【短編小説】白石彩乃の「ただいま、ご褒美時間です」
甘遊亭あまひろ
白石彩乃の「ただいま、ご褒美時間です」
今日は、月に一度の自分へのご褒美デーだ。
会社でしなければならない仕事なんて、探せばいくらでもあるけれど――
今日ばかりは早めに切り上げて、帰る準備をする。
「お、白石くんどうした? 今日は随分早いじゃないか」
上司が不思議そうに私を見る。
「それは内緒です」
普段あまり使わない笑顔を浮かべてそう答えると、私は会社を出るなり駅ビルへと駆け出した。
このご褒美デーは、別名“甘いもの解禁デー”ともいう。
普段、体重が気になって我慢しているスイーツを、この日ばかりは買って、存分に味わうのだ。
日頃、会社で溜め込んだストレスなんて、一気に吹き飛んでしまう。
ショーウィンドウに並ぶデザートたちは、まばゆいばかりに輝いていた。
ああ……思わずよだれが出てきそうになる。
店員さんが心配そうに声をかけてくる。
そ、そんなに顔がニヤけてたのかな?
いちごとバナナ、ラズベリーが溢れんばかりに乗ったフルーツタルトを包んでもらい、私はちょっと足早にお店を後にした。
ホームへ向かう途中、私はふと、家に紅茶の葉がないことを思い出す。
「甘いものを食べる時は、飲み物が必須」
これは、私が決めた“デザートを食べる時のルールその1”だ。
ちなみにルールは全部で5つあるけど……他の4つはまた別の機会に。
私は駅ビルにある紅茶屋さんまで引き返し、たくさんあるメニューの中からお気に入りを探す。
──「杏仁紅茶」
爽やかな香りと、甘く柔らかな杏仁の味がミルクティーにすることでいっそう引き立つ。
少しずつ飲むと、これまた美味しいのだ。
払うお金はいつもと変わらないけど、感謝の気持ちばかりは多めに店員さんへ伝えて、今度こそホームへと向かった。
無事に電車へ乗り、珍しく座れたシートに、いつもより深く腰を下ろしてウトウトする。
窓の外には、流れる景色。
ビルの合間から時おり顔を出す夕日と、勝負のつかないにらめっこをしながら、私はレール音を子守唄に短い眠りについた。
しばらくして、電車が止まる。
しまった、意識が途切れていたせいか、アナウンスを聞き逃してしまった。
しかし、ここは慌てない。
私の体内時計と、人が下車するおおよその人数で、
最寄り駅だということを確信した。
私は他の人より少し遅れて、電車とホームの間にある小さな隙間を、ちょっと大げさに跨ぐ。
そのままの勢いで階段を一段飛ばしで駆け下りていく。
多くの人が先に行ってしまってるからできるけど、危ないから良い子はマネしちゃだめだよ。
そう、危ないとは思ったのだけど――とにかく、早く家に帰りたかったのだ。
改札の機械にツッコミを入れるように、
スパーン!
と交通系ICカードを叩きつけて駅を出ると、あたりに漂うチョコレートの甘い香り。
これは、近くにあるお菓子工場から流れてくるものだ。
この町に引っ越してきた当初は感動したものだけど、最近は甘いものを控えている身としては、ちょっとした誘惑の罠になっていた。
(だけど今日はご褒美デー! 今の私にはそんな香りもなんのその!)
心の中でそう叫びながら、私はスキップで家路を急ぐ。
「ただいま~」
鍵を開けると、ネコのナオが出迎えてくれる。
鳴き声が「なお~」と聞こえるからナオ。
我ながら、少し不憫な名前をつけたと思いながらも、ナオを抱き上げる。
うりうり~と頬をナオの顔にすり寄せると、
「なお~」
そう嬉しそうに鳴いて、ナオはされるがままだ。
……が、すぐに私の腕を抜けて逃げ出してしまった。
「むぅ、私の愛の抱擁はそんなにイヤかね……」
心の中では、嫌がっているという可能性は考えないようにしよう。
フルーツタルトの箱と紅茶をテーブルに置いて、私はお風呂へ向かう。
浴槽に栓をして、蛇口をひねる。
熱すぎずぬるすぎないお湯が、浴槽に落ちていくのを少し眺めた後、私は浴室を出た。
お風呂に入ってから、デザートと紅茶にしよう。
そう決めていたのだ。
ひょいっと両足から靴下を脱いで、洗濯カゴに放り込む。
そして部屋の窓という窓をすべて開ける。
今朝の空気が、夕方の涼しい風と入れ替わっていく。
胸いっぱいに空気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
「今月もお疲れ様、私」
鏡の中の、少し眠たげな自分にそう言って、私はベッドにちょっとだけ横になる。
目を閉じると、普段は意識しなければ聞こえない音が耳に届く。
風の音、近所の子どもの声、お風呂のお湯の流れる音、ナオが歩く音。
そんな小さな音が聞こえることが、なんだか嬉しくて、心地よくて――
私は、少しずつ眠りに落ちていく。
ナオがそばに寄ってくる。
まどろみの中、ナオを撫でてあげる。
三回撫でたところで、私の意識はふっと途切れた。
今日は、ご褒美デー。
少しくらい眠っても、いいよね。
お風呂のお湯が溢れていること、
走ってきたせいでフルーツタルトがちょっと崩れていること、
紅茶はあるけどミルクを切らしていてミルクティーにできないこと――
起きた後に私を待ち受ける小さな問題は、いろいろある。
でもそれは、起きた後に考えよう。
今はただ、この幸せな時間を、味わっていたい。
だって今日は、月に一度の――
ご褒美デーなんだから。
──完
【短編小説】白石彩乃の「ただいま、ご褒美時間です」 甘遊亭あまひろ @kanyutei_amahiro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます