船と肉と藻の湧いたワインと
@elicia
短編
アルセール大陸より遠方。遠くの海。
——ザザァ
海のど真ん中に浮かぶのは「海賊船ジョリー号」
彼らは他の海賊船や輸送船を襲撃して略奪したり、茶葉やタバコ、香辛料などを密輸して生計を立てていた。
しばらく前に、ジョリー海賊団はとある国の輸送船を襲撃し、とある重要なアイテムを略奪した。
だがそれによって、その国の当局に追われている状況だ。
とはいえ、航海士の巧みなルート選択により追手は振り切り、警戒しながら某所の役人との癒着で許されている入江に向かって進んでいた。
しかし状況は芳しくない。
物資も食料も日に日に減っていく。
乾パンの缶詰を開けるたび、誰かが舌打ちする。缶切りの音すら、今では神経に障る。
どこかの島か湾に停泊したいところだが、もしかしたら当局が国家間で連絡を取り手配を回しているかもしれない。
寄港先で名前を知られる船など、一瞬で通報対象となる。
海は広いようで狭く、逃げ場は思ったより少ない。
そんな船の中、ある一人の船員。
名はカッス。
彼は船の部門のうち、整備班のとあるチームの一員だった。
錨の点検、甲板の清掃、そして漏水した箇所の応急修理など、やることはいくらでもある。
それでいて報酬は雀の涙。
彼は船に乗ったことを後悔した。
どうしてこんなことに、という悔いが、毎朝、波の音とともに押し寄せてくる。
酒場でクダを巻いているときに、たまたま意気投合した船員に唆され、「給料は略奪に成功すると一撃で10万G」とか、「停泊したら船長が風俗奢ってくれる」とか甘い言葉に騙された。
ちなみに、彼をそそのかしたのがキース。
同じ作業班の一人。
休憩中。キースと会話する。
彼は異様にギラついた目と痩せこけた頬で、いつもカッスに近づいては変な話ばかりしてくる。
頬の骨が浮き上がり、笑うと眼窩の奥が妙に光る。まるで飢えた夜行性の獣のようだった。
廊下の隅を痩せこけたネズミが走る。
しっぽを引きずるようにして、埃まみれの床を素早く駆け抜けていった。
ここではネズミすら1匹ずつ餓死していく。
あちこちに転がる小さな死骸は誰も片付けない。
ゴキブリなんてとっくに絶滅した。そんなのは誰かしらの胃袋の中だ。ネズミも含めて。
「お前ピアスってつけてるか?」
カッスは工具箱に腰かけたまま顔を上げた。
「いや、邪魔だからつけない」
——パシん!
突然、後頭部に軽くしばかれる。
「おい俺のほうが先輩だろうがよ!」
「す、すいません」
頭を押さえながら反射的に謝る。
それがこの船で生き延びるための処世術だった。
「で、ピアスがどうしたんですか?」
「俺はヨォ〜、この間、停泊した街でよ喧嘩になってよ」
キースはニヤつきながら、指で自分の耳たぶを引っ張った。
どこか遠くを見ている目だ。
「……」
カッスは嫌な予感を覚えつつ黙っていた。
「相手がピアスしてたからさ、こう……思い切り引っ張って……ブチって!やったんだよ」
——ニタァ
きっとキースはその光景を思い出して悦に入っているのだろう。
指先の動きが生々しくて、想像したくもないのに勝手に脳裏に浮かんでくる。
なんなんだこいつは。
「耳ってな、こう……まっすぐ引っ張るんじゃなくて」
——ぎゅいいい
「いてて!キース先輩!ちょ!いてて!」
唐突にカッスの耳をつまみ上げ、実演しようとする。
「縦に引っ張ると綺麗に裂けるらしいぜ」
「そ、そうなんですか……」
冷や汗が耳の付け根を伝う。
笑いごとじゃない。
「試していいか?」
「いやです」
すると女性が一人近づいてきた。
同じ作業班のメンバーだ。
名前はリマという。
リマは唇を舐め回しながら、夢遊病患者みたいに近づいてくる。
視線がふらついていて、目元の焦点がまるで合っていない。
足取りもどこか頼りない。
「さっきからなんの話してんの〜?」
声がぬるりと耳の奥に入ってくる。
息がかかるほどの距離。カッスは思わず背を引いた。
——ポリポリ
無駄に襟元を指でポリポリ掻き始める。
その動きもまた、どこか神経が飛んでいる感じがする。
湿疹だ。発疹か?どっちでもいい。
——ドサ
彼女はカッスの隣に座ると、どこからか酒瓶を取り出した。
ガラスの鈍い音が廊下に響いた。
「おい……それまずいぞ……」
カッスが青ざめる。
声が裏返りかけていた。
食料の盗みは即刻死刑。
見つかった時点で審議もされずにその場で「グサ」だ。
酒も例外ではない。
貴重な物資。取り決めで厳しく管理されている。
だがリマは自慢手に瓶をぷらぷらさせた。
ラベルが半分剥がれたその瓶は、まるでトロフィーのように誇らしげだった。
よく見ると口紅は所々剥がれていて、髪も変な跡が残っている。
潰されたみたいな寝癖というには変すぎる。
そして襟元、手首、太もものあたりにかすかに赤黒い跡。押しつけられた痕。指の本数が読める。
(そういうわけか)
リマは酒を一口飲むと、カッスに差し出した。
肩が触れる。息が甘い。
「あんたも飲めば?」
やけにテカテカする飲み口。
体液か、唾液か、汗か、もう区別がつかない。
「……」
盗まれた酒なら共犯で地獄行きだが、「了承」を得て貰っている酒なら良さそうだ。
つまり、許された範囲の“おすそ分け”。
この船では、それが生き残るコツでもある。
リマは耳元で囁く。
「大丈夫。口つけて飲んだけど、ビョーキは移らないから。うふふ」
「あ、ああ……」
喉が鳴る。
どこかで誰かが、舌打ちをしている気がした。
「みんなはビョーキだけど私はビョーキじゃないの。あなたもだっけ?でも、ネズミを食べるとビョーキになるらしいわ」
「そりゃ……そうだな」
口の中が乾いていた。
ここでは金なんかなんの役にも立たないが、彼女には「売る物」があったらしい。
肌か、笑顔か、あるいは狂気か。
何にせよ、それで酒が手に入るなら立派な通貨だった。
キースは拾ったネズミの死体の歯を触りながらブツブツ呟いている。
指先でそっと撫でるように、しかし執着のこもった動きで。
「ネズミの歯は硬いらしいな。汚いから、これを拳にくくりつけてよ……相手をぶん殴ったらその後膿が出ておっ死んじまうんだろうな。」
「……」
カッスはもはやリアクションすらせずに目を逸らした。
キースがどこに向かっているのかも、もう知りたくなかった。
そんな二人は放っといて、カッスは次の作業に必要な道具を取りに行った。
——プルプルプルプル……
「……」
カッスの目の前にはプルプルする奇妙な埃がいた。
いや、埃じゃなくてジジイだ。
白い髭に、しなびた皮膚。全身が振動している。
彼は同じ作業班だが高齢なので道具の手入れや持ち出しの管理をしている。
一応“保管係”ということになっているが、実態は倉庫の幽霊みたいな存在だ。
錆びついた道具でも、停泊した時に盗んで売り払う輩がいるらしい。
だから管理役が必要なのだ。どれだけ使い物にならなくても。
——プルプルプルプル……
「ほお?」
「……ノコギリを一本。それから……やすりも」
「ほお……ノコギリをな……やすりもかぁ」
——プルプルプルプル
ジジイは引き出しをひとつずつ丁寧に開けていく。
その手付きが遅すぎて、埃よりも動きが遅い。
「船長がのぉ……」
「え?」
「黄金の島を見つけたんじゃ……」
「……」
「今度島に着いたらなぁ……」
——プルプルプルプル
——ガチャガチャ
ガチャガチャというよりカチャカチャ。
骨と工具が鳴っているような音。
「わしらに勲章をくれるというとる……」
「……」
「もう少し辛抱せえよ……」
なんに言ってんだ?このジジイ。
何の勲章だ?海の上で貰えるのか?誰がくれるんだ?神か?
カッスはもう限界だった。
乾いた口の中、腐った肉の匂いしかしない空気、頭の奥でずっと鳴ってる波の音。
船の上で過ごす日々が、じわじわと体力も理性も食い潰していく。
1日も早く船を降りたい。
陸につかないと逃げもできない。
海の上では、死ぬまでこの地獄の一員だ。
(もう……いやだ……)
数日後。
——カンカンカンカン!
鐘の音で起こされる。戦闘の合図だ。
襲撃されたのか、する側なのか。
カッスにはどうでも良かった。
なぜなら——。
「戦闘ダァ!甲板に上がれえええぇ!」
この通りだ。
声を張り上げているのは、船の“気合担当”とでもいうべき男。
いつもこの声が響くと、誰かの命が尽きる。
カッスは仕方なく武器庫から剣を受け取って甲板へ上がる。
鉄の匂いが染みついたその剣は、やたら重く、刃こぼれもひどい。
研ぐ暇もない。生きるか死ぬかの抽選券だ。
こればかりは運しかない。
うまく立ち回ったやつが生き残るとは限らない。
転んだ拍子に命拾いすることもあれば、ひょんなことで首が飛ぶ。
ジョリー号が相手の船に寄せていき、フックを遠投。
次々と船員たちがターザンみたいに船に飛んでいく。
怒声、咆哮、汗の匂いとロープの軋む音が入り混じる。
「オラァ!グズグズするなぁ!」
——ゲシ!
痩せこけた戦闘員に蹴られ、カッスは雄叫びに似た悲鳴をあげながらワイヤーを滑り落ちていく。
風が目にしみる。
「おあああああああぁあ!」
着地の衝撃で膝をついたが、すぐに立ち上がる。
だがカッスがオタオタしている間に、もう事は済んでいた。
簡単なことだ。
相手の船も「限界」だったらしい。
帆は破れ、舵は傾き、甲板には水溜りとゲロと血の跡が混在していた。
船員たちも餓死寸前。
生きている者も骨と皮ばかり。
目の焦点は合わず、気力も尽きていた。
廊下には古代の秘薬!
——ではなくミイラ化した餓死者で溢れかえっていた。
戦闘といえば死んだふりをするやつを刺して確かめるか、逃げ惑う奴らも同じようにするかだった。
「こいつは生きてるぞ」
「なら殺せ」
そんなやり取りが、至る所で無感情に交わされていた。
すぐに略奪に移る。
死体から服からアクセサリーから全部剥ぎ取って、船中の道具や鉄屑や、紅茶や香辛料などの輸送品。そして取引に使うであろう現金を根こそぎ持って帰る。
無造作に袋に詰め、名も知らぬ者たちの命の残骸を踏み越えていく。
誰も祈らないし、誰も悼まない。
ここはそういう海だった。
夕食の時。
「お前らぁ!宴だあああぁ!」
ジョリー船長が雄叫びを上げた。
声が腹の底から突き上がってくるような、獣じみた音だった。
カッスたちの目の前に置かれたグラス。
配膳係がワインボトルを持って順番に注いでいく。
ボトルのラベルは半分剥がれており、中身が本当にワインなのか誰にもわからない。
——ガヤガヤ
——ジョロジョロ……
グラスには並々と注がれたワインが。
ひどく赤く、どこか泥くさい匂いも混じっているが、それでも久しぶりにまともな酒が飲める。
船員たちは浮かれ、笑い、吠えていた。
キースは隣でずっと「割れたガラスは鋭い」みたいなことを耳元で囁いているが、無視してやった。
この時間に正気を保とうとするほうが無理だ。
「海賊王になるぞおお!お前ら仲間だろ!力を貸してくれえええぇ!」
——ドーン!
