冷やし中華、はじめます。
祐里
笑顔のわけ
今年も無事に開催されるだろうか。
そんなことを考えながら、俺は『七月二十六日(土)開催予定』と書かれた花火大会のポスターの横に、『冷やし中華はじめました』と書いた紙を貼ろうとした。
「えっ、
「……実はちょっと迷ってる」
まだ貼っていない紙を壁に押し付け、
「六月入ったばっかだと、まだちーっと早いもんなぁ」
そんなふうに笑いながら、呆れた様子もなく、ヤツは続ける。
「でもいいんじゃね? だって、あの、おー……」
「だーっ! それ以上言うな!」
「声うるせえ。あのOLのためなんだよな? 一人だけ冷やし中華頼んでドン引きされてた」
「…………」
返す言葉が浮かばず、俺はくるりと向きを変えて厨房に引っ込んだ。
◇
去年の夏は、本当に文字どおり、猛烈に暑かった。
『亡くなった親父さんの店と意志、両方継ぎたいって気持ちはわかるよ。でもさぁ、冷やし中華くらいやれば? 何もラーメン一筋まで恭介が継がなくても』
『あぁ?』
店より早く親父から受け継いだ怖い顔で睨みをきかせても、彰人は『あっちぃじゃん』なんてだらしなく椅子にもたれ、ワイシャツの胸元をぱたぱたさせていた。
『ここのラーメン好きだけど、さすがにこう暑いとなぁ』
『その分冷房効かせてるだろ』
『それがよくないんだって。見ろよ、女子が全然いねえ店内を。冷房はちょい控えめにして冷やし中華を置くんだよ。昼休みのOLが来てくれるようになるぞ』
『…………』
確かにおっさんばかりだな、なんて思ったからではない。折角のオフィス街なのに、と思ったわけでもない。もちろん、OLに来てほしかったからでも、断じてない。去年冷やし中華を始めた理由は、猛暑だったんだ。
『あたし塩ラーメン』
『じゃああたしも』
どうして女子は友達と同じものを注文するのだろう。
『私は冷やし中華がいいな』
『えー、ここけっこう冷房効いてない? うちのオフィスよりはマシだけど』
『季節もの注文するのって、ためらっちゃうよね』
背中を丸めて苦笑いする彼女の表情が、ちょっと痛々しく感じた。
パートのおばちゃんが塩ラーメン二つと冷やし中華一つをテーブルに持って行き、彼女が具と麺を箸で混ぜる。そんなシーンを、俺はどうしてだか視界の端っこで追っていた。彼女が冷やし中華を口に入れるところも見た。一口、二口と食べる様を、ぼんやりと。そうしたら唐突に目が合った。
彼女の背は、もう丸まっていなかった。その目だけがふっと笑い、『美味しい』と伝えられた気がした。
◇
それ以来、彼女は週に一度、一人で店に来てくれるようになった。そうして、食べるたびに厨房の俺の方を向いて、ふわっと笑ってくれていた。冷やし中華の季節が終わったら来なくなってしまったけれど。
「まあでも、いいんじゃね? どうせ恭介のことだから冷やし中華のタレにもこだわったんだろ? 俺もあんとき食ったけど、美味かったよ」
「……ああ」
親父の代から使っているAsahiの冷蔵庫は、まだまだ現役だ。透明な扉を開けてビールやコーラなんかを補充する俺に、彰人が話しかけてくる。営業回りの最中のサラリーマンがこんなに油を売っていていいのだろうか。学生の頃から要領のいいヤツだったが、一応注意しておくべきか。
「おい、こんなところで時間……」
俺の口はそこで止まった。店の外に、彼女の姿が見えたから。
「大丈夫、ですか……?」
青い顔で座り込んでしまった彼女に声を掛ける。悔しいが俺よりイケメンで優しい雰囲気の彰人の方がこういうことには向いているはずなのに、ヤツは店の椅子に座ったままニヤニヤしながらこちらを見ている。
「あの、お、俺の店でよければ、休んでってください」
髪を後ろで一つにまとめただけの頭が、小さくうなずく。背に手を添えるのも緊張してしまう。俺はセクハラにならないよう気を付けながら、彼女を店の中に招き入れた。
「ありがとう、ござい、ます。お使い、頼まれて……外、出たら貧血に……」
「そうですか……大変ですね。あ、会社に電話して他の人にお使い頼めば」
「他の人、誰も行きたがらなくて。すみません……言い訳みたいなこと……」
彼女はうなだれて弱々しく笑う。行きたがらないって何だ。俺はパートのおばちゃんが体調悪そうだったら休ませて一人でやるぞ。誰だって調子が悪い時くらいあるだろう。
「いや……、あ、麦茶どうぞ」
彼女は「助かります」と言い、麦茶を飲み始めた。少し離れたテーブルでは彰人が「ふふん」という顔をしている。
「おい、彰人」そう声を出そうとした瞬間、おばちゃんが「おはようございまーす」と裏口から入ってきた。
「ん? きゅうりと……これ、生卵かな? 店長、冷やし中華やるんですね」
