第20話
七月に突入するとほぼ同時に梅雨が明け、あちこちの木で蝉たちが大合唱を始める。
北高の期末テストは、そんな状況の中で五日間にわたって行われた。今日はその最終日で、つい先ほど最後の科目をやり遂げたところである。
「アキー、お疲れ」
後ろから肩を叩かれてのけ反れば、スクールバッグを手に提げた
「どうだった。さっきの英語の手ごたえは」
「分からんとこもあるにはあったけど、中間よりはマシかも知れん。ギリギリ赤点は回避しとるんちゃうかな」
「回避してくれてないと僕が教えた意味無いだろー。前より点数落ちてたら罰ゲームだからな」
「そんなん初耳やけど。教えたいうても直前の付け焼刃やし」
冗談だよ、と笑う敏毅と連れ立って教室を出る。部活は今日から再開で、廊下から第二棟の音楽室を見やれば、すでに部員が何人か準備を始めているのが窺えた。コンクールまで一ヶ月を切り、練習はさらに厳しくなっていくだろう。
壮悟は廊下の窓ガラスに後頭部を押しつけてため息をついた。部活に行かなければいけないのは分かっているが足が動かない。
「部活、行かねえの?」
敏毅が窓ガラスを開けて空を見上げる。真っ青な絵の具を塗りたくったようなそこに、汚れ一つない雲がぷかぷかと漂っていた。
「行きたいんはやまやまやけど、ちょっとまだ、勇気出やへんっていうか」
「先輩が怖い的な?」
「それもまあ、あるけど」
言わなくても分かるだろう、と壮悟は唇を歪めて敏毅を横目で睨んだ。
「あれから第二棟行ってへんのやぞ。今行ったらどうなるか考えたら怖いやろ」
敏毅が英梨に憑りつかれかけてから一週間が経つ。ちょうどテスト期間が始まって通常の授業が無かったのもあり、壮悟はあの一件以降、第二棟に足を踏み入れていなかった。
あのあと二人は美術室を出て廊下を走り抜け、急いで靴を履き替えて雨の中ひたすら逃げた。傘を差す手間すら惜しく、駅にたどり着いた頃には二人そろって濡れ鼠になっていた。シャツの裾を絞ればただ雨に降られたのではあり得ない苔色の水が滴り落ち、寒さとは別の震えに襲われる羽目にもなった。
なんとか帰宅したものの、変貌した英梨の姿は何度も夢に出て、そのたびに壮悟はうなされて飛び起きた。土日は昼間に眠れても平日はそうもいかず、ここ数日まとまった睡眠時間が取れていない。起きている時間がもったいなくてテストの予習をしてみたり、世間話を装って
「けど英梨ちゃんって地縛霊なんだろ? だったらアキの部屋にいるってことは無いんじゃね?」
「頭で分かっとっても怖いもんは怖いんや。敏毅はそういうん無いんか。英梨ちゃんが家まで付いて来とるような感じとか、狙われとる気ィするとか」
「特にないかなー」敏毅が首を傾げ、校章が刺繡された制服の胸ポケットに指を突っ込んだ。「これのおかげかも知れないけど」
壮悟の目線の高さまで掲げられたのは、敏毅がよく行く神社のお守りである。
「前までのやつ黒焦げになっちゃったからさ。新しいの貰ってきたんだ」
「……黒焦げってなんや。火ィん中にでも落としたんか」
「どんど焼きでもないのにそんなことしないって。ほら、美術室から逃げる時に英梨ちゃんがいるっぽいところにぶん投げただろ」
あの時は回収する余裕が無かったため、敏毅は月曜日に登校してすぐ拾いに行ったという。お守りは美術室と廊下の境目付近に残されていたそうだが、見た目が一変していたと敏毅がスマホの画面を見せてくる。
そこには業火に焼かれたように黒ずんだ物体が映っていた。なんとなくの形と大きさで敏毅が持っていたお守りと分かるが、元の状態を知らなければただのゴミと間違われてもおかしくない。
「僕を英梨ちゃんから守るのにこんな風になったのかなあって気がしてさ」敏毅が新たなお守りを胸ポケットに戻して、生地の上から優しく押さえる。「ちゃんと拾って『ありがとうございました』って神社に返した」
「……いやお前、一人で美術室行ったんか?」
壮悟が登校してきた時には教室で教科書とノートを広げていたため、ずいぶん熱心にテスト対策をしているものだと感心したのだが、お守りはあの前に回収していたのか。そうだけど、とけろりと答えた敏毅に頭が痛くなる。
「お前なあ、英梨ちゃんに狙われてんねんぞ。あの子のこと視えやんのに一人で行って、襲われても気づかんくて逃げられやんかったらどうするつもりやってん」
――まあ、あの人が守ってくれとったかも知れやんけど。
英梨が壮悟たちを追いかけてこないよう引き留めてくれていた女性を思い出す。
恐らく彼女こそ、敏毅が幼少期に梅園で見かけたその人だろう。外見は聞いていた話や、敏毅が描いていた絵のそれと一致する。敏毅が〝まじないの絵筆〟に触れようとした時や、先日の英梨の一件から察するに、彼女はお守りを通して敏毅を霊的なものから守っていたのかもしれない。