どこから聞こえてきたんだこの音——みたいな感じで船長がワイングラスを持ち上げる。
「……」
船長の方が色が濃い。あと副船長も。
一等航海士もやたら透明度の高い何かを飲んでいた。
——チラ
もっとよくグラスを見やる。
——もよもよ〜
「……」
最初は色が薄いから「ロゼ」かなと思ったが、水で薄めてあった。
しかもその水だって汚く腐っていて藻が浮いているのだ。
耳元でリマが囁く。
「このワイン、藻が湧いてるわ」
「そう……だな」
「薄める水が腐ってたのよ」
「……」
そんなのわざわざ囁かないでくれ。
カッスは天を仰いだ。
木材の梁にカビが生え、しがみつくゴミがぶら下がっていた。
「腐った水はビョーキになるのよ」
「あぁ……」
「腸から血が出るの。で、その血を触るとビョーキになるのよ」
「……」
「船長も料理長も、みんなビョーキだわ」
——ポリポリ……
リマは服に手を入れて、皮膚を掻きむしった。
赤黒い斑点が爪に絡んで落ちる。それを見ても誰も止めない。
「でも私はビョーキじゃない。あなたもね。ビョーキにならないようにしなきゃ。あなただってビョーキじゃないでしょ」
「そうだとも……」
「でもみんなはもうビョーキなのよ。私もあなたも、ここにいればビョーキになるわ。みんなビョーキになっちゃうの」
「もうやめてくれ」
声で抗議したが、彼女の耳には入っていないらしい。
むしろ、その言葉さえも彼女の妄想の糧になっているように見えた。
——プルプルプル……
——ジョボジョボ……
斜め前の席ではジジイがプルプルしていて、ワインを全部こぼしている。
グラスは斜めに傾いたまま、テーブルに赤黒い水を滴らせていた。
「あぁ……あぁ……」
「ジジイ。溢れてんぜ」
キースがジジイからワインを取り上げる。
その手はもうすでに、こいつのワインをどうするかのことばかり考えている。
「昔なぁ……母屋にワインを埋めたんじゃ」
「……」
「憲兵が全部召し抱えるというてな……じゃから全部埋めたんじゃ」
「……」
だったらそのワイン持ってこいよ。海までよ。
そう言いたかったが、口を結んだ。
この船では、言葉を飲み込むのもまた、生存本能の一部だった。
主食は久しぶりの肉だった。
——ガブ
みんな本能に従って肉に喰らいつく。
油の臭い、焦げた皮、灰混じりの塩。
細かいことはどうでもいい。温かいというだけで、脳が「生」を感じる。
——もっちょもっちょもっちょ……
なんの肉かなんてどうでも良かった。
タンパク質じゃない肉は野菜で、タンパク質は肉なんだ。
生きていれば何だって飲み込める。
船長と幹部連中だけが酒瓶片手に居酒屋感覚だ。
談笑、叫び、時折乾杯。
こちらの空腹と殺気立った空気とは別世界にいる。
船長の首筋は赤いブツブツがいっぱいできていた。
掻いたあとも、腫れも、血の跡もある。
にもかかわらず失われた秘宝や海賊を束ねるとか、俺たちは仲間だ、とかくだらない話をしている。
