屋上に吹く風

天使の羽衣

屋上に吹く風

 「今日、風強いね」


 そう言ったのは、いつもの放課後。教室にはもう誰もいない。

 窓際の席でノートをまとめていた彼女が、ふと顔を上げた。


「校舎の向こう、あの屋上。風がすごく通るんだよ。知ってる?」


 俺は窓の外を見た。古い体育館の隣、立ち入り禁止のフェンスに囲まれた屋上。

 見たことはあるけど、行ったことなんてもちろんない。


「入れないだろ、あそこ」


「うん。でも、一年のときに一回だけ、上ったことあるの」


「え、マジで?」


 彼女は照れたように笑って、指先でノートの端をなぞった。


「先輩に連れられて、ほんのちょっとだけね。誰にも見つからなかったけど、今思えばけっこうバカなことしたなって思う」


「……どうだった?」


「風がね、すごかったの。髪が持ってかれるくらい。何もかも吹き飛びそうで」


 彼女は目を細めて、まるでその風を思い出すかのように、しばらく黙った。


「なんか、何も考えなくてよくなる感じだった」


「考えたくないこと、あるの?」


 俺は軽く聞いたつもりだったけど、彼女はすこし驚いたように目を見開いた。


「うん。たくさんある。……っていうか、誰にだってあるよね」


 俺は曖昧に笑って、彼女の隣の席に腰を下ろした。

 教室には夕方の光が差し込んでいて、カーテンが揺れていた。


「進むの、怖くない?」


 不意に彼女が言った。


「将来とか、大学とか、就職とか。みんな普通に“進む”前提で話してるけど、私、ちゃんと自分の足で歩ける気がしない」


「俺も。とりあえず進んできただけで、どこに向かってんのかなんてわかってない」


「でしょ」


 彼女はちょっと嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見て、俺はほんの少しだけ、胸が軽くなるのを感じた。


「止まってもいいと思うんだ、たまには」


 彼女は続けた。


「ちゃんと考えて、ちゃんと悩んで、それでもう一度進みたいって思えたら、それでいいんじゃないかなって」


 俺はうなずいた。

 何も言えなかったけど、言葉にしなくても伝わるような気がしていた。


 風が教室の窓をかすかに叩く音がして、彼女の髪がすこし揺れた。


「……屋上、行ってみる?」


唐突な彼女の言葉に、思わず顔を向ける。

彼女はイタズラっぽく、でもどこかまじめな顔で俺を見ていた。


「今じゃなくていいよ。でも、知らないままで終わるのって、もったいないじゃん。あの風がどんなだったかとか、自分がどう思うのかとか」


「……そうだな」


「明日、風が強かったら、一緒に見に行かない?」


彼女は立ち上がって、ノートを閉じる。

教室の中にはオレンジ色の光が広がって、僕らの影が机に長く落ちていた。


「また明日」


「……うん、明日」


彼女は笑って、静かに教室を出ていった。


俺はもう一度、屋上を見た。

明日、風が吹いたら――たぶん、僕も少しだけ前に進める気がした。

 

 

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