ゑぐの若菜もつむべきに

 この国は、シュによって寿ことほがれ、呪によって縛られている。


 その呪を操る者は呪術師と呼ばれ、影に日向にこの国を支え続けてきた。


 いにしえより国と帝に仕え、まつりごとを動かしてきた呪術師達は、国がつ国に対して開くとともに表舞台から姿を消す。


 それは夜の闇が人工的な灯りに切り裂かれ、古くは鬼やあやかしの仕業だとされてきた所業が科学によって解体されていく中、必然の流れだとされた。


 だがこの国が呪によって成立している以上、それを操るすべを持つ者達が完全に不要とされる日は来ない。


 科学が不可思議を払っていけばいくほど、科学で解明されない『不可思議』は浮き彫りになり、社会が複雑になっていけばいくほど、そこに絡む感情はより闇の濃度を上げ、そこから生まれる呪詛や怨霊は凶悪さを増す。


 人々が直接見なくなっただけで、呪術師が生きる領分は変わることなく存在している。


 ──これは、そういう世界の話。


 不香ふきょうあずさは胸中だけでそんな言葉を転がしながら、己が籍を置く大学の廊下を進んでいた。


 私立千華せんか学園。


 幼稚舎から大学までエスカレーター式で繋がっている千華学園は、ちまたでは政財界の令息令嬢が通う、神道系のエリート学校だと認識されているらしい。高等学部までは入学に金銭面以外にもとあるが課されており、入学できる家がほぼ限られているという状況がそのイメージに拍車をかけているようだ。


 確かに、歴史ある家門の令息令嬢が通っているというのは事実だ。ただしそれは『入学条件を満たしている家は大抵歴史ある名家である』という結果論であって、この学校の本質を示してはいない。


 ──まぁ、今のこのご時世に、が存続できていること自体が奇跡と言うべきか。


 続けて胸中で呟きながら、梓は前だけを見据えて廊下を進む。


 実は人を探すために出歩いているのだが、キョロキョロとあからさまに人を探す素振りを取らなくても、相手の居場所はすでに把握できている。


 気配を読むことくらい当たり前にできなければ、家業を担うことはできない。


 引いては、


 ──その辺りのことは、も分かっているでしょうに。


『一体何をお考えなのやら』と胸中で呟く。そんな胸中の声でさえも、感情がにじむことなく淡々としていた。唯一感情を表しているとしたら、左の薬指にはめられた指輪をカリカリといじっている、左の親指と小指だけだろうか。


「ちょっと、あれ……」

「不香梓? ヤダ、本物?」


 後ろで一本の太い三つ編みにまとめた長い白髪を揺らしながら、梓は淡々と歩みを進める。


 顔にも歩みにも空気にも一切感情を滲ませない梓だが、梓の存在に気付いた周囲はそうもいかないようだった。なるべく周囲の目につかないように気配を殺していたつもりだったのに、梓の姿に目ざとく気付いた周囲はサワサワと、ザワザワと、勝手に空気を恐怖と嫌悪に染めていく。


「兄と父を殺して不香の当主についた妹が、何で堂々と表を歩いているのよ……」

「不香が封印していた禍神を解き放って、自分を殺そうとしていた血族にけしかけたって話でしょ?」

「え? 封印に失敗して禍神が目覚めたから、我先にと身売りして、自分だけ助けてもらったって話じゃなかったっけ?」

「薬指にしてる指輪、禍神と繋がってるっていう呪いの指輪なんでしょ?」


 好き勝手にささやかれる言葉が、梓の後を追いかけるようにヒタヒタと迫る。


 彼ら、彼女らはきっと、その言葉が全て梓の耳に届いていることに気付いていない。


 だから最後には必ず、こんな言葉で噂話を締めくくる。


四季咲しきざきの他の当主の方々も、宵宮よいみやの帝様も、どうしてあんな咎人に不香の当主の座を預けているのかしら?」


 仮にも四季咲が一角、不香の当主の座にある者に対して、不敬が過ぎる言葉で。


 梓がその気になれば、四季咲支配下の末端にしかいないであろう彼らの首など、梓の一存で物理的に飛ばしてしまえるような言葉で。


 ──私は面倒だからやらないけども。


 果たして己の『伴侶』はどう出るだろうか。


 そんなことを考えた瞬間、まさにその『伴侶』と繋がった指輪にチリッと炎が走った。


 あ、と思った瞬間、その炎は黒い龍のように燃え上がると、梓の体にグルリと巻き付く。


 熱くはない、だがゾクリと背筋に震えを走らせる禍々しい炎が梓の首を締めるかのように立ち昇る。その様に梓を盗み見ていた周囲がヒッと引きれた悲鳴を上げた瞬間、梓に纏わりついた黒炎は人の姿に変じていた。


「今日も周囲の話題はお前一色だな」


 首に巻き付くように走った炎は、後ろから梓を抱きしめる男の腕に変わる。トンッと背中に触れた胸は、互いにまとった服を間に挟んでいてもよく鍛えられていると分かる、大人の男のものだった。


