食らういわばウロボロスとして描かれている。ウロボロスのシンボルは西洋やオリエントでのみ観察され東アジアでは類例が見られないためその意味するところは推測の域を出ないが死と再生を表している可能性がある。

なお龍以外に鳳凰の像も発見されており三星堆や二里頭と同様の対立関係があった可能性もあるが残念なことにそれらのような確たる証拠はない。その他にも地下に設置された女神を祀っていたと考えられる廟の存在や地中海のキロキティア遺跡と関連が見られるというユネスコの指摘など興味深い点は数多くあるが詳しくは不明である。

(中略)

・結論

饕餮紋の起源は少なくとも6000年前までは遡れると考えられる。また地理的範囲も中国東北部から西南部までかつては幅広くこのシンボルが浸透していた。時期と場所からおそらくは北部から南部へと次第に広がっていったが年月とともに元の形が忘れ去られてしまい現在では古代と比較的近い形で中国南部に、具体的には長江流域にのみ残っているのではないだろうか。また今のところ最古の系譜である遼河文明紅山文化もどこからか饕餮紋が伝来した可能性はある。




日本文化の起源 著:高田隆三 月明堂 2023年


…2021年、natureに発表された論文では言語学的、考古学的、遺伝学的観点から総合的に判断すると日本人の起源は数千年前の遼河りょうが文明であると結論づけられています。




地名の由来辞典 著:地名の由来辞典編集委員会 國書出版社 2009年


・蛇抜(ジャヌケ)

長野県など中部地方に多く見られる地名。過去に土石流が起こったことを示す。古くは龍や蛇が山腹に埋まっている、あるいは山腹に埋まった法螺貝ほらがいの中が龍や蛇の住む異界と繋がっており土石流とはそこから蛇が「抜け」出すことによっておこると考えられていた。斎藤純氏によると法螺とは洞、つまり洞窟が転じたものである。なおこの蛇あるいは龍は八大龍王やセキリュウ(石龍)さんとして信仰されている場合もある。

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