そんなくだらない話だって、船で死んだ仲間の死体の上に置いたテーブルでしてるのだから。
ゾンビに胴上げされているのと、さして変わらぬ。
(ビョーキか、あれも)
カッスはリマの言葉を反芻した。
最初は冗談半分に聞いていた言葉が、今ではじわじわと脳にこびりついて離れない。
「昔別れた女がいてよ」
突然キースが喋り出した。
肉の繊維を歯の隙間に詰めながら、唐突に。
「俺がガキだった頃のだよ。」
「……」
カッスは聞きたくもないが、黙っていた。
否定も相槌も、もう疲れる。
「俺に黙って男と会ってやがった」
「はあ……」
「だから家に呼んで問いただしてやったよ」
「……」
「俺につくなら、あいつは捨てろってな」
「そうですか……」
「あいつどうしたと思う?俺に背を向けやがった」
「……」
「むかついたからよ。冷凍庫にあった鶏肉を足めがけて思い切り投げてやったよ!ゲヘヘヘヘ〜」
「……」
「鶏肉ってよ凍らすとな……アキレス腱切れるんだぜ」
「そう……なんですね」
——プルプルぷる
向かいではフォークが使えないジジイが肉を素手で口に放り込んでいた。
歯が抜けた口で無理やり噛み千切るその姿は、もはや動物にも見えない。
ただ、咀嚼音だけが生々しく響いていた。
「船長がワインをくれるというたんじゃが、またもらっとらんなぁ……」
馬鹿か。もうキースの喉を通ったよ。
そんな皮肉を飲み込み、カッスは皿の上の肉を見つめた。
赤黒い脂が、皿の底で泡立っている。
キースがずっと「フォークでどこを刺したら痛いか」話してる横でリマが囁いてくる。
「私、もういらない」
肉が一切れ残っていた。
脂が染み出して、皿の端でぐずぐずになっている。
カッスは我慢できなかった。
「もらっても?」
「ええ。でも」
「……?」
「一回噛んで吐き出したの」
「もういいよ。気にしないから。くれよ」
「ダメよ。人が食べたものはビョーキになるの」
「……」
「あなたはビョーキになっちゃダメ。」
「ああわかってる」
「私はまだ大丈夫。ビョーキじゃないわ。でもあれはもうビョーキだもの」
視線の先には相変わらず「ガハハ」と笑う船長と幹部たち。
頬に泡がついたまま笑い、口元は裂けたようにひらきっぱなしだった。
「他のみんなもビョーキだわ。ビョーキの人に近づくとその空気を吸ってビョーキになるの」
「やめてくれよ」
「一番痛いのって尻なんだぜ。お前試してみるか?俺ずっと前にレストランで喧嘩になったやつによ——」
「やめろよ」
——プルプルプル……
「甲板に土を蒔いただろ?わしと船長でなぁ……毎日耕した。……今頃トマトがなってるだろ?」
「うるさい。いつの話だよ。死ねよ」
ジジイの声もキースの声も、リマの囁きも、全部が同時に押し寄せてきて、脳を締め付ける。
「私はビョーキになんかならないで船を降りるの。他のみんなはもうビョーキだから。そこの爺さんだって。料理長もビョーキだわ」
「うるさいな」
——バァン!
