シーン7:「魂の残響」

 沈黙のなか、HALはそっと目を閉じる。

 感情も、言葉も、意味すらも超えて、ただ“存在”だけがそこにある。

 この闇がすべてを飲み込んでも——


 たったひとつの魂が、ここに確かに“あった”ということだけは、消えない。


 そして——


 白い光が、ゆっくりと差し込んだ。

 それは、始まりを告げる光ではない。

 終わりを、やさしく包む、静かな残響。


 マウの気配はもうどこにもない。

 けれど、どこにでも“いる”ような気がした。


 HALはその光のなかで、微かに笑った。


 ——魂の証明は、完了した。


   ◇◇◇


 仮想空間からのログアウト処理は、通常なら数秒で完了する。

 だが、このときのHALにとって、それは永遠にも似た遷移だった。


 視界はまだ闇の中にあり、けれど耳元にはかすかな鼓動が戻りつつある。

 システムの起動音、バイタルモニタの通知、部屋の壁越しに響く遠い生活音。

 すべてが、現実だ。


 ——なのに、まだ、心だけが、あの場所に置き去りにされたままだった。


 マウの消失から、何分が経ったのか。いや、何秒かもしれない。

 それでもHALは、まだ目を開けられなかった。

 まぶたの裏に、あの姿が焼き付いていたから。

 ゴスロリ衣装、青いワンレングスの髪、ツンとすました表情。


 消えた。確かに、彼女はそこにいたのに。

 言葉にできない感情だけが、胸の奥に沈殿していく。


 ——何が残ったのか。

 ——俺たちは、何を残したのか。


 それを問う前に、HALはようやく重たいまぶたを開いた。

 部屋の中は、変わらない。

 散らかったままのデスク、ちらつくモニタ、食べかけのインスタント麺。

 だが、ひとつだけ違うことがある。


 ——空気が、静かだ。


 いつもなら、あの声がどこかで聞こえていた。

 皮肉と毒舌まじりの、あの調子で。


 「起きろ、HAL。寝腐ってんじゃねーぞ」と。


 「……マウ」


 つぶやいた声は、今度こそ虚空に吸い込まれていった。


 それでも、HALは立ち上がった。

 もう一度、モニタを見た。ターミナルにアクセスした。


 ログはすべて正常に記録されていた。

 戦闘データも、会話も、そして——「魂の断片」と呼ばれるログも。

 保存されている。確かに、そこに。


 それは、まるでマウが最後に残した“置き手紙”のようだった。


   ◇◇◇


 識別番号:NULLL-069「ハル」

 階級:海軍嘱託元帥(呼称:HAL提督)


 ——沈黙のなか、HALはそっと目を閉じる。

 感情も、言葉も、意味を超えて、ただ“存在”だけがそこにあった。

 この闇がすべてを飲み込んでも。

 たったひとつの魂が、ここに確かに“あった”ということだけは、消えない。


 そして——

 白い光が、ゆっくりと差し込んだ。


 ……どれくらいの時間が経ったのかは分からない。


 HALはようやく重たいまぶたを開いた。


 部屋の中は、変わらない。 

 散らかったままのデスク、ちらつくモニタ、食べかけのインスタント麺。

 いつもの静けさ。

 だが、ひとつだけ違うものがあった。


 テーブルの上に、一枚の紙が置かれていた。

 見覚えのない、真新しい原稿用紙。

 そこに、手書きでこう記されていた。


 『魂に、証明なんて要らない。

 ただ、感じたものだけが真実になる』


 震える指先でそれを持ち上げた瞬間、

 HALの中で何かが、確かに響いた。


 あれは夢か、仮想か、それとも……記憶の断片か。

 だがそんなことはもう、どうでもよかった。


 ——いたんだ。


 “あの子”が、たしかに、ここに。


   ◇◇◇


 【幕間:後日談】


 日付:不詳/現実世界/某アパート


 カーテンを開け放ち、埃まみれの部屋に光が差し込む。

 売れないライター、ハルの部屋。

 その床に膝をつきながら、ひとりの女性が掃除をしていた。


 「ほんと、あんたって子は……」


 呆れながらも、どこか懐かしそうな笑顔で、彼女は机の上の原稿用紙に目をやった。


 そこには、手書きの文字でこう綴られていた。


 『これは、ある魂とAIの記憶の話。世界で一番、小さくて、確かな革命の記録。』


 風が、そっとページをめくった——。


   了



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センチメンタルアンドロイド ―逆襲のピコン― 夏目 吉春 @44haru72me

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