壮悟は敏毅の周囲に目を凝らし、深く息を吸った。女性の姿はどこにも視えず、梅の香りもしない。常日頃から敏毅を見ているわけではないのだろうか。
――けどあの人、幽霊っぽくなかったな。神々しい感じっていうか、清らかっちゅうか。
――よう考えたら神社に出るってことはもしかして……。
「アキ?」考え事にふけって敏毅の声に気づかなかった。目の前に「おーい」と手をかざされて、壮悟は「なんでもない」と首を振る。
憧れていた彼女が守ってくれたのだと伝えれば敏毅は喜ぶはずだ。けれど壮悟が伝えるのと、自分自身で確かめるのとでは歓喜の度合いが違う。今はいったん黙っておいた。
「そういえば〝まじないの絵筆〟なんやけど」ぷあん、とトランペットの音色が聴こえてくる。音楽室ではウォーミングアップが始まっていた。「従兄が引き取ってくれることんなったわ」
〝まじないの絵筆〟は今、壮悟の手元にある。
英梨は絵筆がもたらす効果を利用し、霊感を得た生徒に自分の理想の絵を描かせていた。このまま手放せばまた同じ目に遭う生徒が出かねず、然るべき場所で保管なり供養なりしてもらった方が良い、と二人は結論付けた。
その然るべき場所はどこが良いか。そういったことに詳しいのが壮悟の従兄である。連絡したのもそれを訊ねる目的があった。
「俺の従兄、大学で神社とかお寺とか、そのへんのこと勉強しとるっぽくて。ひょっとしたら供養にええ場所知らんかなと思て聞いたら『
「マジか、助かる。また美術室にしれっと戻ってきてたらお願いし直しますって言っといて」
「縁起でもないこと言わんといてくれ。戻ってこられたら困る――あと〝まじないの絵筆〟のこと話すついでに、従兄に英梨ちゃんのことも相談したんやけどな」
友人がとある幽霊に執着されており、ついに憑りつかれそうになって恐ろしかったと疲労感も露わに話したところ、従兄は「効果があるかは分からないが」と前置きをしたうえで対策を一つ提案してくれた。
「『忘れるのが一番だ』て言うとった」
「……英梨ちゃんになにされたかってのを?」
「英梨ちゃんそのものを、や」
『フィクションでたまにあるだろう。昔から存在する神が人々に忘れられて力を失う、みたいな話。あれはあながち間違っていないと僕は思う。人の目に映らない存在は誰かに「ここにいる」と信じてもらえない限り力を保てず、やがて忘れ去られて消える。これと同じことがお前の友だちを悩ませている幽霊にも当てはまるんじゃないかと思ってな』
電話口の従兄は助言の最後を「あくまで僕の仮説であって、もし効果が無くても責任は取れない」と締めくくった。試すなら自己責任で、と釘を刺してきたわけである。
「忘れる……忘れる、か」
敏毅が何度も呟き、頬を掻いて苦笑する。
「すぐに忘れるのは難しい気がするなあ」
「従兄もそれは言うとった。『忘れるんじゃなく、意識しないようにするだけでも変わるかもしれない』て。意識せんかったらそのうち自然に忘れてくやろって」
「出来る限り努力はする。……英梨ちゃんには悪いけど」
英梨は今も美術室で壮悟と敏毅が来るのを待っているだろうか。敏毅は約束を反故にする罪悪感に悩まされているようだが、危害を加えられかけた以上、関わり続けるのは避けたほうが良い。
「
どこからか大声で名前を呼ばれて、壮悟の肩が震えて跳ねた。方向からしてちょうど向かい側、つまり第二棟の四階にある音楽室からだ。ぎこちなく振り向けば、音楽室の窓を開け放って同じパートの先輩がこちらを見据えている。
「暁戸ォ!」と再び中庭に壮悟の苗字が反響する。通りすがる生徒たちがくすくすと笑うのが恥ずかしかった。「なに駄弁っとんねん。サボるつもりちゃうやろな!」
「そんなつもりありませんて! すぐ行きます!」
行動で示さなければいつまでも呼ばれる。壮悟は答えてすぐに歩き出した。敏毅に「アキの先輩、色んな意味ですごいな」と同情されて特大のため息がこぼれた。
「あの調子やと引退しても普通に部活に顔出してきそうで嫌や……」
「文句つけられながら吹いても楽しくなさそうだもんな。ストレスの原因から潔く逃げるのも大事じゃね? いっそのこと今から『もう辞めます!』て言ってやるとか」
部活を辞め、芸術の授業で音楽か美術を選択しなければ第二棟に行く必要が無くなる。英梨から距離を取るにも確実にそうしたほうが良いのだが、今の時期に退部を申し出る方が厄介な上に恐ろしい。
「怒られまくるん分かっとるで、とりあえずコンクール終わるまでは耐えるわ」
無理するなよ、と敏毅から言葉の代わりに肩を叩かれて、壮悟はぐったり項垂れた。
二階の渡り廊下に差しかかり、壮悟の歩みが徐々に遅くなる。進まなければならないと分かっていても、どうしても恐怖心が頭をもたげ、視線が正面から爪先へ下がってしまう。