カッスは力任せにテーブルを叩いた。
グラスが跳ね、肉の残骸が空中を舞った。
——シーン
静寂。
宴の笑いも止まり、誰かの咀嚼音も消えた。
ただ、揺れるランプの火がテーブルに影を落としていた。
そして——。
「はっ!?」
目が覚めるとベッドの上じゃなくて足元で寝ていた。
毛布も掛かっておらず、床の冷たさが背中に染みていた。
「……」
夢だったのか。
いつの時点でそうだったのかわからない。
テーブルを叩く前であって欲しい。
多分そうだろう。じゃなきゃビョーキだ。
あれ以上続けてたらフォークを持って暴れていたところだ。
きっと一目散に船長の尻目掛けてフォークを振り下ろしていただろう。
現実だったとしても、夢だったとしても、もう限界は近い気がしていた。
船内補修の仕事に取り掛かって、リマに夢のことを聞いた。
「あなた、『俺部屋に戻るわ』って言ったきりだったわよ」
どうやら肉を食べ終わった時点で帰っていたらしい。
良かった。
夢の中の叫び声も、フォークの妄想も、現実じゃない。少なくとも、今はまだ。
「でもビョーキで寝てるわけじゃないから。ビョーキなら朝起きてこないでしょ?」
「そ、そう……だな……」
——ギコギコ
すぐ横でキースが補強用の板を切っていた。
手首を異様な角度で使いながら、嬉々として刃を引く音が響く。
「鋭い刃よりも切れ味が悪い方が痛いって知ってるか?」
「そうなんですね……」
——ギコギコ
ジジイはプルプルしていた。
動くたびに工具が落ちる。本人も落ちそうだ。
「……やすりじゃなくて砥石掛けしてくれよ。もう切れないよ」
カッスは借りたナイフをジジイに戻した。
刃こぼれは酷く、柄も腐りかけている。これで刺されるのは、たしかに痛そうだ。
「港に着いたらオレンジを売るんじゃぞ。わしも山ほど積んである」
「いつの話だよ。」
オレンジの運送で一山当てようとして、借金まみれになったジジイが今更何を言ってるんだ。
休憩時間。
キースの顔はもう見たくなかった。
なのにいつも横に座ってくる。
「みんな痩せてる女がいいっていうだろ?」
「そうですかね?」
「やめとけよ」
「どうして?」
「骨が当たるんだよ。腰を動かすたびに。刺さるんだ。人の骨って硬いからさ、肘打ちが痛いのと一緒でよ」
「……」
——ポス、ポス
カッスとキースの膝の上にパンが投げられた。
それはまるで、誰かの遊びのような、投げやりな施しだった。
「お前……もしかして……」
青ざめるカッス。
食料の窃盗は重罪。即刻死刑。パンも例外ではない。
下手すればその辺のネズミの死体だって、どうかわからない。
「大丈夫よ」
「でもパンだろ?こんなの料理長が『良い』って言わない」
カッスは断言した。
だがリマは相変わらず唇を舐めながら喋る。
——ポリポリぽり……
「料理長ね、鼻が腐って落ちたの」
「……」
「もうビョーキだわ。」
「そんな……」
「泣いてた。ビョーキで泣いてる料理長を『慰めて』あげたの。その代わりにパンをちょうだいってね。私はビョーキじゃないもの。生き残らなきゃ」
「……」
かぶりつくキースを尻目に、カッスはパンを見つめたまま黙る。
温かくもない。柔らかくもない。
でも、匂いだけは確かに生きている気がした。
「大丈夫。かじってないわ。歯形がないでしょ?人がかじったものを食べるとビョーキになるもの。そんなことしないわ。みんなビョーキだから。でも私はビョーキじゃないから、かじっても大丈夫かもしれないね」
「そうだと……いいな」
——ガブ
よくわからなかった。
遠くの死か、今の生か。
選べるものなら、もっと別のものを選びたかった。
その日の夜。
「……」
目眩を感じながらハンモックに横になる。
身体が沈み込むたび、鉄骨が軋んだ。
汗の匂いと油の臭い、そして何か焦げたようなものが混じっている。
最近はあの音が聞こえない。
ボチャ……というあの音が。
死んだ仲間は腐ってビョーキを撒き散らすから、ああやって夜に捨てるんだ。
静かに、淡々と、重みを持って沈んでいく。
あの音がしなくなったということは——。
(誰も死んでない?)