「
「あら? あなた……、やだ、本当。顔色が悪いですよ。食欲はあるかしら? 何か食べたらどうです? そうだ、店長が作った冷やし中華なら食べられるんじゃない?」
俺が話し終わるのを待たずに、パートのおばちゃんは一気にしゃべり始めた。おばちゃんは働き者で、仕事はすぐに覚えてくれるし、お客さんからも好かれていてありがたい存在だ。たまにおしゃべりが止まらなくなるところだけが欠点だと俺は思っている。
「冷やし中華、お好きでしたよね」と付け加えると、おばちゃんは彰人に向かって「あなたも食べたら?」と言う。
「作るのはいいけど、食べられますか?」
「あ、ありがとうございます。でも私……お使いして戻らないと……」
「会社に電話しちゃえばいいんです! ねっ! 気分悪くなりましたって、嘘じゃないんだから!」
おばちゃんの勢いのいい言葉に、彼女は少し笑った。ああ、よかった。おばちゃんバンザイ。
「俺も常連特権で食べさせてもらうわ。一緒に食べようよ」
「じゃあ……少し、いただけますか」
彰人の言葉にも、彼女は笑顔で答えた。彰人バンザイ。
「作りますね」
口下手な俺はそれ以上何も言わず、きゅうりを刻み始めた。
細麺はすぐに茹で上がる。氷水で締めて水を切ったら皿に盛り、きゅうり、ハム、錦糸卵、わかめを乗せる。男性客にも好評だったタレの作り方は秘密で、誰にも教えたことはない。
俺が冷やし中華に手をかけている間にも、おばちゃんはしっかり開店準備をしてくれていた。彼女は座って休んでいたからか、顔色がよくなってきている気がする。会社に電話もしたようだ。
彰人は俺が知らない間に彼女のテーブルに移り、何やら軽い会話を始めていた。
「昼休みが終わってから戻ってくればいいって言われました」「よかったじゃん。言ってみるもんだね」という会話に割り込み、「お待たせしました」と一玉を半分ずつ分けた皿を二人の前に置く。するとおばちゃんがすかさず、二人のグラスに麦茶を注ぎ足した。
「おっ、美味い。うん、美味い」
彰人は大喜びで、ぺろりと食べてしまった。本当に味わったのだろうか。
一口一口を大事そうに食べていた彼女は、一旦箸を止めて小さな声でつぶやいた。
「……やっぱり美味しいです。懐かしい味。子供の頃食べたのと似ていて」
「そう、ですか。美味しく食べてもらえれば、それでいいんで」
「去年もよくこちらでいただきましたけど、何だかそのたびに元気をもらえるというか……、午後もがんばろう、なんて思っていたんです」
ふふっと笑いながら、彼女は背筋を伸ばしてテーブルのそばに立つ俺に視線を投げた。何だか照れくさくなって後ろを向くと、「花火大会、天気はどうでしょうねぇ」とおばちゃんが言う。
「娘さんたちと行くんですか?」
「うーん、うちの娘は二人とも彼氏と一緒に行くんじゃないかなぁ」
ここで貼り紙のことを思い出し、俺は花火大会のポスターの横に『冷やし中華はじめました』と書いた貼り紙を貼った。店の外に貼る分の紙も用意しようと厨房に向かって歩き始めた時に、彼女から「花火大会、いいですね」と声がかかった。
「あら、やっぱり彼氏と行くの?」
「そんな人、いないです」
冷やし中華を食べて伸びていた背中が、また丸まってしまった。彰人が何か言いたそうにウズウズしている。危険な兆候だ、そう思ったら「花火の日、ですけど」という言葉が口をついて出てきた。言うつもりなんかなかったのに。
「……店、休みなんです」
「えっ?」
「だから、俺と、その……」
「おーっ! 店長、がんばれー!」
「恭介、言ったれー!」
うるさい、二人ともうるさい。頼むから黙っていてくれ。
そんな俺の願いもむなしく、二人は「店長と一緒なら悪いやつらに絡まれないよ!」だの「恭介の顔はこういう時に使えるんだよな!」だの、好き勝手言っている。
「…………」
彼女の方を見ることができない。
俺はもう一枚の貼り紙を用意しようと、再び厨房へ向かった。
おばちゃんと彰人の目を盗んで自分の名前とチャットアプリのIDを書いたメモを彼女に渡すと、彼女は明るい笑顔を見せてくれた。俺はうぬぼれていいのだろうか。勇気を出した甲斐があったということだろうか。
『
◇
「わぁ、大玉すごい! きれい! ね、恭介さん」
「うん」
「今日、お店がお休みでよかった」
「オフィス街だから」
「ふふ。お休み、一緒でうれしい」
強い握力で潰してしまわないようにそっと彼女の手を取ると、細い指がきゅっと俺の手を握った。
冷やし中華、はじめます。 祐里 @yukie_miumiu
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