「どうしたアキ」はっと顔を上げれば、一メートルほど先で敏毅がきょとんと首を傾げていた。「部活行くんだろ?」
「行くよ。行くけど」答えて足を踏み出し、今度は壮悟が首を傾げる番だった。「なんでお前まで第二棟行くん」
「なんでって、絵がまだ完成してないから」
壮悟が疑問を浮かべている意味が分からない、とばかりに敏毅はあっさり答える。
「絵ェって、英梨ちゃんに頼まれたやつ?」
「違う違う」敏毅が軽く肩を竦めて苦笑した。「それより先に取りかかってる方だよ。僕が子どもの頃に会ったあの人」
「……ああ。あれまだ途中やったんか」
てっきり完成したから英梨の絵に取りかかったのだと勘違いしていた。ちょうどあちらの制作に行き詰まり、気分転換も兼ねて英梨の絵を進めていたらしい。
「けどお守り回収するんと違て、部活やったら美術室ん中入らなあかんやろ。危ないんちゃう」
「かもな。でもどうしても完成させなきゃいけないなって、アキの従兄の話聞いて思った」
従兄の言葉のどこに敏毅を決心させる要素があったのか。壮悟は眉を寄せるしかなかった。
「人に忘れられて消えるんならさ、覚えている人が多くなれば、そのぶん存在感も力も強くなるってことだろ。僕が絵を完成させて展示会とかに出したら、あの人のことを知ってくれる人も増えて、僕があの人に会える確率が上がるんじゃないかって」
「……それはまあ、そうかも……?」
「だろ?」
だったら部活動でなくても個人的に制作を続ければ良さそうなものだが、それは難しいと敏毅が唇を尖らせて腕を組む。
「絵を描くのは初心者だって前にも言っただろ。周りからアドバイス貰ってやっとな状態なわけ。今の僕が独学であがいてもあの人の美しさを再現出来る気がしない」
敏毅は胸ポケットのお守りに再び触れて続けた。
「これも前に言ったよな――あの人にまた会えるなら、僕はなんだってやる」
美術室に足を運ぶことにリスクが伴うとしても、彼女の絵を完成させるのならそれすら厭わない。引き締まった表情やきりりと上がった眉尻から強い決心を感じ、なにを言ったところで考えを曲げないのは明らかだった。壮悟は腰に手を当てて息を吐き、友人の判断を尊重するしかない。
「つーかそんなにあの人に会いたいんやったら、俺がォ前と一緒にその梅園行ったら一発ちゃうん。
「まあな。けど僕は自分の目であの人に会いたいから。これはアキには頼らないでおく。気持ちだけ受け取っておくよ」
ひとまずお守りの力を過信しないこと、制作中に異変を感じたらすぐに逃げることを約束させれば、敏毅は力強いサムズアップを見せつけてくる。
「んじゃまたな。帰る時間被りそうだったら一緒に帰ろうぜ」
図書室の前で分かれて、壮悟は階段を下っていく敏毅の背中を見送った。あんなに熱心だった七不思議の調査を言い出さなかったのは、彼の頭の中で〝あの人の絵の完成〟が最優先事項になったからだろうか。付き合わされずに済んでありがたいような、少し物足りなくて寂しい気もする。
「……俺も部活行かな」
音楽室に顔を出したらどんな言葉が飛んでくるだろう。サボるつもりなんて無いといくら言ったところで、先輩がすぐに信じるとは思えない。説教よりも練習の方が大事でしょうと訴えればある程度は怒りを鎮められるか。
少し遠回りをして東側の階段から四階に上がれば考える時間が出来るが、理科実験室と被服室の近くを通らなければいけないのを思い出して止めた。大人しくこのまま音楽室に向かおう。
「壮悟くん」
階段を踏む足音に紛れて、ころころと軽やかな声が後ろから聞こえた。およそ一カ月半ですっかり聞き馴染んだ声音だ。
ただ、声量が今までと明らかに違う。誰かと話しながら歩いていたら聞き逃していたと確信できるほど小さく、密やかなで空気に溶けそうな響きだった。敏毅の憧れのあの人が力を削いでくれたのかもしれない、というのは壮悟の都合の良い想像だろうか。
「壮悟くん」
再度呼ばれて、思わず足を止めて振り向きそうになる。
ぐっとシャツの裾を掴んで、壮悟はそのまま階段を上っていく。あからさまに逃げていると分かる急ぎ方ではなく、冷静にペースを変えず、なにも聞こえなかったかのように。
「壮悟くん、壮悟くん」
なんで返事してくれないの。こっちを見てくれないの。涙混じりの訴えに背を向けて、ひたすら階段を上る。二度と関わらない――関わるつもりはないと、言葉ではなく行動で示すのだ。
壮悟くん、と縋りつくような声は結局、壮悟が北高を卒業するまで消えることは無かった。
終
壮悟と敏毅~学校の七不思議とまじないの絵筆~ 小野寺かける @kake_hika
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