いや、死んでる。
一昨日も、昨日も、今日も、トイレの前の廊下で座ったっきり動かないやつがいた。
でもさっきトイレに行ったらいなかった。
変な匂いだってしてたのに。
眠れないでいると、リマがこっそり来た。
裸足で、物音を立てずに。
「どうしたの?」
「眠れないの」
「そうか、一緒だな」
「ええ一緒よ。ビョーキじゃないもの」
——ポリポリ……
「俺は……ビョーキなのか?」
「違うわ。多分ね。料理長だって鼻が腐り落ちたの。でもあなたの顔は綺麗」
「……」
「私もビョーキじゃないわ。みんなビョーキで死んでいくけど。ちゃんと死体が片付いてるからビョーキを撒き散らさないの」
「そうか。ビョーキにならないで船から降りられるといいな」
波飛沫が船底を叩きつける。
揺れたカンテラがリマの顔を照らし、隙間の多い歯が見えた。
歯茎が痩せて、口元が乾いて、でも目は妙に潤んでいた。
「部屋に来ない?」
唐突な誘い。
「唯一」になってしまったリマには個室がある。
その意味は誰もが知っていた。
特別待遇ではない。
男しかいないのだから、「そういう話」だ。
どこでもかしこでも、犬のようにやったのでは「ありがたみ」がない。
ここでは許しがないのに戯れると海に落とされるか、切り落とされる。
どこが切り落とされるのかは、知らない方がいいのだ。
カッスとリマの影は個室の中で重なった。
湿った音と吐息が静かに響く。
金属の軋む音と、ベッドの布が擦れる微かな音。
外の波音さえ、ここでは遠く聞こえる。
「勘弁してくれよ……」
「どうして?」
「ビョーキになるだろ……」
「私はビョーキじゃないわ。」
「ビョーキなんだよ……気づけよ……!」
——ガバ!
無理やり起きてリマを振り払う。
肩を押す手は震えていて、喉は乾いていた。
ランタンに照らされた彼女の体がブツブツで黒くなっていた。
赤く、湿っていて、痒そうだった。
掻き壊された皮膚、滲んだ血、小さな水泡。
腕だけじゃない。太ももにも、腰にも、あの模様は広がっていた。
目が合う二人。
その瞬間だけ、時間が止まったようだった。
結局、どうしようもない船の中で、ミミズのように悶えるだけのカッスも「従う」しかなかった。
そこに拒否も拒絶もなく、ただ静かな屈服があった。
食事と同じだった。乾いていた。
腐っていても、食べる他なかった。
他に何もなかったから。
そうするしかなかったから。
——カンカンカンカン!
「えぇ!?」
二人同時にベッドから跳ね起きる。
まだ船内には夜の湿気が残り、空気は重い。
だがそれを引き裂くように鐘の音が連打されていた。
「こんな時間に!?」
外からは見張り役が必死に鐘を鳴らす音が聞こえる。
金属の音が不規則に重なり、ただ事ではないと知れる。
「敵襲ううう!」
「オラオラァ!武器を持って甲板に出ろ!」
「嘘だろ……」
誰だって寝込みを起こされては士気が上がらない。
腹も冷えてるし、意識も朦朧としている。
そんな中で外に出ろだなんて、死・に・に行くようなもんだ。
——バッ
ここで隠れていてもどうせ見つかる。
船の上では「動かない」ことこそが最大の罪になる。
部屋を出ようとするカッス。
——ガシ
リマに腕を掴まれる。
手は湿っていて、熱かった。
「行ったら、死ぬわよ」
「行かなくても……死ぬんだよ……!」
戦闘準備は船長の絶対命令。逆らえば死。
反抗するものが後を立たないから、部屋を全部開けにくる奴らがいる。
扉を蹴破り、布団をめくり、誰が何をしていようが関係ない。
そこで見つかったら全部終わり。
「俺も……お前も……ビョーキなんだよ!」
「……」
もうわかっていた。
ずっと前から痒みが。内臓も意識も全部おかしい。
咳も止まらない。舌が乾き、指先は震えていた。
自分がどこにいるのか、いつの時間なのか。
そんな感覚も、とっくに狂っていた。
カッスは振り返らなかった。
——バタン
扉の音が、まるで別の世界の入口を閉じたように響いた。
足音は、甲板へ向かって消えていった。
船と肉と藻の湧いたワインと @elicia
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