第2章:ことばにならない名前
第10節『名を持たぬものへ』
夜の気配が、囲炉裏の火に溶けていた。
ぱち、ぱち、と。小さな炭がはぜるたび、蓮(れん)は、その音に呼ばれるように顔を上げた。
ただの、古びた木切れ。それ以上でも以下でもないはずなのに──あの祠の前で、まるで何かが呼応したような気がした。
祝子(ほうりこ)……
あのとき、遼馬(りょうま)は確かにそう口にした。
意味も由来も、なにも知らないのに、それはまるで、遠い記憶をたぐるような声音だった。
そして、唄(うた)が脳裏によみがえる。
──月がめぐれば、櫂は目覚め
櫂がうたえば、祝子は歩む
祝子が歩めば、道がひらく
木札は“目覚め”、祝子は“歩む”。
けれど、自分は“歩いている”といえるのか? どこへ? 何のために?
蓮はゆっくりと木札を取り出す。
囲炉裏の火にかざすと、木目の奥に、なにかが──言葉ではない“かたち”が、ふと浮かんだような気がした。
けれどそれはすぐに、炭の爆ぜる音にかき消されてしまう。
「……くだらないな」
ぽつりと漏れたその声に、誰よりも自分が驚いた。
すぐに口をつぐみ、膝を抱える。声を出す必要なんて、どこにもなかったはずなのに。
──名なんて、あってもなくても。
そう思ってきた。
けれど今、この胸の奥にふつふつと広がるものはなんだろう。
「……ほたる婆(ばば)」
呟いてみても、返事はない。
いるはずもないのに、蓮はつい、囲炉裏の向こうに目を向けた。
──そこには、もういないはずの婆の気配があった。
蓮は立ち上がる。木札を懐に戻し、扉をそっと開ける。
夜気が頬に触れる。空は濁りなく晴れて、月だけが、遠くでこちらを見下ろしていた。
名も、血も、なにも知らなくても。
ただ、なにかに触れたいと思った。
まだ何もわからない。けれど、それでも。
蓮は夜空を見上げたまま、胸の奥に言葉にならないものをひとつだけ灯した。
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月毛 @kutibiru_Obake
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