「俺以外の者の視線を奪うなど、相変わらずお前は罪深い」


 低く耳に染み入る声は、深く深く笑みを含んでいた。その声に梓があおのくように顔を上げれば、梓の視界を周囲から切り取るかのようにパサリと煤色の髪がこぼれ落ちる。


 そんな艶のない黒の中で、朱殷しゅあんの瞳を宿す秀麗な顔が、禍々しく笑っていた。


「嫉妬の炎で、うっかり全て焼き払ってしまいそうなのだが。我が伴侶はお許しいただけるかな?」

えんじゅ


 探し人が自主的にこちらへやってきたことに『手間が省けた』と感じながらも、梓は彼に与えた仮初かりそめの名を呼んだ。淡々としてしながらも『周囲のことなどいちいち気にするな』という意思を込めて言葉を発すれば、朱殷の瞳に宿っていた苛立ちはスッと一段影を薄くする。


 彼はいつでもこうだ。


 どんな状況に置かれていても、梓が与えた名前で呼びかければ、必ず満ち足りた表情を瞳に宿す。


「宵宮様から、お呼び出しの連絡が来たんだけども」


 そんな朱殷の瞳から視線をらすことなく、梓は手にしていたスマホを軽く降ってみた。


 視線が梓の瞳から逸らされることがなくても、体同士が接していれば梓が腕を動かしていること自体は伝わる。この世界に顕現して四年、絶えず梓の傍に居続けた槐ならば、梓が今どんな行動を取っているかなど、いちいち視界に収めずとも分かっているはずだ。


「もしかしなくても、式文、燃やした?」


 呪術師の世界の中では、文明の利器に頼った方が便利な場合でも、あえて昔ながらの呪術的手法にこだわる人間が一定数以上いる。『自分達は科学の力に頼らずともこんなことができる!』という一種のステータスというか、『凡人とは違う』という差別意識のようなものだ。


『スマホを持っていない』というのはまだまだ序の口で、下手をすれば屋敷に冷蔵庫がない、呪力がなければ風呂も沸かせない、というような旧時代的な家もあるらしい。


 あえて文明の利器に頼らないのは『格式を重んじる』という意味もあるという。


 その面から『呪術師界のすめらぎ』という立場にある宵宮家は、いまだに各家への伝令は式文しか使っていない。梓に言わせれば電話の方が早いし確実なのだが、その理屈が通じないのが宵宮家であり、呪術師界だ。


 そんな宵宮の人間が、梓を呼び出すために、梓のスマホに電話をしてきた。


 もちろん帝本人ではなく、帝の世話役の、さらに補佐を担う人間の中でも下っ端が電話をしてきたのだが、宵宮家からの呼び出しとしては異例中の異例だ。


 何でも、梓宛にいくら式文を出しても、到着を確認できずに途中で反応が消えてしまうとか。だから仕方がなく、文明の利器に頼れる、比較的頭が柔らかい下っ端が連絡を寄越してきたんだとか何とか。


「さぁてなぁ?」


 梓自身は、式文がこちらに向けて飛ばされているという状況に気付けていなかった。


 梓自身が何もしておらず、その上で梓側に原因があって式文が未着のまま消失しているならば、残る可能性は彼しかない。


「羽虫の一匹や二匹、俺の気付かぬところで勝手に焼き払われていても、俺はいちいち感知できぬでなぁ」


 ──やっぱり。


 梓は槐から視線を逸らさないまま、わずかに目をすがめた。それだけで梓の内心を察した槐は、キュッと笑みの形に目を細める。


 槐は、梓が頼んでもいないのに、周囲から梓に向けられる悪意を勝手に払っている。


 恐怖、憎悪、羨望。そんな感情から、策謀、陰謀、権謀術数に繋がりそうな厄介事まで。されていることだけを見れば、槐は何もかもから過保護に梓を守っているかのようだ。


 まるで、梓の守護式であるかのように。


 まるで、独占欲が過ぎた伴侶であるかのように。


 ──私にそれらの感情が向けられるのは、お前が私の傍にあるせいだと思うんだけども。


 などと一瞬考えた梓は、まばたきひとつでその考えを打ち払う。


 ──違うか。程度は違うけれど、もっと前から、私はそんな感情にさらされ続けてきた。


 呪術師界四大大家・四季咲が一角、『封印師』不香。


 でありすぎたがゆえに一族に疎まれ、死を願われた挙句、嫉妬から勝手に自滅した兄の不始末を一手に押し付けられた娘。禍神の贄として、禍神を唯一鎮められる存在モノとして、禍神の花嫁に差し出された巫女。


 それが当代不香家当主、……正確に言えば『暫定当主代理』である、不香梓という存在だった。


「帝様から向けられる嫌味、槐が聞いてね」


 それだけのモノを負わされてもなお、チラリとも揺らがない蒼眼で槐を見つめながら、梓は淡々と告げた。


「私、この件に関しては、悪くないから」

「言うようになったなぁ」

「あなたの教育のおかげね」


 梓はさらに淡々と重ねる。


 そんな梓の何が気に入ったのか、槐は低く忍び笑うと『分かった、引き受けよう』と上機嫌に答えたのだった。

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【長編版】六花の護睡 安崎依代 @Iyo_Anzaki

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